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訳者あとがきを公開します/阿比留美帆 訳 グン・アヨルザナ『シュグデン』

現代モンゴルを代表する作家・グン・アヨルザナによる長編小説『シュグデン』が、阿比留美帆氏の訳によりシリーズ〈アジア文芸ライブラリー〉から刊行されました。
民主化以降の現代モンゴルの長編が翻訳出版されるのは本邦初となります。本作の背景や著者について解説した、訳者あとがきを公開いたします。
(公開にあたり、書式を改めるとともに一部を省略しました。) 

 


 

本書は、モンゴル国の作家グン・アヨルザナが2012年に発表した同名の長篇小説Шүгдэн, Г.Аюурзана, Мөнхийн үсэг, 2012の全訳である。

1990年の民主化以降にモンゴル語で書かれた長篇小説としては、日本で紹介される初めての邦訳となる。だが小説の舞台は、実はモンゴル国ではない。中国のなかのモンゴル——青海、内モンゴル、新疆出身のモンゴル人を描いた(モンゴル国の小説としては異色の)作品である。

 

物語は2000年代の青海省、クンブム僧院でモンゴル人青年僧が不可解な死を遂げたことから始まる。亡くなった青年僧の親友である学僧サマンダと、捜査に訪れた警察犬トレーナーのセルジャムツが出会い、不思議な因縁によって共に真相に迫ることになる。やがて謎の忿怒尊シュグデンの存在が浮かび上がり、事態は思いがけない方向へと展開していく——。

登場人物はそれぞれに喪失や痛み、葛藤を抱えている。物語の中心になるのは先述のふたりのモンゴル人で、そのひとり、学僧サマンダは、孤児で幼い頃にクンブム僧院に弟子入りし、敬虔な信仰生活を送っていた。突然の死を遂げた唯一の親友を悼むサマンダのもとに、ある女性が現れたことから、サマンダはおのれの信仰心と煩悩の間で揺れ動く。

もうひとりの中心人物セルジャムツは、内モンゴル自治区オルドス市警察の捜査犬課で働くが、普段から犬以外にモンゴル語で話す相手はなく、家族とも心が通い合わない生活に鬱屈した思いを抱えている。捜査中に大切な相棒だった捜査犬を亡くしたことをきっかけに長い旅路につくが、様々な邂逅のなかで自らのルーツに向き合い、ふたたびクンブム僧院を目指す。こうして、僧侶と警官という異なる世界を生きてきたふたりが出会い、別れるまでの軌跡が丹念に描かれる。

 

本書のタイトルとなっている「シュグデン」は、仏法を護る守護神、あるいは異端の怨霊神といわれ、シャマニズムや土着信仰の呪術的要素とも結び付けられる謎めいた存在である。この「シュグデン」がひとつの鍵となってストーリーは展開するが、著者はそれを「小説のモチーフであり、宗教や政治にみられるタブーと矛盾、世俗的な欲や業果を象徴するもの」と語る。また、「シュグデン」とは「強大な力を司る者」を意味し、その強大な力とは何か、それに運命を握られ翻弄されるものは何なのかという含意があるという。

 

小説には、歴代のハーンや高僧、歴史上の英雄たちの他、20世紀の内モンゴルにおける独立運動の闘士や学生運動の指導者といった実在の人物をモデルとした人びとが登場する。「不在」ながらストーリーの核となる人物、アジャ・ゲゲーンもそのひとりである。アジャ・ゲゲーンは1950年に青海のモンゴル遊牧民の家に生まれ、幼くして転生ラマとして認定されたクンブム僧院の座主であるが、1998年に米国に亡命した。著者は、米国インディアナ州で初めてこのモンゴル人化身ラマに謁見した際に深い敬慕と啓示を感じたことが、のちにこの小説を書くきっかけのひとつになったと語っている(アジャ・ゲゲーンの数奇で苦難に満ちた半生については、『アジャ・リンポチェ回想録』(集広舎、2017)に詳しい)。著者は、こうした実在の人物や、歴史に翻弄された広い意味でのモンゴルの民族の「記憶」を、現代に生きる登場人物たちの運命と絡めつつ、「物語」という形で語り直すことを試みているのだ。

 

作品の背景

ひと口に「モンゴル」と言っても、その歴史的な成り立ちは複雑で、その言葉が指す範囲も、時代や状況によって変化してきた。

もとはモンゴル高原北東部の遊牧集団のひとつであった「モンゴル」の族長テムジン(チンギス・ハーン)が、13世紀初頭に高原の諸集団を統合してモンゴル帝国を築いた。モンゴル帝国はユーラシア大陸の広大な範囲に及ぶ大帝国となったが、のちに分裂と再編の時代を迎えた。モンゴル高原では複数の遊牧集団が並立する状況が続いたが、17世紀から18世紀にかけて清朝の勢力圏へと段階的に組み込まれていった。20世紀初頭、清朝の崩壊とロシア革命という激動を経て、ゴビ沙漠の北、いわゆる漠北ではモンゴル人民共和国が樹立され、現在はモンゴル国となっている。

今日、「モンゴル人」は主にモンゴル国と中華人民共和国の内モンゴル自治区に居住し、中国国内では他にも、遼寧省、黒竜江省、新疆ウイグル自治区、青海省、吉林省、河北省、甘粛省などに広く分布している。またロシア連邦ではブリヤート共和国、カルムイク共和国などにも、モンゴル系あるいは近縁の集団が居住している。

これら「モンゴル人」と総称される人びとは単一の集団ではなく、歴史的・地域的な背景に基づく複数のエスニック集団によって構成されている。例えば現在のモンゴル国では、ハルハが人口の大部分を占めており、その他にトルグート、ザハチン、ドゥルベト、バヤドなどのオイラト系諸集団やブリヤート、ダルハトなどが存在している。一方、内モンゴルおよびその他の地域では、チャハル、トゥメト、オルドス、ホルチン、スニト、バルガ、ウジュムチン、トルグート、ホシュート、ウールトなどの多様な集団がモザイク状に分布し、それぞれ固有の文化的特徴や方言を有している。清朝支配期には集団ごとに「旗(ホショー)」と呼ばれる行政単位に編成されていたため、現在もオルドス市やスニト右旗のように行政区画名として使われているものがある。

 

モンゴルは歴史的に仏教文化圏に属し、主にチベット仏教が信仰されてきた。チベット仏教の受容は13世紀の帝国期に始まり、のちに16世紀後半に本格的に伝わると、古来の天(テングリ)信仰やシャマニズム的要素と融合しながらモンゴル社会全体に浸透し、人びとの思想や生活文化のなかに根付いていった。

小説の主な舞台となる青海(チベットのアムド地方に当たり、モンゴル語ではフフノール、あるいはデード・モンゴルと呼ばれる地域)はモンゴル、チベット、漢民族の文化が接する交通の要衝であると同時に、チベット仏教が栄えた地でもあった。物語には、こうした仏教思想に基づく因果や輪廻の観念、モンゴル人の信仰世界がひとつの軸として描かれている。

 

著者について

アヨルザナは、1970年、モンゴル国バヤンホンゴル県に生まれた。父のない家庭で、病院勤めで働き者の母と、歌と語りが得意な元牧畜民の祖母に大切に育てられ幼少期を過ごした。読書好きで、十代の頃から詩作を始め、1988年から94年までモスクワのゴーリキー文学大学で学んだ。文学好きの仲間たちと共に世界の古典から現代作品まで夢中になって読み耽ったという留学時代は、ソ連崩壊とモンゴルの民主化という大きな歴史の転換期と重なっている。帰国後、記者、編集者として働きながら初詩集を刊行して以来、多くの著作、翻訳、評論を発表して文壇に新風を吹き込んできた。

2000年代から創作活動に専念したアヨルザナは、モンゴル社会の急速な変化を背景に、個人の内面に焦点を当て、都市空間の孤独や存在の問いを綴った短篇・中篇小説で注目を集める。内省的で思索的な語り口、夢や幻想を織り交ぜ、メタフィクションなど実験的な手法を用いて書かれたこれらの作品は、ポスト社会主義時代のモンゴル文学に新たな表現の可能性を提示したとされる。

創作と並行して、妻である詩人のⅬ・ウルズィートゥグスと共にモンゴルの詩歌や短篇・中篇小説のアンソロジーを個人編纂し、権威やイデオロギーとは無縁の純粋な芸術的観点からモンゴル文学・文芸を再解釈、再評価することを試みた。そこには著者の愛読書のひとつである『モンゴル秘史(元朝秘史)』の韻文も含まれる。また、ジョイス、カフカ、フォークナー、ボルヘス、サルトル、村上春樹などの世界の文学を自らモンゴル語に翻訳して紹介する活動を精力的に行った。アヨルザナのこれらの著作や翻訳は、知的好奇心に満ちながら読むものに飢えていた当時の若者たちに大きな影響を与え、次世代の書き手や新たな読者層を創り出したと言われる。2009年には、幅広い活動によってモンゴルの文化芸術の発展に寄与した功績を称えられ、39歳の若さでモンゴル国文化功労者の称号を授与された。

2010年代、アヨルザナは長篇小説へと創作の軸足を移す。そして書かれたのが、バイカル湖周辺に暮らすモンゴル系ブリヤート人を描いた『シャマン伝説』(未邦訳)である。この作品は2010年以降のモンゴルで最も多く読まれた小説のひとつとされ、複数の外国語に翻訳されている。これに続き、青海、内モンゴル、アルタイ山脈、興安嶺——国境を越えて広がる多様な「モンゴル世界」を舞台に、シャマニズム、チベット仏教、英雄叙事詩、伝統医療といったモチーフを織り込み、モンゴル人が辿ってきた歴史をベースとした一連の長篇小説群を発表した。現地取材や綿密な調査を重ねて書いたというこの連作は、大国の中で少数者として生きるモンゴル人の運命、言語・伝統文化・信仰にまつわる問題を正面から取り上げつつ、現代に生きるモンゴル人のアイデンティティや精神のありかについて問いかける意欲作であった。本書『シュグデン』は、その流れのなかに位置づけられる重要な作品である。

 

自分とは何者か、自分と思っている存在がどこまで一貫したものか、という実存につながるテーマは、アヨルザナの小説の根底に共通してみられる主題である。

本作を含む一連の作品ではさらに、「モンゴル」とは何か、継承される記憶、ルーツがその人の運命やアイデンティティ形成にどのように影響するか、という問いが提示される。国境を越えた広い枠組みで、「モンゴル」という意識を形作ってきたもの、それらを繋ぐものの本質を見極めようとしているかのようである。その際、アヨルザナが描くのは、かつての大帝国の栄光や英雄譚ではない。むしろ、失われた信仰、衰退する文化、語られなくなった記憶、そして周縁へと追いやられた人びとの姿であり、「失われたもの」、「失われつつあるもの」への眼差しが、物語に通底する思いとして静かに深く流れている。

 

なお、著者の名前について少し記しておきたい。名前や名付けはこの小説に散りばめられた大切な要素のひとつでもある。またモンゴルにおいて名前は、その人の運命が宿る神聖なものとされ、師や高貴なひと、故人の名を直接口にすることを憚る、悪霊から守るために子にまじないの名を付けるなどの習慣がある。

アヨルザナという名はサンスクリット語由来で、ayurは生命、zanaは智慧を意味する。産院で用意された籤の中から、母親が「確信に満ちて引き当てた」名前だそうだ。

モンゴルでは姓(家族名)にあたるものはない。かつて用いられていた父系の血縁集団を示す氏族名(urgiin ovog)は社会主義時代に一度廃止され(民主化後に復活)、モンゴル国では「父の名(場合によっては母の名)」を家族名の代用として使用する習慣が成立した。現在、一般にモンゴル国のモンゴル人の名は「父の名+本人の名」で表記される。つまり、著者の名をフルネームで表すとГун-Аажавын Аюурзана(ゴンアージャブのアヨルザナ)となるが、アヨルザナは筆名として、自分の名の前に「グン」という氏族名を冠し、Гүн овгийн Г.Аюурзана(グン氏族のG・アヨルザナ)の名義で著作を発表している。gunは深淵、深みを意味し、聖なるハンガイの山々の敬称でもあるという。この名を、アヨルザナは故郷のサヒオス(土地の精霊、守護神)との不思議な交信を通じて選び取り、自らに名付けたのだと語る。

外国における既刊書ではGün Ayurzana, Gun G.Ayurzana, Ayurzana Gun-Aajavなどさまざまに記載されているが、日本で初の単行本出版となる本書では、本人との相談の上、「グン・アヨルザナ」(短く表記する場合はG・アヨルザナ)と記すこととした。

 

現在、詩集は『幼き詩篇』、『哲学の詩』、『Non Plus Ultra』、『心を覗き込む彼女に』など計十冊、小説は『愛なき世界のブルース』、『シャマン伝説』、『精霊宿るハンガイの秘密』、『昨日会おう/亡者のモノローグ』、『彼らの影はわれらの心より長く』(いずれも未邦訳)など、短編集も含めると計十四冊を出版している。その他に計二十冊ほどの翻訳書、評論集、回想録がある。2002年にモンゴル作家同盟賞、2010年に金の羽賞、ゴア・マラル賞を受賞した。

作品は、英語、ロシア語、フランス語、イタリア語、ポーランド語、ハンガリー語、セルビア語、トルコ語、カザフ語、中国語、韓国語、日本語など多くの外国語に翻訳されている。2002年発表の中篇小説Хэвтрийн хүн(寝たきりの男)は、S・ビャンバ監督で映画化され、カンヌ国際映画祭のアトリエ部門に選出、ソフィア国際映画祭にて上映され、2026年春には日本モンゴル映画祭において『Bedridden 〜寝たきりを選んだ男』の邦題で上映された。

また著者はアイオワ国際創作プログラム(IWP)の他、アジア、ヨーロッパ各地での文芸祭やシンポジウム等に参加している。現在も精力的に創作を続け、作品ごとに新たな地平を開いている。モンゴルの現代文学の動向を語るうえで、今後ますます目が離せない存在である。

 

翻訳について

訳者が本作の原書を手にしたのは、刊行後間もない頃である。読み終えると同時に、どきどきしながら「これは私が翻訳する」と強く思ったことを覚えている。「翻訳しなければ」というのとは少し違う。必ず翻訳する、という確信めいた気持ちだった。本作中に、「確信をもっていることは、何かしら意味がある」、「自分がやりたいと望んだことが自分の運命になっていく」という言葉がある。そうした言葉に支えられながらの日々であった。著者のアヨルザナ氏は訳者に全幅の信頼を寄せ、本書の翻訳を任せてくれた。作品とは直接関係のないように思えることも含め、様々な質問を投げかける訳者に、根気よく付き合ってくれた。暗中模索を続けた末に〈アジア文芸ライブラリー〉での刊行が決まった日のことは、思い出すと今でも胸が一杯になる。

このモンゴルの小説が日本の読者のもとに旅立ち、はるかな物語の世界へと誘ってくれることを心より願っている。

 

 

 

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