web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

社会を癒す「私」になる――マインドフルネスとポリヴェーガル理論が拓くケアのまなざし 井上ウィマラ × 花丘ちぐさ

ポリヴェーガル理論からマインドフルネスを考える(前編)【井上ウィマラ】

本記事は、Teachers主催「マインドフルネス・カレッジ」オンライン講座における井上ウィマラ氏 × 花丘ちぐさ氏の対談「その生きづらさの正体は」「トラウマの世代間伝搬を考える ~ ポリヴェーガル理論 × マインドフルネス」をもとに加筆修正・再構成したものです。

 

 花丘先生のお話を伺って、非常に多くの示唆を得ることができました。特に瞑想に関連する部分で「なるほど」と感じたことが多く、とてもありがたかったです。ここからは、僕の方で仏教に基づいたマインドフルネスについて紹介しながら、花丘先生のお話につなげていければと思っています。

 

マインドフルネスとは何か

 

 この10年ほどの間に、日本でも雑誌やテレビ番組で紹介され知られるようになってきたマインドフルネスですが、これはジョン・カバットジン(1944-)が1979年にマサチューセッツ大学の医学部に創始した「ストレス低減およびリラクセーションプログラム」に端を発して、「マインドフルネスに基づくストレス低減法(Mindfulness Based Stress Reduction:以下MBSRと略称)」と呼ばれるようになって医療や心理療法のメインストリームに登場してきた現代的潮流です。

 カバットジンは、ノーベル生理学・医学賞を受賞したサルバドール・ルリア(1912-1991)の下で博士号を取得した科学者でした。マサチューセッツ工科大学で学んでいた時に仏教瞑想に出会い、洞察瞑想協会(Insight Meditation Society:以下IMSと略称)におけるリトリートで「これほどまでに苦しみを癒すことのできる力を持った仏教瞑想を現代社会に再構築するべきだ」というビジョンを得ます。それを、病院で実践できる8週間のパッケージとして実現したのがMBSRでした。

 科学的な研究方法を身につけていたカバットジンは、受け入れ時と終了後の質問紙を充実させて統計解析するというEBMの手法を整えておきましたので、これがメインストリームに取り上げられる道を開きました。さらにオックスフォードのチームがMBSRに基づいてうつ病の再発予防のためのプログラムMBCT(マインドフルネス認知療法)を開発し、これが投薬と同等かそれ以上の効果があると検証されたことで、ブームに火がつきました。

 日本で流行しはじめたころには、何にでも効く万能薬のような錯覚もあったようですが、最近では有害事象の研究も進み、関係性や倫理についての取り組みが必要なことも理解されるようになってきました。普及のための導入期が一区切りして、成熟期に差し掛かってきたと思います。その意味で、マインドフルネスのルーツであった仏教瞑想がどのようなものであったのかについて、その仏教瞑想を日本文化はどのように取り入れてきたのかを含めて、考え直すことが必要な時期になってきていると思います。

 それは、カバットジンが仕掛けた「世俗化」の潮流がひと段落して、マインドフルネスのルーツを確かめることによって、よりよく広め深めてゆくための「再聖化」のはじまりとしてとらえることができるでしょう。

 

記憶とマインドフルネス

 

 マインドフルネスは、日本の伝統仏教では「念」と訳されてきました。中国の漢訳仏教を通じて伝わってきたものです。今自分が何をしているのかを忘れずに自覚している心、そういう意味で「今の心」と解釈できます。もとの原語は、上座部じょうざぶ仏教の経典言語であり、二千数百年前の西北インドの話し言葉であったとされる「パーリ語」で、「サラティ (sarati):思い出す」という動詞から出てきた「サティ (sati)」という名詞が原語になります。つまり、記憶、思い出すことや忘れないようにすることを意味する言葉です。この sati が英語で mindfulness と翻訳されるようになったのは、1880年から1910年頃にかけてのことでした[1]

 

言葉で思い出せないことを無意識的行為で繰り返す

 

 「思い出す」ということに注目すると、私たちは、いつ、どこで、誰と、何をしていたのかを言葉で思い出すことができます。しかし、言葉では思い出せない記憶もあります。なぜだかわからないけれど、ある特定の状況になると腹が立って来たり、こだわってしまったりと、無意識的な行動で繰り返していることがあり、これも思い出す記憶の一つの形態です。フロイト(1856-1939)は、言葉で思い出せないことを無意識的な行動で繰り返してしまうことを「反復強迫」と呼びました。おそらくこれはブッダの「無明むみょう」という言葉に包摂されるものでないかと思います。うつ病のための認知行動療法の理論的基盤を作り上げたアーロン・ベック(1921-2021)の「自動思考」もこの無明に含まれると思います。

 マインドフルネスが目指すことの一つは、こうした言葉で思い出せないこと、自動思考や反復強迫を含めて、無意識的な思考や行動で繰り返していることを自覚できるようにしてゆくことです。たとえば、「なぜ今、貧乏ゆすりをしているのだろう?」とか、「なぜこの人に対しては、いつもこんなことを言ってしまうのだろう?」といったことを、その瞬間に気づけるようになってゆくことです。

 

マインドフルネスの深まり方

 

 マインドフルネスの基礎トレーニングは呼吸観察で、吸う息と吐く息の感触の違いに気づいてゆきます。どちらが温かく、どちらが涼しく感じるでしょうか? 温度の違いだけでなく、湿度も違っています。こうした実感の違いに気づいてゆくことでクオリア(質感)の理解が進んでゆきます。

 吸う息と吐く息の違いに気づいていられるようになることは、コミュニケーションをしている時の息づかいを自覚することにつながってゆきます。私たちが言葉を発している時には、息を吐いているからです。息遣いは、非言語的コミュニケーションを支える重要な要素です。

 吸気と呼気の違いが分かるようになったら、吸い始めから吸い終わりまで、吐き始めから吐き終わりまで、「始まり」と「終わり」の瞬間を見定めるように心がけます。吐き終わってから吸い始めるまでの間に微妙な間が感じられることがあるかもしれません。鼻から出て行く息は終わっても、まだ胸のあたりや横隔膜のあたりで肺を絞っているような感じです。そうして吐き切った後で、どんな感覚があると息を吸い始めるのでしょうか? 

 始まりから終わりまで呼吸全体を見つめることができるようになると、次第に一回一回の呼吸に長短や深浅の違いがあることに気づけるようになります。こうして一期一会の呼吸の様相の違いに気づけるようになって、ブッダが意図した本来的なマインドフルネスがはじまります。

 

記憶から気づきへ

 

 マインドフルネスという言葉は、日本語では「注意深さ」から「気づき」まで、幅広く訳し分けなければならない奥深い意味を持った言葉です。その奥深さの理由を理解してもらえるように考案した思考実験があります。次のような順番で、自由に思い出してみましょう。

 

1. 5 年くらい前のこと…。

2. 1 年前のこと…。

3. 昨日のこと…。

4. 1 時間前のこと…。

5. 1 秒前のこと…。

 

 1秒前のことを思い出そうとすると、それ以前の体験との大きな変化が起きて、驚いた人も少なくないと思います。1秒前のことは、思い出そうとしても、思い出そうとしている間に時間が流れてしまい、それまでと同じように「いつ、どこで、誰と、何を、どのように」という仕方で言葉を使って思い出すことができません。言語的思考で思い出すことはできませんが、呼吸の感触や心臓の心拍などの身体感覚をただ感じていることはできます。1秒前を思い出そうとすることによって、私たちは言語的思考が成立する以前のただ感じているだけの体験の流れに引き戻されてしまいます。この「ただ感じているだけの・思考以前の体験」は、「純粋体験」とも呼ばれます。

 1秒前を思い出そうとして純粋体験に連れ戻されてしまった時の感じ方は、心地よく感じる人と不安や不快に感じる人に分かれます。心地よく感じる人は「永遠に触れたような気がした」とか、「静寂の世界を体験できた」という感想を話してくれます。不安や不快に感じる人は、日常的な合理的思考が成り立たないわけのわからない世界に放り込まれたことの不快感を話してくれます。これらは、どちらも正直な感想だと思います。

 

「気づきの作法」と「私」の誕生過程

 

 マインドフルネスは、呼吸を観察しながら、心が呼吸からそれて雑念に巻き込まれてしまった時にもありのままに観察します。雑念への関わり方について、①気づく、②感じる、③整えて呼吸に戻るという3つのステップをまとめて「気づきの作法」と呼ぶことにしています。

 呼吸観察と気づきの作法を実践していると、私たちは生命現象の流れをただ感じているだけの瞬間に遭遇することがあり、その一瞬、私たちは日常的意識の世界から純粋体験の世界に滑り込んでゆきます。

 純粋体験と日常的(言語的)意識体験のどちらが優れているかという問題ではありません。日常的な意識体験と純粋意識体験との間を自覚的に往復することが重要なのです。なぜなら、これら二つの意識レベルを自覚的(マインドフル)に往復していると、言語的思考による「私」という観念によって作り上げてしまった自縄自縛のこだわりが緩みやすくなってくるからです。それは、「私」という仮想現実を作り上げている多くの地層が見えてくるような体験でもあります。

 『サンユッタ・ニカーヤ(相応部そうおうぶ)』という経典には、2600年前のマインドフルネス瞑想の修行者たちが、以下のような意識の階層性を観察していたことが伝えられています。

 

主客未分の存在を感じる

「いる、ある」

主客が分離して「私」が感じられる

「私がいる」「私である」

所有観念が発生する

「私のものである」

「私」が客観視される

「私はそれである」「それが私だ」

「私」の背後に魂などが想定される

「それは私の魂だ」

 

 

「私」という仮想現実を使いこなす学びの風景

 

 「私」という意識が生まれてくる背景には、こうした無限の生命活動が隠されています。仏教で「無我」というのは、その「私」という仮想現実の無限小に気づくことです。「n分の1」の分母の n を無限大に近づけてゆくと、その極限は 0 に限りなく近づいてゆきますが、0にはなりません。

 

 無我というのは、我が無いということではないのです。すべてを思い通りに支配しようとする「私」という自我の無限の小ささに気づくことによって、思い通りにならない命の現実に心を開くことができるようになるということなのです。すると、思い通りにならなかったからこそ救われたこともあるのだということに気づけるようになります。

 マインドフルネスによって「解脱」に向けた修行の旅をしていく時に見える風景があります。宇宙が誕生し、そこに生命が生まれ、人類が生まれ、群れで旅しながら地球上に広がってゆき、数万年前に言語が獲得されて、「私」という意識が生まれて、群れで喜怒哀楽を見守りながら「私」という仮想現実を巧みに使いこなし、よりよい生と死の可能性を模索してきた、そういう風景に出会うことができるのです。

 

いのちと生命体のネットワーク 

クロノス的時間

地質年代

注目したい進化の出来事

24時間時計

46億年前~

冥王代

原始地球誕生
火山活動、雨が地表を冷やし海洋が形成される
生命誕生

00:00

38億年前~

太古代

原核生物、シアノバクテリアの活動で大気中に酸素が放出される

04:00

25億年前~

原生代

真核生物
全球凍結
多細胞生物

15:00

5.41億年前~

古生代

殻、骨、歯の発達
脊椎動物
上陸
両生類、爬虫類、森林、昆虫
パンゲア形成

20:50

2.52億年前~

中生代

恐竜
翼竜
社会性昆虫          
恐竜絶滅

22:50
映しあう社会性

6600万年前~

新生代

哺乳類大型化
二足歩行の始まりと人類の誕生 


言語獲得           
大型哺乳動物の絶滅
農耕牧畜と最初の文明
グローバリゼーションと二酸化炭素濃度上昇

23:40
共同保育

23:59
言語による仮想現実
としての「私」

 

 

 生命がミラーニューロンによって映しあう社会性を獲得したのがおそらくは2億年くらい前の恐竜や昆虫の時代のことではないかと思います。花丘先生のお話に出てきた、一番古い背側迷走神経を持った無顎類はそれ以前のカンブリア紀(5.4億年前~4.9億年前)には出現していたと思います。

 直立二足歩行をした人類が共同で子育てをしていたのは数百万年ほど前からのことだったでしょう。そのころにはすでに腹側迷走神経複合体を獲得して群れで安心できる環境を作り上げるような営みをしていたのだと思われます。その上で、現代の人類である我々ホモサピエンスが言語を獲得して自我意識を発達させてきたのはこの数万年くらいのことなのではないかと思います。

 

思いやりと方便

 

 「私」という自我意識は、ミラーニューロンの働きに支えられた関係性の中で、自他を俯瞰的に見つめるメタ認知が人格化された「神」や「魂」という概念を内蔵して発生してきたものだと思われます。マインドフルに呼吸を見つめていると、「私」という仮想現実を生み出した進化の過程が意識の階層性として理解され、その「私」を巧みに使いこなして思い通りにならない人生を試行錯誤してゆく洞察の「智慧」を授かります。そしてその智慧は、群れの中でお互いを思いやり合うことによって自分たちを守り合ってゆく「慈しみ」へとつながってゆきます。私たちは、群れの中で他者から子育てというケアを受けなければ人になれないからです。

 先ほど、花丘先生から社会交流を担う神経系のネットワークがあるというお話がありましたが、群れで一緒に子どもを育てるためには、思いやりが欠かせません。相手を見て「幸せにしてあげたい」と感じる思いやりは、仏教では「慈悲喜捨じひきしゃ四無量心しむりょうしん(日本では慈悲と略称)」と言われています。現代的マインドフルネスの文脈では「コンパッション」という言葉が使われるようになりました。

 マインドフルネス瞑想を通して、私たちがどれだけ多くのケアを受けながら人間になってきたのかということがわかると、自然に思いやりの心が生まれます。人にはそれぞれの生まれ育ちがあり、それぞれに異なる歴史を生きていますから、その人に寄り添うためにはその人に合わせたアプローチをしていくことが必要です。これを「方便(upa+aya: 近くに・行く)」と呼びます。

 方便には特定の正解はありません。状況に応じて試行錯誤をしていかなければならず、その思い通りにならい苦しさを支えてゆくのが思いやりの心です。仏教では、その思いやりをしっかりと保っていることを「加持かじ」と呼びます。そこではひとつの正解や特定の方法に囚われず、「無我」や「くう」と呼ばれる自由な心で、目の前の人を大切にして自在に対応してゆくことが必要になってきます。これがマインドフルネスの歩んでいく道だと思います。

 

マインドフルネスの背景:仏教史における集団自殺事件

 

 仏教瞑想としてのマインドフルネスを概観した上で、そのマインドフルネスが説かれるようになった歴史的背景を確認しておきたいと思います。それは、仏教の歴史におけるとても悲しい出来事でもありました。

 ブッダはマインドフルネスを説く前、「不浄観ふじょうかん (asubha)」と呼ばれる死体の瞑想を推奨していました。出家修行者の中には性欲に悩む若い男性が多かったため、死体のあり様を観察することで性欲を中和して解毒できるように、風葬の墓場で死体が腐敗したり、鳥獣に食べられたりして骨になって大地に帰ってゆく様子を見つめるように説いたのです。しかし、準備が整っていない修行者たちが死体を見ているうちに、嫌悪感に苛まれ、生きる意味を見失い、精神錯乱を引き起こして集団自殺が起こってしまいました。現代で言う惨事ストレスの一種だと思われます。

 侍者であったアーナンダの懇願によって、ブッダは「不浄観」という非常に厳しい瞑想の代わりに安全性の高い「呼吸によるマインドフルネス」を説くようになったと伝えられています。

 

入息出息念

 

 不浄観の代わりに安全性の高い瞑想として説かれたものが、「吸う息」と「吐く息」を見つめるマインドフルネス、「アーナーパーナ・サティ (ānāpāna-sati: 入息出息念にゅうそくしゅつそくねん/呼吸による気づき)」と呼ばれているものです。「呼吸による気づき」は、以下の16の観察法にまとめられています。

 

1.長く息を吸っている時には「長く吸っている」と遍く知り、長く息を吐いている時には「長く吐いている」と遍く知る。
2.短く息を吸っている時には「短く吸っている」と遍く知り、短く息を吐いている時には「短く吐いている」と遍く知る。
3.「全身を感知しながら息を吸おう」と訓練し、「全身を感知しながら息を吐こう」と訓練する。
4.「身体の動きを静めながら息を吸おう」と訓練し、「身体の動きを静めながら息を吐こう」と訓練する。
5.「喜びを感知しながら息を吸おう」と訓練し、「喜びを感知しながら息を吐こう」と訓練する。
6.「安楽を感知しながら息を吸おう」と訓練し、「安楽を感知しながら息を吐こう」と訓練する。
7.「心の動きを感知しながら息を吸おう」と訓練し、「心の動きを感知しながら息を吐こう」と訓練する。
8.「心の動きを静めながら息を吸おう」と訓練し、「心の動きを静めながら息を吐こう」と訓練する。
9.「心を感知しながら息を吸おう」と訓練し、「心を感知しながら息を吐こう」と訓練する。
10.「心を和ませながら息を吸おう」と訓練し、「心を和ませながら息を吐こう」と訓練する。
11.「心を安定させながら息を吸おう」と訓練し、「心を安定させながら息を吐こう」と訓練する。
12.「心を解き放ちながら息を吸おう」と訓練し、「心を解き放ちながら息を吐こう」と訓練する。
13.「無常であることを繰り返し見つめながら息を吸おう」と訓練し、「無常であることを繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。
14.「色あせてゆくことを繰り返し見つめながら息を吸おう」と訓練し、「色あせてゆくことを繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。
15.「消滅を繰り返し見つめながら息を吸おう」と訓練し、「消滅を繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。
16.「手放すことを繰り返し見つめながら息を吸おう」と訓練し、「手放すことを繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。

 (ウィマラ訳 M.III.82-83)

 

トラウマやシャドウに向かい合うためのエネルギー源

 

 この16の観察法は、1.身体の観察、2.感受の観察、3.心の観察、4.法(心身相関現象とその法則性)の4領域から成り立っています。16の観察法の最初の4つが、身体的現象としての呼吸の観察です。こうして呼吸を観察していると、自然と集中力が養われて禅定ぜんじょうと呼ばれる集中状態が生まれ、それに伴って喜びやリラックスが発生します。この喜びに付随する興奮性や刺激性に気づいて手放してゆけると、深いリラックス状態に入っていけるようになります。

 喜びやリラックスはある種の神秘性を持っているので、解脱や悟りと勘違いされやすいところがあります。スピリチュアルな欲望がくすぐられます。自分の中に潜んでいる劣等感に気づいていないと、その劣等感を補償しようとする優越感に突き動かされて、支配的かつ搾取的な人間関係に絡め捕られやすくなってしまいます。これは、オウム真理教のようなカルト組織に特徴的な人間関係です。仏教ではこれを「観の汚染」と呼んで、注意を喚起しています。禅宗では「魔境」と呼ばれるものです。

 こうした微妙な心の動きを観察できるようになると、喜びやリラックスの力を活かして恐怖や不安に向かい合うことができるようになります。それはトラウマを予防するだけではなく、自分自身の嫌なところ(シャドウ・影の部分)に向かい合ってゆくためのエネルギー源となり、深い意味での心の観察に入ってゆく準備を整えてくれます。

 トラウマ研究の第一人者であるベッセル・ヴァン・デア・コーク(1941-)は、トラウマが癒えるための条件として、「身体で感じることを許し、それが変化していることを認める」[2]ことができるようになることをあげています。16の観察法の第12番から13番目にかけて説かれていることがそこに対応してゆきます。このような仕方で、トラウマに向かい合ってゆくためのエネルギー源を獲得して活用できるようになるために、ブッダは「呼吸によるマインドフルネス(アーナーパーナ・サティ)」を教えたのだと思います。

 

マインドフルネスの総合経典としての『念処経』

 

 「アーナーパーナ・サティ」が最初の体系ですが、もうひとつマインドフルネスの最も総合的な体系として「サティ・パッターナ:(satipaṭṭhāna)念処」があります。16の観察法がさらに詳細な実践法へと引き継がれ、『念処経ねんじょきょう[3]では身受心法の4領域が13の瞑想対象のグループに分けられて、詳細なマインドフルネス瞑想の実践として説かれています。私は『気づきの確立に関する教え』と訳すようにしています。瞑想対象の4領域と13グループは以下の通りです。

 

4つの対象領域と13の瞑想対象

1

身体

①呼吸、②姿勢、③日常動作、④身体部分、⑤地水火風の要素、
⑥死体の崩壊プロセス

2

感受

⑦快・不快・中性の身体感覚

3

貪瞋痴とんじんちに染まっているか否か、散乱・集中、こだわり・解放

4

五蓋ごがい、⑩五蘊ごうん、⑪六感覚処ろくかんかくしょ、⑫七菩提分支しちぼだいぶんし、⑬四聖諦ししょうたい

 

身体の観察

  13グループを簡単にご紹介しますと、まず身体の観察では、呼吸の他に姿勢や日常の動作を観察します。行住坐臥ぎょうじゅうざがの姿勢を観察する理由は、姿勢と情動との関係に気づくことから始まって、恐怖に出会ったときに無意識的に姿勢を変えてしまうパターンへの依存から解放されることが含まれます。戦うか逃げるかを瞬時に判断するために必要であった爬虫類的な反応ですが、薄暗がりに落ちている縄を見て蛇だと思い込んでとっさに身を引いてしまうようなことが少なくありません。それが必要でない時にもその反応パターンを繰り返してしまう習慣が緩むとだいぶ楽になります。ブッダは、こうした恐怖を克服するために墓場や霊廟や山林などで瞑想したようです。物音がして恐怖を感じたら、風だったのか動物だったのか、その原因を確認するまで姿勢を変えないで過ごすように心がけたことが『恐怖経きょうふきょう[4]に伝えられています。

 日常動作の瞑想には、食べるマインドフルネスや、話すマインドフルネス・聴くマインドフルネスが含まれてきます。

 身体部分の観察では、身体を構成する32の部分を6つのグループにまとめて暗唱しながら、一つ一つの身部のイメージを鮮明に思い浮かべ、部分として見つめた時と「自分の身体」と思った時の意識や感情の反応の変化を見つめます。この観察は、ジャック・ラカン(1901-1981)の「鏡像段階」[5]やメラニー・クライン(1882-1960)の「部分対象と全体対象」[6]について理解することに役立ちます。臓器や骨や皮膚などへの感謝の気持ちが生まれ、身体イメージに対するこだわりに気づき、自分のものだと思い込むことから生まれる苦しみから解放されてゆきます。

 要素観察では、身体を硬さや重さ(地)の要素、凝集性(水)の要素、温かさや冷たさの温度(火)の要素、動き(風)の要素として観察します。この瞑想は、ヨーガでいう「チャクラが開く、あるいはクンダリーニが昇る」というような神秘的な体験に出会った時、それを擬人化してしまうことによる執着から離れて(脱中心化して)、身体を現象そのものとして見つめるために役立ちます。

 そして、トラウマ的な事件を引き起こした死体観察(不浄観)も含まれています。「念処」は、呼吸を観察することで集中力を養い、落ち着いた心から生まれる安心感の土台を培って、ものごとの無常や無我(思い通りにならないこと)を見つめることのできる観察自我の強さを養います。その上で日常生活の隅々まで観察することによって、死体観察(不浄観)にも耐える力を身につけることができるような体系になっているのです。不浄観は、世界の瞑想法の中でも最も厳しいものではないかと思います。

 

感受の観察

 感受の観察では、快・苦・不苦不快(中性)という最も原始的な身体感覚に気づけるように心がけます。そして、これら3種類の感受から展開してくる貪り・怒り・無自覚(貪瞋痴とんじんち)という心の反応パターンの観察へと進んでゆきます。貪瞋痴は「根本煩悩こんぽんぼんのう」とも呼ばれていますが、爬虫類的な早い反射反応で、取り込むか攻撃するかそのまま放置しても大丈夫かを瞬時に判断する生命現象でもあります。ポリヴェーガル理論では「ニューロセプション」と呼ばれているものに近いのではないかと思います。

 貪瞋痴の生命反射に基づいて、欲愛よくあい有愛うあい非有愛ひうあいという3つの渇愛かつあいが展開してゆきます。欲愛とは、「見たい、聞きたい、味わいたい、嗅ぎたい、触れたい」という、五感の体験を求める衝動です。有愛とは、そうした五感による感覚体験に基づいて「私はこうでありたい、こうであらねばならない」という自分の存在スタイルに関する衝動的欲求です。非有愛とは、自分の気に入らないものの存在が許せない、破壊してしまいたいという攻撃的衝動です。これら3つの渇愛によって「私」としての人生の苦しみが発生してきます。

 快・苦・不苦不快から貪瞋痴への連結は反射的なものでその連鎖を断ち切ることは難しいのですが、そこから欲愛・有愛・非有愛という3つの渇愛への展開の間には気づきの楔を打ち込んでゆく隙間があります。この点については、この後の法の観察において、十二縁起としてまとめられた、詳細な観察が積み重ねられてゆきます。

 

心の観察

 心の観察では、先ずは心が貪瞋痴のどの色に染まっているのかを自覚できるようにして、それらに拘束された状態と解放された状態の違いに気づくようにしてゆきます。これは現代の認知科学にも通じるとても微細な心身現象の観察につながり、次の法の観察における「六感覚処ろくかんかくしょ」の観察に継承されてゆきます。


法の観察

 法の観察は、心身相関現象の観察と、そこに内在している法則性への洞察です。仏教の基礎教学に必須の用語が並んできます。

 最初の「五蓋ごがい」というのは、心を曇らせる5つの心理作用(欲望、怒り、眠気と不活発性、浮つきと後悔、疑い)の観察です。それらが禅支ぜんしと呼ばれる5つの心理作用(一体感、喜び、言語的観察、リラックス、直感的観察)によって中和されて、心の波長が整い、落ち着いて安定し、三昧さんまい (samādhi) とか禅定ぜんじょう (jhāna) と呼ばれる集中状態が訪れます。

 

五蓋

貪欲

怒り

眠気・不活発性

浮つき・後悔

疑念

禅支

一体感

喜び

言語的観察

リラックス

直感的観察

 

 貪欲には自分と対象とが切り離されているという隔離感がありますが、一体感が生まれてくるとその切り離された感じが癒されて、切望する気持ちが収まってきます。喜びのエネルギーは、自分の思いが満たされない(自分の力を思うとおりに使えない)不満の心を満たして落ち着けてくれます。言語的な観察は、光のように照らし出す働きによって眠気や気怠さや不活発性を目覚めさせてくれます。安心してリラックスできると、浮つきの内蔵する上向きの刺激性や後悔の内蔵する下向きの刺激性が和らいで心が静まります。直感的観察は、「百聞は一見に如かず」という諺にあるような仕方で疑いの心を晴らしてくれます。

 このようにして、波長が整い、落ち着いて安定した心が安心感の礎を築いてくれます。

 

五蘊の観察:「私」という仮想現実の創発を見つめる

 

 次の「五蘊ごうん」は、「私」という仮想現実(主体観念、あるいは思い込み)を構成する5つの集合体(身体、感覚、認知、意思、記憶)に関する観察です。伝統的には「しき(物質的身体)・じゅ(原初的身体感覚)・そう(イメージや認識作用)・ぎょう(意思)・しき(記憶と意識全般)」と呼ばれる複雑系から「私」という意識が創発されてくるプロセスを観察します。経典には、ブッダの時代の瞑想修行者たちが以下のような意識の階層性を観察していたことが読み取れます。

 

主客未分の存在を感じる

「いる」、「ある」

主客が分離して、
「わたし」という主体観念が感じられる

「『わたし』がいる」、
「『わたし』である」

所有観念が生まれる

「『わたしのもの』である」

「わたし」が客観化される

「『わたし』はそれだ」、
「それが『わたし』だ」

「わたし」の背後・奥に
自我機能が想起される

「それが『わたし』の自我である」、
「それは『わたし』の魂だ」

 

 ヴァレラ(1946-2001)は、こうした仏教心理学の伝統に触発されて創発理論を提唱したのだと思われます[7]

 

六感覚処の観察:感覚体験から意識が創発されるプロセス

 

 「六感覚処」は、感受と心の観察のところで説明したように、身体の感覚器官に刺激が接触することで発生する感受、情動・感情、認知、思考などがどのように展開してゆくかに関する観察で、現在の認知科学で解明されているような詳細な意識のプロセスが観察されます。十二縁起は、六感覚処をマインドフルに見つめた時に浮かび上がる仏教の認知科学と言ってもよいでしょう。

 次の十二縁起(三世両重さんぜりょうじゅうの縁起観)の図表における、⑧の「渇愛かつあい」は爬虫類的な反射に近いと思います。何かを感じて、それを取り込んで食べたり、気に入らないものや危険なものを攻撃したりする瞬間的な衝動です。⑨の「執着しゅうちゃく」は哺乳類的な情動反応です。脳の大脳辺縁系で繰り返しコントロールされながら身体の各部に緊張のパターンとして根を下ろしてゆきます。⑩の「生存せいぞん」は、⑧と⑨の上に言語が獲得されることによって「私」という仮想現実が創発してきて、男女や生死という二極的な概念によって布置され発達してきました。

 

人生で受けとめるべきこと/働きかけられること
三世両重の縁起観

過去の原因

①無明
②業を作る(行)

現在の結果

③識(結生心、生命維持心、死心を含む)
④名色(精神性と身体性)
⑤六処(感覚器官・眼耳鼻舌身意)
⑥接触(内外の接触)
⑦感受(快・不快・中性)

現在の原因

⑧渇愛(欲愛、有愛、非有愛:衝動的)
⑨執着(反復による習慣化)
⑩生存(有Bhava)→執着のパターン化による布置、
コンプレックス・元型・集合無意識

未来の結果

⑪誕生
⑫老死・悲・嘆き・苦・煩悶・憂愁


 

 「六根清浄ろっこんしょうじょう」という言葉があります。その「六根」は眼耳鼻舌身意げんにびぜつしんいと呼ばれる感覚器官です。「意」は心基しんきと呼ばれ、身体全体からの情報が脳に伝えられて脳内で発火しているニューロンの電磁波の海がスクリーンとなって、そこにアトラクターと呼ばれる新たな次元の情報の渦が創発されている状態を示唆しているものと思われます。ヴァレラの提唱している創発理論に基づき、フリーマン(1927-2016)が提案しているアトラクター理論[8]と重なるように思います。

 「六根清浄」とは、人体を巡る情報による意識現象がマインドフルネスによって清まってゆくという実践思想から生まれた言葉です。そしてマインドフルネス瞑想は、現在に受け取る結果としての「感受」と現在の原因づくりとしての「渇愛・執着・生存」との連鎖に気づきの楔を打ち込んでゆく作業になっています。

 

七菩提分支:解脱に導く七つの翼(心の働き)

 

 「七菩提分支しちぼだいぶんし」は、マインドフルネスをはじめとする、解脱と悟りに向かうために必要な七つの心の働きです。①マインドフルネス(念)をバランサーとして、②現象を分析する洞察智、③努力精進、④喜びの3つが高揚系の要素、⑤緩和、⑥三昧、⑦平静な見守りの3つが鎮静系の要素になっています。

 

 

 マインドフルネスによって、エネルギッシュな心の状態と静かで安らかな状態のバランスを取りながら解脱への道のりを進んでゆくのです。こうした心の働きは、現生人類が20万年ほど前にアフリカに生まれて、幾多の艱難辛苦を乗り越えてグレートジャーニーと呼ばれる旅を続けながら地球全体に広がってきた過程でずっと働き続けてきたものだと思います。「翼」という言葉に関して、仏典の注釈書には航海における鳥の役割についてこんな逸話が出てきます。

 

「大海原の航海をするときには鳥を連れて行って、陸地が近いと思われた時にその鳥を籠から出して放してあげる。鳥は陸地が見つからなければ船に帰ってくるし、陸地が見つかった時には一目散に陸を目指して飛んでゆくから、航海士はその鳥を追いかけて舵を取ればよい。」

 

四聖諦の観察:仏教の中核的な教え

 

 最後の「四聖諦ししょうたい」は仏教で一番の中核となる実践の教えで、ブッダが一生をかけて探求し伝え続けてくれたものであり、私たちが生きていることに関する4つの聖なる真理です。

 第一の聖なる真理は、「私」という視点から見た人生は、思い通りにならない変化の連続であり不確実性と不満が遍在しているという「苦しみの聖なる真理」です。この第一の真理に関して、私たちは苦しみをなくそうとして格闘してしまう傾向がありますが、戦うのではなく徹底的に知り尽くすことがマインドフルネスの実践目標になります。

 第二の聖なる真理は、この苦しみの原因に関するもので、渇愛かつあいと呼ばれる3つの衝動から苦しみが発生してくるという「苦しみの原因の聖なる真理」です。①見たり聞いたり嗅いだり味わったり触れたりする感覚体験を求める欲愛よくあい (kāma-taṅhā)、②「私」はこうでありたいという実存スタイルについての有愛うあい (bhava- taṅhā)、③「私」の思うとおりでないものの存在は許せないので失くしてしまいたいという非有愛ひうあい (vibhava- taṅhā) の3つからなります。おそらくこれら3種類は、マクリーン(1913-2007)の脳の三位一体説[9]に対応した爬虫類的な衝動、感情を持つようになった哺乳類的な衝動、言語を使いこなせるようになる人類に特有な衝動に微妙に重なり合っているように思います。この第二の真理は、発生から消滅までの全プロセスをありのままに見守ることによって衝動を看取って、苦しみの原因である渇愛を手放してゆくことが瞑想実践になります。

 第三の聖なる真理は、苦しみの原因となる渇愛を手放すことができると、その瞬間に、たとえ一瞬ではあっても、苦しみの火が消えた安らかな静けさが訪れることを実体験する「苦しみの消滅(涅槃ねはんnibbāna)に関する聖なる真理」です。この真理は、自らその静けさと安らかさを味わって、これが本当の幸せなのだと意識的に味わえるようになることが瞑想実践となります。何かを獲得することによる興奮と刺激に依存した幸福観を持ってしまった人類にとっては、こうした静けさと解放を幸せとして認識することは簡単なことではありません。

 第四の聖なる真理は、苦しみの消滅である「涅槃」と呼ばれる本当の幸せに向けた実践の道である「苦滅に至る実践道の聖なる真理」です。①正しい見方、②正しい思考、③正しい言葉、④正しい行為、⑤正しい生業、⑥正しい精進、⑦正しいマインドフルネス、⑧正しい集中力からなる実践の道は八正道とも中道とも呼ばれます。「正しい」という言葉はバランスが取れているという意味であって、「私」という思いの中での正しいか間違っているかという価値判断を超えたものであることが瞑想実践の要となってきます。

 

3つの観察視点と間主観性

 

 以上のマインドフルネスの詳細な実践内容に加えて、『念処経』で最も重要でありながら、ほとんど知られていない教えが、以下の3つの観察視点です。ブッダは、呼吸をはじめとするすべての瞑想対象を次のような3つの視点から繰り返し見つめるように説いています

 

1.主観的観察(内的):自分の呼吸など

2.客観的観察(外的):相手の呼吸など

3.間主観的観察(内的・外的):自他の間の呼吸のやりとりなど

 

 特筆すべきは、今風に言うと「間主観的 (intersubjective) な観察をしなさい」、ということが説かれているということです。2600年前の話です。ブッダは、自分を知るためには自分を見るだけではなく、自分を見て、相手を見て、自他の間でやり取りされるプロセス全体を見なければならないことを洞察していたのです。

 現代では、リゾラッティ(1937-)らのミラーニューロンの発見[10]によって心の理論や言語の獲得に関して科学的に議論しやすくなりましたが、ブッダは断食や息こらえによる苦行の中で意識を失い、また意識が回復してくるまでの極限状態を詳細に観察する体験があったからこそ発見することができたものではないかと推察します。

 人間は、言語や文化を含めて、人と人との関係性の中でしか生きてゆくことができないものです。そうした互恵的な関係性の中でどのようにして安心感が養われるのか、その安心感に基づいて「私」という仮想現実を健康的に使いこなせるようになるのか、そしてその「私」が仮想現実であったという事実を認めて超えてゆくためにはどうしたらよいのかを、ブッダは説き残してくれたのです。

 

マインドフルネスのビジョン

 

 ブッダが『念処経』で説いたマインドフルネスのビジョンは、次のように説かれています。

 

「修行者たちよ、この道は衆生しゅじょうたちを清め、憂いや悲嘆を乗り越え、苦しみや煩悶を消滅させ、理にかなった方法を獲得し、涅槃を実現するための一路である。」

(ウィマラ訳 M.I.55-56.)

 

 つまり、このマインドフルネス瞑想の道は、どのような入り口から入って来たとしても、理にかなった方法に従って、生き物たちが苦しみや悲しみを乗り越えて、苦しみや煩悶(この中に現代で言うトラウマが含まれています)を克服して、涅槃という究極的な幸福を実現するための一続きの道なのです。

 「一路」という表現には、どんな瞑想法から入ったとしても、解脱して涅槃に到達するためには必ずこのマインドフルネスの路を通らねばならないことが含意されます。大乗だいじょう仏教とか小乗しょうじょう仏教とか密教(金剛乗こんごうじょう仏教)などという「乗り物」を争うような問題ではありません。どんなに先生に導いてもらい仲間に支えられたとしても、解脱に向けての道のりは自分一人で歩み切らなければならないものなのです。

 たとえ仏教以外の宗教であったとしても、宗教を信じていない人であったとしても、心が解放されるときには誰でもがマインドフルネスの「一路」を通過して解き放たれていく、そんなビジョンが説かれているのです。

 

解脱と山門・三門

 

 このマインドフルネスの一路に入ったことのしるしは、「無常・苦・無我」の三法印さんぽういんとよばれます。マインドフルネス実践の中で、この3つのことが自分なりに腑に落ちて理解できるようになることが大切なのです。『入息出息念経』[11]では第13番から第16番目の法の観察として表現されていました。

 「無常」とは、すべての現象が常に変化し続けていること。「無我」とは、その変化を「私」の思うようにコントロールすることができないこと。あるいは、その「私」だと思い込んでいる主体観念が仮想現実であったのだと気づくこと。「苦」とは、無常であり無我であることは「私」にとって不完全さ不確実性と不満の感じをもたらし、苦しみとして感じられてしまうことを意味します。

 お寺の入り口には山門があり、山門は三門とも書かれます。解脱には3つの入り口があり、無常・苦・無我のいずれかの入り口を通って、各自がそれぞれの仕方で解脱してゆくのです。

 

ビジョンを構成する5要素

 

 このビジョンは、以下の5つの要素から構成されています。

1.存在が浄化される:
 存在が清らかになり、心がスッキリしてきます。そのためさまざまな宗教的実践に応用されています。

2.喪失の悲しみを健全に通過してゆくことができる:
 代謝によってホメオスタシス(恒常性)が支えられる生命現象では、いつも新しい何かを取り入れながら古い何かを手放して失うことを避けられません。

 「私」という主体観念の意識レベルにおける喪失を次へとつなげていくためには、グリーフワークと呼ばれる悲しみの仕事をやり遂げなければなりません。誰かを失って悲しむ時に、自分を責めすぎずに悲しめるようになるとその人との出会いの意味が見つかり、その人の居ない新しい世界を生きてゆく勇気が生まれてきます。そして、その人が自分にしてくれたことを今度は自分が誰かにしてあげたいと思えるようになります。

 悲しみが無くなることはありませんが、こうして出会いの意味が見つかることによって思い出の居場所ができると、波のように繰り返す悲しみを抱えて生き抜いてゆくことができるようになります。これを「統合された悲しみ」と呼びます。

3.(トラウマを含めて)人生の苦しみや苦悩から解放される:
 生きていく中では、生命の危険を感じるような場面に遭遇して心が傷つく体験をすることがあります。そんな時、無力感や孤立無援感に苛まれることなく、「なんとかなる、大丈夫だ」と感じさせてくれる安心感ホームがあると、悲劇トラジェディにはなっても心の傷トラウマになることはありません。

 そしてもしトラウマになってしまったら、安心できる環境の中で、その時の記憶を回復し (re-member)、自分なりの仕方で言葉にしたり発散したりすることで充分に体験して消化しなおし (re-lease) 、その出来事を自分の人生の中に位置づけられるように語りなおす (re-integrate) ことで、傷は少しずつ癒されてゆきます。

 苦しみや苦悩 (dukkha) には、トラウマを含めて、思い通りにいかない、完全な満足が得られないなどの特性があります。

4.知的に納得可能な生きるための方法論が得られる:
 トラウマが癒されると泣けるようになります。泣けるようになって、自分を責めすぎずに悲しめるようになると出会いの意味が見つかります。出会いの意味が見つかると心の穴が塞がり、その悲しみを抱えて生きてゆけるようになります。

 このようにして悲しみや苦しみを乗り越えてゆくためには、後悔が少なくなるように生活習慣を整えながら観察自我の強さを養い(かいsīla)、心を集中して安定させる力(じょうsamādhi)を養い、喜怒哀楽を感じ取り、それらが無常であり無我であることを洞察する智慧(paññā)を育ててゆく必要があります。戒定慧かいじょうえにまとめられる学びのステップは、言語を獲得した人間が知的に納得できる解放に向けた方法論を提供してくれます。

5.究極的な静けさと安らかさという幸福(涅槃)を自ら実体験することができる:
 こうした方法論に基づいて得られる究極の幸せは、興奮や刺激に依存するものではなく、自分自身に気づき、体験の魅力も厭わしさも充分に味わい、あらゆる現象が生まれては消えてゆくことを見守ってゆく智慧から生まれる安らかさと静けさにあります。興奮や刺激に依存しない、苦しみから解き放たれた安らかさと静けさを「涅槃ねはん (nibbāna)」と呼びます。この涅槃を実体験して幸せとして味わえるようになることがマインドフルネスの目標です。

 

重なり合う苦しみ

 

 マインドフルネスのビジョンに説かれている悲しみや苦しみと究極的な幸せのあり様を実践的に詳しく体験していくと、現代的な疫学研究が見つけ出した「複雑性悲嘆(CG)」、「心的外傷後ストレス症候群(PTSD)」、そして「うつ病(MD)」の苦しみの3つが重なり合っている現象と重なって見えてきます。

 

Simon et al., 2007, The prevalence and correlates of psychiatric comorbidity
in individuals with complicated grief. に基づいて著者の見解を追加したもの。

 

 「複雑性悲嘆」とは、自死であったり、亡くなり方やご遺体の状態が強いショックを引き起こすようなものであったりすることによって、悲しみがこんがらがって長引いたり、一見悲しみがないように見えながら他の形になって現れてくる苦しみです。「PTSD」は、命の危険を感じるようなとても辛い状況に直面した時に、無力感や孤立無援感に苛まれて自我の統合が障害される苦しみです。「うつ病」は、攻撃性が内向して自分を責めすぎることで自我機能が低下して動けなくなってしまう苦しみです。

 人生の苦しみはこのように重なりあっているようですが、マインドフルネスはこうした苦しみのあり様に向き合ってゆけるようになるための合理的な実践体系になっています。

 

トラウマ・ケア、グリーフ・ケア、そしてスピリチュアル・ケアへ

 

 マインドフルネス瞑想では、対人関係における観察の中で、これらの苦しみの重なり合いを丁寧に見つめてゆきます。その人がどこに痛みや苦しみを抱えているのか、それを見た自分の中にどのような反応が浮かんで来るのかを詳細に感じながら見守ってゆきます。

 上記の苦しみの三つ巴を解きほぐしてゆくためには、まずはトラウマを癒すことが必要になります。トラウマが癒えていないと、悲しむべき場面を思い出すことができないからです[12]

 トラウマが癒えると泣けるようになります。泣くことができるようになったら、次は自分を責めすぎずに悲しめるように支援することがグリーフ・ケアのポイントになります。自分を責めすぎる背景には、死んでしまった相手に対する怒りを認める不安が隠れています。死んだ人を責めると祟られるのではないかと怖いのです。だから私たちは、死んだ人に向けても当然であるような怒りを自分自身に向け変えてしまうものなのです。私たちをうつ状態に陥れるのはこの内向した怒りであることが少なくありません。

 自分を責め過ぎず、自分を大切にしながら悲しめるようになると、失ったものが自分にとってどんな意味を持っていたのかが見つかり、悲しみの風穴がふさがります。この順番で取り組んでいくことが方法論として重要です。

 さまざまなご縁からいろいろな臨床場面でマインドフルネス実践をさせて頂いた私の経験から言うと、泣けない状態から泣けるようになるあたりでトラウマケアからグリーフ・ケアへ移行することができます。泣けるようになったら、笑うこともできるようになる。ここで、悲しみの場面で笑うのは失礼になると思ってしまう人もいますが、実は笑えるようになることで、そのエネルギーを使ってもっと深く悲しめるようになり、悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)とグリーフ・ケアが深まってゆきます。

 こうして泣き笑いを繰り返しながら「私は何のために生まれてきたのか?」という意味が見つけ出せるようになると自らの死を受けとめられるようになり、スピリチュアルケアへと展開してゆきます。こうして「死ぬ」ことが怖くなくなっていくのです。

 

ケアの循環を作り出す

 

 マインドフルネス瞑想の指導や研究のご縁に導かれて、トラウマやグリーフの専門家たちとの交流を通して見えてきた流れがあります。「ケア」をキーワードとして、それを図にしてみました。

 

 

 ケア(care)という言葉は、誰かを気にかけて心配し、その人を好きになり、大切に思うその人の世話をするという命の営みに深く根差しています。そうして大切な家族を世話するケアの行為が、時代とともに家庭から病院や学校といった外部の専門機関に集約的にアウトソーシングされるようになってきました。しかし、人間の基本は家族で子どもを育てるということ、世話をし合って、最期には看取るというところにあります。

 自分を育ててくれた親を看取ることには、身体のケアをしながら最期に息を引き取ってゆく場面に立ち会うことが含まれます。何もしてあげることはできない状況でも、息を合わせて寄り添ってゆくことができます。そして、死後の清拭せいしきをはじめとする遺体のケアをしながら死に顔が微妙に変わってゆく様を見てゆくことは、グリーフ・ケアへの第一歩となってゆきます。

 大切な人を失った時、自分を責めすぎずに悲しめるようになると出会いの意味が見つかります。その意味が見つかると、思い出の居場所ができて、これまでその人からしてもらったことを今度は誰かに恩返しのようにしてやってあげたくなります。感謝の念です。こうして人として世話されて育てられてきた記憶が、誰かの役に立ちたいという気持ちを生み、新しい世代を育てることにつながってゆきます。それは自分の子育てかもしれませんし、誰かのお世話をさせてもらうことかもしれません。

 マインドフルネスという心の向け方は、「子育て(チャイルド・ケア)」、「看取り(ターミナル・ケア)」、「悲しみへの寄り添い(グリーフ・ケア)」という人生で大切な営みが循環していくための潤滑油として働いてくれる、人であることの共通基盤となる心の向け方なのです。

 

 

参考文献

[1]On some definitions of mindfulness. Rupert Gethin. Contemporary Buddhism, Vol. 12,  Routleghe, 2011.

[2]『身体はトラウマを記録する』ベッセル・ヴァン・デア・コーク 紀伊国屋書店 2016, p.341.

[3]『中部経典根本五十経篇I』 片山一良訳 大蔵出版 1997, p.164-187.

[4]『中部経典根本五十経篇I』 片山一良訳 大蔵出版 1997, p.71-85.

[5]「〈わたし〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ』 J・ラカン 弘文堂 1972, p.123-134.

[6]『メラニー・クライン入門』H・スィーガル 岩崎学術出版社 1977, p.28.

[7]『身体化された心』フランシスコ・ヴァレラ他 工作舎 2001

[8]『脳はいかにして心を作るのか』ウォルター・J・フリーマン 産業図書 2011

[9]『三つの脳の進化』ポール・D・マクリーン 工作舎 2018

[10]『ミラーニューロン』 ジャコモ・リゾラッティ&コラド・シニガリア 紀伊国屋書店 2009

[11]『中部経典後文五十経篇I』片山一良訳 大蔵出版 2001, p.289-308.

[12]Bereavement Following Disasters, Handbook of Bereavement Research and Practice, C. M. Parkes, p476-477. American Psychological Association, 2008.

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 井上ウィマラ

    1959年山梨県生まれ。京都大学文学部哲学科宗教哲学専攻中退。日本の曹洞宗で只管打坐と正法眼蔵を学び、ビルマの上座部仏教でヴィパッサナー瞑想、経典とその解釈学ならびにアビダンマ仏教心理学を学ぶ。カナダ・イギリス・アメリカで瞑想指導のかたわら心理療法を学ぶ。バリー仏教研究所客員研究員を終えて還俗。マサチューセッツ大学医学部のマインドフルネスセンターでMBSRのインターンシップを研修後に帰国。高野山大学でスピリチュアルケアの基礎理論と援助法の構築に取り組む。現在はマインドフルライフ研究所オフィス・らくだ主宰。著書に『子育てから看取りまでの臨床スピリチュアルケア』(興山舎)、『楽しく生きる、豊かに終える』(春秋社)、『呼吸による気づきの教え』(佼成出版社)、共著に『トラウマとマインドフルネス』(北大路書房)、『私たちはまだマインドフルネスに出会っていない』(日本評論社)、『瞑想脳を拓く』(佼成出版社)、『スピリチュアルケアへのガイド』(青海社)などがある。

キーワードから探す

ランキング

お知らせ

  1. 春秋社ホームページ
  2. web連載から単行本になりました
閉じる