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なぜ密教はすぐれているのかを説いた空海の代表作!/松長有慶『訳注 弁顕密二教論』

『弁顕密二教論』は、唐よりもたらした密教がもっともすぐれていることを表明した空海の初期の代表作です。その主眼は、悟りの世界は言葉で語ることができ、真理そのものである仏が説法するという、従来の宗派では否定されていた果分可説、法身説法を主張することでした。『訳注 弁顕密二教論』(松長有慶著)は、仏教用語から出典まで丁寧な解説を加えてわかりやすく読解した書であり、その中から『弁顕密二教論』について触れた部分を紹介したいと思います。


 

『辯顕密二教論』の全体像

1 顕教と密教

 『辯顕密二教論』は顕教と密教の二教を「辯ずる」つまり分けてその性格を明らかにする論である。空海が唐の都である長安に留学し、青竜寺の恵果阿闍梨から、インド伝来の正系の密教を受法して帰国し、顕密二教の相違を最初に表明したのは、朝廷に対する帰国報告書ともいうべき『御請来目録』であった。

 だがその内容は要点のみでごく簡単なものである。後になって新たに請来した密教の特色を詳しく述べ、それまでに日本に流布していた仏教の各宗の教えに対して、どのような点において密教が優れているかを詳しく論述する意図のもとに著作したのが『辯顕密二教論』(以下、略称『二教論』)である。

 ただ南都(奈良)と北嶺(比叡山)を始め日本の仏教界において、空海が帰国した9世紀初頭に知られていた仏教は、いずれも中国においてその思想研究も重ねられ、宗派もしくは学派としてその存在が認知されていた。ところが密教を基盤とする仏教の流れは、インドはもちろん中国においても宗派として存在せず、9世紀初頭の日本ではまったく知られてはいなかった。

 このような時代背景のもとに、中国より密教という新しい種子を日本にもたらし、その思想的な卓越性と社会的な有効性を、律令国家をはじめ仏教界に認知させ、新しい土地に定着させるためには、移植者にとって想像以上の困難さと、独自の手法が要請されて当然のことであった。

 空海はその生涯に数多くの著述を残しているが、帰国直後に『御請来目録』を朝廷に呈上した後、嵯峨帝の即位した弘仁元(810)年10月以降に、諸種の表、ないし文章を述作している。ただ本格的な著述としては、『二教論』は『広付法伝』とともに初期の代表的な著作と見做されてよい。

  空海の初期の著作のうち、『御請来目録』と『二教論』、および弘仁6(815)年4月に記された『勧縁疏』の三書は、従来の仏教つまり顕教に対し、新たに自らが請来した密教の優位性を鮮明にしているところに特徴がある。しかしこれらの書の中で、顕教に対する密教という語は、『二教論』(本書、23頁)と『勧縁疏』(【定弘】8・173)に、各一か所使われているのみで、大部分は密蔵の語が用いられている。

『二教論』は上下二巻に分かれるが、その内容の主眼は、

 1 法身説法の可否と、

2 果海の說不、つまり覚りの世界の内容を説きうるか否か。さらにテーマとしては、

3 即身成仏が掲げられているが、その内容は極めて簡略で、即身成仏に関しては詳細な論理構成が、この段階ではまだできあがっていなかったと見るべきであろう。

 下巻は法身説法に関する典拠の補足が主で、主要なテーマは上巻に込められていると 見てよい。ただし『二教論』における仏身観の不統一を始めとし、上巻と下巻との間に撰述意図の違いと、時間的な間隔があったのではないかと見る見解(村上保壽「辯顕密二教論の撰述時期とその周辺」『高野山大学論叢』52、10-11頁)がすでに提出されており、筆者もその意見にほぼ賛同する。 (3~5頁)

 書籍

『訳注 弁顕密二教論』松長有慶

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