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Close-up! この一冊

外的なものに左右されない精神の結びつき(シュタイナー『バガヴァッド・ギーターの眼に見えぬ基盤』) 飯塚立人

 

 

 町の本屋さんで、あるいは図書館で、シュタイナーの本がふと目に留まり、興味を引かれ手にとって読みはじめる。そこで次のような言葉に出会う。

 

 われわれの精神の理想はそれ自身が一つの世界なのであり、それ自体でその存在を全うすることができるようなあり方をしているのだ。だから外なる恵みがあるかないか、ということによって、その存在の意味が左右されたりはしない。

(『若きシュタイナーとその時代』カバー折り返しの言葉)

 

 これが決定的な出会いとなり、そこからシュタイナーの、人智学の、長い遍歴の道が続いていく。

 『バガヴァッド・ギーターの眼に見えぬ基盤』を手にとって、その心を惹きつけるタイトル、そして力強い装幀とストレートに眼目を伝えてくれる帯の言葉から、私は以前聞いたことのある、このような出来事を思い浮かべた。この本はシュタイナーの本の中でも、特別、出会いへと導く本であるように思われる。

 このタイトルは、シュタイナーが「バガヴァッド・ギーター」を対象として論じる、いわゆるギーター論であることよりも、むしろ「眼に見えぬ基盤」という場所で、シュタイナーが、そして私たちが、ギーターと出会うということを示唆しているのである。ギーターの眼に見えぬ基盤に、私の眼に見えぬ基盤を通して、結びつくのである。

 結びつくために読む、ということはシュタイナーのすべての講義の特徴でもある。『ヨハネ福音書講義』(春秋社)もそうだし、若い時の著作『ニーチェ』(岩波文庫)もそうである。シュタイナーにとって論じるということは、結びつくことなのである。そしてそれは、ロゴスの学ではなくソフィアの学であるということを、私はシュタイナーを最初に知った、高橋巖氏の『神秘学講義』(1980年)から教わった。だからこそ本書の訳者あとがきで「芸術的な立ち位置」として語られているように、対象や語り方の芸術的形成に注意が向けられる。融合しようと、悪戦苦闘することは、芸術行為なのである。『バガヴァッド・ギーターの眼に見えぬ基盤』は、そのことを一番よく示している。何よりも、バガヴァッド・ギーターが歌うのはアルジュナとクリシュナの出会いであり、その結びつきの眼に見えぬ基盤に、本書は焦点を当てているのである。

 「眼に見えぬ基盤」という言葉は、原書の「オカルト的基盤」を訳す際に、高橋氏が工夫されたものである。現在の英訳では、「エソテリックな基盤」となっている。現代では「オカルト的」というと、外的な現象というイメージが強く、「エソテリック(秘教的)」の方が内的なものというニュアンスがあるが、「眼に見えぬ」は、さらに明確に、外的ではなく内的であることを示しているといえる。私たちの内的な「眼に見えぬ基盤」は、本来、外的なものに「左右されたりはしない」はずである。

 はじめに引用したシュタイナーの言葉の流れで言えば、内的な「眼に見えぬ基盤」は、「存在の意味」でもあるだろう。シュタイナーが存在の意味を一番包括的に語った著書に『神秘学概論』があるが、この本は「バガヴァッド・ギーターの神秘学」と考えてもいいかもしれない。「神秘学」とは、「眼に見えぬ基盤」を通して結びつくことで、存在することの意味を確かめ強める、ソフィアの学なのである。

 実際高橋氏が神秘学をソフィアの学としてはじめて提示された『神秘学序説』(1975年)には、「バガヴァッド・ギーターと現代神秘学1・2」という二つの章が含まれていた。私はそこではじめてギーターについて知ったのだが、シュタイナーの『バガヴァッド・ギーターの眼に見えぬ基盤』と『シュタイナー 根源的霊性論――バガヴァッド・ギーターとパウロの書簡』(春秋社)と結びついた、氏のギーターに関わる現代的な神秘学が語られていた。再読して、その凝縮された内容にあらためて圧倒されたのだが、はじめに紹介したシュタイナーとの出会いの気分にそった、いくつかの文章を、今は入手しにくくなっているその本から紹介したい。

 

 ギーターは私にとって常に慰めの源泉でした。どこにも光を見ることのなかったとき、私はギーターを開いては、くりかえしくりかえし、私の心を正す詩句を見つけたものです。運命の浮沈が私にその痕跡を残さなかったとすれば、それはひとえにギーターの崇高な教えのおかげです。

(ガンジーの言葉)(『神秘学序説』84ページ)

 

 アルジュナによってはじめて開かれた新しい霊我への道は、基本的には外からの光に照らされることを必要としていない。たとえ外の空間が闇につつまれている場合でも、ひたすら自らの内部に暗い焔のような小さな光を点じることで、霊的体験をもつことができる、と教えている。

(同101ページ)

 

 この「ギーター」と「アルジュナ」を、「人智学」と「シュタイナー」に置き換えてもよいだろう。シュタイナーの道―人智学は、本質的にエソテリックなのである。次の言葉は、高橋氏とシュタイナーの神秘学の核心を伝えてくれている。

 

 われわれが自らをサットヴァ(―純質―)的状態におき、その透明な魂が外からの権威の光に照らし出されることによって、霊的体験を持とうとするなら、一見聖人のように欠点をもたず、賢明であり、悪の力から保護されているように見えても、それは社会的観点からのみそう見えるにすぎず、ファウスト第二部の「暗い回廊」でゲーテが描いているように、独りで「母達の国」(霊界)への淋しい、道なき道を歩み始めるや否や、ただちに悪霊と向い合い、悪霊の力に打負かされてしまうであろう。個の絶対性によってヨアキム的な自由と愛を確立するためには、サットヴァからタマス(―翳質―)への深い魂の転落の体験によって、自己の内なる霊我を強めることが必要な道程となる。

(同102-103ページ)

 

 最晩年に、社会的な「一般人智学協会」を設立した後に「秘教講義」を行った、シュタイナーの深い思いのようにも読める。そして、公開された『秘教講義』(春秋社)を今読みはじめた、私たちのことでもある現代人の状況が、次のように語られる。

 

 しかし反面、現代のわれわれが闇の中で確立しようとしている個の絶対性は、アルジュナにとっては最高の努力目標であったとしても、現代ではこの上ない苦悩の原因にもなっている。もっともヨハネ的な作家ドストエフスキーが、晩年の『作家の日記』の中の短篇『おかしな男の夢』の中で典型的に描いているように、個の絶対性は、一切の外的なものに対する救いようのない無関心という形式をとって現れることができるからである。……

 アルジュナがサットヴァ的であり、パウロがラジャス的であるとしたら、この主人公はまったくタマス的状態を生きている。

(同103ページ)

 

 (サットヴァ、ラジャス、タマスは、『バガヴァッド・ギーター』の終盤に出てくる重要な概念であり、その概念の特質を、シュタイナーは第8講、9講で詳しく論じている。高橋氏のまとめの講義でも、「世界存在の、さまざまな状況の中に入って生きる在りよう」を意味している言葉として、詳しく解説されている。)

 

 ここからの高橋氏の、現代の私たちである「おかしな男の夢」の神秘学は圧巻である。そしてその締めくくりで、再び『バガヴァッド・ギーターの眼に見えぬ基盤』へ戻る。

 

 ここでルドルフ・シュタイナーの『バガヴァッド・ギーターのオカルト的基盤』からの一節を引用しておきたい。この文章はまるで「おかしな男の夢」を解釈しているかのように、「私」をめぐる現代の状況を語っているが、同時にそのことを通じてシュタイナー自身の基本的立場をも明確にあらわしている。――

(同110ページ)

 

 ここに『バガヴァッド・ギーターの眼に見えぬ基盤』の、問いの核心が示されている。

 

 けれどもこの分野でも、当時は最高に緊張を強いられる事柄(――自己意識を持つこと――)、こんにちは路上に見出せる事柄があります。そして路上で見出せるというのは、いろいろな意味でこんにちの生活の悲劇なのです。

 こんにちの人びとの魂は、この世を生きるとき、あまりにもしばしば自分に固執していて、外界との結びつきを持てずにいます。だから感情的には孤独な魂になってしまい、タマスでもサットヴァでもラジャスでもないのに、そこから自由になっているのでもないまま絶望して、ただぐるぐる回転し続ける車輪のような状態にあるのです。

 自分の中に閉じこもり、世の中のことがさっぱり分からず、不幸なままで、魂がすべての外的存在から切り離されている人、そのような人たちは、クリシュナがアルジュナやアルジュナの同時代のすべての人たちやその後継者たちのために配慮しなければならなかったあの果実の影の側面をあらわしています。

 アルジュナにとっては最高の努力目標であったはずのものは、こんにちの多くの人にとって、この上ない苦悩の種になってしまいました。それくらい相前後する時代と時代が変ってしまいました。

 ですから、こんにちの私たちはこう言わなければなりません――「われわれはバガヴァッド・ギーターの頃に始まった時代の終りにいる」。そういうことでわれわれは、自分の感情生活にとって非常に大切なことを示しているのです。けれどもそれとともに、次のことをも示しています。――ちょうどバガヴァッド・ギーターの時代に自己意識を求めていた人たちが、アルジュナに語ったクリシュナの言葉を聴くべきであったように、こんにちの人たちは、この自己意識の時代の終りにあって、自分の自己意識を病気になってしまうまでに強めてしまったのです。あらためて魂の救済を求めている人たちは、再びあの三つの外的状態の理解に導いてくれるものに耳を傾けようとしています。では一体、今の時代の何がこの外的な三つの状態を理解させてくれるのでしょうか。    

(『バガヴァッド・ギーターの眼に見えぬ基盤』232-234ページ)

 

 外的なものによって存在の意味が左右されてしまう自分に、自分で腹を立て、傷ついている。それが現代の、シュタイナーが言うアーリマン的な技術と産業と営利主義の社会で育った私たちの、自己意識の在り様なのではないだろうか。だからこそ、外的なことなどに左右されない、「それ自体でその存在を全うする」自己完成の道を、魂の力を強める道を、求めようとするのである。この衝動をシュタイナーは本書でクリシュナ衝動と呼んでいる。私はクリシュナ衝動で、シュタイナーに出会うのである。

 

 どうぞ、クリシュナの教えの根本にあるものに眼を向けて下さい。外にある諸状態の中で生きている自意識をすべての「タット」から、つまりさまざまな生活状況から解放して、自己をより高次の完成へ導いていくのです。もっぱら自己だけを頼りにする、というのがクリシュナの教えの根本です。

(同238-239ページ)

 

 しかし私の内なる第二の人間として生きている、形成力であるクリシュナ衝動と再び出会う前に、傷ついた自己は、自分を満たしてくれるものを、さまざまな外的生活状況から、性急に、直接的に得ようとせざるをえない。自己愛を強める形で、シュタイナーが言うルツィフェル的な衝動に駆られるのである。

 私たちは、生活状況から得られる外的な価値で、なんとか自己愛の欠乏を満たそうとする一面性と、外的に私たちの価値を計り比較してくる生活状況から、自己を閉ざし、内からの衝動で完成を求める一面性との、ふたつの一面性を生きている。しかし、そのようにふたつの一面性の間で自分をこじらせている、個人としての私たちの自己意識は、シュタイナーが言うように、今日では路上で見出せる事柄でもある。だからこんな自分の、どうしようもない自意識にわずらわされることに、うんざりして、飽き飽きすることもあるのである。

 そういう私たちにシュタイナーは、最後に、ふたつの一面性の高次の綜合としてキリスト衝動が生じた、と語るのである。

 

 しかしどんな進化の流れも、一定の緊張を伴っています。人間一人ひとりの成長、成熟を願う気持ちは、何らかの仕方で悲劇的な状況に陥ってしまい、ますます自然の、外界の聖なる部分から疎外されてしまいかねません。

 こんにちの私たちは、さまざまな仕方で、環境からの疎外感という悲劇的な状況を体験させられています。ですから、私たちの中の多くの魂が環境との縁を失って、さまよい歩いています。だからこそ、私たちの時代には、キリスト衝動を理解する必要があります。キリストの路線がイエス(-クリシュナ―)の路線に加わらなければなりません。自己完成への一面的な努力路線が支配的になりすぎたのですから。

 人間がいろいろな面で聖なる環境からまったく離れた在り方を示すようになったのは、私たちの時代になってからのことです。ある方向に向かうと、たちまち緊張させられ、その反対のほうへの憧れが目覚めるので、私たちの時代の多くの魂たちは、現代人が高められた自意識から離れられない、と感じています。ですから逆に外界の聖なる在り方を知りたい、と願うようになりました。そう願う人たちはこんにち、人智学によって開示されたキリスト衝動のことを知りたいと思っています。このキリスト衝動は、一人ひとりの人間の魂の完成を求めるだけでなく、人類全体の完成を求めるのです。このキリスト衝動は、人類全体に関わる衝動なのです。

(同243-244ページ)

 

 この言葉を読んで、私は高橋先生がよく話される、ペットボトルのことを思い出した。

 

 私にとっては人智学という思想は、モノと向き合った時に、モノの中に意志を感じとる方法、みたいな感じ方があって、人智学というのは、モノとの縁のつけ方なのですね。……

 こういうペットボトルが、今一生懸命在ろうとして存在していて、このペットボトル君が、「僕はここにこうやって存在してるんだよ。見て!」と言っている、と感じると人智学なのです。このペットボトルがここにあるのだ、ただペットボトルだ、というふうに概念化して見ている分には、何の縁もつきませんよね。この世と縁をつける方法が、人智学なのです。……

 空を見ると、真っ青な青空に雲が浮かんでいる時、その雲がただ浮かんでいる、と思って見ていれば縁がつかないのですけれども、雲が一生懸命浮かんでいる、と思うと、けなげなのですよね。自分の仲間だ、とどこかで思いますよね。

 この前、満月の頃に、ちょうど晴れていたので、月を眺めていたのですけれども、そしたら月が自分に語りかけてくれる、という感じがあったのです。何て語りかけていたかというと、「そうだよ。それでいいんだよ。」と言っているのですね。そうだよ、それでいいんだよ、と言って、月が自分の方を向いてくれている、というのですけれども、月は自分の方を向いているわけではなくて、世界中、月が見えるいたる所に光を投げかけているのですけれども、不思議なことに私にとっては、一対一の、月と自分との関係なのです。……

 だから、……人智学という思想は、生きている間は限りなくこの世的になり続けるのですね。徹底的にこの世の人生を、しかも縁をつけながら生きていく。それがシュタイナーの人生観なのです。……

 だから、どんなめちゃくちゃな人生でも、一生懸命この世の人生を生きていれば、それはシュタイナーにとっては、あるべき人生なのです。

(講演『社会の中の私 私の中の社会』2019年12月22日)

 

 私たちは一人ひとりの魂であるが、人類でもある。自己の完成・魂のインテグリティを志向するクリシュナ衝動が男性的なものであるなら、環境の聖化・人類のケアを志向するキリスト衝動は女性的なものなのかもしれない。環境を唯物化し、人類を計量化し、存在の意味を外から左右してくるものに対抗する、私の意識のアンダーグラウンドな眼に見えぬ基盤からのカウンター衝動が、クリシュナ衝動でありキリスト衝動である。ベーシックインカムへの社会意志も、そこから立ち現れてくるのであろう。

 現代の私たちが自己意識のそういう眼に見えぬ基盤に参入していく道程が、丁寧に描かれていることも、本書の特色である。第二章から私たちが参入の過程を歩むにしたがい、アルジュナとクリシュナの出会いの、眼に見えぬ基盤が開示されてくるのである。その第一歩は、魂が震撼させられる体験である。

 

 一般に私たちは、魂を深く震撼させられることなしには、霊界に参入することはないのです。……オカルト的世界(―眼に見えぬ基盤―)に関わるようになると、一瞬にしてさまざまな感情が集中し、魂に浸透し、魂を烈しく揺さぶります。ですから、その人は心を震撼させられるのです。恐怖、不安、茫然自失、恐れおののきを体験するのです。

 このことは、オカルト的進歩の出発点としての霊界参入に属することです。ですから、修行によって霊界へ参入しようとする人は、その準備として、今述べた心の震撼を、魂に必要な体験として生き抜かなければならないのです。とはいえ、この体験は自分の身体に、自分の健康に悪影響を与えてはなりません。魂は体と結びついているとしても、体が共に震撼させられてはならないのです。

 本質的に大切なのは、外的な身体生活においては、動揺しないことです。魂の震撼を身体上の冷静さで耐えるのです。

(同35-36ページ)

 

 否定的な人生の出来事、例えば、失恋や離婚にペットロス、進学の失敗やブラック職場に不本意な非正規労働、失職や倒産にメンタル不調、認知症や癌にDV、等々も、心を震撼させられる体験である。それらの体験は、私たちの身体にまで必ず動揺が及ぶ。それが現代における私たちの、いわばマイナスからの第一歩、霊的にさらに深い第一歩なのではないかと思う。そして次に、言葉(概念・理念)の孤独な体験、瞑想がくるのである。

 

 概念と理念をもって、たったひとりでいなければなりません。そうすればいつか、こう感じることができるに違いありません。――「お前はこういう概念や理念によって、宇宙の秘密、宇宙の経過の一端をつかみとっているのだ。」……

 そのときにはさらに、次のような感情もついてきます。一方では宇宙に拡げられた理念界の壮大さを体験しますが、他方で自分の概念、理念と一緒にいようとしますと、この上ない厳しさで、自分が空間と時間から切り離されて、孤独になってしまうのです。ぞっとするような冷たさを体験します。今、理念界が一点に、この孤独の一点に収斂してしまうのです。

 「今、お前は、理念界と共に、孤独になっている」――そういう体験をします。この体験をすることが大切なのです。……そのとき、存在における一切の疑惑が、無限に大きくなるのです。

 理念界の中でこの体験をし、存在におけるすべての疑惑がきびしく魂にのしかかってくるとき、そのとき初めて、自分に理念を与えてくれたのが、物質界の無限の空間、無限の時間なのではないと理解できるだけ、魂が成熟したと言えるのです。

 今はじめて、きびしい疑惑の末に、霊的諸領域が開示されます。そして疑惑がどんなに大切なものだったのかを知るのです。なぜならそれまでは、諸理念が時間と空間から魂の中に入ってきたと思い込んでいたのですから。

 しかし今は、何が感じられるのでしょうか。理念界が霊界に由来するのを体験したあとで、その理念界をどう感じとるのでしょうか。

 今、人は初めて霊感を感じとります。以前は自分の周囲を、無限に荒涼とした土地が奈落のように取り巻いていたと思っていたのに、今、奈落から聳え立つ岩石の上に立つ自分を感じ始めるのです。そして、次のようにその自分を感じます――「今、お前は理念界と結びついている。感覚界ではなく、霊界がお前を理念界と結びつけてくれたのだ。」

(同51-53ページ)

 

 人生の基盤が崩れ去り、魂の震撼を体験したからこそ、その状況の中で切実な思いで出会った言葉に、集中し、瞑想することで、「外なる恵みがあるかないか、ということによって、存在の意味が左右されたりはしない」、存在の「眼に見えぬ基盤」への道を歩もうとするのである。

 

 この本からは、共に歩もう、という励ましの声が聞こえてくるようである。神智学協会と離れて人智学協会が形成された後で、北欧やロシアの大切な仲間たちと再会し長い連続講義の機会を得たことで、人智学協会創立時に行った、『シュタイナー 根源的霊性論――バガヴァッド・ギーターとパウロの書簡』の講義のテーマを掘り下げ、現代人である私たちが、どこから来て、どこへ行くのか、その求道を共にしたい、とシュタイナーは願ったのであろう。付録の高橋先生の丁寧な解説と巻末のノートからも、共に読み、共に歩もう、という声が聞こえてくる。

 編集の高梨公明さんから、西村朗作曲・台本の室内オペラ《バガヴァッド・ギーター~神の歌》に感動されたお話しを電車の中でお聞きしたころ、高橋先生も、ギーターに関わるシュタイナーの二冊の翻訳と講義をはじめようと思いつかれた。一冊目で、先生の中に、悪戦苦闘というテーマが生まれ、大部の『秘教講義』全四巻を経て、二冊目の本書に到る過程で、状況というテーマが生まれたことを、高梨さんと共に体験することができた。この本から聞こえてくるのは、悪戦苦闘して、眼に見えぬ基盤の精神の理想と結びついて、状況を生きる、シュタイナーの人生芸術からの励ましの声である。

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著者略歴

  1. 飯塚立人

    京都、宇治に生まれる。高橋巖著『神秘学講義』に出会い、シュタイナーを知る。京都教育大学で教育思想を学ぶ。1984年より高橋巖人智学講座を受講。1989年、渡米し、スタンフォード大学教育大学院博士課程でケアリングの倫理を学ぶ。帰国後、地元の短大で講師を務めた。1991年より、日本人智学協会会員。ケアリング人智学・シュタイナー研究。編著に『シュタイナーの言葉』(春秋社)。

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