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『社会主義・経済計算・起業家精神』を読む[1] 主観主義による社会主義批判 岩倉竜也

 

 本書『社会主義・経済計算・起業家精神』の著者であるヘスース・ウエルタ・デ・ソトは、本書で社会主義を徹底的に批判している。ソトが詳述している1920年に始まったミーゼスとハイエク対社会主義者、特にオスカー・ランゲとの社会主義計画経済論争は、社会主義体制は存続不可能だということで既に決着がついている。しかしながら不思議なことに、現在では経済学者の間では、そのような論争など無かったことになっているか、逆に社会主義者側が論争に勝利したと思われているという。

 

 これは論争の一方にオーストリア経済学者しか参加していなかったことも一因ではないだろうか。当時の他の学派の経済学者は論争に加わることさえできなかった。その上に、オーストリア学派による社会主義批判の一部は、彼らに対しても当てはまってしまうからかもしれない。

 

 オーストリア学派と他の学派の経済学の大きな違いは方法論にある。他の学派は数学や方程式、統計学などを用いる。そして物理科学のように仮説を立て、実際にデータを集めて仮説が正しいことを検証する。仮説の正しさが検証できれば、それが経済法則だということになる。しかしこの場合、後になって法則を覆すデータが出現する可能性は否定できない。そもそも人間の行為である経済活動を、数量や金額その他の数値で表現することはできないから、物理科学のような帰納法では経済法則を見付けることはできないのだ。

 

 対照的に、オーストリア経済学では演繹法を用いる。「人間は目的を持って行為する」。これは誰にも否定できない公理である。この公理から演繹し、限界効用逓減の法則や時間選好の法則などを補助的に採用して、経済法則を導き出すのである。人間は目的を達成するために手段を選択する。どの手段を選択するかは行為者の主観によって決まる。

 

 経済学は人間行為を研究する学問であるというのが、オーストリア経済学である。その基礎をなす極めて重要な考えが主観的価値理論だ。物の価値はそれぞれの人の主観によって決まるということである。物の価値はそれを生産するのに要した費用や、労働時間によって客観的に決まるものではない。もちろん、カール・マルクスは労働価値理論を採用している。マルクスの大著『資本論』は商品の分析から始まっていて、どの商品においてもその価値を決める共通の要素は労働であるから、物の価値は労働によって決まるとしている。しかしこれは意図的な詐欺である。ベーム゠バヴェルクによると、天然資源の価値は労働で決まらないのは明らかであるのに、マルクスが最初から分析対象を商品に限定し、「労働生産物でない交換されるねうちのある財を除外する、ということは、この事情のもとにおいては、方法上のゆるすべからざる死罪である」と言っている(ベーム゠バヴェルク、木本幸造訳『マルクス体系の終結』未来社、p.123)。

 

 価値が主観によって決まることは、例えば、同じ商品に対してオークションで高い価格を付ける人もいれば、見向きもしない人もいることからも明らかだろう。人はなぜ交換をするのか。交換をするそれぞれの関係者が、交換による利益を期待するからである。つまり両者が、自分が相手に渡す物よりも相手から受け取る物に価値があると評価するから交換が行われるのだ。そして交換をする両者が得をするのである。マルクスが言うような等価交換は起こらない。価値が同じならわざわざ交換する必要など無いからである。もちろん主観による評価を測定して数値(基数)で表すことは不可能だし、そのような単位は存在しない。人間行為、即ち経済活動の根本である交換が数値で表せないなら、経済学の体系を数値や計算式で正しく表せるわけがない。

 

 本書でソトは主観主義を一貫して適用し、社会主義を「人間行為、あるいは起業家精神の自由な実践を制度的に攻撃するすべてのシステム」(『社会主義・経済計算・起業家精神』p.8)として定義している。この定義は私有財産制の廃止や生産手段の社会的所有を特徴とするというような一般の定義とは大きく異なる。しかし、こう定義することで、社会主義が今でも、そして資本主義社会においても存続していることを示すことができる。さらに、起業家精神が社会を維持・発展させるのに極めて重要であるのに、社会主義がそれを損ねてしまうのであるから、社会主義の有害さがより明確になる。

 

 そしてソトは起業家精神の重要性を詳述する。一般的に起業家精神とは、アントレプレナーシップとも呼ばれ、革新的な考えを元にしてリスクを恐れずに起業する人だと考えられている。もちろんその通りだが、実は起業家精神は人間行為である。誰にとっても未来は不確実であり、うまくいかないかもしれないというリスクを負って、未来の目的を達成しようとして行為するからである。そしてそれぞれの個人が主観的に重要だと考える知識を持ち、他の人に働きかけ、協調・交換により分業が広まるとともに、新たな知識が生み出され、世の中が発展して豊かになっていくのである。

 

 要は、起業家精神により社会が進歩するのだといえる。逆に、起業家精神の働きを妨げる政府の行為は社会を衰退させる。社会主義国における当局者の指令や強制による計画経済がうまくいかないのはもちろんのこと、資本主義国の政府による経済活動の規制や禁止が有害であり、有益と思われる政策でさえ本来の目的とは正反対の結果をもたらす理由はここにあるのだろう。また、起業家精神が進歩の源であるなら、人口の増加が文明の進歩の必要条件であるという結論が得られる。昨今の日本では少子化と人口減少が問題になっているが、生産の機械化・自動化や効率化で済む話ではなかったのだ。

 

 次に、社会主義計画経済論争の話に進もう。ミーゼスの主張の要点はこうだ。生産手段の私有なしに効率的に資源を割り当てることはできない。生産手段が私有されていないため、それらが市場で売買されることもないので、需要と供給によって決まる価格が付いていない。この状態でどうやって経済計算を行うのか。不可能である。よって、資源の割り当てが非効率になり無駄が増える。そのような社会は衰退するだけである。

 

 ミーゼスに続いて論争に加わったのがハイエクである。ハイエクは元々社会主義者であったが、ミーゼスの著書『社会主義』を読んで自由主義者に転向したのだ。ハイエクはミーゼスとは異なり、計画経済では中央当局者が分散した知識を集めることができないから、経済計算は不可能であると主張した。これに対して、同じオーストリア学派のマレー・ロスバードとハンス゠ヘルマン・ホッペは、知識の問題ではなく財産の問題である(ミーゼスが正しい)としてハイエクを批判している。しかしながら、ソトによるとこの批判は的外れである。ミーゼスは実際に知識の分散についても言及しているからだ。ミーゼスとハイエクの違いは、財産か知識のどちらをより強調しているかの違いにすぎないのだろう。

 

 さて、ソ連が崩壊したのは1991年である。それから30年以上も経った今、社会主義を批判する本を読む必要があるのだろうか。ソ連など社会主義国の酷さを知らない世代が増えているからこそ、読む必要がある。ミーゼスは社会主義を妬みの産物だと言っている。社会主義が妬みという人間の本性に起因しているのであれば、いつ復活してもおかしくない。それを阻止しないといけないのだ。また、資本主義と社会主義の間に明確な境界はない。資本主義国だからといって、社会主義の脅威が存在しないとは言えない。現在の先進諸国の混合経済体制は非常に不安定な体制であり、政府の干渉の強さに応じて資本主義と社会主義の間で常に揺れ動いている。

 

 ミーゼスは『社会主義』で、社会主義者がその目標を達成する方法を挙げている。労働法、強制的な社会保険、労働組合、失業保険、国有化、課税、インフレーションだ。ここではそれぞれを詳述できないが、特に日本では社会主義化の危険が既に存在しているのである。

 

 近年では、コンピュータ技術が高度に発展し、人工知能、分散コンピューティング、ビッグデータなどにより、社会主義経済計算が可能であるとか、人間はもはや働く必要がなくなるといったことがまことしやかに語られている。しかしこれもまた、過去の計画経済論争で言われていたコンピュータの使用と同じで、たとえ処理が高速化・分散化して膨大なデータが扱えるようになったとしても、人間の知識の多くは暗黙知でありデータ化などできない。人間の起業家精神の役割を考えれば、人間が働かなくて済むという世界などありえない。

 

 さらに、社会主義社会が存続できないという議論は、企業の巨大化には限界があるという事にも当てはまる。企業が垂直提携して巨大化すると、中間生産物は市場を介さず市場価格が存在しなくなるからである。自社内における中間生産物の生産に起業家精神が働く余地は乏しい。

 

 オーストリア経済学者のミーゼスは、ロシア革命の3年後の1920年という早い時期に、社会主義社会の存続が不可能な事を論証した。同様に、1929年の世界恐慌の発生を予測したのもオーストリア学派であった。ソトの著書『通貨・銀行信用・経済循環』(蔵研也訳、春秋社)には、1928年にハイエクがアメリカの信用拡大政策が恐慌を引き起こすと批判した事が書かれている(p.300)。オーストリア学派の貨幣理論・景気循環理論と合致した結果が生じたのだ。対照的にケインズは同年に、暴落はどこからやってくるのかと言い、全く意に介していなかった(エドワード・チャンセラー、松本剛史訳『金利』日本経済新聞出版、p.163)。同じことが2008年のリーマンショックにも当てはまり、発生を予測していたのはオーストリア学派であった。

 

 このような事実を踏まえると、ケインジアンでも新古典派でもなく、人間行為に基礎を置くオーストリア学派経済学がもっと注目されるべきではないだろうか。日本では既にミーゼスの『ヒューマン・アクション』(村田稔雄訳、春秋社)、ハイエクの『隷属への道』をはじめとする全集(春秋社)、そして本書を含むソトの著作などが翻訳・出版されている。本書の訳者・蔵研也の著書『18歳から考える経済と社会の見方』によると、マルクス、ケインズ、マネタリスト、オーストリア学派の4つの経済思想の中で最も政府の干渉領域が小さく、最も自由の領域が大きいのがオーストリア学派である。自由への道は開かれている。あとは諸個人の判断による。

 

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著者略歴

  1. 岩倉竜也

    1962年、滋賀県近江八幡市生まれ。1985年、滋賀大学経済学部卒業。システムエンジニアとして情報システムの開発に従事し、現在に至る。1994年、システム監査技術者試験に合格。2013年以降、オーストリア経済学(ミーゼス、ロスバード、ホッペ、等)の著書の翻訳・出版を始める。

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