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【試し読み】般若経と菩薩

大乗経典を代表する「般若経」はどのように生まれ展開したのか、そこで説かれる「般若」とは何か。仏教の最重要思想である「般若」と「般若経」を徹底解明した『般若経の思想』(渡辺章悟著)から、大乗仏教徒が悟りに至る智慧(般若波羅蜜)をめぐって試行錯誤する歴史が垣間見えてくる。

 


 

(4)一切智から三智へ

 

[1]三智の定義

梵本『二万五千頌般若』第5章には、三智を主題にする節がある。漢訳では『大品』「三慧品」第七〇品(T8, 375bc)に相当する。そこで三智について次のように定義している。

 

〔スブーティ〕「それらを如来がお説きになっていますが、これら〝三つの一切智〟にはどのような区別があるのでしょうか?」

〔世尊〕「一切相智(sarvākārajñatā)は如来・阿羅漢・正等覚者のものであり、道智(mārgajñatā)は菩薩・摩訶薩たちのものであり、一切智(sarvajñatā)はすべての声聞・独覚のものである」。 (Kimura [1992: 124-125.18-24])

 

以下、世尊は順次に三智を定義してゆくが、それを纏めると以下のようになる。

 

 ①一切相智

形相(ākāra)、象徴(liṅga)、特性(nimitta)に限り、諸法は形相、象徴、特性によって説示されるが、それらの形相、象徴、特性は如来によって覚知される。その故に、一切相智は如来・阿羅漢・正等覚者のものといわれるのである。

②道智

一切の〔実践〕道(sarva-mārga)は、菩薩摩訶薩によって生まれるのではない。一切の〔実践〕道は次のように知られるべきである。一つは声聞の道であり、独覚の道であり、そして菩提への道(bodhi-mārga)、それらの道が成満されるべきなのである。それら[三つの道]によって道の所作がなされるべきであり、これ〔菩薩摩訶薩〕によって、真実の極みが究尽されるべきなのではない。なぜ菩薩摩訶薩によって真実の極みが究尽されないかというと、本願を満たさずして、衆生を教化せずして、仏国土を浄化せずして、かの菩薩摩訶薩により、真実の極みが究尽されるべきではないからである。その故に、菩薩摩訶薩たちの道智と言われるのである。

③一切智

まさにある限りのすべてとは、内外に属するもののすべてであり、それらはすべての声聞・独覚たちによって了知されているのであるが(jñatā)、一切の道(mārga)〔知〕や一切の形相(ākāra)〔知〕によって〔了知されるの〕ではない。

 

このように、『二万五千頌般若』では三智をそれぞれ形相(ākāra相)、道(mārga)、知(jñatā)という概念に対応させながら、①一切相智は如来・阿羅漢・正等覚者、②道智は菩薩・摩訶薩、③一切智は声聞・独覚に結びつけて説明する。このように三智は三乗に対応して説かれているのであり、三乗思想を前提とするのである。また、ここで重要なのは三智を三つの一切智と称することと、一切の〔存在に通じている〕道智という概念を提示していることであろう。

一方、漢訳ではこの箇所はかなり異なっている。たとえば羅什訳『大品般若』「三慧品第七〇」には、一切智、道種智、一切種智という三智が述べられるが、それによれば次のように三智の順序が異なっている。

 

①一切智

声聞や縁覚という二乗の智で、十二処などの一切法を知る智。

② 道種智(玄奘訳:道相智)

菩薩の智で、一切の道に通暁する。菩薩はこの智をもって三乗の道に通暁し、衆生を度する。

③ 一切種智(玄奘訳:一切相智)

諸仏の智で、その対象は一相、すなわち一切諸法が寂滅する相である。仏はこの平等相の立場から、諸法の行類・相貌・名字の差別相を如実に知る。

 

[2]三つの一切智

上に引用した『二万五千頌般若』の「これら三つの一切智には区別があるのでしょうか」というスブーティの問いは、三智がもともと一切智であったことを示すものである。ただし、この箇所の『大品般若経』(T8, 375b)では、一切智(薩婆若)・道種智・一切種智という三つの智を区分しながら、「この三種の智は何か差別あらん」とするのみであり、三智を纏める特別な語は見られない。これに対して玄奘訳『大般若経・第二会』(T7, 337b)では、「〝一切智智〟に略して三種あり。謂く、一切智・道相智・一切相智なり」とし、三智を総括するものとして一切智智(sarvajña-jñāna)を別に立てる。ただし、この一切智者の智(一切智智)は、三智の成立後に発達した語であり、三智を総称する一切智と区別するために要請された概念であろう。

なぜなら、大品系のすべての訳に一切智智、或いはその相当語を見いだしえないからである。拡大般若全体で見ても、一切智智は玄奘訳『大般若経』以外では、最も訳出の遅い小品系の施護訳(985年訳)『仏母出生』(T8, No.228)に多く現れるのみである。したがって、一切智智は三智が確立した後の仏智を示す用語であって、その漢訳の状況が、この箇所に見られる梵本『二万五千頌般若』には対応しない所以と考えられる。

『八千頌般若』には三乗思想が発達しておらず、三智はみられなかった。しかし、前述したように、『一万八千頌般若』の智慧の概念を継承しながら発展した『二万五千頌般若』においても三智の教説は、完全に整備できているとは言えない。特に以下のような一切智の規定にそれが見られる。

 

スブーティが申し上げた。「世尊よ、これらは一切相智性、道智性、一切智性であり、〈これら三つの一切智性〉の中で(āsāṃ tisṛṇāṃ sarvajñatānāṃ)、煩悩を断つのに、この不完全な断滅、この完全な断滅といった多様性があるのでしょうか」。(Kimura [1992: 126.7-9])

 

ここで「これらは一切相智性、道智性、一切智性であり、これら三つの一切智〔性〕」と言明されているように、一切智には、三智に対する総括的な呼称と、それの分化である三智の第三という、広略二つの概念があることが明らかとなる。

この二つの一切智があることは般若経の形成過程の中で生まれた一切智の発展に起因するものである。元々はブッダの智である一切智しか説いていなかった伝統的仏教とそれを受け継いだ初期般若経が、三智とそれに対応する修行道が体系化されるに及んで発生した二つの基準であった。

 

[3]三智と三乗

 三智は「三つの一切智」といわれるように、大品系諸本では明確に区別されている。その一切智は狭義としては、菩薩以前の修行者(声聞)・独覚の智慧であり、広義には三智を含む総括的な智慧として用いられていることがわかった。それは『八千頌般若』から『二万五千頌般若』にかけて菩薩思想が進展し、三乗思想として確立してゆく状況に従って、智慧の思想も展開したという事情を反映しているものである。

また、道智も声聞、独覚、菩薩・仏という、いわゆる三乗の領域を対象とする多義性が見られた。つまり、三乗すべての道が菩薩の実践の道の対象となるのである。先の『二万五千頌般若』で検討したように、道智が「菩薩摩訶薩の道智」であるといいながら、「一切の〔実践〕道は、菩薩摩訶薩によって生まれるのではない。一切の〔実践〕道は、声聞の道であり、独覚の道と知られるべきである。そして、それら菩提への道(bodhi-mārga)こそが、成満されるべき道なのである」(Kimura[1992: 125.1-3])とする。このような教説にこそ、菩薩思想を中核にしながら発達した三智の性格を見ることができる。

このような知がどのように考えられたのかというと、本経ではすべて般若波羅蜜を根源として展開することが基本となる。そして般若波羅蜜が仏智である一切智と不可分であると見なされるのである。このことをまとめると以下のようになるだろう。

一切智性は大乗の菩薩運動によって、従来の修行体系の上に菩薩が位置づけられ、その菩薩に帰せられるべき新たな智慧の解釈が求められ、こうして三智の思想が生まれた。しかし、この智慧はもともとブッダの一切智であるため、一切智に三智の総称(広義)と、別称(狭義)の二つの意義をもって使われることになる。

また、菩薩の道[種]智も、仏の智慧である一切相智に至る道を知るはたらきと、衆生を救済するために声聞や独覚の道も知ることが必要である。そこで三乗の道を知る智が、すべて菩薩の道智に含まれることにもなる。このことは、声聞、独覚、菩薩・仏という三乗が、すべて菩薩であり、三乗の菩薩と呼ぶ般若経の表現にみられるものと同じ論理である。このことが、大乗仏教が菩薩運動であるという所以なのである。

 なお、道智は『八千頌般若』には用いられていない語で、『一万八千頌般若』、『二万五千頌般若』などの拡大された般若経や、弥勒の『現観荘厳論』、及びハリバドラ(8世紀頃)の註釈(『現観荘厳光明』)等において認められるようになることから、般若経が増広されるにつれて発達した概念といえる。このことも般若思想史における菩薩道の展開を明らかにする根拠となるであろう。

 

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著者略歴

  1. 渡辺章悟

    1953年生まれ。東洋大学大学院博士課程修了。東洋大学教授。博士(文学)。専門は般若経研究。『般若心経―テクスト・思想・文化』(大法輪閣)、『大般若と理趣分のすべて』(北辰堂)、『金剛般若経の研究』(山喜房佛書林)など。

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