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社会を癒す「私」になる――マインドフルネスとポリヴェーガル理論が拓くケアのまなざし 井上ウィマラ × 花丘ちぐさ

ポリヴェーガル理論で考える安全と仲間(前編)【花丘ちぐさ】

本記事は、Teachers主催「マインドフルネス・カレッジ」オンライン講座における井上ウィマラ氏 × 花丘ちぐさ氏の対談「その生きづらさの正体は」「トラウマの世代間伝搬を考える ~ ポリヴェーガル理論 × マインドフルネス」をもとに加筆修正・再構成したものです。

 

今日はこのような形で皆さまにお話しできること、そして井上ウィマラ先生ともお話しできることを楽しみにしておりました。

まず「ポリヴェーガル理論」についてお話しします。聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれませんし、今日初めて聞く方もいらっしゃるかと思います。ポリヴェーガル理論を通じて、私たちの幸せや健康がどのように関連しているのかを、専門的な解剖学の話には深入りせず、わかりやすくお伝えしたいと思います。

 

トラウマ療法、ポリヴェーガル理論との出会い 

 

私のバックグラウンドについて簡単にお話ししますと、大学では文学を専攻し、その後アメリカで文化人類学を学び、帰国後は英語の同時通訳者として、主に科学や医学の分野で仕事をしていました。しかし同時に、頻繁に片頭痛やめまい、過敏性腸症候群に悩まされてもいました。

30年前はそのような症状に対する理解がまだ浅く、神経質なだけだろうと思われていました。失神するほどの激しい腹痛に見舞われて内科を受診しても、「何か悪いものでも食べて、当たったのでしょう」とか、「あなたのように神経質な人は、コーヒーなどの刺激物を取らないように」といったアドバイスとともに、お腹が痛ければ整腸剤、頭が痛ければ鎮痛剤が処方されました。

そのうち、どのような症状で受診しても、入眠導入剤や抗不安薬、精神安定剤といった同じ薬が処方されていることに気づきました。医師からは何も説明されなかったのですが、もしかすると自分はメンタルに問題があるのではないかと思いいたりました。

はじめは、メンタルに問題を抱えているということを受け入れることができず葛藤しましたが、次第に心の世界に強く興味を持つようになりました。

 

ポリヴェーガル理論が注目される社会的背景

 

ポリヴェーガル理論がなぜ注目されるのかという背景には、私たちを取り巻く社会のさまざまな問題があります。貧困、社会的格差、労働問題、依存症、戦争や犯罪といった社会全体の問題もありますし、ハラスメントやパワハラ、モラハラ、セクハラなど、対人関係の問題も増えています。これらの問題は私たちの心身に慢性的な緊張やストレスをもたらしますが、個人の努力だけで対処できるものではなく、社会の構造的な問題として存在しているのです。

また、現代特有の問題として、インターネットやSNSを通じたトラブルも増加しています。特に現代の子どもたちは、こうした複雑な状況に直面し、大きなストレスを抱えています。たとえば、インターネットに流出してしまった画像は、デジタルタトゥーといわれて、消すことが困難です。インターネット関連の犯罪に巻き込まれる危険もあります。もちろん、子どもだけに限りません。私たちが何気なく検索した内容であっても、さまざまな存在がその人の興味の傾向性を追跡しています。自分一人でネットを見ているつもりでも、世界中から見られているといっても過言ではありません。インターネットに接続している限り、私たちは見えない網の中にいるといってもよいでしょう。

このような社会状況のなかで、自分でも気づかないうちにストレスを抱えた状況が続くと、イライラが募ったり、不安な気持ちになったりすることが多くなります。

そして、往々にして、「よくなりたい」「変わりたい」と思っているにもかかわらず、結果として閉じこもってしまったり、人や社会に背を向けてしまったりすることも少なくありません。改善を求めながらも、引き込もりがちになってしまう傾向が見られます。

 

攻撃や引きこもりには理由がある

 

この一見矛盾した状態の背景には、基本的に「安全感の欠如」があるのです。

こうした現代社会が抱えるさまざまな問題に対応する新たな視点を提供してくれるのが、ポリヴェーガル理論です。

ポリヴェーガル理論では、私たちの行動や感情は、そのとき神経系が「安全か危険か」をどのように判断しているかに大きく影響を受けると考えます。神経系が「危険」を察知すると、身体は生き延びるための防衛反応をとります。

つまり、追い詰められて緊張が高まると、身体もつねに張りつめた状態になります。少しの刺激にも過敏に反応するなど、防衛反応が働いてしまうのです。安全を感じられない状態が続くと、シャットダウンに陥って、引きこもることもあれば、攻撃的な状態に転じることもあります。

あるいは、強い緊張や不安が長引くと、ぼんやりした状態や、感覚が鈍くなったりすることもあります。こうした、ぼんやりと麻痺したような不快感から抜け出そうとして、自分から刺激を与えて動き出そうとすることがあります。これは、過剰に運動したり、働きすぎたり、あるいは自傷行為に至ることも含みます。

本来、私たちの神経系は、状況に応じて柔軟に反応できるようにできています。安全なときには人とつながり、危険が迫れば闘うか逃げるかを選択して身を守ります。そして、危険が去れば、再び人と関わる状態へと戻ることができます。しかし、傷ついた状態が続けば、この切り替えがうまく働かなくなり、たとえ安全な状況であっても警戒し続けてしまったり、他者とのつながりを保つことが難しくなってしまいます。

私たちトラウマセラピストとしての活動の基本は、「問題行動がある。だからあなたは病気である」と考えるのではなく、「問題行動そのものが、解決を求めている動きである」という視点を持つことです。行動を病理化するのではなく、異常な事態に対する、健康な神経による健全な反応として捉え、その理由や原因を明らかにし、安全感を回復していくことで、問題を根本から解決し、神経系の極端な反応を避け、引きこもりや暴力といった行動を起こさないようにすることを目指して取り組んでいます。

そのために、どうすれば閉ざされた心に触れ、腹側迷走神経系優位な社会交流の状態になれるのかを考えます。

  

身体を神経系として理解する

 

どうすれば閉ざされた心に触れ、安全を感じるようになることができるかを考えていくうえで、私たち自身を、神経系としての存在として捉えてみたいと思います。私たちの身体は、あらゆる臓器や部位に網の目のように神経系が張り巡らされています。「私」といったとき、身体全体が神経によってつながっていることを意識して自分自身を眺めてみていただくとよいと思います。

『その生きづらさ、発達性トラウマ?』(花丘ちぐさ著/春秋社)より

また、最近の科学では、単に「あなたの考え方が偏っているから、それを直しましょう」とか、「心の弱さを克服しましょう」といったアプローチではなく、心理・神経・内分泌を全体として捉えようとする動きが広がっています。たとえば、強迫性障害を持つ人が頻回に手を洗っていたとします。このときに、「手を洗う必要はないですよ、やめましょう」と認知的な視点から指摘しても、やめることはできません。なぜなら、その行動は単なる考え方の問題ではなく、不安やストレスなども影響している可能性があるからです。そのため、単に心だけでなく、神経系やホルモン、内分泌物質がどのように関わっているのか、全体から理解する必要があるのです。この分野は「Psycho-neuro-endocrinology(心理神経内分泌学)」と呼ばれ、数多くの論文が出ており、非常に注目が高まっています。

 

ポリヴェーガル理論とは何か

 

神経系として私たちの身体全体を考える上で、非常に大切な情報を提供してくれるのがポリヴェーガル理論です。この理論を提唱したのがポージェス博士(S. W. Porges, Ph.D.)です。ポージェス博士は、1994年にポリヴェーガル理論を発表しました。名誉教授や学会の会長などを歴任し、査読を経た論文は400本以上にのぼります。ラストオーサーという立場での論文も多いと思いますが、いずれにせよ、この数は研究者として非常に注目に値する実績です。

博士自身は「論文の数よりも、その引用回数が重要だ」と話してくれました。博士の論文は3万件以上引用され、さまざまな分野の多くの科学者にインスピレーションを与えています。この引用数を博士ご自身も誇りに思っていると話していました。ポリヴェーガル理論はまだ新しい理論で、これからも検証され続けるべきものですが、その仮説を支持する論文はすでに数多く発表されており、有効性を裏付けるエビデンスが着実に蓄積されています。こうした研究の広がりは、ポリヴェーガル理論の科学的な信頼性の高さを示唆しています。

 

ポリヴェーガル理論は、私たちの進化の過程に基づいた理論です。古くは、5億年前の無顎魚類と呼ばれる古代の魚の段階で、背側迷走神経という神経ができました。その後、硬い骨を持つ魚(甲骨魚)から交感神経が発達し、哺乳類に至って腹側迷走神経が形成されました。このように、神経系は進化の過程で古いものが新しい仕組みに置き換わるのではなく、古い層の上に新しい層が重ねられる形で発達していきました。

この進化の過程を建物でたとえると、古い1階がなくなってしまうのではなく、1階の上に2階が建て増しされ、その2階の上にさらに3階が増築される、といった形で、古い層も構造上は存在し続けているのです。

 

 

私たちは「万物の霊長」などと自負していますが、私たちの中には、5億年前にさかのぼる神経系も脈々と生き続けているのです。ポージェス博士は、この進化の過程に着目して神経系の働きを考察し、哺乳類には複数の迷走神経があると提唱しました。これが、「多重迷走神経(poly-vagal)理論」と呼ばれるものです。

 

自律神経系の3つの要素

 

自律神経系には3つの要素があります。まず1つ目は、進化の過程で最も古い、「背側迷走神経系」という無顎魚類に見られる神経系で、安全が確保されているときは、消化、休息をうながし、生物はゆったりと活動しています。危機に瀕すると「凍りつき反応」を引き起こします。心拍や呼吸を低下させ、身体活動を最小限に抑えることで、生命の危機を乗り越えるための反応です。

次に、進化の過程で2番目に古く、硬骨魚の時代に発達したのが交感神経です。交感神経系は、安全が確保されている場では、エサのある場所を探したり、エサをとったり、繁殖したり、生命活動を維持、存続するための行動を活発に行います。危機に直面すると「戦うか逃げるか」の反応を引き起こします。私たち生物が活動する際に必要な神経で、たとえば、太古のサバンナでマンモスを追いかけるような場面で活性化されるものです。

最後に、哺乳類で進化したもっとも新しい神経、これが「腹側迷走神経系」あるいは哺乳類の場合は「腹側迷走神経複合体」と呼ばれている神経系のまとまりです。これが「社会交流システム(ソーシャルエンゲージメント・システム)」を司っており、私たちが他者と仲良くし、交流することを支持しています。この社会交流システムがうまく機能していると、ひとりでいるときにも幸福を感じることができ、他者とも良好な関係を築けるのです。

そして、腹側迷走神経複合体は、オーケストラの指揮者のように、背側迷走神経系と交感神経系のバランスを調整します。これは、人と助け合ったり、愛し合ったりする際にも重要な役割を果たします。

家族を作ることを考える際、相手が接近してきたときに、場合によっては「怖い」「嫌だ」といった反応を示すことがありますが、これは「闘争/逃走反応」の交感神経系が働いている状態です。この交感神経の反応を落ち着かせると、「この人なら大丈夫かもしれない」と感じられるようになります。こうした安心を支えているのが腹側迷走神経複合体です。

哺乳類において、この神経が特に発達した理由の一つが、集団で子育てをする必要があったことです。集団での子育てにおいては、相手の友好の合図を読み取ることが重要です。また特にヒトは一度にたくさんの子どもを産むことができません。通常1人、多くても双子程度です。昔、サバンナで生きていた時代には、食物連鎖の中位に位置していた私たちは、つねに捕食者からの脅威にさらされていました。いつ食べられてしまうかわからないわけです。そうしたなかで赤ちゃんを育てていくのは非常に困難なことでした。

こうした状況下で、集団で子育てをすることが重要になりました。そういったとき、母親以外の養育者――たとえば子育てを終えた年長の女性などが代わりに授乳をすることがありました。出産から時間がたっても、赤ちゃんに乳首を吸わせることでオキシトシンの分泌が促され、年長女性であっても乳汁の分泌が起こり、授乳が可能になります。若い母親のほうは授乳をやめると月経周期が再開しますので、次の子どもを産む準備をし、妊娠出産のサイクルを早めることができました。

一方で、社会交流システムを持たないトカゲのような生物では、卵を産みっぱなしにし、子育てをしません。多くの子を産み、その中で数匹でも生き残れば良いというシステムです。しかし、人間はそうはいかないため、集団で子育てをしていくうえで、社会交流システムがとても大事でした。

このように、哺乳類だけにあるとされている腹側迷走神経系は、安全な状態では、社会交流を司ります。危機に瀕すると、哺乳類であるヒトは、まず社会交流で対処しようとします。たとえば、微笑みかけたり、優しい声で話しかけ、相手の言い分を聞いたりしようとします。それがうまく機能しないと、「腹側迷走神経系」→「交感神経系」へと進化の過程を逆行し、交感神経系を用いて対処しようとします。つまり、闘争/逃走反応を起こします。心拍と呼吸が上がり、太い筋肉にたくさんの血液が流れ、身体を大きく動かして活動する準備をします。

しかし、戦うことも逃げることもできず、生命の危機に瀕したときは、進化の上で最も古い「背側迷走神経系」が発動し、凍りつき反応を起こします。凍りつき反応が起きると、心拍と呼吸は低下し、意識も遠のき、身体が動かなくなります。出血も抑えられ、強い痛みや恐怖も感じなくなります。これは、捕食される動物が苦しまずに済むことを意味します。(また、ぐったりとした動物に対しては、捕食動物は狩猟本能を刺激されないため、興味を失って立ち去るかもしれません。そのすきに、息を吹き返して逃げ出すことも可能ともいえます。)

私たちの身体に、数億年前に誕生した神経系が組み込まれているのは興味深いことです。

私たちの神経系が健全な状態であれば、「社会交流」、「闘争/逃走」、「凍りつき」といった反応は状況に応じて起こります。例えば、火事や地震のときは逃げなくてはなりませんし、交通事故などで大きなけがを負ったりしたときや、犯罪被害にあったりしたときは、凍りつきに入り、動かずにいるほうが生存の可能性が高まります。そして、危険が去れば、再び腹側迷走神経系優位の「社会交流」の状態に戻ってくることができます。

しかし、私たちの神経系がトラウマを負うなどして適切に機能しなくなると、その時々の状況に応じて柔軟に反応することが難しくなります。すると、たとえ安全な状況や安心な相手に対しても、心を開くことができず、過度に警戒したり、恐怖を感じたり、コミュニケーションが取れなくなってしまうといったことが起こります。ときには凍りつきの状態に入ってしまうこともあります。

『その生きづらさ、発達性トラウマ?』(花丘ちぐさ著/春秋社)より

 

ヴェーガルパラドクス

 

ここでは詳しく説明できませんが、ポージェス博士が着目した「ヴェーガルパラドクス(迷走神経パラドクス)」という現象もあります。

ポリヴェーガル理論では、副交感神経の中に、背側迷走神経と腹側迷走神経の2つの枝があると説明します。副交感神経は、一般的には、リラックスや休息に関わる「良いもの」とされていますが、この成分が多すぎると新生児や乳児に無呼吸や突然死を引き起こすことがあります。

ポージェス博士は、「身体にとってよいとされるはずの機能が、なぜ命を奪うのか」と疑問を抱き、この現象に着目しました。そして、背側迷走神経系が過剰に働きすぎると、呼吸が抑制され、心拍が低下し、徐脈という心臓の動きが極端に遅くなる状態が生じ、最終的に突然死を引き起こす可能性があることを発見しました。ここで大きな要素となるのが「凍りつき反応」です。要するに、「良い」と考えられていた副交感神経の働きが過剰になると、命を奪う。これが「ヴェーガルパラドクス」と呼ばれる現象です。

ポージェス博士は、もともと子どもの命を救うために心拍の計測装置などを開発し、こうした研究を通じて人類に貢献しようとしていました。博士自身は、それがトラウマの理解や治療に応用されるとは当初は思っていなかったそうです。ところが、この「凍りつき反応」のメカニズムが説明されたことに関して、特にトラウマ療法の世界から大きな反響がありました。

これまでは、トラウマを抱えた人たちは、神経が過剰に興奮した「過覚醒」の状態にあると考えられていました。たとえば退役軍人が、大きな爆発音に過敏に反応しやすく、家の外で車の大きなエンジン音が響いただけでライフル銃を構えてしまうような、つねにピリピリと緊張した神経の状態です。

しかし、ポリヴェーガル理論は、それとは異なる背側迷走神経優位の「凍りつき反応」についても説明しました。多くのトラウマ専門家は、トラウマを抱えた人たちが、過覚醒の状態ばかりか、無気力、無反応で、さらには解離の状態にあることを数多く観察しており、理解や対応に苦慮していました。こうした中で、「凍りつき反応」も含め、トラウマのメカニズムを説明する鍵になりうるポリヴェーガル理論は大きな関心を集めることになったのです。

 

凍りつき反応とは何か

 

この凍りつき反応は、手も足も出ない、逃れられないという状況に直面したときに起こります。そういうときに私たちは、背側迷走神経系が優位になって凍りつきます。動物で言えば、捕食動物に襲われて、失神して倒れ込み、身体を硬直させ、捕食されても反応もしないような状態です。

ヒトでは、もう少し、幅のある反応が見られます。性暴力にさらされた被害者のことばでよくあるのは、「身体が動かなかった」「声が出なかった」「ただ黙って相手の言うことに従った」「遠くで起きていることのように感じた」「まったく記憶が無い」などです。これは、背側迷走神経系が私たちの神経系の中にも生きているためで、性暴力被害などのショッキングな場面では、声が出なかったり身体が動かなくなったりなどの凍りつき反応が起こっているのです。

もう少し身近な例では、仕事のプレゼンなどで、ステージに立った途端に頭の中が真っ白になり、何も言葉が出てこないとか、何か言おうとしても、のどが締め付けられたようになって声が出ない、などという反応も、一種の凍りつきと言ってよいでしょう。

さらには、長期にわたって凍りつき状態を抱えたまま、なんとか生活している人もいます。朝起きても身体が重い、気分が落ち込む、食事もおいしく感じないなど、抑うつ状態も背側迷走神経優位の状態と重なる面があり、一種の凍りつきともいえます。心理療法家がクライアントに、「調子はどうですか?」「楽しいことありますか?」などとたずねても、「別に……」「特に楽しいことはないです」と淡々と答えるような状態も、広い意味での凍りつきと言ってもよいでしょう。

 

その「凍りつき反応」がよくわかる例として、チーターが、ウシ科の草食動物のガゼルを捕らえる映像をご覧いただきましょう。サバンナでチーターが一頭のガゼルに狙いを定め、追いかけます。ガゼルは、まさに捕らえられた瞬間に凍りつき、動かなくなります。そこに、ハイエナが横取りをしようと現れ、チーターの邪魔をします。チーターは俊足の持ち主ですが、身体の大きさではハイエナにかなわず、せっかくの獲物をハイエナに横取りされてしまいます。諦めきれず戻ってきたチーターを、ハイエナが追い払おうとします。こうして両者がもみ合っているそのすきに、凍りついていたガゼルが目を覚まし、身体を震わせて、素早く逃げていきます。

ここで注目していただきたいのは、ガゼルは死んでいるように見えますが、そうではなく、凍りついていた状態だったということです。

 

ヒトはトラウマを「過去のこと」にできない

 

先ほども述べましたが、私たち人間の身体にも、こうした神経が備わっています。犯罪に遭った被害者が「声が出なかった」「身体が動かなかった」と話すことがよくありますが、それはこの凍りつき反応が起こっていたのです。

問題なのは、ガゼルはPTSDにはなりませんが、私たちは違うという点です。ガゼルは危機的な状況を経験した後、ブルブルッと身体を震わせ、すぐに仲間の元へ戻って再び社会交流を持つことができます。

一方で、私たち人間は大脳新皮質が高度に発達しているため、頭では「過去のこと」と認識していても、身体を震わせてトラウマのエネルギーを外に出すことができません。その結果、トラウマが「手続き記憶」として身体に刻まれてしまうのです。

記憶には大きく分けて、「エピソード記憶」と「手続き記憶」があります。エピソード記憶とは、「いつ、どこで、誰が、何をした」という出来事の記憶です。一方の手続き記憶とは、身体に刻み込まれる記憶です。たとえば、自転車の乗り方や、スキーの滑り方のように、身体を通して習得される記憶です。こうした動きの感覚は、繰り返し行うことで、身体が自然に覚えていきます。また、そのようにして身体に染みついた記憶は、簡単には消すことができません。10年ぶりに自転車に乗ったとしてもすぐに感覚を取り戻してスイスイ乗れますが、逆に言えば、自転車の乗り方を忘れようと思ってもできないのです。

トラウマが手続き記憶に刻まれると、普段は意識していなくても、似た状況に置かれたときに、不意にトラウマの記憶が蘇ることがあります。あるいは、「もう昔のことだ」と頭では理解していても、昨日の出来事のように鮮明に思い出されることがあります。これがフラッシュバックと呼ばれる現象です。退役軍人が老年になっても、毎晩のように戦場の夢にうなされたりするのも、トラウマが手続き記憶に刻まれていることを表しています。
(トラウマが記憶に刻み込まれる機序について詳しく知りたい方は、P・A・ラヴィーン著『トラウマと記憶』(拙訳、春秋社)をご参照ください。)

 

未完了の自己防衛反応を完了させる

 

私たちセラピストが重要視しているのは、「未完了」の自己防衛反応を「完了」させることです。

たとえば、「逃げたい」と思って実際に逃げられた場合は反応は完了しますが、逃げられなかったり、凍りついてしまった場合には、自分を守る反応(自己防衛反応)が「未完了」のままとなります。そして、その「自分は手も足も出なかった」という記憶が、手続き記憶に刻み込まれ、それが自己価値の低下、鬱、引きこもり、回避行動などにつながるとも考えられています。神経系の働きが低下したり、あるいは、交感神経が過度に優位になって、過敏になり、緊張、不安、イライラ、怒りなどの状態に陥るのです。

しかし、そのような未完了となった反応を完了させると、「トラウマは本当に終わったのだ」と神経系のレベルで「納得」することができます。神経系の状態が安定すると、身体は再び安全を感じられるようになり、心身の健やかさを取り戻すことができます。

そのための臨床的アプローチの一つが、ピーター・ラヴィーン博士によって開発されたソマティック・エクスペリエンシング®トラウマ療法です。この技法はポリヴェーガル理論の観点からも整合的に説明できるものです。

私たちセラピストが大切にしていることは、「切れやすい性格の人がいるわけではない」ということです。切れやすい人というのは、急に怒り出すような行動を支持する生理学的状態にある人なのです。

また、「凍りつき」を支持する生理学的状態にあると、「暗い」などと言われるかもしれませんが、これもその人の性格なのではなく、シャットダウンを支持する生理学的状態にあると私たちは捉えています。

トラウマは、経験したその瞬間に恐怖を感じるだけではなく、その後も長きにわたり神経系に深刻な影響を与えます。トラウマを適切に解放することができれば影響は軽減されますが、解放されずに神経系にトラウマのエネルギーが残ったままになると、やがて生きる力や活力が損なわれていくことがあります。

一見すると、物静かで、淡々と仕事をこなしているように見える人が、実は深刻なトラウマを抱えている可能性もあります。こうした人が突然キレるということは、神経系の観点からも説明できます。普段は辛さを抱えながら、心も身体も閉ざした状態で生活していて、どうしても耐えられないような出来事が起きたときに、抑え込んでいた怒りの感情、つまり、交感神経系の活性化が突然引き起こされ、周囲が驚くような怒りを爆発させるのです。

凍りついた状態は、エネルギーがないのではなく、むしろその奥には爆発的な、一種殺人的といってもよい強烈なエネルギーが渦巻いている状態なのです。

トラウマはまわりからは見えにくくても、長い間当事者をさいなみ、心身の不調へとつながっていくことがあります。あるいは、ふとしたことをきっかけに大爆発のような急激な反応を引き起こし、人間関係や社会的な問題へと発展してしまう可能性があるのです。

 

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著者略歴

  1. 花丘ちぐさ

    ポリヴェーガル・インスティテュート・インターナショナル・パートナー
    ソマティック・エクスペリエンシングⓇ・ファカルティ
    IFS 内的家族システム認定セラピスト
    桜美林大学非常勤講師
    早稲田大学教育学部国語国文学科卒業、米国ミシガン州立大学大学院人類学専攻修士課程修了、桜美林大学大学院国際人文社会科学専攻博士課程修了。博士(学術)。公認心理師。社団法人日本健康心理学会公認指導健康心理士。A 級英語同時通訳者。
    著書に『その生きづらさ、発達性トラウマ?』、訳書にS・W・ポージェス『ポリヴェーガル理論入門』、P・A・ラヴィーン『ソマティック・エクスペリエンシング入門』(以上、春秋社)、他多数。
    国際メンタルフィットネス研究所 代表 http://i-mental-ftness.co.jp/
    ポリヴェーガル・インスティテュート・ジャパン 代表 https://polyvagalinstitutejapan.jimdofree.com/

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