台湾の民主主義を女性の視点で問い直す/陳柔縉『高雄港の娘』〈アジア文芸ライブラリー〉(田中美帆訳)
数々の歴史ノンフィクションを手掛けた陳柔縉による小説『高雄港の娘』(田中美帆訳)が、シリーズ〈アジア文芸ライブラリー〉の第4作として発売されました。日本統治時代に台湾南部の港町・高雄で生まれた孫愛雪を主人公とした歴史小説である本作は、日本と台湾の狭間で、時代の制約を乗り越えて生きた実在の人物をモデルとして書かれました。本作の翻訳者でライターでもある田中美帆さんによる「訳者あとがき」の全文を公開します。(公開にあたり、一部の書式を改めました)
時代は、誰かひとりが背負うものではない。時代は、私たちひとりひとりに刻まれているのだ。記憶を語り継ぐのは、一部の英雄だけではない。エピソードに貴賎はなく、そのすべてが伝えるに値する。どのエピソードがいつ誰の心の中で輝き出し、熱を帯びるかは誰にも予測できないのだから。
本書の著者陳柔縉が2009年に台湾で刊行した《人人身上都是一個時代:ひとりひとりに刻まれた時代を追いかけて》の一節である。同書は『日本統治時代の台湾』と題して日本で2016年に天野健太郎氏による翻訳で刊行された。
訳者が本書を訳す間、この一節が何度も脳裏に浮かんでいた。本編を読み終えてからここにたどり着いた読者諸賢なら、おそらく共感してもらえることだろう。本書は主人公の孫愛雪一人に時代を背負わせることなく、登場する人々それぞれに時代を映し出した物語だということを。
物語は台湾南部の高雄港に始まる。両親ともに教職にあるに育った孫愛雪は、日本統治下の小学校、高等女学校で教育を受け、就職して終戦を迎える。戦後、国民党政府による大規模な殺戮と弾圧が始まると、身の危険が及んだ父が香港へ逃亡する。時が経ち、治療のため東京に渡った愛雪は日本で事業を興し、台湾独立運動に奔走する夫を資金面で支える。そして逃亡から数十年後、父を陥れた相手の正体を知る。父はなぜ香港に渡ったのか、その背景にあったものは?——日本統治で台湾人が受けた抑圧や戦後に起きた大規模な殺戮と弾圧、さらに日本で台湾独立を目指す台湾人など、これまで知られてこなかった台湾史とともに、大きな苦難に屈することなく生きる女性の姿を描いた歴史・時代小説である。
物語の時間軸は、日本統治下の1930年代から蔡英文の総統就任二期目にあたる2020年までのおよそ90年にあり、愛雪の成長に応じて、舞台は日本統治下の高雄から戦後の高雄、そして戦後の東京へと移ってゆく。
日本による台湾統治は日清戦争の終わった1895年から太平洋戦争の終わる1945年まで50年に及んだ。統治当初は、樺山資紀、桂太郎、乃木希典、児玉源太郎と、日本史に名の刻まれた軍人が台湾総督を任された。それが大正デモクラシーの興った1920年前後に文官総督が就任するようになり、29年には第十三代総督として石塚英蔵が就任した。30年は統治下最大の抗日事件とされる霧社事件が起きた年でもある。
統治初期、日本政府は税制や教育体制、専売制度を敷き、土地整理事業を行い、戸口調査で人口を把握し、台湾という資源を詳細に掌握すると、鉄道や港、さらに水利の整備を行ってロジスティックスを整えていく。
飛行機がまだ一般的でなかった時代に、あらゆる窓口となる港は、造船技術と港湾技術の向上によって大きく変化していった。統治開始当初の港は台北郊外の淡水と台南の安平が主だったが、基隆と高雄が玄関口として整備され、徐々に大きな船が入港できる港として整備される。同時に貿易額が増加し、1930年代には基隆と高雄が台湾の港でも一、二を争う港へと躍進した。そんな中で南進政策の重要拠点として台湾、中でも南側の玄関口である高雄へと注目が集まった。本書の物語は、そんな高雄で1931年に実際に開かれた「高雄港勢展覧会」のさなかに起きた事件が発端だ。
台湾の大富豪家族とその御家事情、日本統治時代の台湾社会、終戦前後の様子、日本の商社での勤務、日本人引き揚げ後の高雄、二二八事件、白色テロ、東京タワー建設、所得倍増計画、大阪万博……台湾の、台北ではなく高雄で、男性ではなく女性の主人公が、のちに東京で生きていく。マージナルな立ち位置から著者が見せる物語は特別な輝きを放つ。
この本を手にした日本の方々にとって、特に馴染みのない時空は戦後の台湾かもしれない。今や世界的企業を抱え、毎回投票率七割を超える民主主義国家・台湾の姿は、本書ではほとんど描かれない。
終戦で日本人が引き揚げた台湾に、蒋介石の率いる国民党が逃れてきたことで、急激な人口増加とインフレが起きた。同胞へ寄せていた台湾人の期待は裏切られ、一九四七年に民衆の不満が台湾全土に及ぶ抗議行動という形で爆発すると、政府は大量の殺戮と弾圧によって押さえつけた。この「二二八事件」を発端とする大規模な政治的弾圧「白色テロ」の死者数は、1992年に「1万8千から2万8千人の間」と公式発表されたが、今もなお実数は不明だ。
不明であることの要因は、長期にわたる独裁政治にある。台湾では1949年5月20日から1987年7月15日まで、世界最長の38年にわたる戒厳令が敷かれていた。人々には言論の自由がなかった。本作の主人公・愛雪の夫、郭英吉同様、日本や海外で亡命生活を余儀なくされた人は少なくない。台湾にいた人々の間では猜疑心が広がり、密告が横行し、逮捕され、離島へ送られ、心身ともに痛めつけられ、多くの命が奪われた。こうした事態が日本のすぐ隣で続いていたのである。
本書では、そういった日本ではほとんど知られてこなかった民主前夜の台湾の姿が「ひとりひとり」の目線から描かれる。
孫愛雪の父・孫仁貴が香港へ向かい、夫の郭英吉が東京に向かい、そして愛雪が娘に「移民ではない」と言った理由もこの時期にある。愛雪の父・孫仁貴が香港へ向かうことになった理由は、本書最大の謎として、ぜひ本編でお楽しみいただきたい。
著名な歴史家であるE・H・カーは歴史を「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」と説明する。さすれば、現在と過去との間の尽きない対話によって生まれたのが本書であり、彼女の著作のすべてと言っていい。
作者の陳柔縉は、1964年に台湾中部の雲林で生まれた。台湾大学卒業後、台湾の報道機関で記者を務めて独立し、最初の著作を93年に出版した。政治畑の記者らしく、台湾政治に関連した内容であったが、2000年代に入ると関心は日本統治時代の台湾へと変化する。
2008年『国際広報官 張超英:台北・宮前町九十番地を出て』(原題:宮前町九十番地)、14年『台湾と日本のはざまを生きて:世界人、羅福全の回想』(原題:榮町少年走天下)は特定人物の回顧録として、陳柔縉がブックライターとして筆を執ったものだ。後者のあとがきにはこんな一節がある。
他人の回顧録を書くのは、話を聞いてそれを書き留めるコピー作業ではない。私の考えでは、どちらかといえば庭園を造るのに似ている。
本書の著者あとがきにもあるように、最初は郭孫雪娥さんをモデルとした“庭園造り”に始まり、次第に小説へと変容した作品である。
それまで彼女の全十四作品の大半は、日本統治時代の人と社会の様子を史料やインタビューを基に丹念にあぶりだすノンフィクションだった。本作《大港的女兒》は著者が初めて小説へと大きな舵を切った——その矢先に悲劇が起きた。
2021年10月15日、台北郊外の淡水でバイクによる追突事故が発生し、本書の著者である陳柔縉は三日後に息を引き取った。享年57歳。
本書が台湾の麥田出版で刊行されたのは著者急逝の前年末のことだ。当時日本での翻訳実績は四冊あり、本書の版権エージェントである太台本屋は版権代理の委託を受け、日本における版権取得先を探していた。2023年、遺族が著作権を継承し、日本での刊行が正式に決まった。
つまり本書は彼女の遺作でもある。
原作における本文は全78節、380ページ、字数にして約14万字からなる。本文の前後には本作にも掲載した家系図の他、すべての登場人物の一覧と、同時代の写真や地図がキャプション付きで収録された。
2022年4月28日、台湾大学で著者を偲ぶ展示が行われた。この追悼展示に合わせ、故人を知る台湾の出版界、学術界の関係者が集まり、著者や作品について語り合うフォーラムが開催された。報道機関時代の先輩、大学の後輩といった面々が語る著者は、控えめで、淡々と史料を読み、取材を重ね、そして書く人であった。
展示会場には、高等女学校の卒業生からの献花があった。著者の取材姿勢が見えたような気がした。また掲げられた看板の写真は、著者が毎日のように通った国家図書館で撮影された一枚だ。著者が執筆に活用した史料は、どれも台湾の図書館で閲覧可能なもので、仕事道具も、誰もが手に入れられるものだったという。そして著者は、次の作品に向けて台北の大稻埕を取材していたという。それはどんな作品だっただろうかと、思わず空を見上げる。
改めて本書を読むと、物語に生きる「ひとりひとり」に時代が刻まれており、著者が過去と丹念に対話してきたことを実感するばかりだ。
決して簡単な対話ではなかったはずだ。台湾ではずっと「台湾史」との対話が奪われていた。そもそも台湾で「台湾史」という言葉が登場したのは、蒋経国政権時代に民主化へと舵を切り、李登輝が直接選挙で選出された1990年代に入ってからだ。1964年生まれの著者が学校教育を受けていた時代、台湾では中国史が正史とされ、学校で台湾語を話すことは禁止されていた。今では学校で中国史と台湾史が並行して教えられ、ニュース報道や音楽にも多くの台湾語が聞こえてくる。
では、当たり前のように「日本史」を学校で教わる日本人は、日本史と対話できているのだろうか。オイルショックの翌年、いわゆる団塊ジュニアとして生まれた訳者は、義務教育や日本の学校教育に日本史という科目は存在したが、日本が台湾を50年もの間統治していた、という事実を学校で教わった記憶がない。「日本近現代史との対話」の機会は失われていたと考えている。
著者と訳者の共通点は、こうして奪われ、失われていた歴史との対話を、著者は創作として、訳者は翻訳として自らの手に取り戻そうとした点にある。著者が見せてくれた対話は、「すべてが伝えるに値する」という著者の信念を貫くものだ。その豊かな対話の様子が伝わるように心がけたが、具体的な翻訳作業も訳者なりの「対話」の一面であると考え、以下に紹介する。
原文は繁体字による現代中国語だが、時折、台湾語由来の語彙が登場する。時代的背景から考え、当時の台湾人同士の使用言語は台湾語だろう。そこに日本語教育を受けた「国語家庭」の主人公一家の社会的立場などを勘案すると、本書の会話文に抑揚が求められた。そこで、とりわけ台湾語使用が主だと想定される人物や、著者が台湾語を使用した箇所などに、訳者が高校卒業まで育った愛媛南予方言を採用した。
当時の用語や地理の確認には、各種史料を活用した。1898年から1944年まで日本統治下の台湾で刊行された最大の新聞『臺灣日日新報』の他、日本統治時代の本や写真、雑誌などの定期刊行物を検索できるウェブサービス「日治時期圖書影像系統」および「日治時期期刊影像系統」、また年代ごとに製作された地図とGoogleマップを対比できる「臺灣百年歷史地圖」を活用した。地名の読みは1938年刊の新道満著『ローマ字發音 臺灣市街庄名の讀み方』(東都書籍株式會社)を参照した。
これら史料を基に、作品の時間に没入しやすいよう、いくつかの訳者判断を行った。現代的な事物を例に取った描写は違和感のないように改めたほか、訳語についても当時の史料で使用状況を確認した上で「写真師」や「按摩」といった用語を採用した。作中に登場する、特に日本に実在する社名や人名については、舞台設定上、不可避と思われる場合を除き、原書において著者が台湾の固有名を匿名化したのと同じように、変更を加えるなどの対応を行った。
訳出の適否について、本作では通訳者兼翻訳家の詹慕如さんにネイティブチェックを引き受けてもらった。またその校正作業には、台湾で書籍翻訳向けに開発されたソフト「Termsoup」を使用し、誤字脱字や訳出の間違いについて指摘を受け、場合によっては修正案を反映させている。初歩的なミスから深いところでの解釈への示唆など、その丁寧な指摘に心から感謝したい。
本書の翻訳過程については、クリエイターの投稿プラットフォーム「note」で毎週一回、「台湾書籍、翻訳中!」と題して作業の進捗を公開投稿しながら、月額五百円の有料課金という形で企画への支援を募った。ここに、その趣旨にご賛同くださった皆様への感謝を込めてお名前をご紹介させていただく。
竹村千繪さん、K(東京在住)さん、横山瑠美さん、酒井充子さん、丘村奈央子さん、岡部千枝さん、近藤弥生子さん、秦岳志さん、伊藤尚子さん、堀田弓さん、若井芳江さん、劉汝真さん、小島烈子さん、大西稚恵さん、広谷光紗さん、田中美沙さん、細川和則さん、片倉真理さん、竹下康子さん、酒本大治さん、宮崎由子さん、山本涼子さん、他一名。ありがとうございました。本企画の収益は、オリジナルパンフレットの制作費の一部として活用させていただく。
次の皆様には取材としてお力添えいただいた。同じ陳柔縉作品『台湾博覧会一九三五スタンプコレクション』の翻訳を手がけた中村加代子さん、歴史小説と時代小説の差異についてお知恵をお借りした文藝春秋の荒俣勝利さんと新潮社の楠瀬啓之さん、本作の版権エージェントを務める太台本屋 tai-tai booksの金森エリーさん、生前の著者との親交から著書『奇怪ねー 台湾』以降、現在もトップコーディネーターとして活躍する青木由香さん、さらにチベット文学を伝える翻訳家の星泉さん。ありがとうございました。
本作は春秋社アジア文芸ライブラリーの一冊で、ツェリン・ヤンキー著/星泉訳『花と夢』、朱和之著/中村加代子訳『南光』、ヴァネッサ・チャン著/品川亮訳『わたしたちが起こした嵐』に続く四冊目である。「文学を通じてアジアのこれからを考える」と謳うシリーズに訳者として加わることができて心よりうれしい。依頼時に本シリーズの立ち上げを知った時も、心が躍った。
そんな心躍る依頼をくれたのは本書の編集担当である荒木駿さんだ。翻訳作業への伴走はもとより、新たな取り組みであるプラットフォームでの連載企画を快諾いただき、週一更新の原稿に目を通し、宣伝へのさまざまな取り組みに尽力してくれた。装幀の佐野裕哉さん、装画の原倫子さんにも、作品を彩る一冊に仕上げていただいた。こうした機会をくださったことに心から感謝したい。そして同社の営業ご担当の皆様、全国の書店の皆様にも、どうか本シリーズが末長く皆様のお手元に届くよう、お力添えを賜りたい。
本書の翻訳に際し、最大限の力を尽くしたものの、仮に訳文に至らない点があるとしたら、それはすべて訳者の力不足に帰するものだ。
陳柔縉の逝去から三年になる。本書を翻訳している間中、頭にこだましていたのは、一度きりになってしまった著者への取材で「人の姿を書きたい」と言っていた彼女の信念だ。台湾の人たちの姿がふんだんに盛り込まれた本作を、ようやく日本に届けられると聞いたら……なんと言うだろう。彼女の信念が一人でも多くの人の元へ届くことを心より願う。
2024年8月 田中美帆
書籍