日本の諸宗教との関係から修験道を見る/宮家準『修験道――日本の諸宗教との習合』
修験道は、日本固有の山岳信仰を端とし、シャーマニズム・神道・仏教・道教・陰陽道・儒教などを習合してでき、これら諸宗教にも影響をもたらしたものである。その習合の歴史を解き明かした『修験道――日本の諸宗教との習合』(宮家準著)は、修験道とは何か、日本人が自己の生活にとってもっとも必要とする宗教がどのようなものであるかを理解するうえで必須の書である。
縄文時代(紀元前1万年以前—紀元前3世紀)の日本人は日本列島の九割を占める山や森林で、 採集、狩猟の生活を営んでいた。彼らの間では獲物を与えてくれる山の神の信仰が認められた。やがて弥生時代(紀元前3世紀―3世紀)になって人々が里に定住して水田稲作をするようになると、山の神は農耕や生活に欠かせない水を与えてくれる水分神と考えられるようになった。里人は山を山の神をはじめとする諸神、諸魔のすまう聖地として畏敬し、山麓に祠をつくって、豊作祈願の春祭と感謝の秋祭を行なった。これが神道の淵源である。こうした祭では、神意を聞く託宣が中核を占めていた。この託宣は当初は巫者に神霊が憑依する受動的なものであった。けれども積極的に自己または他者に神つけをする必要もあって北方シャーマニズムの精霊操作の技法が導入された。また山は死霊の赴く他界とされ、古墳時代(4―7世紀)になると山麓に豪族の墓がつくられた。ちなみに里に設けられた天皇の墓も山陵と呼ばれている。
古墳時代から飛鳥時代(592―710)にかけては大陸からの帰化人が多かったが、彼らによって道教、仏教がもたらされた。道教は入山修行して仙人になることを目指しており、仏教も山林などでの夏安居を重視している。ただ仏教は欽明天皇三年(538)百済の聖明王から仏像や経論が天皇に献じられた公伝以来、蕃神もしくは学問として摂取された。そしてその後の律令体制下の奈良時代(710―794)には国家仏教となっていった。もっとも僧侶の中には、吉野などの霊山に籠って修行するものも多かった。こうした山林修行者は里人からは山の神の霊力を得たものとしてその験力が期待された。なかでも葛城山で修行した役小角(?―699―?)は、行基(668―749)、道鏡(772没)などは広く知られている。比叡山で天台宗を開いた最澄、高野山を開いた真言宗の祖師空海もこうした山林修行者の流れをひいている。
平安時代(794―1185)に入ると、貴族の間で密教による加持祈禱がもてはやされ、験者とよばれる密教僧の中には、大峰などの霊山で修行した者もいた。彼らは山で修行することから山臥、験力を修めた者という意味で験者とよばれた。吉野川に渡しを設け、大峰山の峰入を再開した醍醐寺の開基聖宝(832―909)、比叡山の回峰行を始めたとされる相応(918没) などは験者として広く知られている。当時は菅原道真の霊をはじめとする怨霊の祟りがおそれられ、験者にこれを鎮めることが期待された。また彼らは牛頭天王などの行疫神の祭祀にもかかわっていった。
平安中期になると末法の到来が説かれ、浄土信仰が盛行した。そして弥勒の浄土とされる御岳 (金峰山)詣が行なわれた。また院政期には阿弥陀の浄土とされた熊野詣が盛んになった。そして金峰山や熊野には、数多くの修験者があつまるようになった。なお寛治四年(1090)に熊野御幸をした白河上皇は、先達を勤めた園城寺の増誉(1032―1116)を熊野三山検校に任じ、京都に聖護院を賜った。これ以来、熊野の修験は熊野三山検校を重代職とした園城寺に統轄されることになった。
鎌倉時代(1185―1333)末になると熊野では諸国から先達に導かれて熊野詣をする檀那の宿泊、祈禱に携わる御師が成立した。先達は各地の霊山や社寺に依拠した熊野山伏が勤めることが多かった。室町時代(1336―1573)末には、熊野三山検校職は園城寺末の聖護院の重代職となった。聖護院では京都に熊野三山奉行(院家若王子乗々院、重代職)や院家を擁して、諸国の熊野山伏を掌握して本山派と呼ばれる教派を形成した。一方、近畿地方の興福寺末の寺院や、高野山、根来寺、近江の飯道寺、伊勢の世義寺など三十六余の寺社に依拠した修験者は金峰山の奥に位置する小笹に拠点を置く、当山三十六正大先達衆と呼ばれた結社を形成した。また大和の金峰山、日光、白山、立山、富士、木曽御嶽、伯耆大山、石鎚山、彦山など各地に修験霊山が成立した。
本山派では役小角、当山三十六正大先達衆は聖宝(832―909)を派祖とした。また金峰山の修験者は金剛蔵王権現、熊野の修験者は熊野十二所権現を主尊とした。本・当両派の修行道場である金峰から熊野にいたる大峰山は、吉野側半分は金剛界、熊野側は胎蔵界の曼荼羅になぞらえられた。また葛城山系には法華経二十八品のそれぞれを納める経塚がつくられた。山中では抖擻とあわせて地獄・業秤、餓鬼・穀断、畜生・水断、修羅・相撲、人・懺悔、天・延年、声聞・四諦、縁覚・十二因縁、菩薩・六波羅蜜、仏・正灌頂というように十界のそれぞれに充当された十種の修行を行なって即身成仏がはかられた。これらの修行によって験力を獲得した修験者は人々の現世利益的な希求に応えて卜占、巫術、加持祈禱、符呪などの活動を行なった。この卜占には陰陽道、巫術にはシャーマニズム、加持祈禱には密教、符呪には道教や陰陽道の影響が認められる。
江戸時代(1600―1867)になると、幕府は慶長十八年(1613)修験道法度を定め、諸国の修験者を天台宗聖護院を本山とする本山派と真言宗醍醐三宝院が統轄した当山十二正大先達衆(正大先達寺が十二に減少した)を中核とする当山派の両派に分属させた。もっとも吉野や羽黒、彦山など霊山の修験には天台宗に属する者も多かった。本山派では各地の主要な修験者に年行事の職を与え、霞と呼ばれる一定地域での活動を公認した。一方、醍醐三宝院では在来の当山十二正大先達が各自の輩下の修験を直接掌握する袈裟筋支配の他に、新たに江戸鳳閣寺を諸国総袈裟頭に任じて直属の修験者を作っていった。修験者は地域社会に定住して里修験として鎮守や小祠の別当、霊山登拝の先達、卜占、加持祈禱、符呪などの活動を行なった。その際に陰陽道にもとづく易断を行ったり寺子屋を開いて儒教の教えを説く者もいた。江戸時代中期以降になると 大峰山、出羽三山、英彦山、富士山、木曽嶽岳などでは、庶民の登拝講が輩出し、なかでも富士講や御嶽講が盛行した。
明治政府は慶応四年(1868)に神仏分離令を出し、明治五年(1872)修験宗を禁止した。その結果、熊野、羽黒、白山、立山、英彦山などの修験霊山は神社化し、在地の修験者は還俗したり、氏神鎮守の神職となった。もっとも修験宗禁止令では修験者を本寺所轄のまま本山派は天台宗、当山派は真言宗に所属させた。また富士講は扶桑教・實行教、御嶽講は御嶽教というように教派神道として公認された。なお富士講や御嶽講の中には他の教派神道などに属するものも認められた。明治末から昭和にかけては霊山登拝が盛んになったこともあって、修験道は天台・真言の仏教教団内で重視され、勢力をもり返していった。また修験道の影響をうけた新宗教も出現した。
太平洋戦争終了後には旧本山派の本山修験宗・修験道、当山派の真言宗醍醐派と天台宗の金峯山修験本宗、羽黒山修験本宗、石鎚本教など数多くの修験教団が独立した。さらに真如苑、解脱会など修験系の新宗教も成立した。また出羽三山神社、英彦大神宮など修験霊山の神社では峰入などの修験道的な行事を行なっている。(序 ii~vi)
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