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Close-up! この一冊

主観と客観を動員して「生きる」を研究するということ/諏訪正樹『「間合い」とは何か』

 日本語には、ふわっとした、曖昧なことばが多いかもしれない。皆、生活の中で何気なく使っているにもかかわらず、「それが意味することを語ってください」と言われようものなら、はたと困ってしまうことば群。イメージ、センス、空気(KYというときの)、雰囲気、感じ、感覚、感性、かわいい、おしゃれ、やばい、などなど。枚挙にいとまがない。

「空気」と「感じ(もしくは感覚)」が合わさって、「空気感」なんてことばを多用するアーティストもいたりする。多分、ご本人も、何を表現したいのか明確にはわかっておらず、それを深掘りすることなくアバウトに喋っているに違いない。そのことばを使えば、何か重要そうなことを表明している気分になってしまう(その気持ちはよくわかる)。なおさら始末に負えないことに、聞いている方も、ややもすると、「空気感って何なの?」と深掘りすることなく、何となくわかった気になってしまうのだ。畢竟ひっきょう、コミュニケーションが行なわれているようで、実は何も伝わっていないなんてことにもなる。

「間合い」も、そんなことばの一つだろう。「あのバッター、いい間合いで打席に立っていますねえ」。人と人が相対するとき、そこに必ず、ことばの意味内容はもちろんのこと、身体的なやり取りも生じ、そういったやり取りが土台となって、両者のあいだにあるケミストリー(感情、情動を含む)が生まれるものである。ああ、chemistry もそんなことばだ。この英単語には、「化学」以外に、「雰囲気」という意味もある。日本語だけのことではない。

 要は、人の知能は、その多くがいわゆる暗黙知からなっているということなのだ。明確に定義できないようなものごとを、身体は何かしら察知、感得し、それなりに処理・対策してしまう。それをことばで表現しようとすると、ふわっとしたことば群を使わざるをえない。

 西洋にくらべて、東洋は、きちんと定義できないようなものごとや知性にも意義を見出そうとするマインドが強いようだ。だからこそ、「これは暗黙知の領域のことだな」と感じていても、なんとか意識上に持ち出して、コミュニケーションしたり、論じる対象にしたりする。当然の結果として、ふわっとしたことばになる。全く論理的ではないかもしれないし、意味が伝わっていない可能性も薄々感じつつ、それでもまあいいかとタカをくくっているのかもしれない。明確に意味が伝わらなくても、あの人とコミュニケーションしているということ自体に楽しさを見出せればいいよね! なんとなく、いい「感じ」の「雰囲気」が芽生えることが重要よね! そんな「感じ」に思っていたりする(笑)。

 日常生活はそんな具合に進んでいる(あ! 「具合」もその種のことばかもしれない)。しかし、間合いが研究の対象になる場合には、もう少し明確に語らねば、研究者としては話にならない。本書は、そんな無謀な闘いに果敢に挑んだ研究成果なのだ(えへん!)。これまで、間合いなる現象にフォーカスを当てて学術研究に挑んだ成果は、世界のどこを見渡してもなかなかなかったに違いない。それもそのはずである。何せ、間合いは暗黙知の最たるものなのだから。本書の著者たちは、日本認知科学会の分科会「間合い―時空間インタラクション」(2014年に設立)の幹事メンバーである。日常生活のありとあらゆるシーンに埋め込まれた間合い現象を丹念に拾い集め、一つ一つその成り立ちを考えてきた。研究は長い道のりになるはずだが、本書は、その最初の成果と言ってもよい。

 さすがに研究対象にするからには、少しは明確に論じることのできる概念を持ち出して、(仮説的ではあるが)説明することになる。本書では、「二人称的(共感的)かかわり」と「エネルギーのようなもの」がそれに該当する。野球、サッカー、柔術などのスポーツ・対人競技、日常会話や集団内での付き合い、そして人と建築空間のかかわりなど、実に多岐にわたる事例を持ち出して、その全てを二つの概念で統一的に説明してみせた。でき過ぎの感さえある!

 そう、でき過ぎだと思っているくらいが、研究にはちょうど良い。もっと学術的な言い方をするならば、ある概念やモデルを用いて現象をどんなにうまく説明できたとしても、「100%うまく」はあり得ない。別のちょっと異なる現象を持ってくると、何か重要な側面が抜け落ちてしまったり、実は、うまく説明できたと思っていた現象にも見落としがあったりすることは、研究の「あるある」である。誰かがあるモデルや概念で説明してみせた現象を、別の研究者が受け取って、建設的に(そして同時に)批判的に論じ、モデルを刷新したり、新しい概念を持ち出して、新しい説明をしてみせる。そうやって、学問は進化していく。本書が間合い探究の最初の一歩になることを祈りたい。 

 本書を執筆してひしひし感じたことのもう一つは、「主観の世界って実に面白い」ということだ。特に理工系の学問分野では、普遍性や客観性が尊ばれ、数学によって現象を分析することを是とする。客観性を是とする限り、主観なるものは最初から研究対象外である。その原則で以って不具合が起きない学問分野も多いが(物理学、化学、生物学などはその代表格)、こと、人が生きるシーンを扱う学問領域では、そうはいかない。人それぞれ、皆、自分らしく「生きている」のであって、主観が登場しないことはない。主観は、人が生きるための原動力なのだから。

 昨今は、それとは異なる旋風が吹き荒れている。情報科学技術の進歩を土台にして、ビッグデータを基にしてコンピュータが様々なパターンを抽出する。その手法が人間社会の分析を席巻し、生活にもそれが入ってきている。「数で表現できる世界だけが信頼に値する」。そんな標語を掲げて突き進む人たちも多い。

 ちょっと待った! 人が生きることの中で、数で表現できないものごと、まだデータにすらなり得ていないものごとは、たくさんある。そもそも主観は、未来永劫に至るまで、到底数では表現しきれない。

 本書に登場した間合いの事例は、そういう「雰囲気」を多分に醸し出しているでしょう?  これはほんの一部であって、生活は、まだまだ研究対象にすると面白いはずの、そして主観をどうしても重要視せねばならないはずの現象に満ち満ちている。

 中谷宇吉郎の『科学の方法』(岩波新書)の中に「定性的と定量的」という章がある。数学を基礎とする定量的分析のおかげで世界は発展してきたのだけれど、定量的な分析研究だけが偉いわけではない。そもそも世の中の現象の(自然科学分野だけではなく、社会学や心理学が扱う分野の現象も含めて)、どういった側面に着目するのかを見出すことが、まず重要である。定性的研究の役割はそこにある。定性的研究で着目すべき側面が決まったら、それを定量的に観察できる計測器を開発し、数のデータにし、定量的研究を行う。しかしそれで終わるわけではない。着目すべき側面を幾つかの数に限定したからこそ定量的研究が行えたのであって、着目した方が良さそうな側面は実は他にもたくさんあるかもしれない。再び、定性的研究でそれを見出す。つまり、定性的研究と定量的研究を繰り返すことが肝要なのだ。そういう主旨である。先に述べた「モデルと概念」の話と同じだ。

 人が生きる様を研究する際に、主観と客観のどちらが偉いなどという優劣はない。主観的に観察できることと、客観的に観測できることの両方を動員して、「生きる」を研究する研究者が少しでも増えてくれることを祈念する。

  (編著者によるあとがきを一部割愛し、掲載)

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著者略歴

  1. 諏訪正樹

    慶應義塾大学環境情報学部教授。工学博士。生活における様々な学びを「身体知」と捉え、その獲得プロセスを探究する。自ら野球選手としてスキル獲得を行う実践から、学びの手法「からだメタ認知」と、研究方法論「一人称研究」を提唱してきた。単著に『「こつ」と「スランプ」の研究――身体知の認知科学』(講談社)、『身体が生み出すクリエイティブ』(筑摩書房)、共著に『知のデザイン――自分ごととして考えよう』、『一人称研究のすすめ――知能研究の新しい潮流』(ともに近代科学社)。

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