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神道の多様性と定義の難しさ/井上順孝『神道の近代――変貌し拡がりゆく神々』

神道は近代において大きく変わりました。特に注目すべき現象は神道教団の形成です。『神道の近代――変貌し拡がりゆく神々』(井上順孝著)は神道の理解し難さを示しながらも、神道教団を梃子に、神道のエッセンスが受け継がれ、多様化していく姿を明らかにします。


 

近代の神道への注目

 近代の神道の変容はあらゆる側面に観察されるが、以前のものが色濃く継承されている場合もあれば、新しく形成されたに近い場合もある。何が古い淵源に大きく依存しており、何が現代において大きく変容したものなのか。あるいは新しく形成されたと言えるものは何であるのか。このような関心を背後に据えながら、本書では近代の神道、とりわけ新しく組織を作り上げて活動する神道(以下「神道教団」と総称)に焦点を当てていく。

 神道教団が次々に形成されるのは、近代の大きな特徴で、それまでの神道の歴史においては見られなかったことである。神道教団には江戸時代までに形成されていた思想や観念、あるいは儀礼や修行法といったものがそれぞれのやり方で取り込まれているが、活動形態や組織面、あるいは信仰内容といったものにおいて、新しい要素がいくつか加わっている。神道教団がなぜ数多く設立され、どのような活動の特徴があるかを見ていくと、近代に生じた社会の変化が神道にどう影響を及ぼしたかを考察できる。神道教団においては、祭祀を執り行なうだけでなく人々の日常生活の中で生じた問題に応えようとする場合が多い。神道が社会生活の中でどのように人々に関わっているかをとらえやすい。

 近代に対象を限ったとしても、神道の全体像は依然としてつかみにくいことをあらかじめ確認しておきたい。近代の神道に関しては、神社神道の他、教派神道、神道系新宗教という神道教団、さらに民俗神道、皇室神道、国家神道の形態が指摘されている。いちおう、それぞれに定義めいたものは試みられている。

 神社神道は神社における祭祀を中心的な活動としており、大小さまざまな規模の神社がある。時代的には非常な幅がある。古代から続く神社もあれば近代に設立された神社もある。伊勢神宮や出雲大社は古代の創建であるが、明治神宮は20世紀前半1920年の創建である。

 教派神道は19世紀以降出現したもので、神社とは別に新たに組織化された神道教団である。教派神道と一部重なるが、神道系新宗教は教祖的人物を中心としながら、やはり19世紀以降形成された教団である。概して布教を積極的に行ない、組織を拡大しようと努めるのが大きな特徴である。なお、本書では教派神道という表現のほかに神道教派という表現も用いる。一般的にはほぼ同義に用いられる。本書で用いる場合は少しニュアンスが異なる。

 神道教派という場合には、戦前の神仏管長が置かれた時代のそれぞれの教派という意味を込める。神道教派は最終的に13派となった。教派神道という場合には、近代に形成された独特の神道教団の形態という意味合いが加わっている。明治期から昭和前期まではほぼ13派の意味に近くなる。しかし、幕末あるいは第2次大戦後になると、13派で括るのは適切でない場合がある。黒住教、天理教、金光教などは、すでに幕末に独自の組織をもっていた。戦後は13派体制がなくなり、大本は教派神道連合会に属するようになった。他方天理教は戦後教派神道連合会を離脱した。教派神道かどうかには、教団のアイデンティティも関係するようになった。このほかにも複雑な関係があるが、それについては第2章で詳しく述べる。

 民俗神道は生活の中に習俗・習慣として継承されている神道的な習俗である。初宮詣、七五三、成人式、結婚式、神葬祭といった人生儀礼、初詣、節分、大祓などの年中行事は、信仰というより習俗としての性格が強い。地鎮祭、棟上げ式、田植え祭りなどは生業儀礼と言われるが、この中には神職が関わったり関わらなかったりするものがある。七五三、初詣、節分などは、寺院でも行なわれている。民俗神道に含められていても、神道中心の習俗・習慣とは言い難いものが多い。

 皇室神道は宮中で行なわれる神道的な祭祀である。大嘗祭もその一つで、平成となってのものは1990年11月に、また令和になってのものは2019年11月に行なわれたので、知る人も多くなった。皇居内には宮中三殿と呼ばれるものがある。1888(明治21)年に完成し、賢所、皇霊殿、神殿の三つからなる。賢所には天照大神の御霊代である神鏡があり、古代から宮中で奉斎されてきたものである。皇霊殿には歴代天皇と皇族の霊が奉斎されている。神殿には天神地祇と八神が合わせ祀られている。この二つは明治時代に新しく宮中に遷座された。

 国家神道は戦前の神社と国家との強いつながりに着目してのものだが、これをどうとらえるかには激しい論争がある。国家神道という概念は曖昧過ぎるという立場や、現在の神道にも広く国家神道的形態がみてとれるとする立場などがある。国家神道という言葉自体は第2次大戦後GHQが神道指令の中で用いたことで広まったものであるので、こうした経緯も論争に関わりを持つ。

 

神道の区分の難しさ

 これらの区分は厳密なものではなく、仮に区分したとしても実際には相互に複雑に入り組んでいる。神社神道と民俗神道とは分かちがたく結びついている。春夏秋冬、毎年季節ごとに行なわれる年中行事を考えればいい。今日約7割の日本人が初詣に行く。成田山新勝寺、川崎大師のような寺院に行く人もあるが、神社に行く人の方が多い。神社という場で初詣がなされているという点に注目するなら神社神道の行事であると言える。他方、年によって神社に行ったり寺院に行ったりしているような人にとっては、神社の行事というよりはむしろ習俗として受け止められている。そうなると、民俗神道的な行事と考えることもできる。

 七五三も同様である。七五三が比較的広く祝われるようになるのは江戸時代である。11月15日に行なわれるようになったのは、この日に徳川五代将軍綱吉が病弱であった息子の無事な成長を願ったからとする説が有力である。19世紀に活躍した浮世絵師歌川国貞は「七五三祝ひの圖」を描いている。裕福な家の子どもが着飾った姿である。千歳飴をもった子どもがいる。七五三が今日のようにきわめて一般化するのは明治以降、とくに20世紀にはいってからである。七五三は人によって神社に行ったり寺院に行ったりする。家族で写真は撮るけれども、とくに宗教施設に行かないといった人もいる。それでも神社にとっての行事であるとみなせるし、民俗神道的な行事とも言いうる。

 神社神道と教派神道も一応は分けられるものの、少し詳しく調べてみると、境界線が見分けにくい場合がある。出雲市には古代から続く出雲大社があるが、そのすぐ近くには明治期に設立された出雲大社(おおやしろ)教がある。出雲大社は神社だが、出雲大社教は神道教派である。出雲大社教の神殿(神楽殿)の正面には大きなしめ縄がある。両者を神道の異なった形態というふうにとらえる人はごく一部である。出雲大社が神社と神道教派とに分かれたのは、明治政府の宗教政策が直接的に関わっている。

 神習教は1882年に神道教派として一派独立し、戦後も宗教法人として活動を継続している。現在東京都世田谷区にある本部には桜神宮と呼ばれる建物がある。近辺の人は神社として接していて、初詣には多くの参拝者が訪れる。神習教は戦前から続いている教派神道連合会に所属しているが、一般には神社というふうにとらえられている。

 教派神道と神道系新宗教の区別も難しい。これについては第2章で詳しく述べる。教派神道は民俗神道とも密接な関係にある。年中行事や人生儀礼との関わりは深い。御嶽教、実行教、扶桑教のように山岳信仰を中核においている教派であると、日本人が富士山、御嶽山といった山々に抱いていた信仰心に基づいた活動をしている。戦前には「宗教ではない」とされた神社は葬儀に関われなかったが、教派神道はそれぞれの儀式スタイルによって神葬祭を執行することができた。それゆえ葬儀という人生儀礼には、神社神道よりも密接に関わってきた。戦後は神社神道でも葬儀を行なえるようになったので、新たに神葬祭を始めた神社が出てきた。

 皇室神道は宮中の祭祀であるので、日常的には神社神道、教派神道、民俗神道とは接点が乏しいように感じられなくもない。だが皇室神道の祭祀や儀礼の意義、淵源は神社神道と切り離して考えることはできない。日本神話ではスサノオが出雲でヤマタノオロチを退治したときオロチの尾からみつかったのが草薙の剣である 。スサノオはこれをアマテラスに献上した。そして三種の神器のうちの一つになったとされる。草薙の剣はのち熱田神宮に御霊代(みたましろ)として奉られるようになったと伝えられている。八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)(草薙の剣)の三種の神器は、天孫降臨に際しアマテラスからニニギに授けられたとされ、皇位の印(レガリア)となっている。歴史的には神社神道の根幹には常に天皇制度が位置しているし、明治以降の神社神道ではとくにこの点が重視されている。

 

神道の境界線の揺れ動き

 神道の区分が入り組んでいるように見えるのは、神社神道、教派神道、民俗神道といったそれぞれに明確な境界線があると考えた場合である。実際に起こっていることを理解していく上では、境界線にとらわれない見方を導入した方が分かりやすい。個々の儀礼や観念、あるいは組織の継承や広がりのつながり(ネットワーク)に注目するなら、境界線のようなものはかなり柔軟に設定できる。国家神道についての議論の入り組みも、この点が関係していると個人的には考えている。境界線の揺れ動きについて少し具体的に説明する。

 神社神道など先にあげた区分それぞれに、もし明確な境界線を設けようとすると、やはりある程度の定義が必要になる。そこでは神、儀礼、信仰形態、組織形態、教典などについて特徴づけがなされるだろう。しかしそのいずれも区分されたそれぞれの神道の形態に複雑に関わっている。八百万神と言われる神道の神々は、神社神道だけに専有されているわけではない。神社神道や皇室神道において重要な位置を占めるアマテラスは、黒住教においても中心的な崇拝対象の一つである。祭祀のときに神前に神饌(しんせん)を供えるのは、神社神道、教派神道、神道系新宗教に共通する。日本神話に描かれた神々の姿から神のはたらきを読み取ろうとする姿勢も神社神道に限らない。祭りそのものよりも地域住民のつながりの再確認が重要な機能だというのは、氏子によって支えられている神社や民俗神道の行事に共通する点である。

 聖地にしてもそうである。富士山は現代では世界遺産に登録され観光資源ともなっている。しかし古代から霊山とされ、神そのものとされたりしてきた。浅間(せんげん)神社では木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)を祭神としている。江戸時代に盛んになった富士信仰においては、修行の場であり、明治以降は実行教、扶桑教という教派神道にとっての聖地であり修行場である。明治期に扶桑教次いで神道本局に所属し、戦後は独立の宗教法人となった丸山教は伊藤六郎兵衛を創始者とするが、富士信仰が中核にある。

 聖地は平成時代に突如として起こったパワースポットブームの対象ともなった。これは神社神道や神道教団が提唱したものではなく、むしろメディアを主たる媒介物として広がったものである。たとえば、2009年には明治神宮の境内地にある清正の井(戸)が、テレビを通してタレントによって紹介されたことを機に、一気に多くの人がパワースポットとして訪れるようになった。聖地とされていた山、宗教施設内の石や樹木などといったものがその資源として着眼された。聖地はスピリチュアルブームの一環を占めるが、スピリチュアルブームは民俗神道とも、神社神道とも、そして教派神道とも、つながっている。

 神道では死を穢れとする観念が古くからある。神仏習合という現象とともに、神仏隔離と呼ばれる現象がある。神と仏が一体に融合せず、違うものであるという観念が保たれた結果の現象である。伊勢神宮では仏教に関する言葉を忌詞(いみことば)として、別の言葉で表現した。仏を中子(なかこ)、経を染紙(そめかみ)、寺を瓦葺(かわらふき)、僧を髪長(かみなか)などとあらわした。仏教との境界線の一つがここにある。しかしその境界線は強固なものではない。神社の中には今でも葬式をやらないところがある。また習俗的な面で見れば、葬式の参列者に祓い塩が配られる。死を穢れとする観念はあちこちで観察される。

 このような揺れ動く境界線をどのような観点から見ていくか。文化的に継承されてきたもののうち、近代においても何が継承すべきものとして選ばれたのかである。神社神道、神道教団などにおいて、何が重視され、何があまり重視されなかったか。どのような神道の形態においても重視され継承されたものと、多様な継承の仕方が生じたものとが見出せるか。ここに近代日本が抱えていた問題に対する宗教的応答の一端が見いだされるし、また人間が常に関心を抱きやすいもの、反応しやすいものは何かを考える手がかりがある。

 

書籍

『神道の近代――変貌し拡がりゆく神々』井上順孝

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