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序章 パリ・シャンゼリゼ劇場 一九一三/一九五四/沼野雄司『エドガー・ヴァレーズ』

2017年~18年にかけて旧「Web春秋」で連載された「孤独な射手の肖像 エドガー・ヴァレーズのとその時代」が、このたび単行本『エドガー・ヴァレーズ 孤独な射手の肖像』となりました。その序章をためし読み!


 

 

 パリのシャンゼリゼ劇場は、「モンテーニュ通り一五番」という住所からもわかるように、シャンゼリゼ通りではなく、一本脇に入ったモンテーニュ通りに位置している。アール・ヌーヴォーの旗手アンリ・ヴァン・デ・ヴェルドの基本設計を、コンクリート建築の祖ペレが引き継いで完成させたというその外観と内装は、そう思ってよく観察してみるならば、なるほど二〇世紀初頭の建築様式のハイブリッドといってよい複雑な様相を湛えていよう。

 劇場がドビュッシーの『遊戯』で杮落としを終えた二週間後の一九一三年五月二九日。

 この日、イーゴリ・ストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』の初演が怒号と混乱の内に行なわれたことは、音楽史の中でも有名なエピソードの一つとして知られている。多くの聴衆は何事かを叫び、怒鳴り、床を踏み鳴らしながら作品に対する抗議を表明したという。複数の証言は、劇場の中がことによっては暴動にさえ発展しかねない、危険な状態だったことを知らせている。

 聴衆の拒絶反応は、まずはニジンスキーのあまりにも土俗的で洗練を欠いた振り付けに向けられたようだが、拍節リズムを徹底的に破壊し、さらにはすべての楽器を思い切り「下品」に鳴らしながら極彩色の音響を奏でたストラヴィンスキーの音楽が刺激的であったことも、その大きな理由に違いない。面白いのは、公演の首謀者であるディアギレフが、この騒動を事前に予想していたらしいことだ。その意味で、このスキャンダルは、半ば予定通りに引き起こされたものだったともいえる。当のストラヴィンスキー自身、のちに次のように述懐している。

 この大変な「公演」のあと、私たちは興奮し、怒り、うんざりしていたが…それでも幸せだった。私はディアギレフ、ニジンスキーとともにレストランに入った。ディアギレフは泣くこともなく、プーシキンをつぶやくでもなく、単に「まさに私の望んでいたことだ」とだけ言った。彼はまったく満足そうだった。宣伝というものの価値をディアギレフくらい理解している人はいないから、つまり直ちに彼はその日に起こったことの価値を理解したのだ。おそらく彼は、私が最初にこの曲をピアノで弾いて聴かせた時から、このスキャンダルが起こる可能性を計算していたに違いない。 (Stravinsky 1959, 48)

 来たるべき大衆時代は、スキャンダルこそがもっとも効果的な宣伝になることを、このロシア・バレエ団の総帥は一九一三年の時点で正確に把握していたというわけである。そして実際、この事件はストラヴィンスキーという作曲家にとって、むしろ絶好のカタパルトになった。再演を重ねるたびに『春の祭典』は評価を高め、一九二〇年代半ばまでにはイギリス、ロシア、アメリカ、ドイツ、イタリア、スイス、ベルギー、オランダ、オーストリア…といった順で欧米の主要国、主要都市を次々に制覇してゆく。そしてもちろんご存知のように、現在においてこのバレエ曲は、二〇世紀における最高傑作のひとつとして、ゆるぎない古典の座に就いている。

 音楽から一九世紀の残滓を暴力的に引き剥がし、輝かしい二〇世紀をもたらしたという意味において、まさにこの騒動はストラヴィンスキーにとっては春に行なわれた勝利の祭典だった。

 他方、これほどは有名でないエピソードだが、この四一年後の一九五四年一二月二日、同じパリのシャンゼリゼ劇場において、ヤジと怒号、そしてその間にまばらに挟まった支持の拍手といった混乱状態の中で演奏された作品がある。タイトルは『砂漠 Déserts』、作曲者はフランス出身で後にアメリカに帰化したエドガー・ヴァレーズ(1883-1965)。

 『砂漠』は、管弦楽の演奏と騒音的なテープ音響が交互に置かれるという、当時としてはきわめて斬新な構成を持っている。楽曲は管弦楽部1→テープ部1→管弦楽部2→テープ部2→管弦楽部3→テープ部3→管弦楽部4という具合に進んでゆくのだが、当然ながら演奏会においては、管弦楽部分は生で演奏され、途中に挟まるテープ音響部分は、あらかじめ録音されたものがスピーカーから流されることになる。

 自分の作品を「組織された音響」という語で表現していたヴァレーズにとって、戦後にフランスであらわれたミュジク・コンクレート、すなわちテープレコーダーに様々な音を録音し、それに変調などを加えて一つの「音楽作品」にするという新しい音楽概念の登場は、願ってもない僥倖であった。この『砂漠』は、彼がそれまで培ってきた管弦楽の手法と、新しいミュジク・コンクレートの概念を融合させようとする試みといえる。苦労してアンペックス社のテープレコーダーを入手したヴァレーズは、さっそく助手とともに様々な試行錯誤を経たのち、コンクレートの創始者であるピエール・シェフェールのパリのスタジオで一九五四年一〇月、テープ音響の部分を完成させた(1) 。

 一二月の初演を担当したのは、現代音楽に造詣の深い指揮者ヘルマン・シェルヘンとフランス公共放送フィルハーモニー管弦楽団(現・フランス放送フィルハーモニー管弦楽団)。これは、ほぼ理想的な組み合わせといってよいだろう。しかし彼の生まれ故郷であるパリは、この作品をすんなりとは受け入れてくれなかった。初演の様子を収めた貴重な録音(当日のラジオ放送を録音したもの)は、会場の空気を意外なほど鮮明にとらえている(2)。

 最初の管弦楽部でこそ神妙に聞き耳をたてていた聴衆は、しかし、「テープ部1」に入るとくすくすと笑い声を立てはじめ、やがて一人の男が何事かを叫んだのを引き金にして、明確な非難と罵りの声を発するに至る。同時に聞えてくるのは、それらと対抗するような、支持とおぼしき拍手や「シーッ」という静止の声。徹底的な拒否と、新しい芸術への支持という両極端の反応の中で、しかし大部分の物言わぬ聴き手の「いったいこれは何なのだ…?」という素朴な戸惑いが、録音からは濃厚に漂ってくる。

 このヤジや嘲笑はしばしば静まりもするが、断続的に演奏中に沸き起こり、およそ二六分にわたる楽曲が終了した後は、盛大なブーイングと盛大な拍手が会場に満ちることになった。こうした中で平然と(?)指揮を続けたシェルヘンも、たいしたものである。

 かなり面白い偶然といってよいと思うのだが、実はヴァレーズは、一九一三年五月二九日の夜、シャンゼリゼ劇場にいたらしい。少なくとも本人はそう述懐している(3)。まだ二九歳だった彼がその時、どういう思いで『春の祭典』初演を聴いたのか、そしてあの騒動を見ていたのか(あるいは騒動に参加していたのか)はよく分からない。しかし、当然ながらそれから四一年を経て、自らが同じ場所で新作を発表したとき、彼の脳裏には間違いなくあの日の記憶がよぎったはずだ。

 『砂漠』初演から数年を経た一九六〇年六月二四日の手紙の中で、彼は盟友の作曲家カルロス・チャベスに対して騒動の理由を次のように述べている(4)。

 シェルヘンによってシャンゼリゼ劇場で行なわれた一九五四年の初演は、パリが経験したことのないような騒動になりました。しかし、これはチャイコフスキーとモーツァルトの間で演奏されたのです。つまりまったく「慣れていない」聴衆と、少数の「興味のある」聴衆の中です。後者はブーイングに立ち向かってくれました。

 確かにその通りではある。当夜の演奏会は最初にモーツァルトの『大序曲変ロ長調K.311a(Anh.C11.05)』、続いてヴァレーズの新作、休憩をはさんだ後半にチャイコフスキーの『交響曲第六番(悲愴)』というプログラムだった。モーツァルトの典雅、チャイコフスキーの哀愁を聴きに来た観客にとって、まるで鉄工所のような雑音がスピーカーから放出されるヴァレーズの音楽は、文字通りの騒音としか思えなかっただろう。

 それでも、どこか残酷な話ではないか。

 生涯にわたって新しい音響の創出を、ほとんどそれのみを志していたヴァレーズにとって、この作品の完成は、間違いなくひとつの夢の実現だった。後に詳しく述べるように、すでに何年も、いや何十年も前から心の中に温めて続けたアイディアだったのだから。

 ちなみに、映像作家ジャン= マリー・ストローブによる一七分ほどの短編映画「おお至高の光 O comma luce」(2009)は、この残酷な『砂漠』初演の録音をそのまま用いた作品である。この映画の中ではまず、『砂漠』ライヴ録音の冒頭七分ほどがそのまま流される。これは先の構成図でいえば、「管弦楽部1→テープ部1→管弦楽部2」と進んだ途中までにあたり、それゆえ当然ながら「テープ部1」におけるヤジと怒号はしっかりと収められている。おそらく、ヴァレーズの作品など知らない映画の観客は(普通はまず知らないだろう)、このやけに音質の悪い、雑然とした様相のライヴ録音はいったい何なのか戸惑うに違いない。しかも、この七分間、なんと画面は真っ暗なままなのだ(!)。まるで映写機が故障したかのように、一切、何も映らない。

 しかし「管弦楽部2」の途中、管楽器全体がクレッシェンドする一一七小節に到達した時。画面は突如として明るくなり、カメラがのどかな野外のベンチに腰掛ける男を映し出す。そして、音楽が途切れるや否や、男(ジョルジョ・パッセローネ)はダンテの『神曲』「天国篇」、最終第三三歌、第六七節「おお至高の光」を高らかに朗読し始めるのだ。

  おお至高の光、必滅の者達の理解から
  隔絶して昇る方よ、我が知性に
  あなたの顕した姿の幾許かを与えたまえ。
  そして我が言葉の杖にあふれる力を授け、
  あなたの栄光から発する閃光の一筋だけでも
  未来の人々に残すことをお許しあれ (原基晶訳)

 これは意表を突かれると同時に、どこか感動的な瞬間だ。音楽が高揚を迎えた途端に静止し、そこに「O comma luce! おお至高の光」とパッセローネの芝居がかった発話がつながれる部分は、明らかにベートーヴェンの「第九」でバスが「O Freunde! おお友よ」と歌い始める部分が意識されている(5) 。そして映画は、このままパッセローネがダンテのテクストを「天国篇」の最後まで断続的に朗読するだけで、あっけなく終了してしまう。つまり、ここには一般的な意味における物語はまったく存在しないわけだが、ストローブあるいはストローブ= ユイレの映画にあって、これはむしろ普通のことではある。

 それにしても、ストローブはなぜヴァレーズの『砂漠』を、しかも初演のライヴ録音の冒頭部分を使ったのだろう。朗読されるのがダンテの「天国篇」最終部であることに鑑みると、『砂漠』の初演における騒動はまさに「地獄」と「煉獄」のようであったということなのか。それとも、ダンテが長い旅の中でついに天国に到達し、そこで最終的には神との合一を得る場面で描かれる鋭い光や閃光、「必滅の者達の理解から隔絶」した光をヴァレーズの音楽の中に見たのだろうか。真相は分からないけれども、ヴァレーズの音楽を知るものにとっては、不思議なほどに鮮烈な印象を与える映画ではある(6)。

 さて、一九五四年一二月二日のシャンゼリゼ劇場に戻ろう。ここで起こったことは、いったい何だったのか。

 『春の祭典』のスキャンダルの反復? いや、この騒動は、ストラヴィンスキーのそれのような輝かしさや伝説的なオーラをまるで欠いている。そもそも、ストラヴィンスキーとヴァレーズはたった一つしか歳が違わないことに注意しなければならない。すなわち『春の祭典』の作曲家が三一歳で受けた試練を、ヴァレーズは七〇歳で体験したのである。この違いは決定的だ。彼は、このあとほんの二作品を残して――その中にはきわめて重要な『ポエム・エレクトロニク』が含まれているが――世を去ることになった。

 生まれ故郷のパリで直面した、この冷やかしと怒号と支持が混ざり合ったシャンゼリゼ劇場の喧騒の中で、七〇歳のヴァレーズは、いったい何を思っただろうか。本書は、あれこれと寄り道しながらも、まずはこの想念にたどり着こうとするささやかな旅である。旅は、リヨンから北に一〇〇キロほどのぼったヴィラールという小さな村から始まる。

 


(1) その後、このテープ部分の音響は三度改訂された。三九〇頁参照。
(2) (CD)Tahra TAH599-600
(3) ナンツも正しく指摘するように、ヴァレーズが一九一四年四月二五日にシャンゼリゼ劇場で行なわれた演奏会形式での再演(指揮はモントゥー)に出席したことは間違いないながらも、一九一三年五月の初演時、劇場にいたというのは若干疑問である(Nanz 2003, 32)。
(4) ザッハー財団ヴァレーズ・コレクションMF300.1-0795
(5) ヴァレーズ・ファンならば『エクアトリアル』の中でバスが導入される部分を思い起こすかもしれない。
(6) ダンテの『神曲』はヴァレーズの愛読書のひとつだった。

 

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