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エソテリック・レッスン――シュタイナーの読み方

 

 

 魂が渇望してシュタイナーの書物に向かうこと。それがシュタイナーを読む上で何よりも大事であることを、『秘教講義』は思い出させてくれる。魂が渇望して読む時、読むことが内面への旅になるのである。『秘教講義』は私にとって今、そのようなシュタイナーの書物にふさわしい読み方を、ふたたび取り戻すための書物となっている。

 私がはじめてシュタイナーを読んだのは、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』であったが、その前半の一章一章を、何度も何度も繰り返して読んでいた当時は、本当に魂が渇望して読んでいた。渇望していたことだけが、今その読書体験として思い出される。私にとって、人智学体験の原点であり、最も大切な人智学体験のひとつである。まだシュタイナーの書物は、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』と『神智学』と『アカシャ年代記より』しかなかったし、人智学の講座にも参加しておらず、ひとりで読んでいたのだが、いつかまたあの頃の真剣さで人智学に向き合いたい、と思うことが今でもある。あの渇望は何だったのか。

 そのひとつのヒントとなることが、『秘教講義2』に収録されている、1923年年末の、一般人智学協会の設立のためのクリスマス会議で語られていた。シュタイナーは、現代の私たちがその中を生きている闇に抗して、霊界から光として、アントロポソフィアという人間の根源―霊的な啓示が、魂の中に注がれているということを、以下のように述べている。

 

 今の時代状況は、これまで以上に、人智学のような精神運動が地上的な利害関係によって生まれたのではないことを、銘記する必要を感じさせます。ですから今日、私はこの会議の冒頭で、次の事実に注意を向けたいのです。すなわち、19世紀最後の三分の一の頃から、唯物主義の波が高まる一方で、この唯物主義の波の中へ時代の反対の側から壮大な波が、霊的な啓示の波が打ち寄せている、という事実にです。感受性の豊かな人なら、その霊的な啓示の波を、今の時代状況の中で感じとることができます。霊的なものの開示が人類のために始まったのですから。

 そして、地上的な利害打算からではなく、まさに霊界から響いてくる呼び声が、近代の精神生活のための啓示(複数)が、人智学運動を生じさせました。ですから人智学運動は、その全体も細部も、神崇拝の運動であり、神々崇拝の運動です。

 人智学運動に関わるための正しい心構えは、この運動全体を神礼拝と見ることです。私たちは、この会議を始めるに当たって、この心構えで臨み、そして人智学運動に参加する一人ひとりの魂を、霊界における人間のと結びつけたいと願っています。

(12月24日、『秘教講義2』303ページ)

 

 この「一人ひとりの魂を、霊界における人間のと結びつけたいと願って」、「近年失われかけていた課題を、ふたたび取り戻したいと」(『秘教講義1』第1講冒頭)いう思いから、『秘教講義』に収められている、霊学自由大学の第一学級のための秘教講義が行われたのである。この人間の根源の霊的な啓示のことを、シュタイナーはアントロポソフィアと呼んでいたようである。翌日の25日の講演でシュタイナーは、二度アントロポソフィアという言葉を使っている。

 

 大戦の嵐の中の…この十年間に私は、人間が身体的にも、代謝・肢体系、心肺・律動系、頭部の思考・知覚系の三分節化の中で生きていることを指示してきました。

 そして人間は、昨日述べたように、みずからの心をアントロポソフィアで満たしつつ、この三分節化を正しく受け容れるならば、感情と意志をも同時に働かせて、自分の行為の本質を認識するようになります。

(12月25日、『秘教講義2』334ページ)

 

   (「愛の礎石」の三分節化のマントラに連なる部分の、それぞれの最後の言葉。)
   Ex deo nascimur 「神から人類は生じる」、
   ………
   ln Christo morimur 「キリストの中で死は生に変わる」、
   ………
   Per spiritum sanctum reviviscimus「霊の宇宙思考の中で魂は目覚める」、
   この声を四大の霊たちが聴く、
   東で、西で、北で、南で
   人間もそれを聴くがよい。 

 愛する皆さん、この声を聴いて下さい。皆さん自身の心の中に響いてくる声を。そうすれば皆さんは今、アントロポソフィアのために、人びとの本当の結びつきをこの場所で基礎づけるでしょう。

(同336ページ)

 

 地上的な利害打算を強める唯物主義の高まりに抗う、人間の根源の霊的な啓示であるとシュタイナーが言うアントロポソフィアは、「内なる人智学」と言えるような、現代人一人ひとりの中にある本来の存在のヴィジョンではないか、と私は考えている。そしてそれは、クリスマス会議で贈られた「愛の礎石」のマントラの、「時代の変わるとき、宇宙の霊の光が地上の存在の流れに加わった。夜の闇はその支配を終えた。昼の光が人間の魂の中で輝いた」という言葉が示唆するように、闇の中にいる現代人の魂に、光として霊界から注がれているのである。このアントロポソフィアのことを知って私は、魂が渇望してシュタイナーの書物を読んでいる時には、内面に秘められているこのヴィジョンの存在を感じて、それを求めて読んでいるに違いない、と思うようになった。この「内なる人智学」の光を求めているからこそ、渇望する読書は、内面への旅となるのである。

 そのような読書の中では、シュタイナーの書物は、シュタイナーのいうミカエル的な在り方をしているのではないだろうか。ミカエルとは、物質界に生きている私たちを、霊界の神々と結びつけようと望んでいる存在であるという。物質界に存在することはないが、私たちの魂が自由を求める時に、物質界に隣接した超感覚的世界、イマジネーション的世界で、私たちに寄り添い宇宙遍歴の手本(道)を示してくれる。けっしてこの世の私たちを強制することのない存在、いわば人間の自由の神様である。シュタイナーの書物は、ミカエル的な在り方をする時、神々から与えられている私の「内なる人智学」への道行を、照らしてくれるような働きをするのである。

 もちろん書物として、この物質界に存在しているシュタイナーの書物は、シュタイナーのいう物質界のアーリマン(いわば人間の権力衝動の神様)的な在り方の下で存在している。だから、自分の権力衝動を嫌悪し、それを逆転させようとする魂の衝動(憧れ)が働かない限りは、この世での自己所有を何らかのやり方で強めるために、知性を使って利用する素材である。

 だからシュタイナーの書物は、渇望する読者にとっては、矛盾的存在として現れる。物質的であるが、霊的にもなる。権力のものにもなるが、自由のためのものにもなる。そして、読むことはひとつの内的な闘いとなる。シュタイナーを読んでいる私は今、闇と光、外と内、どちらを真実とし、どちらをマーヤーとするような読み方をしているのだろうか。それは渇望する読者である私が、読む中で自分の心に問う、自分にしか意味のない問いである。その意味で、それはそのまま、マントラによる瞑想の在り方ともつながっている。

 マントラを瞑想する時、意味を理解することとイメージに没頭することとの間で、私は常に揺れている。マントラは、意味を理解し分かってしまえば、自分の所有物になる。しかしそのように自己所有が強まっても、自分が闇のままであることに変わりはない。逆にマントラのイメージに没頭する時は、自分から離れることで、光に向かうことができる。それは長くは続かない。しかし少しでも光に向かわないと、自分の闇を闇とは感じられない。自分を闇と感じるからこそ、光を求めるようになるのである。

 そういう内的な闇と光の闘いの場となるシュタイナーの読書、そして瞑想は、それ自体が本来ひとつの秘教の授業(エソテリック・レッスン)である。そして現代においては、読書と瞑想がそのように秘教の授業になれるからこそ、人智学は、シュタイナーの書物を通して、どこまでもひとりで学ぶことができるのである。そして人びとの中で、「人智学による生活」を営むことができるのである。

 逆に言えば、内的にひとりで向き合えない限りは、読者である私に、自己と対話する内面の闘いの場は開かれてこず、人智学を読むことは、「内なる人智学」を求める秘教の授業にはならないであろう。例えば、人智学を何かに正当化するためや、人智学の何かの運動を実践するために読んでいる時には、人智学に自己を託して、いわば社会的に人智学を読んでいるのであって、内的にひとりになって人智学と向き合っているわけではない。人智学のために人智学を読んでいても、「内なる人智学」の光を求めて読んでいるわけではないのである。内的にひとりで向き合うことではじめて、人智学を読む自分の魂の光と闇があらわれてくる。

 昨年の11月末から12月半ばにかけて、秘教講義が『秘教講義1』、『秘教講義2』として春秋社から続けて出版された。その後に訳者である高橋巖氏の年末恒例の京都での講演会があり、私はその講演を、ちょうど出版された二冊の『秘教講義』のもうひとつのあとがきとして聞くことができた。そこでもシュタイナーの読み方のヒントを得ることができた。

 『人智学とは』というその講演の冒頭で語られた、人智学は、絶対的な真理を提示しようとするようなものではなく、それを「自らの状況の中で」受け取る人が、自分の思考に羽を与えて羽ばたかせて語るものである、という言葉に励まされたのだが、人智学の本質に根差した読み方を、端的に述べていただいたように思えた。

 例えばシュタイナーにとって自由は、若きシュタイナーの主著である『自由の哲学』に書かれていることを、「知識のジュースを絞り出して」語ることに自由があるのではなく、それとひとつになるように受け止めた人の思考が、羽をつけ、羽ばたくことで自由になるのである、ということを熟年のシュタイナーも言っていたことに、あらためて気づいた(『シュタイナーの言葉』の「自己知覚」と「魂の力を強める」)。『秘教講義』ではそれが、マントラとひとつになる瞑想を通して、内面の深淵を飛び越えるための羽を得るようになるところまでいく。

 この羽を得て飛翔する精神は、神智学者となったシュタイナーの秘教講義の、最晩年までの主導精神であった。シュタイナーは秘教講義を、1904年の神智学者としての活動の初期から、1924年の一般人智学協会を設立した後の最晩年まで続けている。1914年に第一次世界大戦が始まってから、戦中、戦後の数年間はほぼ中断していたのだが、それまでは、神智学協会員(人智学協会設立後の13年からは人智学協会員)に向けての連続講義や一般に向けての公開講演を各地で行う際に、特定のメンバーに向けての秘教の授業も同時に行っていた。だから膨大な講義録や講演録や著書として記録されている教育以外に、膨大な秘教講義が行われていたのである。それは、シュタイナーが何よりもまず、秘教の教師であったからである。

 シュタイナーは秘教つまり霊界通信を、まずひとり或いはごく少数の身近な人たちに、語ることで反応を得た。そして特定のメンバーへの秘教の授業である秘教講義を行った。その後に協会員への講義でその内容が伝えられ、一般向けの公開講演の中にその内容が盛られていった。だからシュタイナーは、彼のどの講義、講演の中にも秘教が含まれている、と言っている。それが彼の使命である、現代の時代状況が求める秘教の公開なのであるが、それは「内なる人智学」を感じて秘教を求め、受け止める人たちの存在を前提としていた。

 だからシュタイナーは、秘教の授業――瞑想のための授業――の親密な教育の場を通して、受け取ろうとする人の、光を渇望し内的に闘う魂を鼓舞しつつ、秘教を伝えていったのである。いわばそういう魂に羽を与え、羽ばたかせようとしたのである。秘教の公開がシュタイナーの「人類の教育」であったとしたら、秘教の授業はそのひな形であったであろう。だから私たちが渇望する読者としてこの『秘教講義』を読み、親密な秘教の授業に参加して、羽を得るならば、シュタイナーの凡ての講義や講演や著作が、アーリマンに親和的な文献から、よりミカエルに親和的な秘教として、甦ってくることにもなるであろう。『秘教講義』を読むことで、いわばミカエルと共に飛翔する読み方を学ぶのである。

 シュタイナーの人生を通した凡ての教育活動の中でも、特に自由の精神の実現のために行われたと言える、このような秘教の授業の特質は、これから出版される『秘教講義3』で、より明らかになるであろう。そこには、神智学時代の1904年から1913年までの秘教講義、1913年に人智学協会が設立されてからの、最初の長いサイクルの連続講義で語られた包括的修行論、そして最晩年の、すべての人智学運動の基盤となる人智学の総括的な瞑想論が収められている。

 その自由の精神のことを、シュタイナーは晩年になるにしたがい、ミカエルの精神として強調するようになっていった。それは第一次世界大戦前後の時代における、シュタイナーが言う技術と産業と営利主義による、アーリマン的な権力衝動のいっそうの高まりに、呼応したことであった。そういう時代の中で、シュタイナーにとって瞑想は、「ミカエルとその眷属の行為と使命とに心を同化させる」(『ミカエルの秘儀』1924年10月25日)ことであったであろう。その瞑想のための秘教講義は、ミカエル的精神に貫かれていた。

 このことは最晩年の秘教講義で明示されていた。もう一ヶ月後には人びとに語りかける演壇に立てなくなる1924年8月末、ロンドンでのシュタイナーは、秘教講義をミカエルとはっきりと結びつけたのである。9月からのドルナハでは、予定していた第二学級の開講ではなく、第一学級の再講義を行うことになったのだが、7日間だけ続けることができたその再講義では、それが本当に確実にミカエルと心を合わすものであり得るように、と最後の力を振り絞るようにして、黒板にマントラを板書し、そこにミカエルのしるしを刻みつけている(『秘教講義2』黒板絵参照)。マントラがミカエルとひとつである状況から、私たちの魂の眼が離れないようにしたのであろう。マントラを瞑想することが、ミカエルの働きを受けることになる、その状況から離れない限り、『秘教講義』を読む私たちは、「内なる人智学」への旅を続けていけるのである。逆に言うと、自分の中のアーリマン的権力衝動の闇を意識すればするほど、「内なる人智学」の光への渇望は強まり、ミカエルと結びついた読み方をしようとするのである。

 『秘教講義』は、闇を人智学で克服した者が、今度は闇に光をもたらす存在となるために読むような本ではない。闇の中にいることの自覚が深まるからこそ、「内なる人智学」の光を求め、内面へと旅していくために読む本なのである。病を克服してから読むような本ではない。病んでいるからこそ、〈私〉の本来の存在の光を求め、「おお、人間よ、汝自身を知れ」と魂が渇望して読む本なのである。

 

関連書籍


ルドルフ・シュタイナー(高橋巌訳)『秘教講義 1』


ルドルフ・シュタイナー(高橋巌訳)『秘教講義 2』

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著者略歴

  1. 飯塚立人

    京都、宇治に生まれる。高橋巖著『神秘学講義』に出会い、シュタイナーを知る。京都教育大学で教育思想を学ぶ。1984年より高橋巖人智学講座を受講。1989年、渡米し、スタンフォード大学教育大学院博士課程でケアリングの倫理を学ぶ。帰国後、地元の短大で講師を務めた。1991年より、日本人智学協会会員。ケアリング人智学・シュタイナー研究。編著に『シュタイナーの言葉』(春秋社)。

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