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〈性〉なる家族 信田さよ子

母からの性的まなざし

男性の性被害

 専門家のあいだではよく知られていることだが、性虐待被害は女児だけでなく、男児にも多い。加害者は父・兄・祖父・従兄弟のような男性の場合と、母や姉といった女性の場合とがある。アメリカの映画を見ていると、父からの性虐待を大人になってから告白する男性が時々登場するが、母からのそれについてはなかなか語られることはない。まして日本では、「男性=加害、女性=被害」という固定化されたジェンダー観から、男性の性被害者の存在そのものが幾重にもタブー化されて不可視にされている。能動的で性的主体である自分が、母(性に関しては受動的で性的対象である女性)から性被害を受けるのである。そこには女性の性被害とは別様の強烈なスティグマが想定される。

 

 前回述べたように、レイプを伴うような性虐待は、やっと海面から顔を出して声を挙げられるようになった。しかし、いまだ深海における性虐待は秘され隠匿され、言語化されることなく本人の記憶の世界だけに棲息し、それが「被害」と定義され名付けられることを待っているのだ。

 これは男性においても同様である。「男性は加害、女性は被害」というジェンダーによる縛り(性的能動者でなければ男性ではない)が存在するがゆえに、深海どころか、さらなる光の届かない暗闇のなかで、彼らはその記憶を半ば忘却したかのように封印して生きている。

武勇伝に読み換える

 私立の中高一貫校(男子校)に通っていた知人から聞いた話では、毎朝授業が始まる前に、登校途中の満員電車の中で痴漢に遭ったことが武勇伝のように話されていたという。今日は中年のオヤジだった、俺なんかいつものおばさんだった、といったふうに。その話題でいつも盛り上がり、まるで痴漢に遭うことがステータスの上位を示しているようだった。「正直なぜ女性の痴漢被害がトラウマになるのかわからないんだよね」とカラッとした調子で語った彼は、私の同業者である。

 彼の話しから伝わってきたものは、痴漢被害に遭った女子高生のような怒りや怯えではなく、「加害者」という定義を無効化しようとする意思である。「させてやった」「哀れみとともに観察してやった」「困ったやつら」という言い方で能動性を誇示し、男同士でそれを笑いとともに語り合う。それは一種の性的イニシエーションを思わせる。性的客体・受動的存在として扱われたことを、痴漢者の欲望を喚起した主体と読み換え、面白おかしく観察しバカにする能動的ポジションに立つことは、ジェンダー化された言葉である「武勇伝」そのものなのだ。

 

 しかしそれは性虐待に対しても通用するわけではない。

 父から息子への性虐待の多くは風呂場で行われる。入浴中に性器を洗われながら弄ばれる、父の性器を触らせられる。そのことを母に訴えることは稀であり、息子がそうしないと確信して行われることは、父から娘への性虐待と全く同じである。

 ぼんやりとした違和感が、第二次性徴期を迎え性的成長を遂げる中で輪郭を持ち、あるとき父の行為は性虐待だったと気づく。能動的性の主体であるはずの男である自分が、受動的で性的客体だったことは、自らが「女性化」されるということに他ならない。この自覚は性的アイデンティティーの形成に揺さぶりをかけることになるだろう。

息子の身体をケアし世話する母

 母からの性虐待は、ケア・世話といったソフトな装いとともに行われる。息子と母が何歳までお風呂に一緒に入るかは、標準化されてはいない。温泉や銭湯の伝統のある日本では親子の入浴が微笑ましい光景なのである。中には中学校になってからも母親と入浴をする息子もいる。平日仕事で父親が不在であれば、息子が幼いころから母親とずっといっしょに入浴していることが当たり前の日常として続くだろう。母が息子の性器に触ること、性器の形状に関して論評することが起きても不思議ではない。息子の性器を洗う、観察する、それを隠そうとするのがヘンなことだという刷り込みを行う……このような母の行為は性的欲動を感じさせることはなく、むしろ自分を心配し、ケアしてくれているのだと息子を思い込ませるのに十分である。娘への性虐待が、父からの侵襲として記憶されるのに比べると、母は息子を侵襲するわけではない。自らの性器を触らせたり接触を試みるような母はほとんどいないからだ。それが彼らの受動性をますます強化することになるのは皮肉なことだ。

 のちにこのことを思い返した息子たちは、同性であり性的能動者である父からの性虐待(それによって自分は受動化、女性化される)とは異なり、性的客体であるはずの女性の親から受動化させられたことを自覚し、屈辱・恥によりスティグマタイズされる(=烙印を押される)のだ。それはどこか身震いするような記憶だろう。身体的苦痛が与えられたわけでもないぶんだけどう受け止めるべきか混乱し、定義する言葉がみつかるまで長い時が必要となる。

宙づりになった被害

 父の性虐待が「かわいがり」として行われるとしても、そこには疑いもなく性的欲動が存在する。しかし母の息子への性虐待は、ケアや世話、時には指導として行われる。彼女たちはどこまで性的欲望を込めているのだろう。

 サブカルの世界、とりわけマンガでは女性も「ムラムラする」とか「襲おう」とか表現する時代になったが、あくまで戯画化というワンクッションを挟まなければそれは無理だったろう。まして母から息子への性欲動などAVの世界でも少数派だ。

 あくまでこれは想像なのだが、息子の衣食住の世話をし、身体の管理ができる存在である母は、息子の性器すらもその対象に含めるのではないだろうか。彼女の意識ではそれは性的欲動ではなく、あくまで世話やケアの延長としての行為なのだ。したがって虐待者である自覚は、父よりも少ない。このことは、被害を自覚した息子たちをさらに「加害者の不在」という宙づり状態に陥れるだろう。

 母から娘へ

 では娘に対してはどうなのか。母親による性虐待にまつわるひとつのエピソードを述べよう。

 A子さんの母は、眠る前に必ず飴を舐めた。毎晩母が口の中で飴玉を転がすコロコロという音を聴きながら眠るのが、A子さんの習慣だった。

 小学校低学年だったか、朝目が覚めると、口のまわりにべっとりと飴が溶けたようなものがくっついていることがあった。奇妙なことに、下半身のももや性器のまわりにも同じようにくっついている。不思議に思ったが、母にそれを確かめることはできなかった。どこか秘密めいたものを感じたからだ。

 幼いながら、べっとりとしたものは母の舐めている飴玉が溶けたものだろうと推測できた。でも、どうやってそれをなすりつけたのだろう。不思議に思ったが、確かめることははばかられた。その後も数回同じことが起きたが、目を覚ますこともなかったので、朝起きて気づくたびに証拠がつかめないことを残念に思った。

 母はA子さんが中二のときに、自宅で首を吊って自殺した。第一発見者は学校から帰宅したA子さんだった。それから今日までいろいろな困難があったが、なんとか生きてきた。

 35歳になり、5歳の娘を寝かしつけていたある日、不意に記憶が蘇った。母の口の中で飴玉が歯にぶつかってコロコロという音がしたこと、そしてあのべっとりとした感触。

 A子さんは、眠りについた自分の身体を母が舐めまわしていたに違いないと思った。母の甘い唾液が自分の唇を濡らし、母の舌がさらにくだってお腹へと、そして性器のまわりを執拗に舐めまわす……。そんな光景を天井から見下ろしている気がした。母は黒髪をうねらせながら幼い私の身体にのしかかっていた。いったいあれは何だったのだろう。娘の成長を見届けることなく命を絶ったことと、まるで証拠を残すかのように砂糖の混じった唾液とともに娘の性器を執拗に舐めまわしたことはつながりがあったのだろうか。

 考えれば考えるほどわけがわからなくなったが、A子さんは考えた。自分は娘に対して決してそんなことはしない、娘が大きくなって自分の人生を歩めるようになるまで絶対に生きる、それだけは確かだと。

 これは特殊な例と思われるかもしれないが、母から娘への性的弄びはしばしば起きている。抵抗しない、まっさらな地図のような幼い娘の体を愛玩する姿は、父のように荒々しく侵入しないため、多くの記憶が時間と共に埋没してしまうのだろう。

 ブラジャーと初潮

 私が実施しているAC(アダルト・チルドレン)のグループカウンセリングでは、参加メンバーである女性たちが思春期の経験を語る。そのときに必ず登場する定番の話題がある。   

 ①彼女たちの半数以上が、思春期になってもブラジャーを買ってもらえなかったと言う。B子さんは、自分よりはるかに膨らみの小さい胸の友人が、デパートでちゃんとサイズを測ってもらってブラジャーを着けていることに驚いた。おまけに体育の授業のとき、更衣室でかわいい花の刺繍がほどこされたブラジャーを自慢げに見せられ、返答に困ってしまった。帰宅後母にそれを話したが、母は取りつく島もなかった。娘の胸が膨らんでいるのをまるで見ていないかのような態度を見ると何も言い出せなかった。目をそらすというより、乳房が存在しないかのように扱うのだ。結局B子さんは、お年玉の貯金をこっそりおろして、友達に付き添ってもらってスーパーの下着売り場でブラジャーを買った。母はそのことに気づかないようで何も言われなかった。B子さんはブラジャーを洗濯して干しておいたが、驚いたことに母はそれを取り込んだにもかかわらず、まるで何事もなかったようにそのことには触れなかった。

 ②もうひとつの定番は、初潮にまつわるものだ。彼女たちの中には母に初潮を告げたら、あからさまに嫌な顔をされた、聞かないふりをされた、「あんたも女になったのね」とため息をつかれた、「これからどんどんいやなことが起きるのよ」と脅された、など、およそ娘の成長を祝福するのとは無縁の対応をされた人が半数以上を占める。

 どのように毎月の生理を扱っていいのか、下着をどのように買えばいいのかに困って、友人の母親に教えてもらったという女性もかなり多い。

 娘が女になることがいや

 思春期になれば、胸が膨らみ生理が始まる。女性として成長すれば必ず迎えるこれらの現実を、母親が認めないどころか、ときには直接的・間接的に否定する。母親はいやなのだ。娘が「女性」になるのがほんとうにいやなのだ。

 娘には一足飛びに自分と同じ母、もしくは誰かの妻になってもらいたいのであり、宙ぶらりんの性的存在である「女」になることは認められない。母親にすれば、自分が女性であることが少しも喜ばしいことではなく、生理も汚らしいものであり、豊かな乳房も男からの性的まなざしの対象以外のなにものでもない。何より女性であるだけでどれほど損をしてきたかわらかない。結婚なんて騙されたようなもので、夢見た幸せなんか何一つ実現しなかった。そう思っているのだ。

 無邪気に思えた娘がとどめようもなく女になっていくことを、母は戸惑い、怖れ、どうしていいかわからず不機嫌になり、認めない。元服のようにこの世で権力を得るための第一歩ではなく、紅く染まる血とともに、受動的で性的欲望の対象となり、それを喜びとともに肯定しなければならない。初潮は、女性というセクシュアリティを受け入れることを意味することを、母は知っているのである。母が歓迎しないどころか嫌悪しているのを知るとき、娘にとっては女というセクシュアリティを同性の親から否定されるに等しい。

 ブラジャーや初潮は、娘が性的存在になることの記号だ。母に対して大きなインパクトを与え、母の嫌悪を喚起し、ときには奇妙な無関心を招く。しかし、このことに違和感を覚えたとき、娘は母との距離をとる大きなきっかけを手に入れることになるのだ。 

「ふしだら」という死語の活用

 上記のような母ばかりではないし、娘が性的に成熟することを歓迎する母もいる。お赤飯を炊いたりブラジャーをいっしょに買いに行くのを見れば、よき母に思えるかもしれない。しかしそんな母であっても、娘の行為が世間の目の許容範囲を超えたとたん、娘に対する態度を一変させ、「ふしだら」という死語まで動員して攻撃する。

 

 ある女性は、大学生の頃、門限が厳しく決められていたが、ある夜、帰宅が遅れてしまった。すると、母は激しく叱責し、居間で服を脱ぐことを命じた。そして全裸になった娘の身体をすみずみまでチェックし、「男と会ってきたんだろう」「何をしたんだ」「白状しろ」と、狂気に満ちたまなざしで、普段聞いたこともない口調で責めたてた。

 

 また、ある女性はこんな経験をした。久々に子ども二人を連れて実家に帰ったとき、母親が自分を一瞥し、「なに? その短いスカート。まるで売春婦じゃない」と言った。一度もそんな言葉を母の口からきいたことはなかった。あまりのことに驚いていると、息子が「バイシュンフって何?」と尋ねるので、さらに言葉を失った。ショックを受けた女性は、そのまま子どもを連れて実家を後にした。

 

 これらの例から浮かび上がるのは、母たちの同性(男性に対して性的な存在である)に対する差別視である。自分たちは結婚し家族をつくりまともな生き方をしている。女であることを売り物にした一群の女性たち(水商売の女性、売春婦など)とは違うのだ、彼女たちはふしだらで下賤である……。そういう女性蔑視が、娘の服装、異性との交際を目にするとき一気に表面化する。

 しかしその半ば狂気とも思える言動は、単なる差別以上のものを伴っている。一枚皮をはぐと、娘を厳しく囲いこんだのに裏切られたという怒りと、自分だってそのように性的放逸を実行したかったという無意識の羨望と嫉妬が渦巻いている。

 娘を裸にして身体検査する母たちの嗜虐的ともいえる視線に、彼女たちのなんともいえない屈折した性的欲望を感じさせられるのである。

 性的主体である「母」

 本連載では、これまで男性を加害者、女性を被害者という位置づけで述べることが多かったが、今回は家族における母たちの性加害性について述べた。

 能動と主体がついてまわる男性、受動と客体がつきものの女性というジェンダー観は、母たちの息子や娘に対する一筋縄ではいかないセクシュアルな行為につながっている。

 完全な被害者も完全な加害者もいない、という当たり前のことが、性加害・性被害においてはなかなか受け入れがたいのも事実である。PC(ポリティカリーコレクトネス)的な二分法だけではとらえられない、母たちの性的まなざしについて述べることで、問題の複層化、複雑さを提示したかった。

 母たちが性的主体になれるのは、夫との夫婦生活においてだ。結婚とはそのようなものだと考えられている。しかし現実はどうだろう。失望によって一部の母たちは、夫に対してでなく、息子や娘に対して性的主体性を発揮するのだ。夫以外の男性と不倫関係をもつチャンスも勇気もない彼女たちは、唯一自分よりはるかに弱者である子どもに対してのみ、性的まなざしを注ぐ。ケア・世話・しつけの延長線上にある母の性的行為は、父からの性虐待よりも、さらにわかりにくく、子どもたちにとって潜在化する経験なのである。

 

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著者略歴

  1. 信田さよ子

    1946年生まれ。臨床心理士。原宿カウンセリングセンター所長。アディクション全般、アルコール依存症、摂食障害、ドメスティック・バイオレンス(DV)、子どもの虐待などに悩む本人やその家族へのカウンセリングを行っている。著書に『母が重くてたまらない』『さよなら、お母さん』『家族のゆくえは金しだい』(いずれも春秋社)、『コミュニケーション断念のすすめ』(亜紀書房)、『傷つく人、傷つける人』(ホーム社)、『家族収容所』(河出文庫)、『家族の悩みにおこたえしましょう』『共依存 苦しいけれど、離れられない』『母・娘・祖母が共存するために』(朝日新聞出版)、『父親再生』(NTT出版)、『カウンセラーは何を見ているか』(医学書院)、『依存症臨床論』(青土社)、『アディクション臨床入門』(金剛出版)など著書多数。
    原宿カウンセリングセンター http://www.hcc-web.co.jp/

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