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不妊治療の保険適用を考える/久具宏司『近未来の〈子づくり〉を考える――不妊治療のゆくえ』

 2021年2月中旬に刊行された『近未来の〈子づくり〉を考える――不妊治療のゆくえ』では、これから可能になるであろうものも含めて生殖補助技術を紹介し、その問題点と社会的影響を多数の明快な図表を示しつつ考察している。

 社会的影響を考えるうえで見逃せないのが、2022年4月からの実施に向かって準備が進む不妊治療への保険適用である。

 本記事では刊行のきっかけとなった不妊治療拡大の問題点と、不妊治療の基本である体外受精について著者の久具宏司先生に語っていただいた。

 不妊治療への保険適用が始まる前に、それを考えるための一助となれば幸いである。


不妊治療が保険診療に

 2022年に、体外受精を含む不妊治療に保険診療が適用されることになった。保険診療になると、全国の不妊治療施設で行われる体外受精に一律の診療費が適用され、おしなべてこれまでよりも安価に受けられるようになるだろう。歓迎すべきことである。また、これまで法外な価格を設定していた施設にも適正な価格設定が求められ、また個々の施設の治療成績の開示にもつながり、受療するカップルにとって望ましい。現在、その準備として専門学会が標準的な不妊治療のガイドラインを作成中である。

 しかし、不妊治療は、各カップルに応じて必要とされる技術が異なったり、オプションとして付加される技術があったりで、治療手段を標準化することは難しい。しかも、その選択や適用の基準がわかりにくく、カップルにとって、何故その手技が必要なのか理解しにくいものも少なくない。このことは、不妊治療が保険診療になじまない一因であるとともに、保険診療化されても、さまざまな保険適用外のオプションが医師側の判断で付加される余地を残す原因でもある。

 そもそも保険診療は、健康を害している病の人に対して、保険に加入している多くの人が共同で支払う保険料の中から診療費をまかなうという相互扶助の原則の上に成り立つ。妊娠・出産や美容整形に保険診療が適用されないのは、それらが病ではないからである。不妊が病であるのか否かが問題となるが、この点は多くの論文によっても見方の分かれるところである。しかし、より大きな問題は、あるカップルが「不妊」であるということを正しく診断できるのか、ということである。私たちは、「不妊」とは何か、不妊治療はどのように行われるのか、もっと知る必要がある。

不妊治療に風穴を開けた体外受精

 現代の不妊治療の主流は体外受精である。体外受精は、1978年に英国において世界で初めて行われ、1983年に日本でも最初の子どもが生まれた。当初こそ「試験管ベビー」とも呼ばれ物議を醸したが、瞬く間に世界中に広がり、日本で2018年に施行された体外受精の回数は、全国で454,893回である。その中から56,979人の新生児が生まれたが、これは、1年間の全新生児の約16人に1人に相当する。不妊症の女性に対する画期的な先進技術として始まった体外受精は、ほどなく1匹の精子を卵子に注入する顕微授精までも可能とし、今や特別なものではなく身近な治療手段となっている。卵管閉塞の女性や乏精子症の男性など、それまで妊娠不可能と考えられていたカップルでもさほど苦労せずに子をもつことができるようになり、不妊の原因が明白でないいわゆる原因不明不妊の夫婦も、原因を追求することなく体外受精を駆使して妊娠にたどり着く。不妊のカップルには福音がもたらされ、不妊症治療に奮闘していた医師にとっては風穴が開けられたと言ってよい。

ジェンダーからみた体外受精

 体外受精を世界で初めて成し遂げたエドワーズ博士は、2010年にノーベル医学生理学賞を受賞した。授賞の理由は、ヒトにおいて卵子を体外に取り出し、培養液の中で細胞としての生きた状態を保つことを可能にした点である。精子が雄の体外に出て生殖能を発揮するのに対して、卵子は雌の体内で精子を待つというのが哺乳類の生殖現象の基本であり、ヒトも同じだ。精子と違い、卵子は体外に取り出すと途端に死滅していた。卵子を体外で活性を保ったまま受精させ、受精した受精卵すなわち胚をそのまま一定期間培養するという技術が賞賛を呼んだのである。

 生物学的な男女の違いという面から体外受精を見てみよう。精子と卵子の総称は配偶子であるが、同じ配偶子と呼ばれつつも、精子は体外で活動できるのに、卵子のほうは体外では死滅してしまう。体外受精によりこの差が埋められ、卵子は精子と同等となることができた。男女の平等が配偶子レベルでも達成されたというわけだ。体外受精のこの特徴により、当該不妊カップルの間に子どもを届けるだけでなく、卵巣から卵子を取り出すときの女性と、受精卵を子宮内に戻すときの女性を、別の女性が担うことが可能となった。卵子提供と代理懐胎である。こうして当該カップル以外の第三者の女性が生殖行動に関わることになった。卵子提供や代理懐胎は、日本では一般的ではない。海外の国々を見渡すと、広く行われている国から禁止されている国までさまざまである。

 同じ配偶子と呼ばれる精子と卵子のもう一つの大きな違いはその生成される過程である。精子が男性の精巣の中で次々に新たに作られ、かなり年齢が上昇しても生成が続くのに対し、卵子は、そのすべてが女性が生まれる前の胎児期に作られ、その後新たに作られることはない。年齢が上昇すると卵子の数が減り、またより古い卵子が排卵するために、女性は年齢の上昇とともに妊娠しにくくなり流産も増える。加齢はまさに女性にとって二重苦である。「妊娠適齢期」や「生殖年齢」という言葉が女性に対してだけ使用されるのは、このような特徴が卵子においてのみ見られるからである。

 精子と違い卵子は新たに作られることがない、という男女の差は、体外受精をもってしても埋められることはない。しかし体外受精の過程の中では、取り出した卵子を凍結保存することも可能である。女性がまだ若い時に卵子を取り出し凍結することにより、いわば時間を止めておいて、年齢が進んでから妊娠したい時にその卵子を「使う」ことができる。凍結保存は、いわばタイムカプセルだ。妊娠するのに年齢に左右されないという点でも、男女の差がなくなったと言えるのではないか。

不妊は曖昧

 年齢が上昇すると女性は徐々に妊娠しにくくなっていく。これは加齢にともなう生理的な変化である。この変化は通常あくまで「徐々に」起こるのであって、さらに個人差も加わる。何歳以上ならば不妊になる、などと線を引くことはできない。また逆に、若い不妊でないカップルが妊娠への行動をとるとすぐに妊娠するのかというと、そうでもない。1~2回程度のトライアルで妊娠しないからといって「不妊」と診断することもできない。しかし女性の立場に立つと加齢が確実に進む中、妊娠することを漫然と期待していることはできず、妊娠を望んだならばすぐに達成されなければ、不安に苛まれるであろう。加齢は脅威なのだ。このような状況で、ただちに不妊治療が必要だと言われれば、従うことになるであろう。実際、1人目の子どもを体外受精で妊娠した女性が、2人目の子どもを自然に妊娠して受診する例は後を絶たない。

 このように曖昧な「不妊」または「不妊症」を対象とし、高額な治療費を保険診療でまかなってよいものだろうか。一度の体外受精手技あたりの出産に至る率が10%台という奏効率の低さも保険診療としては問題である。「不妊」の真の定義や診断が曖昧であるからこそ、女性は、「不妊」であるか否かはともかく、不妊治療に望みを託すことを考える。それなのに、診療費が高額であることをもってアクセスに格差が生じることは、たしかに望ましくはない。不妊治療を受けるにあたっての経済的障壁を取り除く手段は保険診療化に限られるわけではない。もっと広い視野で解決策を検討してもよいのではないか。

真の少子化対策とは

 不妊治療の保険診療化によって、治療の経済的ハードルを下げる目的の一つが、進行する少子化を解消することにあるという。現在の少子化は、女性の晩産化、つまり女性が子をもとうとする年齢が上昇していることが一因である。したがって、不妊治療を受けるための経済的ハードルを下げたとしても、女性が子をもつための行動を起こす年齢を下げなければ、少子化解消にはつながらない。不用意に不妊治療のハードルを下げると、卵子凍結保存を受けて加齢に備える女性が多くなり、子どもを産む年齢は現在よりもさらに高くなる。少子化の解消どころか、人口減少を加速させることになりかねない。

 その点に不安を感じたことが、『近未来の〈子づくり〉を考える――不妊治療のゆくえ』を世に問うたきっかけである。書中ではさまざまな統計を元に作成した多くの図表を載せて解説した。不妊治療を受けることを前提とした少子化対策を考えるのではなく、加齢により不妊になることのない若い年齢での女性の妊娠・出産を促し、仕事の継続やキャリア形成にも全く不利になることのない社会を構築することを目指すことこそが求められている。

体外受精に潜む未解決な懸念

 精子や卵子がその本来の性質から離れて、人間の意のままに使用されるようになると、単に子どもを授かるということ以外にさまざまな歪みが生じることを忘れてはならない。精子や卵子を他人に譲渡する行為には、意識するしないにかかわらず対価が発生しやすい。あらゆる意味での「優秀な」精子や卵子というものが意識され、精子や卵子を受け取る側の内なる優生思想ともあいまって、そのような精子や卵子は値段の高い高価な精子や卵子と名を変えるであろう。凍結保存技術は、配偶子の半永久的な保存を可能にする。それら精子や卵子の由来する男女の生命に関係なく、配偶子のみがタイムカプセルの中でいつまでも生き続ける状態になる。

 このような生命倫理に関する重大な問題点に明確な解答や規制が示されないままに、技術のみが、実施可能といういわば隙間を狙って突き抜けてくるのだ。受精後の胚に対してゲノム編集を行い、胚の遺伝情報を作り変えてしまう技術も同様である。ゲノム編集は、現在実施可能となった着床前診断の、次に行われる手段として登場すべく控えている状態と言える。

 女性が高年齢になってからの子づくりを助長する医療や、カップルの望みどおりの子どもを創る医療は、もはや「不妊治療」ではなく、体外受精に期待されていた本来の趣旨とも異なる。このまま推し進めてよいものだろうか。

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著者略歴

  1. 久具宏司

    現職:東京都立墨東病院 産婦人科部長
    昭和32年生まれ、産婦人科医師、医学博士。
    福岡県出身、産婦人科開業医である父の診療所内で幼少期を過ごす。
    昭和57年東京大学医学部卒業、東京大学附属病院をはじめ連携する多くの病院で勤務の後、富山医科薬科大学(現富山大学医学部)講師、東京大学講師、東邦大学教授を経て、現職。この間、米国ジョンズ・ホプキンス大学、ハーバード大学マサチューセッツ総合病院へ留学。
    東京大学附属病院における体外受精の導入に従事、その後富山県での県内初の体外受精成功例を手掛ける。日本産科婦人科学会倫理委員会副委員長を務め、生殖医療施設の登録・調査業務にも携わる。平成20年、日本学術会議「生殖補助医療の在り方検討委員会」において幹事として対外報告「代理懐胎を中心とする生殖補助医療の課題―社会的合意に向けて―」作成に従事、以後、法学委員会生殖補助医療と法分科会に参加。

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