〈仏教3.0〉とは何か/藤田一照 永井均 山下良道『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンⅡ』
大反響を巻き起こした『〈仏教3.0〉を哲学する』のコンセプトを引き継いで出版された『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンⅡ』。前著で見いだされた〈自己〉を他者との関係の場に持ちだしたときにどうなるか。つまり、世界、他者、慈悲が瞑想体験と永井哲学によって徹底的に論じられる。そんな「〈仏教3.0〉 バージョンⅡ」から第二章冒頭の藤田一照先生による導入部分をお届けする。
「坐禅は自己の正体である」
藤田 それでは、今日のフレームワークを話そうと思います。僕ら二人はちょっと変わった曹洞宗のお寺で修行をしていました。良道さんがいうには、日本を見渡したときに自分が身を投じてもいいと思える修行の場所は、安泰寺しかなかったそうです。僕の場合は、それまでついていた臨済宗の老師に、「あんたみたいな人は安泰寺がいいんじゃないか」と言われたのです。それで偶然なんですが、同じ頃に安泰寺に入って、同じ師匠から二人で同じ時に得度式をしてもらったわけです。
僕らの師匠の師にあたる内山興正老師という人が、僕らが禅の修行を始めた頃にはまだご存命で、隠居されているところへ機会を見て何度も行ったりもしましたが、その内山老師の師匠の澤木興道老師という方がいます。最近、澤木老師名言集のような本が出ましたが、内山老師も澤木老師の言葉をたくさん書き留めておられて、僕らは安泰寺に入ってからそれを何度も読みました。われわれは澤木老師、内山老師の影響を強く受けた二人だと言っていいと思います。
これは澤木老師ではなく道元禅師の言葉ですが、「坐禅は自己の正体である」という言葉があります。仏教1.0、2.0、3.0と横に並べて比較してみますと、いずれの仏教も凡夫であるわれわれは、自己の正体を見失っている、あるいは自己の正体に無自覚である、という問題を抱えていると見ています。仏というのは、自己の正体を自覚し、それを生きている人で、ここが凡夫と仏で大きく区別されます。
自己の正体を見失い、無自覚に生きていると、どうなるかといえば、正体ではない偽の自分を立ててしまうのです。正体でない自分のことを「自我」と言います。最近の僕の表現では、「単なる自我」といいます。これは自覚のない自我、と言ってもいい。自己の正体に無自覚だから、自我を自分だと思ってしまう。それに気づいていないのを、単なる自我という。凡夫の特徴をそう言ってもいいでしょう。
その特徴は何かというと、分離した自我という点にあります。完全に正体を見失い、無自覚で、偽の自我が自分だと思い込んでいる。これが大前提で、ここから人生が展開しています。僕が大学院時代に学んでいた心理学で扱うのは、単なる自我の話です。ということは、そこでは自己の正体はまったく視野に入っていない。心理学も、凡夫が凡夫の心理を研究しているということになります。僕は当時そういう理解はありませんでしたが、学生時代に、自分が学んでいる心理学がえらく浅い感じがするとはうすうす感じていて、けっきょくそれに満足することができずに、縁あって禅の世界に飛び込むことになったわけです。禅では単なる自我でなくて、それを超えて、自己の正体を参究していくのです。単なる自我から自己の正体へとがらっとひっくり返って生きていく、これを修行というんですね。
僕は最初、自我を抹殺する、デリート(削除)して無我になることが修行かと思っていたのですが、全くの誤解で、そんな単純なものではない、ということですね。自我というのはイリュージョンみたいなものですから、もともと実体としては無いものですし、抹殺するようなものがコロッとあるわけではないのです。自己の正体というのは、透明なので、本当は図には書けませんが、かろうじて点々でこうやって丸を描いてみましょう。一方、自我は不透明な状態なのでこうやって黒く塗りつぶされた丸い玉のように描けます。
仏道修行の出発点で出合った、僕らが〈仏教1.0〉と呼んだ日本の主流の仏教では、何が問題かというと、自己=仏という結論ばかりを言っていることです。仏の見た世界が仏典にはいろいろ書かれていて、それを語るのにいろんな難しい仏教の術語が使われているのですが、いかんせん、そこへの道程、方法がはっきりしない。われわれは本来仏なんだというようなことを語っても、秘教的で、特別な伝授を受けたような人にしかわからない。どうやって仏=自己の正体へと開かれていくのか、その論理とか筋道があまり明瞭でないので、1.0は「スローガン仏教」と言えるかもしれない。それに、そういう目的地にいつかは着けるとしても、今世ではとうてい時間が足りないので、どうしてもずうーっと先の来世以降の話になる。本来成仏と言いながら、実際問題としては、成仏するのは死んだ後の話になってくるということですね。当然、それでは民衆には受けないので、受けるための葬式・法事が主になってしまっている。それが〈仏教1.0〉です。ちょっと、極端な言い方になって恐縮ですけど。
これに対して、〈仏教2.0〉というのは、われわれがアメリカで見聞した、そして僕らが帰国した頃、日本でも流行りだしていたもので、それはこの現世で仏教を生かすというか、役立てようということを強調する仏教です。自分のためにということを前提として、仏教をリソースとして活用する。たとえば、悩みの解決のために心理療法的に使うとか、ストレスに対処するための人生のスキルとして瞑想を習うとか、といったことですね。マインドフルネスがそのいい例ですね。ここで焦点になっているのは、この世に生をうけて「単なる自我」としての人生が始まって以降のもろもろの問題の解決に仏教が有効であること。この人生ではいろいろ難儀なことが起きてくるから、仏教の教えや実践の助けを利用して、それらをうまく乗り切っていこうという、ある意味、積極的なものです。仏教が専門の出家者だけの独占物ではなく、広く一般人に向かってアッピールしていくのはそれはそれでいいことなのですが、そこには問題もあるのではないかというのが、われわれ二人の共通の認識としてあります。日本で「自己をならふといふは自己をわするるなり」という道元禅を学んだ後に、僕は主にアメリカで、良道さんはヨーロッパやミャンマーで、現世で生きる自分の人生の諸問題解決のために活用されている仏教を直接に目撃したからだと思います。
でも、もしこの2.0の方向が仏教だというのなら、自己の正体という問題はどうなるのでしょうか。2.0は、非宗教的というか、非宗教化または世俗化された仏教と言ってもいいでしょう。仏教は宗教ではなくむしろ科学なのだという言い方の中で抜け落ちてしまう大事なことがあるのではないか。人生の諸問題の解決に仏教が役に立つと声高に言われる陰で、人生そのものの問題が忘れられていくのではないか。仏教を使って「自分の自由」を獲得しようとするあまり、仏教がもともと目指していた「自分からの自由」が手つかずのままになるのではないか。そういう懸念があります。2.0でも修行のようなものは確かにあるのです。それは訓練というかエクササイズのようなものであって、それを一生懸命練習することで、人生上のスキルが身について、習熟すればそれなりの効果は確かにある。ですが、凡夫が少し器用になっただけで、自己の正体の方向へのラディカルな転換ではない。ここまでは僕と良道さんは一致しています。
そういう話をしていって、僕らの今の立ち位置は今言ったような1.0でも2.0でもないよね、ということで、3.0が出てきたわけです。〈仏教3.0〉の特徴は、この二つをそれぞれ違った点でクリティークするところにあります。凡夫に起きてくるいろいろな問題は置かれているシチュエーションが原因というよりももっと手前の、というかもっと底にある、自我からすべてが出発しているところに根本の問題があるのではないか。シチュエーションは単なる引き金で、火種ではない。自我という自己の正体のすり替えが仏教でいう無明、キリスト教でいえば原罪みたいなものとして大元にある。表面的なあれやこれやの問題そのものだけを見ていたのでは見えない、いろいろな問題を生み出す、根本のからくりのようなもの。煩悩は目に見えますけど、無明は見えないもので、洞察するしかない。仏教だと言うのなら、そこをきちんと問題としなければいけないよねというのが僕らの考えなんです。
それから、3.0にも修行があるんですけれど、それは自己の正体というものを自覚してこの地上で人々とともに生きていくということですね。渡る修行だけではすまなくて、川を渡った後、向こう岸、彼岸を歩いていく修行というのがあります。この修行では主体のあり方がこちらの岸とは別ものになる。良道さんは「ピッチャー交代」という。我ならざる我。それを無我とか無心と呼んでもいいでしょう。
ここまでは僕らが、話してきたことだったんですが、この後に、永井先生が加わってくれました。僕は永井先生が展開している〈私〉と「私」の議論が、この僕らの議論に何らかの形でリンクしているのではないかと前々から考えていたんですが、何となくそう感じているという程度で、そこから先には少しも進んでいませんでした。でもさっきも言ったように、ありがたいご縁で永井先生がわれわれの方に接近してくださったので、永井先生の論をこの1.0、2.0、3.0のチャートに重ねたら、もっと眺めがはっきりしてくるだろうし、なぜ〈私〉の独在性が、平板な「私」とすり替わってしまうのかとか、道元が而今(にこん)と呼んでいる豊かな〈今〉が単なる点的「今」になってしまうのか、そのすり替えからどうやって〈私〉と〈今〉を奪回するかといった、とても興味深い問題をわれわれの議論と絡めてやっていったら、すごいことになるんじゃないかと夢が膨らんでいったのでした。