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瞬間と刹那の〈あいだ〉をめぐって

 以下は、拙著『瞬間と刹那――二つのミュトロギー』(春秋社、2022年)の刊行直後に、人物三者のあいだで行われた対話である。

 

[登場人物]

直言先生:著者とは長年親交があり、本人以上に本人を理解していると豪語する哲学者。

猛志君:直言先生の下で学んだことから、大学院に進んで哲学を専攻する学生。

中道さん:長らく商社に勤務し、海外駐在歴がある。早期退職後に、対話に参加している。

 

主題をめぐって

直言先生:この本は、五年前に同じ春秋社から出た『邂逅の論理――〈縁〉の結ぶ世界へ』の「姉妹篇」だと、著者から聞きました。前のものと比べて、印象はどうですか。

猛志君:前の『邂逅の論理』は、著者がそれを書き上げるまでは死ねない、とされた「遺書」のような作品です。正直言って、読むのがシンドかった記憶があります。『瞬間と刹那』には、そういう切羽詰まった印象がありません。

中道さん:私もよく似た印象を受けました。いつもどおり難しいのですが、今回は、私のように哲学に不案内な者でも、それなりについていける感じがしました。論じられる事柄を、読者に分かりやすく伝えようとする余裕とでもいうか……

直:「余裕」というのは、「自家じか薬籠やくろうちゅうの物」を扱うような感じ、ということでしょうか。

猛:すみません、「自家薬籠中の物」って、何ですか。

直:失礼、自分の薬箱の中にある薬のように、自分の思いのままに扱える品物のこと。この場合には、余裕をもって論じられるトピック、という意味です。もっとも本人は、余裕なんてない、原稿が仕上がるかどうか、ギリギリの瀬戸際に自分を追い込みながら、何とか期日に間に合わせたそうですが。

猛:伺いたいのは、本の主題が、「邂逅」から「瞬間」「刹那」に移った理由は、いったい何だろうか、という点です。哲学で重要なテーマの一貫性が、そこにあるのだろうか、という疑問です。

直:たしかに表面的には、主題が変わったように見えますが、一貫性はあると思います。理由は、大きく二つ。その一つは、「邂逅は瞬間において成り立つ」という命題が、二作に共通すること。この命題の、主語の方をクローズアップしたのが『邂逅の論理』、副詞句つまり〈邂逅〉の条件を焦点化したのが、『瞬間と刹那』であるというように、二作は一つの関心でつながっています。

中:なるほど。そう言われてみれば、著者による風土学三部作のうち、二番目の『風土の論理――地理哲学への道』(ミネルヴァ書房、2011年)でも、「瞬間」と「邂逅」の関係が取り上げられていました。

直:そうです。その本では、「風土」の構成契機を、「空間」ではなく「場所」、「時間」ではなく「瞬間」に求める、という独特なアプローチがとられています。本人は「思考実験」のつもりで書いたということですが、その意図は、ほとんど誰からも理解されなかったようです。

中:「第一章 「瞬間」と私」で語られているように、「瞬間」と「邂逅」を結びつける狙いは、ずっと前から持続しているということですね。よく解りました。二つ目の理由は、何でしょうか。

 

三つの「論理」

直:〈あいだ〉を開く「中の論理」を柱として、その理論的解明を追究したのが、『邂逅の論理』。その理論を時間の問題に適用したのが、『瞬間と刹那』。この二作は、いわば「中の論理」の〈理論篇〉と〈応用篇〉という形で、一つになっています。

猛:ちょうどこの機会に、お訊ねします。『瞬間と刹那』には、いま言われた「中の論理」のほかに、山内やまのうちとくりゅう先生がうちたてたとされる、「即の論理」「即非の論理」という難しい言葉が出てきます。こうした「論理」の意味が解らなければ、この本は読めたことにならないような気がします。教えていただきたいのは、「中の論理」と「即の論理」「即非の論理」とは、同じものなのか、ということです。

直:同じものです。

猛:それじゃ、どうして呼び方が違っているのでしょうか。「論理」として同じものだったら、一つの呼び名でいいように思いますが。

直:おっしゃるとおり。ですが、物事には〈形式〉と〈内容〉があります。呼び名は、〈形式〉。たとえ内容が同じでも、それを表現する〈形式〉を区別する場合、呼び方が変わることがあるのです。

猛:ということは、「中の論理」と「即の論理」とは、〈内容〉が同じでも、表現の〈形式〉が異なる、というわけですね、へー。それじゃ、二つの論理の〈内容〉って何ですか。

直:それは、ハッキリしています。「テトラレンマ」(四つのレンマ)、とりわけ第三レンマ(両否)と第四レンマ(両是)との関係です。

猛:テトラレンマでは、「両否→両是」というように、二つのレンマが転換する、という主張がされています。この論法が、山内独自の思想であるらしいことは、何とか呑み込めました。しかし、そういう論理が、「即」であるとか、「中」であるとか言われることが、もう一つよく判りません。

直:「即」の意味から説明しましょう。「即とは分たれたものが同時にあり、分たれてあるままに一であることである」(『ロゴスとレンマ』)と言われるように、「Aでもなく非Aでもない」という「両否」と、「Aでもあり非Aでもある」という「両是」とが、たがいに区別されながら、一つであるというのが、「即の論理」です。

中:そういう説明、過去に何度も聞いていながら、論理オンチの私には、いまだにモヤモヤがつきまといます。何か解りやすい例で、説明していただけないでしょうか。

直:それでは、Aに「黒」、非Aに「白」を代入して考えてみましょう。この例で大丈夫でしょうか、猛志君?

猛:非Aを「黒ではない」色と考えれば、それをただちに「白」としてよいかどうか、いささか疑問があります。黒の「反対」と考えれば、「白」になるけれども。

直:「グラデーション」とか「差異」ということを持ち出すと、話がややこしくなります。ここは、二分法が当てはまる世界を想定します。そこにおいて、対立する「黒」と「白」には中間がない、そういう前提で考えてみましょう。

中:でも先生、黒と白の中間には「灰色」がある、というのがわれわれの常識です。

直:現実にはそのとおり。でも、灰色は最初からあるわけではなく、「黒でも白でもない」がゆえに、「黒でも白でもある」何かを、一つの存在と認め、それを「灰色」と名づけることによって、白と黒の「中間」色が生まれた、そう考えられます。

猛:いまの例だと、二分法の世界でも、「灰色」のような中間が成立する、ということになります。二元論でも、「中間」が考えられるのじゃありませんか。

直:二元論に立つ形式論理では、「中」を認めない「排中律」が原則ですから、「中」は成り立ちません。ですが、現実の世界には「灰色」のような中間があることを、誰もが認めています。論理よりも現実から出発して、「即の論理」に沿って二者の〈あいだ〉を開くことにより、「中」の境域が確立される。つまり、二元論が排除する現実を論理化した〈形式〉が、「中の論理」というわけです。

中:ということは、「即の論理」と「中の論理」とは、表現の形式が違うだけで、内容は同じということになるわけですね。

直:そう、おっしゃるとおりです。

中:では、もう一点。そういう「即の論理」と「即非の論理」とは、どこが違っているのでしょうか。『瞬間と刹那』第三章に説明されているのですが、もうちょっと判りやすく言うと、どうなりますか。

直:「即」の関係をさらに進めて、「両否」の第三レンマを、A(肯定)と非A(否定)とが両立する「非」の地平と見立て、それを根拠として、そこからAと非Aが両立する「両是」が生じる、としたのが「即非の論理」です。「非」の一字が加えられたことによって、「即非の論理」は、一種の存在論(存在の論理)になったわけです。

 

なぜ時間論か?

猛:本のオビには、「西洋的瞬間と東洋的刹那の〈あいだ〉を開き、時間的自由を取り戻す」とあります。それは、具体的にどういうことなのでしょうか。

直:そのコピーは、編集者が考えたものらしく、著者本人は、自分が考えつかなかった見事な表現だ、と感心しています。ただ、この要約は、読者にアピールしやすい半面、著書の意図が誤解される怖れがある、とも言っています。

中:それは、どうしてでしょう。『瞬間と刹那』が、単なる時間論ではない、とおっしゃりたいのでしょうか。

直:そのように受けとれます。というのは、近代哲学の中で「時間論」というのは、空間論や認識論など細かく分けられたジャンルの一つとして、位置づけられているからです。それでは、「瞬間」と「刹那」を切り口とするこの本の射程が、小さく限定されすぎる、という不満があるようです。

猛:時間論よりもっと大きな射程、というのはどういうことでしょうか。

直:世界そのものを成立させる条件を、問題にするということです。そういう意味での「時間」は、少なくとも「世界」「存在」「生」と同じだけの重さを持っています。そういう観点に立つということでなら、この本が「時間論」と見られても、別に差支えない、ということを著者も断っています(303-4頁、註7)。

猛:いまのお言葉から、僕はハイデガーの『存在と時間』を連想しました。

直:ついでに、道元『正法眼蔵』の「有時」を挙げてもよいでしょう(第三章、95-99頁参照)。この両者を比較する議論も、よく耳にします。どちらも、この世界の中で人間が生きている時間というより、世界そのものが存在する根本条件を、「時(間)」の問題として追究しています。

猛:そういうことなら、この本をきっかけとして、ハイデガーや道元も、ぜひ本気で読んでみたいと思います。

中:私が受けとったメッセージは、「時間」もそうですが、日頃の生活で当たり前に受け容れてきた、ものの見方やふるまいから、距離をとって見直さなければいけないな、ということです。いかがでしょうか。

直:そう、それこそが著者から読者に伝えたかった点だと思います。お二人、今日はありがとうございました。

 

(このような三者の対話が、著者公式サイトの「エッセイ」でも公開されている。https://kioka-tetsugaku.jp/

 

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著者略歴

  1. 木岡伸夫

    1951年、奈良県に生まれる。1977年、京都大学文学部卒業。1985年、京都大学大学院文学研究科博士課程退学。現在、関西大学文学部名誉教授。著書に『風景の論理――沈黙から語りへ』(世界思想社、2007年)、『風土の論理――地理哲学への道』(ミネルヴァ書房、2011年)、『〈あいだ〉を開く――レンマの地平』(世界思想社、2014年)、『邂逅の論理――〈縁〉の結ぶ世界へ』(春秋社、2017年)ほか。訳書にオギュスタン・ベルク『風土学はなぜ 何のために』(関西大学出版部、2019年)ほか。公式サイトhttps://kioka-tetsugaku.jp/

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