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〈性〉なる家族 信田さよ子

なぜ近親相姦と呼ばないか

 猛暑だったせいか、今年は樹々の紅葉もそれほど鮮やかではないという。それでも真冬を思わせる冷え込みに伴って色づき始めた銀杏並木は、例年通りの黄金色に輝いている。つるべ落としのような晩秋の夕暮れ、冷気が迫るなかで黄色の落ち葉を踏みしめながら不意に、過去にとらわれるとはどういうことなのかと思った。

 私たちの身の回りには、「前向きに生きなさい」「過去を断ち切って新たに未来に向かう」「うしろ向きに過去を振り返ってばかりいないで、ポジティブに進もう」といった言葉が溢れている。善意と思いやりを持った人ほど、疑いもなくそう語る。でも、それによって打ちひしがれ、立ち直れなくなる人たちもいる。本連載で何度もとりあげてきた性虐待の問題は、まさに過去につかまり、引き戻され、捕囚され続けることなのだ。前向きであれという励ましは、時として被害を受けた人たちにとってこの上なく残酷な言葉となる。

 

 家族における「性」の問題は、子どもの性的成長、夫婦関係における性、親子関係における性の三つの問題系に集約される。本連載ではそのうちの親子関係、中でも「性虐待」に重点を置いてきた。その特徴は、それを「性虐待」と名付けることへの抵抗、自分が「被害者」であると自己定義するまでの錯綜する思い・混乱にある。

 なぜなら、これまでも述べてきたが、それが起きた時と、経験の想起・定義づけのあいだには、時間差があるからだ。交通事故のようにほとんど時間差がない被害のことを思えば、性虐待のそれは数十年にも及ぶことがある。それに加えて、たった一回でも大きいのに、繰り返されることのほうが一般的である。何より、もっとも安全で安心できるはずの親からの行為であることが、生きるための価値体系の根幹を揺るがす。

 性虐待を受けたこと、被害者であること、加害者が父(兄、叔父、祖父など)であること。文字にすると数行で済むことが、記憶の再編成や、家族をめぐる価値の崩壊と再構成を伴わざるを得ない。性虐待という言葉がこの世に存在しなかったころ、多くの女性たちは自死や精神的疾病の症状を呈することでしか混乱と苦悩を表出できなかっただろう。

 私が若かったころ、精神科病棟でお会いした女性患者さんで、性虐待被害を受けた人がどれだけ多かったことか。そのようにしてしか混乱を生きられなかった彼女たちが、精神障害者としてさらなる差別・偏見に晒されて、家族の世間体を守るために病院で生涯を終えることになったと思うといたたまれない。父、祖父にすれば、自分のものである彼女たちをどうしようが、それは彼らの裁量に任されているのだから、かわいがりの延長で弄んだに過ぎず、愛情というカテゴリーに入れることで自身の中で整合性が保たれ、それは容易に「忘却」できてしまう。過去を忘れて未来に生きる父と、過去に引きずりこまれたままの娘。このような加害者と被害者の圧倒的非対称性こそが、性虐待の残酷さなのだ。

キンシンソウカンという言葉はなぜ広がったか

 カウンセラーとして近親相姦という言葉を使用しないと言うと、「なぜですか?」と問われることが増えた。連載の第1回でも触れたが、ここではさらに詳しく述べておきたい。

「相」という字はインタラクティブ=相互的であること、お互いに納得していることを表している。そこには同意という意志が関与しているのだ。性行為に際してこのところ急速にセクシュアル・コンセント(性的同意)という言葉が広がっているが、スウェーデンでは明示的同意なき性行動はレイプとみなされるようになっている。大学生による性暴力事件がメディアで騒がれることが増えたのを受けて、日本でも多くの大学でセクシュアル・コンセントの重要性を訴えるさまざまな小冊子が作成されるようになった。

「いやよいやよも好きのうち」とか、女性は無理やり犯されることを待っているなどという視点の、定番AVのような性行為のパターンは、男性の一方的で勝手なファンタジーに基づいていることが、少しずつ明らかになってきた。女性たちの経験に基づいた発言が増えてきたことが大きな力になっている。

 視点を家族に転じてみよう。近親者(父、兄、叔父、祖父)からの性行為が年少の児童(それも女児)に行使された場合、果たしてそこに合意・同意はあるのだろうか。そもそも性的意志がそこに認められるのだろうか。そんなものがありえないことは誰にでもわかるのではないか。ではなぜそこに「相姦」という言葉が用いられてきたのだろう。

 

 キンシンソウカンというワードが広く流通したのは、母が息子を誘う、思春期を迎えた息子への性的アプローチを母がするといった、男性がつくるファンタジーによるものが大きい。我々のカウンセリングセンターに「母から性行為を迫られた」とかかってくる電話のほとんどがいたずらである。無料の電話相談には、一定の割合で必ずそのような電話がかかってくると聞いたこともある。実際にそのことでカウンセリングに来談された男性はひとりもいないことをつけ加えておこう。

 キンシンソウカンは、このように母(女性)を加害者にする言葉だからこそ広がったのであり、「お母さんやめてください」という屈折した男性の性的欲望を孕んでいるのである。彼らは無理やりされたと言いつつ、性的主体が侵襲されたという深刻さはない。被害に伴う混乱も恐怖もない。そこには暗黙の相互性が前提となっている。家族における男性(父をはじめとする近親者)の女児・男児へのレイプの存在など、1990年代になるまでほとんど表面化していなかった。いわば父(男性)の加害者性の露呈には、日本で児童虐待防止の機運が高まるのを待つ必要があったのである。

 90年代に入り、AC(アダルト・チルドレン)ということばがひろがり、私もカウンセリングで多くの女性から実父や義父からの性虐待の経験を聞くことになった。それは「相姦」という表現とは程遠く、まさに一方的で意味不明の行為でしかなかった。2000年に児童虐待防止法が成立し、少しずつではあるが性虐待に対しても介入が行われるようになった。しかしいまだに、他の虐待(身体的虐待、ネグレクト、心理的虐待)に比べると、「性」という言葉を用いず、「乱暴」と表現されていることも多く、被害者のプライバシー保護のためと称して、加害者の実名を明らかにしないことがほとんどである。こうして性虐待加害者は守られるのである。

性的同意(セクシュアル・コンセント)

 彼らにはそもそも同意が必要という発想がないのではないか。だから強制しているとも考えない。自分が望めばその通りに動くのが子どもであり、時には妻なのだ。「相」という文字は、自分が追いこまれるような場面で、いざという時に「おたがいさま」と言い訳するために使用してきたとしか思えないのである。

 そもそも性的同意など必要ないと考える親と、性的意志の主体になる以前の子どものあいだに、「相」という字を用いるのはいい加減にやめるべきだろう。近親相姦から近親姦へ、そして性虐待・性暴力へという変化は、性にまつわる言葉を従来の男性目線から、女性や子どもの意志や視点を含んだものへと変えることを意味するだろう。法律の文言も、強姦罪から強制性交等罪に変わったように、姦という文字の出番は、今後限定されるのではないか。近親姦については、近年では英語のインセストを用いることも増えた。

インセストタブーはなぜ生まれたか

 私はかつて山極寿一氏の『家族進化論』(東京大学出版会、2012)を書評したことがあるのだが、近親相姦をインセストと呼び、サルの観察からインセスト・タブーを研究した部分に最も興味を引かれた。

 インセスト・タブーに関して、山極は「インセストを禁止することによって、人間の社会が自然の要請にもとづかない新たな枠組みを創造できるからだ」と述べる。つまり人間社会の基礎である家族は、他の霊長類とは異なり「自然の要請」にもとづいていない。つまり、反自然なのだ。とすれば、インセストは人間の家族を根底から崩壊させるものと言えよう。

ウェスターマーク効果

 ところが、霊長類社会においても、インセスト回避の傾向があることはよく知られている。

 19世紀末の人類学者であるエドワード・ウェスターマークによるインセスト回避に関する説も実に興味深い。彼は、育児経験や一緒に育った経験(親しさ)がインセスト回避を引き起こす要因になっていると考えた。これをウエスターマーク効果と呼ぶ。

 もうひとつの指摘は、父系的な群れにおいてインセストは多発し、母系的群れでは回避されるという点だ。父系的群れでは、オスが子育てをするとは限らないため、メスは子どもを産むと群れを渡り歩かずに一つの群れにとどまって、子育てに励むようになる。ここに娘と父親、息子と母親のあいだでインセストの機会が生じる。メスが自由に群れを渡り歩く母系的群れでは、オスが子育にかかわり、結果的にインセストが回避されるのだ。

 サルの行動がそのまま人間に応用できるかどうかわからないが、幼い子どもの育児にかかわること、また、いっしょに「親しく」育つことが親による子との交尾を抑制するとすれば、近年のワンオペ育児に象徴されるような、父親の子育て時間の僅少が、性虐待の促進要因になるといえないか。またいっしょに育つという親しさが交尾回避を促進するとすれば、同胞間の情緒的つながりが少ないことが、兄や弟からの性虐待の要因になるのかもしれない。社会学的見地からは、近代家族と呼ばれる集団は、家父長的であり、性別役割分業を伴い、女性が育児を担う。このように、私たちが「ふつう」の家族と考えている近代家族の構造そのものが、インセストを発生させるリスクをはらんでいるのだ。

防止するには

 男の性欲とはそもそも本能なのだという性行動本能説がいかに粗雑なものかが、このような霊長類研究をとおして理解できる。ヒトのみならず、霊長類においていかにして近親相姦(インセスト)を禁止するかは壮大な試みだったのだ。とすれば、性虐待が生じたということは、加害者は人間でなくなることであり、その家族の命運が尽き、存立基盤が崩壊することでもある。サルやチンパンジーは、自らが存続するためにインセスト禁止・近親の交尾回避を行ってきた。われわれ人間こそが、サルやチンパンジーに学ぶべきだろう。

 まず、父系的家族の危険さを知ることだ。そして父親が積極的に育児参加をし、家族の情緒的親しさ(親密さ)を形成するように努めることである。こんな当たり前のことが、性虐待を防ぐために有効なのだ。それなのにこれだけ多くの虐待があるのはなぜか。多くの家族がどれだけそこから遠い現状にあるのかが逆に照射される。

 育児における女性への過重負担(ワンオペ育児)が日常化していることと、性虐待被害を訴える女性(男性)の増加がこのように底流でつながっていることを、もっと多くの人に知ってもらいたい。

 

 平成最後の年の暮れに、本連載も最終回を迎えることになる。家族における性の問題は、日常性を支える深い部分で大きな役割を果たしているのだが、ほとんど表面化することはない。カウンセリングの経験にもとづいて、この問題についてさまざまな角度から、さまざまな関係をとおして述べてきた。大きすぎるテーマにも思え、掘り下げが不十分と思えるところもあるが、今後の課題にしたいと思っている。

『春秋』連載時から、web連載に至るまでの期間、お読みくださった多くの皆さまに心より感謝いたします。ありがとうございました。

 

 

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著者略歴

  1. 信田さよ子

    1946年生まれ。臨床心理士。原宿カウンセリングセンター所長。アディクション全般、アルコール依存症、摂食障害、ドメスティック・バイオレンス(DV)、子どもの虐待などに悩む本人やその家族へのカウンセリングを行っている。著書に『母が重くてたまらない』『さよなら、お母さん』『家族のゆくえは金しだい』(いずれも春秋社)、『コミュニケーション断念のすすめ』(亜紀書房)、『傷つく人、傷つける人』(ホーム社)、『家族収容所』(河出文庫)、『家族の悩みにおこたえしましょう』『共依存 苦しいけれど、離れられない』『母・娘・祖母が共存するために』(朝日新聞出版)、『父親再生』(NTT出版)、『カウンセラーは何を見ているか』(医学書院)、『依存症臨床論』(青土社)、『アディクション臨床入門』(金剛出版)など著書多数。
    原宿カウンセリングセンター http://www.hcc-web.co.jp/

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