良寛と『法華経』/全国良寛会監修 竹村牧男著『良寛「法華讃」』
道元禅師が「諸経の王」と称えた『法華経』に良寛が讃をほどこした「法華讃」は、彼の仏教理解・禅の境地・漢詩と和歌・名筆と、そのすべてが詰まった書と言える。その102首すべての讃についてカラー写真と解説を載せた『良寛「法華讃」』(全国良寛会監修・竹村牧男著)は、仏教者・良寛を知る絶好の書であり、良寛ファン必携の本であろう。
序品1
【原文】
吐箇双児婢子漢
試非知情何及 是則是可惜乎 若是陶淵明必定攅眉帰
即此見聞非見聞 不来々不至々
更名字可安著 此是之謂無量義
巻尽五千四十八
【書き下し】
箇の奴児、婢子の漢を吐く
試みるに知情に非ずんば何ぞ及ばん 是れ則ち是れ可惜乎 若し是れ陶淵明ならば必定眉を攅めて帰らん
即此の見聞 見聞に非ず 来らずして来り 至らずして至る
更に名字の安著くべき無し 此れ是れを之れ無量義と謂ふ
巻き尽す五千四十八
【現代語訳】
日常普通のこの見聞は、真の見聞ではない。本当は、来るのではなくして来、至ることなくして至るのだ。この世界は、言葉を立てることのできない世界である。その世界こそが、無量義というものである。
(著語)巻き尽す五千四十八とは、この讃でもはや大蔵経のすべてを説き尽したということ。
【解説】
これから『法華経』が開演されるに当たって、釈尊の登場にともない、さまざまな神変も繰り広げられることになる。それらをただ見たり聞いたりしたつもりでいても、釈尊の説法の核心、『法華経』の核心を捉えたことにはならないであろう。それでは、真の釈尊を見た、聞いたとはいえないことになる。
では、釈尊の本質はどこにあろうか。『法華経』の真髄はどこにあろうか。それは、「来ないで来る、至らないで至る」ところにある。つまり、来るのだが来たことにとらわれない、至るのだが至ったことにとらわれない、ただただ無心のはたらきが発揮されるところにある。そこを真空妙用ともいう。そこに真の釈尊の姿がある。また『法華経』が示す究極の世界がある。よく『法華経』は「諸法実相」を説くものと理解されるが、この諸法実相は、静止的なものではない、はたらきそのもの、いのちそのもの、さらに言えば、絶対の主体そのもの、と良寛はここで言っていることになる。それは、釈尊だけに実現しているわけでもない、各人に本来、息づいているいのちなのである。
それについては、対象的に捉えることは出来ないので、言葉を置くことも出来ない。安は置く、著は付けるであるが、要は言葉を立てられない、言葉では言い表せないということである。「如来寿量品」には、「久遠実成の釈迦牟尼仏」は、世界を、「如実に三界の相は、生まれること死すること、若しくは退すること若しくは出ずること有ることなく、(あたかも八不のように世界を見て)、錯謬あることな」く見て、三界にいる迷いのうちにある者が三界を見るのとは異なるといっている。
その言葉を離れた無心の世界こそ、そこからありとあらゆる世界が展開してくるのであり、それゆえ無量義と呼ぶことにもなる。平等即差別というか、空即是色というか、真如・法性と諸法とは不一不二であり、それゆえ、その無とも言うべき世界を無量義と言えるのであろう。禅語に、「無一物中無尽蔵、花あり月あり楼台あり」(蘇東坡)とある。
と同時に、釈尊はまず「大乗経の無量義・菩薩を教える法・仏に護念せらるるものと名づける」を説いたのであった。また、古来、『無量義経』が、『法華経』の先導をなす経典であると受け止められている。『無量義経』『法華経』『観普賢経』が、法華三部経といわれている。ゆえに良寛はこの詩をもって『法華経』の先導とする、との意をこめて、「これを無量義とする」と言ったと解される。まず初めに、『法華経』の核心は何かを明らかにして、導入としたということである。ということは、良寛は『法華経』を、言葉を離れた仏の妙用にあるぞと示したのであり、どこまでも禅的に『法華経』を捉える立場を明らかにしたといえよう。