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Close-up! この一冊

「日本」と「台湾」を生きた写真家・鄧南光の生涯/朱和之『南光』〈アジア文芸ライブラリー〉(中村加代子訳)

シリーズ〈アジア文芸ライブラリー〉の第2作として、南光なんこう』(朱和之しゅわし著、中村加代子訳)が刊行されました。日本統治時代の台湾に生まれ、戦前から戦後にわたって東京や台湾の風景と人物を撮影した実在の写真家・鄧南光をモデルとした小説です。日本の台湾統治や台湾の近現代史、写真史、客家の信仰など様々な視点の含まれた本作には訳者・中村加代子氏による詳細なあとがきが付されています。今回は特別に「訳者あとがき」の全文を公開するとともに、鄧南光による写真をご紹介します(ウェブ掲載にあたり、一部の書式を改めました)。


 

 

 鄧南光の写真を初めて目にしたのは、そう前のことではない。2018年に台湾で刊行された写真集『凝望鄧南光 観景窓下的優游詩人1924~1945(鄧南光に目を凝らす ファインダーの吟遊詩人1924~1945)』(蒼璧出版、2018年)を台北の書店で手に取ったのが最初だ。その前年には、同じシリーズの『看見李火増 薫風中的漫遊者・台湾1935~1945(李火増りかぞうが見える 薫風の放浪者・台湾)1935~1945』(蒼璧出版、2017年)も購入していた。

 ページをめくると、バロック式ファサードが整然と並ぶ台北の街並みや、賑々しい廟の祭り、菅笠をかぶった人たちが集う屋台といった、戦前の台湾の情景を捉えた写真が続く。長衫ツンサァをまとう酒家の女性たちを被写体にしたものも多い。そこへ、法被を着て鉢巻をしめた男たちが神輿を担ぐ写真がまざる。キャプションには、台湾神社の祭りとある。台北駅前では、もんぺ姿の女性たちによる消防演習が行われ、台北幼稚園の運動会では、子どもたちが日の丸を振る。

 1895年、日清戦争後に交わされた下関条約にもとづき、台湾は清国から日本に割譲された。それから1945年までの約50年間、台湾は日本の植民地だった。写真を目にするや、当時の様子がたちまちくっきりとした輪郭を表し、眼前に立ちあがる。祭り囃子や号令まで聞こえてくるようだ。

 シリーズの編者は、写真を通して台湾の近代史、とりわけ庶民の生活史を紐解くことをライフワークとする王佐栄ワンヅゥオロン。王は日本統治時代の「台湾総督府登録写真家」に名を連ねていた李火増と鄧南光に注目し、このシリーズを編んだ。写真集の裏表紙には、登録写真家に配布された、ライカを模したバッヂのイラストが描かれている。

 
台湾神社の祭り

 

 


台北駅前の消防演習

 

鄧南光の生涯とその時代

 鄧南光は1908年、日本統治時代の台湾に生まれた。生年については1907年とする資料も多いが、台湾総督府登録写真家の身分証明書に「明治41年12月5日生」と記載があること、著者が鄧南光の家族にも確認済みであることなどから、本書では1908年としている。

 生家は現在の新竹しんちく県にある北埔ほっぽの富商である。北埔は独自の言語や文化を持つ客家はっか人が多く暮らす地域として知られ、鄧南光も客家だった。

 初めて自分のカメラを手に入れたのは、日本の名教中学に内地留学していた頃。本書ではほとんど触れられないが、コダックのオートグラフィックカメラが、生涯初の相棒だった。その後、法政大学へ進学するとカメラ部に所属し、ライカでスナップ写真の腕を磨くようになる。モダニズム全盛期の東京を写真に収めては、写真雑誌『カメラ』や『月刊ライカ』に投稿し、たびたび入賞を果たしている。

 銀座や浅草、上野などの街角で撮られたスナップ写真は、木村伊兵衛、桑原甲子雄、濱谷浩らを彷彿とさせる。彼らもまた、ライカを愛用していたことで知られる。

 しかし鄧南光が東京で撮った写真は、戦後長らく、日の目を見なかった。鄧南光の長男である鄧世光とうせいこう氏(本書には「永光」の名で登場)が、紙に焼かれることもなくしまわれた大量のネガを見つけたのは、1971年に鄧南光が亡くなってしばらく経ってからのことだ。

 それは戦後、台湾が歩んできた歴史と無関係ではない。1945年の日本の敗戦後、台湾は中国国民政府によって接収され、中華民国の一省となった。被植民者として辛酸をなめてきた台湾の人びとは、「祖国」復帰に少なからぬ期待を寄せていただろう。

 だがその期待は、すぐに裏切られる。国民党政権は、政治や経済の中枢から台湾本省人を締め出し、実権を独占。汚職も相次いだ。これに治安の悪化やインフレなども重なり、本省人は、政府のみならず、戦後に中国大陸から渡って来た外省人に対しても不信感を募らせていくこととなる。

 50年にわたる日本統治、特に1930年代後半に始まった皇民化政策により、本省人の生活や文化には、日本的な色彩を帯びた部分が少なくなかった。一方、8年にわたって抗日戦争を闘ってきた外省人は、強い反日感情を持ち、日本的要素の払拭に躍起になった。抗日戦争当時は日本国民であった本省人に対して、自分たちこそが真の戦勝国民であるという驕りもあった。そうして本省人と外省人は次第に分断されていく。

 分断を決定的なものとしたのが、本書にも登場する二二八事件である。ことの発端は、1947年2月27日に起こった、やみ煙草の取り締まりをめぐる民衆と政府当局の衝突だった。政府や外省人に対する不満を鬱積させていた本省人は、これを契機として一斉に蜂起。翌28日には台北全域に抗議行動が広がり、台湾全島へと波及していった。

政府はすぐさま軍隊を投入し、武力で民衆を鎮圧した。そればかりか、混乱に乗じて本省人エリート層を中心に、抗議行動に無関係な市民まで多数殺害した。犠牲者の数はいまだ不明瞭だが、18,000~28,000人にのぼると推計されている。

 1949年には戒厳令が敷かれ、反政府行動や共産主義への共鳴に対して、徹底的な弾圧が行われるようになる。二二八事件にはじまり、戒厳令が解かれる1987年までにわたったこの政治的弾圧を「白色テロ」と呼ぶ。

 こうした状況下にあっては、日本統治時代に撮影した写真を世に問うなど不可能だった。ましてや内地留学していた東京の写真など、言うまでもない。若き日の鄧南光が撮影した作品が長らく埋もれていたのも、無理からぬことだった。

 


戦前の東京の町並み


東京のモダンガール

 

フィルムの発掘と再評価

 1980年代に入ると、台湾に民主化の萌芽が見えはじめる。そしてその成長と歩みを同じくするようにして、沈黙を余儀なくされていた日本統治時代の写真家たちが、次々と「再発見」される。

 1985年には行政院文化建設委員会に「百年台湾撮影史料整理工作小組」が組織され、台湾写真史の本格的な資料収集と調査が行われた。その結果、鄧南光や李火増、張才ちょうさい彭瑞麟ほうずいりんらが、重要な写真家として注目を集め、再評価が進んだ。

 鄧南光の紹介者としては、写真家の簡永彬ジエンヨンビン張照堂ヂャンヂャオタンの果たした役割も大きい。簡は「夏門撮影企画研究室」を起ちあげ、近代台湾の写真家たちのフィルムと写真を収集、スキャンしてデジタルデータ化し、保存する活動をしている。鄧世光氏が発掘した鄧南光の東京時代の写真も、簡によって整理され、1990年に台北で「鄧南光1920—1935 一位台湾留学生東京遺作展」と題した写真展が開かれた。1994年には、東京のドイフォトプラザでも「鄧南光遺作展 未公開写真 埋もれた映像 昭和7年の東京」展が開催されている。

 冒頭に挙げた写真集シリーズも、簡の協力のもとで編まれた。さらに2021年には、シリーズ編者の王佐栄と郷土史家の王子碩ワンヅーシュオの手によって、鄧南光のモノクロ写真を彩色したカラー写真集『彩繪鄧南光 還原時代瑰麗的色彩1924~1950(鄧南光を彩る あの時代の華麗なる色彩1924~1950)』(蒼璧出版)も刊行された。

 張照堂は1989年に『台湾撮影家群象』シリーズ(躍昇文化)の刊行をはじめた。その記念すべき第一号を飾ったのが、鄧南光だった。また張は、2002年に『郷愁・記憶 鄧南光』(雄獅図書)を刊行。鄧南光の写真や資料をテーマごとに整理し、写真家としての軌跡をまとめた。

 1987年に戒厳令が解除され、徐々に民主化が進むと、「本土化」と呼ばれる動きが活発化する。台湾の歴史や文化を中華民国から切り離し、台湾を中心とした視点で捉えなおそうとするものだ。これにより、日本統治時代もまた台湾のアイデンティティの一部を成すものとして、積極的に探究されるようになった。

東京のモダンガール(彩色写真)


台北第一高等女学校の生徒たちによる行進(彩色写真)

著者・朱和之について

 本作『南光』は、こうした時代のうねりを経て生まれた。

 著者の朱和之しゅわしは1975年、台北生まれ。国立政治大学コミュニケーション学部でメディアについて学び、出版社勤務を経て、作家の道を歩みはじめる。

 歴史好きが高じて2010年に刊行した歴史随筆『滄海月明 找尋台湾歴史幽光(蒼い海に月冴える 台湾史の幽光を探して)』(印刻出版)が、翌年の台北国際ブックフェア大賞非小説部門にノミネートされると、台湾で国神と崇められる鄭成功を人間味あふれる姿で描いた自身初の歴史小説『鄭森』(印刻出版、2014、2015年)も、2016年、同賞の小説部門にノミネートされた。また『逐鹿之海 一六六一台湾之戦(海の覇権争い 1661年台湾の戦)』(印刻出版、2017年)では、鄭成功とオランダとの戦いを多面的な視点で描き、2016年の台湾歴史小説賞の佳作(大賞該当作なし)に選ばれたほか、2018年の金鼎賞文学図書類優良出版品にも選出された。

 2016年、佐久間左馬太総督の太魯閣タロコ蕃討伐をテーマとした『楽土』(聯経出版)が、全球華文文学星雲賞長編歴史小説賞の大賞を受賞。同賞創設以来、第六回にして初の大賞受賞者となった。さらに2023年にも、終戦直後の台湾で発生した三叉山事件に材を取った『當太陽墜毀在哈因沙山(太陽がハインサラン山に墜ちた日)』(印刻出版、2024年)で再び同賞を受賞し、大きな話題となった。

 2020年には、日本にも足跡を残した作曲家・江文也こうぶんやの生涯を描いた『風神的玩笑——無郷歌者江文也』(印刻出版)を刊行。こちらは本書と同じく春秋社の「アジア文芸ライブラリー」から『風のいたずら(仮)』として邦訳が刊行される予定だ。

 歴史小説以外にも、転生業務を請け負う会社の若手社員が、現世に未練を残す死者を導く様子を面白おかしく描いた『冥河忘川有限公司』(印刻出版、2016年)、密やかに夢の売買が行われる社会を舞台にした『夢之眼』(印刻出版、2019年)といったSF小説も手がけている。

 テーマの幅広さや輝かしい受賞歴もさることながら、デビュー以来、作品の刊行がコンスタントに続いていることにも驚かされる。年代順に並べてみると、ほぼ一年に一作ずつ長編小説を発表している。驚異的なスピードである。

小説『南光』執筆の背景

 本書『南光』は、2020年、台湾の芸術家を主人公とする長編小説が対象の羅曼・羅蘭百萬ロマン・ロランミリオン小説賞を全会一致で受賞し、2021年に印刻出版から刊行された同名小説の全訳だ。朱和之初めての邦訳となる。

 鄧南光は、カメラについては書いても、自身や作品についてはほとんど文章を遺さなかった。したがって本作は、鄧南光という実在の人物をモデルとしながらも、シャッターを切る瞬間、またその前後、あるいは次にシャッターを切るまでの時間すべてが、著者の想像で書かれた虚構である。これ以前に著者が執筆した歴史小説は、あくまで史実に忠実であることを命題としていたが、本作では図らずもそのくびきを解かれ、より自由な創作が可能となった。会話文に括弧を使わず地の文に溶け込ませるスタイルも、著者初の試みだ。

 写真家がモデルとあって、数々のクラシックカメラが登場し、その構造や機能、暗室作業に関する記述も多い。まるで写真家本人の目を通したような、解像度の高い緻密な描写には圧倒される。著者によれば、専攻した学科ではカメラ実習が必修とされ、暗室での作業も経験したという。さらに本作を執筆するにあたり、台北にある達蓋爾ダゲール銀塩暗房工作室で、今一度現像や引き伸ばしの手順を勉強しなおしたそうだ。

 鄧南光が青春を謳歌したモダン都市東京と、植民者である日本人が威信をかけて開発した台北城内、そして旧態依然とした北埔の対比も興味深い。鄧南光はモダンの空気に強く惹かれる一方で、移ろいゆく故郷・北埔にも心を寄せ、シャッターを切り続けた。鄧南光と言えば、日本統治時代の台北の風景や酒家の女性たちを撮った写真に注目が集まりがちだが、実は戦前の客家の生活を記録した功績も大きい。ライカ一台、家一軒とまで言われ、カメラが非常に高価だったあの時代に鄧南光が遺した無数の写真は、今や大変貴重な資料となっている。

 そして鄧南光と同時代を生き、彼と交流を持った写真家たちの横顔が描かれるのも、本作の魅力のひとつである。鄧南光と同じく、日本統治時代の台北を記録した写真で知られる李火増、東京写真専門学校(現・東京工芸大学)で学び、台湾初の写真学士としてアポロ写真研究所を設立した彭瑞麟、やはり東京で写真を学び、戦中の台湾と上海を写真に記録した張才、ローライフレックスのカメラを愛用し、鄧南光、張才と共に「撮影三剣客(カメラ三銃士)」と称された李鳴鵰りめいちょう、そして、複数のネガを一枚にプリントしたモンタージュ写真で山水画のような写真を生み出し、写真界に衝撃を与えた中国出身の郎静山ランジンシャン。また、妻や兄弟といった、ごく身近な存在から見た鄧南光の姿も描かれる。

 複数の異なる視点が挿入されることで、物語は時間軸に沿って一方向に進むばかりではなく、行きつ戻りつしたり、時に一方にぶつかって激しく跳ね返ったりしながら、複雑な軌跡を描く。それが作品に厚みと深みを与えている。

 同じ手法が、著者のほかの作品にも用いられている。それはあるいは、台湾が多元的な社会であることと関係があるのではないだろうか。

 1990年代以降、台湾では住民の構成を表す「四大族群(エスニック・グループ)」という言葉が使われるようになった。四大とは、漢人が移住してくる以前から台湾に暮らしていたオーストロネシア系の原住民族、福建省南部から移住した閩南びんなん人(福佬人)、福建省西部や広東省北東部から移住した客家人、そして戦後に中国各地から移住した外省人を指す。近年はここに、新住民と呼ばれる、結婚や出稼ぎを契機として台湾に移住した中国や東南アジア諸国の出身者も加わる。

 実は日本統治時代以前から台湾に暮らしていた人びとは、共通の言語を持たなかった。閩南人は閩南語、客家人は客家語、原住民族は各民族の言語というように、それぞれのエスニック・グループは本来違う言語を話していた。そのうち最多数を占めた閩南人の言葉が、現在「台湾語(台語)」と呼ばれているものだ。

 それが日本統治時代には日本語が、戦後の中華民国国民党政権下では北京語を基礎とする中国語が「国語」に定められ、それ以外の言語の使用は抑圧ないし禁止された。だが民主化に伴う「本土化」の流れのなかで、この多様性こそが台湾の本質だという考えが広まり、それぞれのグループの言語や文化が尊重されるようになった。

 著者もまた、多元的で多様な台湾の有り様を浮かびあがらせるために、複数の異なる視点を描きこむのではないだろうか。著者によって様々な角度から光を照射された台湾は、プリズムのように多面的な輝きを放つ。

故郷・北埔の葬送の様子

 

鄧南光と「日本」

 戦中、フィルム目当てに青年団に加わった鄧南光と李火増に対して、張才は「二本足の台湾人と四本足の日本人」と吐き捨てる。抗日感情の強かった張才は、暗に日本人を畜生だと蔑み、決して屈しない姿勢を見せた。

 日本統治時代に生まれ日本語教育を受けた、いわゆる「日本語世代」の台湾の方から、かつてこんなエピソードを聞いた。日本統治時代、正月に着物を着せてもらい、得意になって街を歩いていたところ、台湾人から閩南語で「三本足サーカー」と揶揄されたという。日本人と同等でありたいと願っても、日本人からは「二等国民」として扱われ、台湾人からは四本足の畜生を模す半端な存在として後ろ指を指された、ままならない当時の状況が伝わってくる。

 そんななか、張才とは違い、鄧南光はさしたる矜持もなく、政府の方針に唯々諾々と従っているように見える。改姓名が促されれば「吉永晃三」という日本名をつけ、青年団に加入し、台湾総督府登録写真家制度に応募する。だが鄧南光の矜持とは、いかなる状況下であろうとも、写真を撮り続けることだったのではないだろうか。その証拠に、彼はどの時代も決してカメラを手放さなかった。

 本書にこんな場面がある。カメラに魂を抜かれてしまうのではないかと恐れる老人に、鄧南光が言う。

「それは日本のカメラです、質が悪いからそうなるんです。僕のこのカメラはドイツ製です。魂を抜き取ることはありませんから、安心してください」

 日本の植民地に被植民者として生きた時代も、鄧南光はカメラを通じて日本を飛び越え、世界と直接つながっていたのだ。歴史のうねりに翻弄され、抑圧を受けながらも、もはや一心同体となったカメラを手にして心の赴くままにシャッターを切ることが、鄧南光の魂に翼を生やし、自由な飛翔を可能にしていたのである。


日本統治時代の大稻埕のスナップ

 

翻訳にあたって

 鄧南光の写真集を手にした翌年、縁あって長男の鄧世光氏とお会いする機会に恵まれた。その後、本書の原作となる『南光』が刊行され、邦訳を担当することになったと連絡をすると、大いに喜び、親切にもご自宅で鄧南光が実際に使っていたライカやスパイカメラを見せてくださった。鈍く光るライカに触れた時、古い木箱のカメラに指が触れた瞬間の鄧南光と同じように、心の震えを感じた。

 さらに翻訳作業に入ったあと、これまた不思議なめぐりあわせで、とある方から鄧南光に関する書籍を大量に譲っていただいた。作品に登場する写真のほとんどが手元にそろった状態で作業ができたのは幸運だった。

 鄧南光が生まれ育った北埔の町にも足を運んだ。決して便がよいとは言えない山あいの小さな町ではあるが、そこここに歴史や文化を感じさせるスポットが点在し、歩くのが楽しい。町はずれの柑園に建てられた鄧家の別邸は、2006年に歴史建築に登録され、2009年より「鄧南光影像紀念館」として一般公開されている。鄧南光が町の明かりを見ながら物思いに耽ったバルコニーも残されている。

 翻訳にあたっては、著者の朱和之氏にもお時間を頂戴し、「南光写真機店」があったあたりを案内していただいたうえ、様々な質問にもお答えいただいた。それはたとえばフィルムの現像に関する単純な疑問から、誰が誰を「本島人」と呼び、誰が誰を「台湾人」と呼ぶかという問題まで多岐にわたる。根気強くお付き合いいただいたおかげで、およそ十四万字という言葉の大河を泳ぎ切ることができた。本書のごく一部に原書と違う部分があるのは、この対話の結果であることをご了承願いたい。

 また本稿で台湾の多様性について触れたが、『南光』にも日本語、客家語、台湾語、中国語が登場する。時代や発話者に応じてルビの振り方を変えるなどの工夫はしたが、それらすべてを厳密に訳し分けることまではできなかった。代わりに原文から発話者それぞれの個性を想像して訳出している。

 最後になるが、「アジア文芸ライブラリー」の生みの親でもある春秋社の荒木駿氏には、時宜を得たサポートと丁寧な校正をしていただいた。荒木氏が綴った同ライブラリー刊行の辞には、胸を打たれた。本書がそのうちの一冊に並ぶことを心から嬉しく思う。

2024年3月

中村加代子

 

書籍

『南光』朱和之著/中村加代子訳

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