大拙思想の構造はいかにして明らかになるのか/蓮沼直應『鈴木大拙――その思想構造』
今年2020年は鈴木大拙生誕150年のアニバーサリーイヤーである。『神秘主義 キリスト教と仏教』が岩波文庫から刊行されるなど以前にも増して鈴木大拙が注目されることは間違いない。
そんな鈴木大拙の思想構造を彼の著作に基づいて文献学的に明らかにしようと試みたのが『鈴木大拙――その思想構造』である。
その中から全体の構造を見渡すのに役立つであろう「序章 第三節 考察の手順」を試し読みとして公開する。
序章 第三節 考察の手順
では具体的にどのような考察の手順を踏んで大拙の思想を明らかにするのか。この点を示すためには、本書の問いをより具体的に提示しなくてはならない。大拙の思想を明らかにする、ということは単に思想史的な関心にとどまるものではない。彼の業績は世界的規模の影響を持ったものであるが、それは彼が単に人間の現実と無縁な歴史を語ったからではなく、同じ近代を生きる人間たちに向けた規範的言説を投げかけるという一面があったからこそである。
彼自身の文献学的禅研究は現代までの禅籍研究の歴史の中で一定の限界を迎え、それぞれの領域で乗り越えられた側面がある。しかし、彼の思想研究と不可分に結びついて展開された近代への提言は、今なお近代社会の矛盾の中に生きている我々にとっては、過去のものとして切り捨てることのできない示唆を有している。本論が目指すことは、彼の主張した「思想」を通じて、我々自身の生の在り様を捉えなおすことである。それを明らかにするために、本論はまず彼の思想そのものの構造を明示する必要があるのである。
大拙の思想の中心が政治でも経済でもなく宗教にあることは自明であり、それに加えて彼の宗教思想の基盤を為しているものが禅、特に臨済禅であることもまた事実である。しかし、彼の思想は禅に基づきつつも、浄土教思想、日本曹洞禅、インドの大乗仏教、神秘主義思想を含めて世界の宗教を広く視野に収めている。そこで最初の問題は、臨済禅を本領とする大拙の宗教理解がこれら他の宗教伝統を如何に捉えているのか、というところに生じる。加えてその大拙の解釈がどのような偏りを有しているのかということをも問わねばならないのであるが、その「偏り」を明確にするためには、時に大拙の解釈を相対化する比較対象が必要となるだろう。その比較対象は一律に決めることはできない。大拙の解釈の特殊性を最も鮮やかに描き出すための比較対象を、それぞれの宗教伝統の研究史から選び出す必要がある。
第一部では浄土教、曹洞禅、そして神秘主義という各領域で、大拙の解釈とその特殊性を考察する。彼の宗教理解全体が禅に基礎づけられているとしたら、彼の諸宗教解釈においてもその(臨済)禅的な偏りが見られるはずである。各宗教に対する解釈を考察することで、大拙の偏りそのものが一貫した思想構造によって構成されていることを明らかにする。大拙の宗教論の主要な部分を占める浄土教思想、臨済禅への批判を伴って成立してきた日本曹洞禅もしくは宗祖である道元(1200~1253年)の思想、そして大拙が宗教全体を扱う際の切り口となった神秘主義、これらに対する解釈の構造を明らかにすることは、大拙の禅思想が彼の宗教論全体と密接にかかわっていることを証拠づけることにもなる。第一部では大拙と諸宗教の切り結びの現場を考察の対象とする。
次にそのような諸宗教の解釈の枠組みがどのように形成されてきたかを問わなくてはならない。彼の思想は最初から円熟した形で提示された訳ではない。そこで第二部は大拙の宗教理解全体を構成している枠組みを通時的に明らかにする。そのためにまず画定しなくてはならないことは、大拙思想全体の大きな流れである。大拙の生涯中には様々な展開があり、それを区分していく視点は多分に存在するように見えるが、彼の「思想構造」を区分する視点は限られている。
本書第四章では、「神秘主義」への評価を基軸として大拙思想を三期に区分し、その妥当性を検討する。第五章では、大拙思想の中心構造である「体用論」が、どのような変遷を経たか、そしてその変遷の背景に何があったか、またはどのような意味があったのかを検討する。そして、大拙の禅理解を思想として展開させたものが「即非の論理」であることは周知の通りであるが、この「即非の論理」がどのように形成されてきたかを考察することが第六章のテーマである。「体用論」と「即非の論理」、この二つの基本構造の形成とその意味を考察することによって、第四章で明らかにした思想形成史がより鮮明な形でその姿を現すことになる。
以上の作業は大拙の思想を歴史的に理解することを目指したものである。このことを踏まえて、現代を生きる人間と直接的に関係する倫理学的な諸問題を考察することが第三部の課題である。「行為」、「他者」、「自由」、ここで扱う諸問題は特定宗教へのコミット如何にかかわらず、我々自身の現実と深く結びついている。もちろん大拙の論に従うということが、厳密には臨済禅の枠組みを前提としなくてはならない以上、特定宗教と完全に無縁な論述となるものではない。
しかしながら、第一部、第二部を通じて彼の思想を分析する中で、それが単純な宗教的言説ではなく、存在論、認識論を含んだ一定の哲学的主張に裏付けられていることも明らかになるはずである。第三部が目指すことは、そのような哲学的主張に基づく大拙の宗教思想から、如何なる倫理思想が導かれるのかを確かめることにある。これまで倫理思想として主題化されることのなかった大拙思想の中に、現代を生きる我々の生と結びつく実践性を見出すことが本書の最終目的である。
第一部は大拙の宗教思想を、諸宗教、諸宗派横断的に考察する。第二部は大拙思想の形成を歴史縦断的に追跡する。そして、縦横に描出された大拙の思想面を、現代を生きる我々との距離感によって立体的に浮き彫りにすることが第三部の仕事である。これら三方向の分析を通じて、大拙の思想の各テーマが各個に独立した言説群ではなく、互いに密接な連関を有したものであることが明らかとなるだろう。これまで個々の領域で蓄積されてきた先行研究を踏まえて、大拙思想の全体像を整合的に示すことが、本論の目指す体系的解釈である。