光明主義の創唱者、山崎弁栄とはどういう人物か/佐々木有一『山崎弁栄 弥陀合一の念仏』
近代に独自の浄土教学、光明主義を打ち立てた山崎弁栄。その阿弥陀仏を掲げ称名し、三身即一の阿弥陀仏と一体になる念仏行と念仏三十七菩提分法を詳しく解説した『山崎弁栄 弥陀合一の念仏』(佐々木有一著)から、未だ知られざる山崎弁栄の人物像を紹介する。
二 山崎弁栄とは誰か
山崎弁栄は念仏を通じて新しい信仰体系を生み出した宗教界の巨人であります。大乗仏教、就中、法然浄土教に育まれながら、明治の新しい文明の思潮を受けて近現代にふさわしい内容に変化を遂げた宗教活動の創唱者でありました。
具体的な実践活動はいわゆる念仏でありますが、その念仏の方法、ないし流儀は自修自得されたものです。それが自ずと大乗仏教の長い伝統に即していること、言い換えれば後世の各宗各派ごとの修行法に代替せしめられて久しく閑却視されていた行法を再発見、復活せしめたものであるという認識を明確に自覚しておられたともいえるでしょう。般舟三昧の法とも、三十七菩提分法とも称される行法であります。しかも単純な復活ではありません。一切経を読破しての全仏教的な広く深い知見に加えて、近現代の人々に分かりやすく了解しやすい言語・手法で解き明かし、実修の指導をされました。本書はその方法とその実践の結果の不思議ないし奇蹟を、弁栄聖者ご自身や、面授口訣の高弟方の体験文を中心にお伝えしたいと願うものであります。
こうした独自の浄土教運動から創唱された新しい信仰体系は、宗教としては円具教、学問的には超在一神的汎神教、総じては光明主義と言い慣わしています。
生涯
弁栄聖者は明治維新に先立つ九年前、鎖国を解く開国条約の翌年に生を享けた宗教的天才であります。長い仏教思想の伝統をふまえつつ、科学・哲学・キリスト教へも充分に耳目を向け、明治後半から大正期にかけて新しい浄土教哲学を創造・確立し、多くの人々を教化しつつその信仰体系を開花させていった人物、それが念仏聖者山崎弁栄(一八五九~一九二〇)であります。ここでいう「浄土教哲学」とは、明治四三年頃の書簡に、聖者自ら「自己研究の浄土教哲学」として用いられた用語であり、後に「光明主義」として結実していく内容であります(『お慈悲の便り』上巻、三七二頁)。
弁栄聖者の浄土教哲学、すなわち宗教思想は、すべて自らの深い三昧体験に由来する宗教的事実を、帰納的にかつ体系的に説き明かされたものであります。その内容を言語化するに当たっては、実体験した内証の宗教的事実ないし新しい宗教思想を盛込む必要から、伝統的な仏教用語を用いながらも時には換骨奪胎的に意味を変え、また時にはやむなくして霊性、霊応など仏教用語をハミ出す事例も少なくはありませんでした。
弁栄聖者の宗教思想は、宗教学的には「超在一神的汎神教」と自ら造語し位置づけておられます。明治大正の激動期にあって旧と新、伝統と創造のミックスが天才の手によって新たに析出された新結晶の如きもの、それが光明主義であり超在一神的汎神教である、といえようかと思います。
「法蔵因位の十劫正覚より無量光に摂するは旧約にて、釈迦を通じて無量光に摂するは新約である。旧約は西洋のユダヤ教と同じく、浄土は全く死後の別天地とす。新約は精神的に現在より光明中の生活に入ることができる。……往生にも精神の往生と肉体の往生とがある。……精神の往生としてはこの世と後の世と一体である、ゆえに今現にこの精神に如来の光明を得る外に仏法はない。」(『日本の光』、三九三頁)
聖者の生年は安政六年(一八五九)、現在の千葉県柏市、手賀沼のほとり鷲野谷の地であります。農家の山崎嘉平、なを夫妻の長男、名は啓之助でした。
明治期に流入する西洋の文物思想について当時の仏教界は拒否、否定、無視などの態度で対する傾向が一般に強かった中で、弁栄聖者は是々非々の中庸をもってこれに接しられたことが大きな特徴であります。ご生家の手賀沼界隈は江戸・東京から三〇キロ内外、現在では関東の内陸に延びる東京のベッドタウンという印象が強いのですが、江戸時代から明治にかけては大河利根川の水運に恵まれて外に開かれた土地柄で、経済的にも豊かなうえに各種の情報や世相の動きが早く伝わる地域であったということが見逃せないと思います。明治一〇年代に早くもギリシャ正教の手賀教会がこの地に進出し、村の有力者などが入信した、そういう土地柄でありました。当時の教会の建物は市の文化財として保存され、教会の活動は場所を移して現在も続いています。教会の進出時期は弁栄聖者の出家から東京遊学、三昧体験、筑波入山など宗教的人格の確立期にあたり、この教会の神父たちと何らかの接点があったらしいことは藤堂恭俊上人の『弁栄聖者』に明かされています。
弁栄聖者は早くから出家の希望をもちながらも、ようやく二一歳(明治一二年)で剃度(剃髪得度)、名を弁栄と改め、師の大谷大康上人のもとで一年余の勉学のあと東京に出て、浄土宗のみならず他宗碩学にもついて仏教全般を広く研鑽され、さながら八宗兼学の気概溢れるが如くでありました。しかも学問としてだけでなく、たとえば『華厳五教章』を学べばその法界観の実修実践にも寸暇を惜しんで励まれました。もとより念仏に対するご精進も尋常でなく、明治一五年には筑波山に籠り、遂に三昧発得の身になられました。時に二四歳です。翌年から一切経読破に取り組み三年足らずで読了されました。このことだけでも僧侶として特別な、稀なるご精進です。稀といえば明治の中葉にあって珍しくもインドの仏蹟巡拝も果たされています。
筑波山にて三昧発得の偈
弥陀身心遍法界
弥陀の身心は宇宙のどこにも在さざるところなく衆生念仏仏還念
我が弥陀を念ずると弥陀もまた我を念じ還してくださる一心専念能所亡
念じ続けて一心不乱、弥陀も我も彼此の別なく真実の自己と自他不二である果満覚王独了々
しかも不思議や、果満覚王たる阿弥陀仏ご自身が宇宙の中心に独り厳然と露わにはっきり鎮座在ます
偈の下にその読み(大意)を入れましたが、この偈の解釈や味わい方(玩味)は仏眼などの専門用語の活用が有効ですので後述の「慧眼 法眼 仏眼」の項参照。