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死にたがり読書録 吉田隼人

ひとつの・生の・哲学

 これから、たくさんのテクストを引用しながら、なにがしかのことを書き付ける。その合間には、短歌として読まれるべきものも交じる。とりわけたくさん引用されるのは、ジル・ドゥルーズの「内在―ひとつの生……」(『狂人の二つの体制』所収)という文章になるだろう。この文章は、ドゥルーズが生前、最後に発表したものだ。この論文とも随筆とも決めがたい、あっけなくはじまってあっけなく終わる一篇のテクストが雑誌に載ったあと、ドゥルーズは長らくわずらっていた呼吸器疾患のすえ、アパルトマンの窓から身を投げて死んだ。引用は小沢秋広訳によるが、フランス語原文とあちこち見比べて、こちらの勝手な語感で変えることさえあるかも知れない。いちおう、すべての引用は、わかりよいようにカギカッコでかこむことにする。

 ここに書くものがなんなのか、じぶんでもわかっていない。「ひとつの・生の・哲学」というタイトルをつけるにはつけたわけだが、「ひとつの生」と題された哲学にまつわるテクストを下敷きにしながら書いていくのだから、こんなタイトルはなんにも言っていないにひとしいということになりそうだ。

 ナカグロをふたつ入れたのがかろうじてこちらの独自性とでもいうべき〈あがき〉であって、それは「「ひとつの生」の哲学(la philosophie d'une vie)」であると同時に「ひとつの「生の哲学」(eine Lebensphilosophie)」でもあるという、こざかしいことば遊びのつもりでやったようなものだ。ドゥルーズは「ひとつの生(UNE VIE)」ということばを使っている。なんどもなんども、くりかえして出てくる。「ひとつの生」ということについてあれこれ考えたことを、「ひとつの生」といういいまわしを何度もつかいながら書いている哲学のテクストなのだから、まず、「「ひとつの生」の哲学」なのだといえそうな気がする。だけど、ドゥルーズじしんはどうなのかわからないけれど、ドイツ語で「生の哲学(Lebensphilosophie)」というふうにくくられる哲学者たちが歴史上何人もいて、ジンメルとかオイケンとかいったひとたちはともかく、ふつうレーベンスフィロゾフィーというとき含まれる哲学者や思想家のなかには、ドゥルーズがおおきく取り上げ、モノグラフをささげるまでにいたった、ベルクソンやニーチェといったひとたちもいるのだから、まあ、その延長線上、ずーっとほそくてながい線をひっぱってきた先に、この「内在―ひとつの生……」というテクストがあるのだというふうに言いたいというきもちが、やっぱりどこかにある。「生の哲学」なんてくくりは、しょせん思想史上のことで、それはひとりひとりの思想について、テクストの細部に即したどろくさい読みを積みかさねることで、そのこまやかな襞のひとつひとつにまで分けいっていき、ことばと思索の体験とがきりむすぶ平面へと到達しようとする地道なこころみこそが求められる。しかしこれから書きだされようとする文章はそんな営みからはかけはなれた、冒涜的で安易な、それこそフーコーのいう「知の考古学(l'archéologie du savoir)」と対置されるべき「思想史(histoire des idées)」のような、はなはだ軽薄で、そのくせみょうに深刻ぶった、パッチワーク的でくだらないいとなみのひとつにすぎないのだろう。

 

内省にひとひつひやし飮食おんじきは秘めてなすべきこととこそ知れ

 

晴れやかにやよひの思弁めぐらして神に近きか青菜食ふわれは

 

こぼれたる汁をパンもて拭ふとき古今の梅の咲きそむるかな

 

生くるとはつねに死につつあることとばかりに風は窓ふきぬける

 

喰らふとは内と外とをみだすこと春爛漫のたましひの白

 

「ひとつの超越論的場とはなにか。ひとつの客体に向かうことも、ひとつの主体に属することもないことから(経験的表象)、超越論的場は経験とは区別される。こうして超越論的場は、非主体的意識の流れ、非人称の前省察的意識、わたしを持たない意識の質的持続として提示される。超越論的なものを、このような直接的与件によって定義するのは奇妙かもしれない。ならば主体と客体から世界を作ろうとするすべてに対立させ、超越論的経験論といおう。」(ジル・ドゥルーズ「内在―ひとつの生……」小沢秋広訳)

 

 内在と超越。英国経験論と大陸合理論。あるいは経験論哲学と超越論哲学。こうした二項対立をもちこんだとき、しかしそれを弁証法のように〈止揚〉してしまうことなく、対立図式を解消することはできないだろうか。たとえば、それら対立するものとされるふたつの項をそれぞれ極端なまでにおしすすめることで、二項からなる対立図式そのものが成り立ちえないところまで行ってしまうこと。いいかえれば、二項対立を「ずらす」こと。あるいはまた、そうした二項対立そのもののよってきたるところをどこまでも掘りすすめ、それらが名もなき人びとによってどのように語られ、どのように名指され、どのように整流されていったのかということを、ときにひどくつまらない迂路をも通りながら、行きつくところまで行ってしまうことで、いまだその対立がはじまっていないところまでたどり着こうとすること。

 もしかしたら、ひとつめの行き方は「脱構築」、もうひとつの行き方は「知の考古学」などと、いささかおおげさなことばでもって呼んでしまうことさえできるのかも知れない。いうまでもなく、脱構築というのはジャック・デリダからきていることばであり、知の考古学というのもミシェル・フーコーからきている言いかたになる。こんな、みみっちい、アンチョコじみたまとめかたは、どうかんがえてもくだらない。フーコーともデリダとも、もちろんドゥルーズとも、ほんとうのところをいえば、なんの関係もないものだろう。しかし、ここで、超越論哲学と経験論哲学という二項対立をもちだして、ドゥルーズはその対立軸をずらすことも、対立軸のよってきたるところを掘りさげていくこともしないで、あっけらかんと、「超越論的経験論」という、ふたつのことばをそのまんまくっつけた、あたらしいコトバをつかってみせる。

 

「こんなひとつの超越論的経験論には、なにか荒々しく力強いものがある。これが感覚のエレメント(単純な経験論)ではないのはたしかだ。感覚とは絶対的意識の流れのワンカットでしかない。むしろそれは、どんなに接近したふたつの感覚であれ、なることとして、力の増加もしくは減少(潜勢量)として、一つの感覚から他の感覚への移行である。ならば超越論的場を、はじまりもおわりもない運動として、客体もわたしももたない、直接的な純粋意識の流れによって定義すべきだろうか(スピノザでさえ移行もしくは力の量の概念化にあたり、意識に訴えている)。」(ジル・ドゥルーズ「内在―ひとつの生……」小沢秋広訳)

 

 ひとつめの引用にコメントを付けたのが夏のはじめで、気が付くと冬のはじめになってしまった。この間、ずっといろんな原稿を書いていたのだが、そのおおくはじぶんで没にしてしまって、あまり実を結んでいない。この連載のほかに、短歌について書きすすめているものがあり、それははじめ書き下ろしで本にしてもらうはずだったのが、あまりにだらだら引き延ばしてしまったせいで連載でやりましょうということになり、それもいつまでも開始できずにいまに至る。

 そうこうしているうちに、祖母が死んでしまった。じぶんの「死」をめぐってあれこれ考え、書きすすめていたのが、身内がまたひとり亡くなってしまった。晩年の西田幾多郎の「煖炉の側から」という随筆で、連載の切れめ(たしか京大の英文科でそのころ出していた雑誌に何回かに分けて載ったもののはずだ)で、いきなり「猫も死んで了った。」とはじまるのがあった。猫「も」というのは、この連載のはじめの回で書いたことだが、西田幾多郎は姉や弟、妻や子どもたちにたくさん先立たれているので、そのことが念頭にあっての書きかただろう。英文科の機関誌のような媒体に載せた随想なので、英語で読んだ文学作品のはなしが主なのだが(英文学だけではなく、西田が若いころは日本語訳も少なかったので、ロシア文学の名作を英訳で読んだはなしも多く出てくる)、そういう読書のはなしにまぎれて、西田幾多郎のかなしむ横顔がみえる。まだ『善の研究』を出すよりまえ、西田は金沢の学校友だちが国文学者として出した本の序文を書いて、そこでその友だちとじぶんとの共通の体験として、子どもに先立たれたはなしをずっと書いている。英訳で読んだらしいドストエフスキーの引用などもまじえて、子を亡くした親の悲痛なおもいが、窓のすきまから漏れる寒気のように、からだにじかに伝わってくる。物は壊れる、人は死ぬ。ムーンライダーズの曲のタイトルをとくに註釈などなしに九鬼周造についての文章にさらりと混ぜたのは、パンクの愛好家でもあった批評家の福田和也だが、その福田和也もまえの冬に死んでしまった。ひとはびっくりするぐらい次々と死んでいく。生きるというのは、生きているかぎり、ほかのひとの死に出くわさざるをえないもののようだ。

 

「ひとはしばしば、プラトン的、新プラトン的、中世的伝統にそっくりそのまま対応するような「段階的宇宙」を描写してきた。それは、超越的原理としての《一者》から吊るされた、神聖な始原(イエラルシック)の一連の流出と転換によって進んでいく宇宙である。《存在》はそこでは多義的あるいは近さに従って、〈より多い〉あるいは〈より少ない〉存在、〈より多い〉あるいは〈より少ない〉実在性を有することになる。しかし、それと同時にまったく別の霊気がこの宇宙空間を横切っている。それは、あたかも内在性の浜辺が諸段階や諸行程を通って広がっていき、諸階層の間で再び結びつこうとするかのようである。そこでの《存在》は一義的で、等しいのだ。言い換えると、諸々の存在者は、その各々が自己自身の力能を第一原因との無媒介的近傍のなかで実現するという意味で、等しく存在するということである。もはや遠隔原因は存在せず、岩壁やユリ、動物や人間は、一種の戴冠した無−始原(アナルシー)のなかで神の栄光を等しく歌うのである。切れ目のない諸階層の〈流出−転換〉に対して、内在性における〈包蔵〉と〈展開〉という二つの運動の共存が取って代わるのだ。この運動において神は「あらゆる事物を包蔵し」、それと同時に「各個の事物は神を展開する」。多なるものはこれを包蔵する一なるものにおいて存在するが、それと同じだけ一なるものはこれを展開する多なるものにおいて存在するのである。

 またおそらく理論なるものは、これら二つの側面あるいはこれら二つの宇宙を調停し、とりわけ内在性を超越に従属させ、内在性の《存在》を超越の《一性》によって測り続けるだろう。しかし、理論的な仲裁がどんなものであれ、あたかも神聖な始原(イエラルシー)が一つの特殊な無始原(アナルシー)を、あるいは神の愛がこの愛に特有の内的な無神論を生み出すかのように――そのたびにひとは異端に触れるのだが――、内在性の圧力のなかには、垂直的世界を乗り越えて、それを背後から攻撃しようとするあるものが存在する。こうしてルネサンスは、新たな大洪水で超越を脅かすことなしに超越と和解などしないようなこの内在的世界を発展させ、拡張し続けるだろう。」(ジル・ドゥルーズ「内在性の浜辺」江川隆男訳)

 

 ドゥルーズの「内在」というはなしの引用をしていたので、おなじ本から別な時期に書かれた論文をひっぱってきた。これはドゥルーズの指導教官のひとりでもあった、モーリス・ド・ガンディヤックという哲学者の記念論文集のような本に寄せた、ごくみじかい文章の書き出しにあたる。かれの主要なしごととして、中世ドイツの神学者ニコラウス・クザーヌスや新プラトン主義の神秘主義思想家プロティノスについての研究書と、ニーチェの『ツァラトゥストラ』のフランス語訳があり、またかれはスリジー・ラ・サルでひらかれた多くのコロックを主導した。そうした個人的な思い出ばなしのような文章と絡めるようにして、ドゥルーズは「内在」について、いきなり核心のはなしをポンと投げ出してみせる。モーリス・ド・ガンディヤックの業績と、かれとの友情のことを書きながら、それが切れめなくドゥルーズらしい哲学史にかんする大胆な見方の提示へと、不思議なくらいなめらかにつながっていく。あまつさえ、そこには「鏡のなかの像の内在、芽のなかの樹木の内在、これらは表現主義的哲学の二つの基盤である。そして、偽−ディオニュシオスにおいてさえ、神聖な始原の厳格さは、同等性の浜辺、一義性の浜辺、無始原の浜辺に一つの潜在的な場所を残している」とか、「神聖な始原の世界を見分けること、しかしこれと同時に、その世界を直接問題にするよりもそれに揺さぶりをかけるようなこの内在性の浜辺をそこで通過させること」といった、詩的とでも呼ぶほかないような、うつくしい言葉のつらなりがふいに顔をのぞかせさえする。内在性という哲学(史)上の概念をめぐる議論をしていながら、それは浜辺になったり、布地になったり、織物になったりする。バッハの曲などをきいていて、音楽のことなどまるでわからなくても、さっき出てきた主題がいつのまにか、あいかわらずのうつくしい印象の持続のなかでふたたび変奏されてあらわれ、それがまた別なふうにうつりかわっていく、そんなふうに。

 

喪ひし冬のひざしのさすうちに目をみひらきて眠れ青馬あをうま

 

虚無に賭け虚無よりほかにのこされずわがうちを一頭の馬ゆく

 

「疲労したものは、ただ実現ということを尽くしてしまったのにすぎないが、一方、消尽したものは可能なことのすべてを尽くしてしまう。疲労したものは、もはや何も実現することができないが、消尽したものは、もはや何も可能にすることができないのだ」(ドゥルーズ『消尽したもの』宇野邦一訳)

 

 しかし、生きるということはたぶん、際限なくくたびれつづけることだ。くたびれる、という日本語は、くたばる、という日本語とおなじ語源をもつのだという。くたびれることは小さくくたばりつづけることであり、くたびれつづけた先には、ほんとうにくたばってしまう結末が待っているだけだ。なにも実現しない世界もさびしかろうが、なにも可能にならない世界はもっとさびしい。可能というのはまだやっていないことだから可能なので、やってはいないけどできる、ということすら、もはやなくなってしまう。そんな領域が、生きていると、ある。

 

「われわれは何かに疲労したのだが、消尽したのは何のせいでもないのだ。選言命題はあいかわらず存在し、言葉の区別はますますあからさまになっているのだが、分離した言葉は、分割不可能な距離において肯定される。なぜなら言葉はたがいに置換されること以外に何の役にも立たないからである。一つの事件については、それは可能だ、というだけでまったく十分である。なぜなら事件は生起するとき必ず無と一体になり、事件が要求する現実そのものを無にしてしまうからである。実在があるとしたら、可能なものとしてだけである。夜がくる、夜がこない。雨が降る、雨が降らない。「そう、わたしはわたしの父だった、そしてわたしはわたしの息子だった」。」(ドゥルーズ『消尽したもの』宇野邦一訳)

 

 こういう物言いが、ある時代のフランス語の文学作品には、たしかにあった。ドゥルーズの『消尽したもの』(あたらしい訳では『尽くされた』)はサミュエル・ベケットの作品について書かれた文章だが、ベケットの長篇三部作の第一巻にあたる『モロイ』には、まさにこの、雨がふっているのだか、ふっていないのだか、両方のことが書かれていて、つまるところどっちなのかよくわからなくなる、そういう箇所がある。おなじような「Aである、そして非Aである」という、論理的にありえない、矛盾したことを書いた小説家として、哲学者のブリス・パランは『ことばの小形而上学』のなかで、モーリス・ブランショの名前をあげている。ベケット、ブランショ、それにバタイユの三人は、そのむかし大学の仏文科あたりでは、こむずかしい、わけのわからないものばかり書く三人の現代作家として、イニシャルをとって「3B(トロワ・ベー)」とよばれていた、ときく。

 ブリス・パランはゴダールの映画『女と男のいる舗道』に本人役ででてきて、アンナ・カリーナと「ことば」についてカフェでことばを交わす場面があった。パランの日本語訳は二冊しかないのだが、博士課程までおせわになった恩師は博士論文をこのパランという哲学者について書いて、パリ第一大学で学位をとられた方だった。パランは「帰休兵の沈黙」といわれる、第一次世界大戦からかえってきた兵士たちが一種の失語症のような状態におちいって、うまくものを言えなくなる体験からキャリアをはじめた人だという。いちど言ったことをそのすぐあとに打ち消して、反対のことを言う。なんの意味もないことをべらべらとしゃべるのは、おそらく、世のなかのあらゆることに意味がないとおもって、なにもしゃべれなくなるのと、とても近いところにあるのではないか。まわりでバタバタとひとが死んでいくなか、それでもじぶんのはなすことばに意味があるのだとおもいつづけるのは、きっととんでもなくむずかしい。

 

「消尽した男、使い切った男は、立ち上がり靴を履いて外出することも、スリッパを履いてベッドに歩いて行くことも出来ず、椅子に座りテーブルに肱を突いたまま死を待機することしか出来ない……しかし、使い切った男は突如異様な活気の中で途方もない動作をするだろう……すなわち、靴を履いてベッドに横になり、或いはスリッパを履いて外出して行くのである……。窓から投身したドゥルーズのスリッパがどのように存在したか、私は知りたいと思うのだ……。」(丹生谷貴志「エンペドクレスのサンダル」)

 

 ドゥルーズがアパルトマンの窓から身を投げて死んだのはちょうど三十年まえのことだ。そのころ、丹生谷貴志はドゥルーズについて追悼文のようなみじかい散文をいくつか発表して、最晩年のドゥルーズがおおやけにしたテクストのひとつである『消尽したもの』にふれ、そのように書いた。喘息もちで、そのくせタバコをふかすことをやめず、齢をとってからもかくれてタバコを喫みつづけ、たとえば弟子のクレール・パルネによるインタビュー形式の映像作品『ジル・ドゥルーズのアベセデール』でもパルネがタバコを吸うものだから、収録のあいまにじぶんもこそこそタバコを吸っていたという、くたびれたドゥルーズのすがた。呼吸がむずかしくなって、じぶんの部屋からうごけなくなり、機械につながれ、いろいろなことが「実現」どころか「可能」ですらなくなった七十歳のおじいさん。そのおじいさんの哲学者は、くたびれるからくたばるへの移行として、くたびれきったじぶんの肉体を、ある日ふいに窓から放り出した。肉体をはなれて霊魂だけが生きのこるとおもっていたわけでもないだろう。もうすっかりくたびれて、最後にできることといったらこれだけだ。そういう、ある意味ではごく自然な、このうえなくありふれたできごととして、ドゥルーズは死んでいった。

 

「しかし超越論的場が意識との間にもつ関係は、権利上のものでしかない。意識がひとつの事実となるのは、ひとつの主体がその客体と同時に産出されるとき、両者がともに超越論的場の外で、「超越するもの」のように現れるときでしかない。これに対し、意識がいたるところに拡散したひとつの無限の速さで、超越論的場を横切っているかぎり、意識をそれとして示すものはなにもない。事実、意識は、諸々の客体に意識を向かわせるひとつの主体のうえに映し出されながらでしか、みずからを表すことがない。それゆえに、超越論的場は、意識と外延を等しくするものの、それを明かすことのない意識によっては定義されないのである。」(ジル・ドゥルーズ「内在―ひとつの生……」小沢秋広訳)

 

 ふたたび、ドゥルーズがさいごに公刊した文章である「内在―ひとつの生……」の引用にもどってきた。ここでドゥルーズはべつに死後の生とか魂の不死とかいうことをかんがえていたわけではないとおもうのだが、意識というのは主体とか客体とかいうものより先に、というかべつにあって、いまここでじぶんが生きていることに意識も主体もべったりくっついているような感覚とはだいぶちがう、常識としてかんがえられて(または、感じられて)いるのとはべつなふうにして、しかし、言われているうちにふとピンとくると、なるほどじぶんの意識とか主体としてのじぶんとかいうものも、よくよく思い出してみればそういうぐあいであったかも知れない、と納得させられてしまうような、そんなことを書いている。このみじかい一節を読みかえしながら、この世に生まれてきて、いつのまにか意識というものがめばえ、いつからか意識的にじぶんという主体のことを認識するようになった、じぶんを主体としてものごとを受けとめているのだととらえるようになった、そんな幼少期のぐちゃぐちゃした未発達な感覚のことを思い出したような気になっている。

 

「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょにリンゴをたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい、そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』三次稿)

 

 宮沢賢治は、こんなニーチェのようなことも書いていたのだなぁ、と、仕様もない感心をしてみたりする。死ぬということ。まだ生きているということ。ひとが死んだあとに別なひとはまだ生きているということ。死んだひとのことを思い出すということ。思い出のなかで死んだひとが何回も死ぬこと。思い出されることと、同じことがくりかえされること。思い出すということ。思い出しながらおなじことをくりかえすということ。おなじことをくりかえすとき、それはすでに、べつなことになっているということ。べつべつのはずだと思いこんでいたことが、おなじことのべつなかたちにすぎなかったかも知れないこと。

 

馬に馬たるゆえんありその馬にその馬たりしゆえんあり あけ

 

名のみとなりてなほはるかぜに吹かれゐる梅てふことば桜てふことば

 

馬のわれ飼葉をらふ わがうちの馬のうちなるわれを屠る

 

わが生きしことわれと呼ぶ わが生まれくるよりまへにわれは在りつつ

 

「超越するものは、超越論的なものではない。主体の超越とも客体の超越とも無縁である以上、超越論的場は、意識ではなく、ひとつの純粋な内在平面によって定義されるだろう。絶対的内在はそれじたいにおいてある。なにかの中や、なにか〈に〉属してあるのではないし、客体に依存することも主体に帰属することもない。スピノザにおいて、内在は実体に内在するのではなく、実体と諸様態が内在の中にある。主体と客体が、内在平面の外に落ち、普遍的主体もしくはなにがしかの客体とされ、内在そのものが〈それらに対して〉付与されるとき、超越論的なものはひとつの変質をこうむり経験的なものを裏打ちするしかなくなったり(カントにおけるように)、内在がひとつの変形を受け超越するものの中に収めこまれたりする。内在は、あらゆるものより高次な単位としてのひとつの《なにか》にも、諸事物を総合する行為としてのひとつの《主体》にも向けられない。ひとつの内在面について語りうるのは、内在がもはや自分以外のなにかの内在ではなくなったときだけである。超越論的場が意識によって定義されないのとまったく同様に、内在平面はそれを収容しうるひとつの《主体》やひとつの《客体》によっては定義されない。」(ジル・ドゥルーズ「内在―ひとつの生……」小沢秋広訳。引用に際して一部の訳語をあらためた)

 

 漢字の内在という字面からは、「なにかの内に在るもの」という意味がよみとれる。というより、内というとき、ひとはかならず外とくらべて内なのだといっている。でもドゥルーズは、内在というのは内在にとっての内在であって、ほかのなにかの内に在るわけではないのだという。内在ということをつきつめていくと、すべては「内」であり、内在より先にあるものもないし、内在より上にあるものもないし、「外」などなにもないのだということになっていく。そういう「外」は内在ではなくて「超越」だということなのだろう。もしくは、ほかのあらゆるものに対して「外」であるような「超越」したところにあるのが「内在」だということなのか。ものすごい極限のところまで、おそろしい速さで、ドゥルーズの思弁はくりひろげられる。なのに、それは街角のタバコ屋までふらっと出かけるような気軽さで、そのあたりに無造作にころがっている。あるいは、そういうふうにふらっと無造作に、かれは窓から身を投げたのかも知れない。

 

烏らはねぐらへかへる まぼろしの伽藍ゆふひに染まるそのうへ

 

ゑのころのくさむらふいに波立ちて雀の群の飛び立ちにけり

 

わが胸に春のおとなひ creatio ex nihiloをいまだ信ぜず

 

いのちとは外の外なる内にあり春の陽浴びてわれは生まれき

 

「哲学者のスピノザによれば、この世界自体が神なので、あらゆるものは神の一部であり、神の内にある。万物は神が変状したもので、生まれても死んでも神の外には行けない。となると、生まれるのも死ぬのも奇跡ではないかもしれないけど、それでもまったく違うものに「変状」してしまうわけだから奇跡に近いね。もちろん、この場合の神というのは、人の形をしてネグリジェみたいなものを着てたり、でっかい杖を持ってたりする神じゃないので、念のため。/おじさんはスピノザを信じているかというと、この世で66年生きてきた感触からいうと、一番「ほんと」に近い感じがします。スピノザを読んだのは40代の頃だけど、最近また読みはじめてるんだね。それでスピノザを持ち出したのかもしれないけど、ほんとにさ、こんなこと誰も教えてくれないわけよ。(…)そうは言っても、スピノザの言葉を思い出して欲しい。この世界こそが神で、その中にいる我々すべては神の変状したものであって、神の外には行けないし、神の中で変状しつづけるだけである。これはエネルギー保存の法則でしょう。エネルギーは変状しつづけるが、永遠に存在しつづける。スピノザを読んだときに、おじさんはこう思ったんだね、オレの予想が当たったって。」(いがらしみきお『問いつめられたおじさんの答え』)

 

 ドゥルーズはニーチェのことを書き、スピノザのことを書いた。永劫回帰、すべてのものごとは限られた要素の組合せでできているのだから、無限の時間のなかではいつかは何べんもおなじことがくりかえされる。そういう意味ではニーチェは「内在」なのかも知れないし、世界から超越したところに神はいない、神ということをいえるとすれば、それはこの世のすべてが「神」の一部なのだとでもいうほかはない、そんなスピノザのかんがえは、多くのひとたちからそうみられたように、無神論とほとんどかわらないところまで突き進んでしまった過激な有神論(そんなことばがあるのか?)として、「神は死んだ」でおなじみのニーチェと近いところに置かれてもおかしくはない、といったら、これはいささか常識的なものいいにすぎるだろうか。世界はどこまで行っても世界なら、その「世界」ということばを「神」といいかえたからといって、どうしてそれが不都合だろうか。

 

はくもくれんと札の立ちゐてはくもくれんの花咲きゐたり 名とはすがたか

 

肺患のスピノザ、ともに書を遣りて求めし砂糖漬けの紅薔薇

 

生くるにも倦みて久しく神なくばなほしんしんと降る春の雪

 

「神とは起源的なもの、すなわちあらゆる可能性の総体である。可能なことは派生したものにおいてのみ、つまり疲労においてのみ実現される。ところが人は生まれる前に、つまり自己を実現したり何にせよ何かを実現したりする前に、もう消尽しているのだ(「私は生まれる前に諦めていた」)。」(ドゥルーズ『消尽したもの』宇野邦一訳)

 

 全知全能の神、といういいかたをよくする。神にとってはすべてが可能である。可能が実現したとき、疲労があとにのこる。しかし人間は生まれてきて、そのときすでに「可能」を使い尽くしている。〈わたし〉が生まれてくるということは、すでに〈わたし〉でない別な人間が生まれてくるという可能性は消えてしまったということでもある。〈わたし〉でない〈わたし〉が、〈わたし〉のいない世界で実現するはずだったさまざまなことは、もう実現しないどころか、可能ですらない。おなじようなことが〈わたし〉のいる世界で実現したとしても、それはもう〈わたし〉のいない世界で実現するのとはべつなことで、完全におなじことではなく、おなじ「ような」ことにすぎないのだから。〈わたし〉がこの世に在るとき、それはこのようではない〈わたし〉、〈わたし〉ではない〈わたし〉、〈わたし〉のいない世界、それらすべての否定のうえになりたっている。なんだかライプニッツが『弁神論』のさいごのところで書いていた、無数の可能世界からなりたっているピラミッドのその頂点にあるたったひとつの世界が、現実にあるこの世界なのだという宮殿のことを思い出して、はてしない徒労感をおぼえる。いまこの瞬間も、〈わたし〉がぼんやりと生きて在ることは、〈わたし〉のいない世界、このような〈わたし〉がいない世界、〈わたし〉がこのようではない別なあり方をしている世界、そういった無数の「可能」が消え尽くしてしまったことのうえにある。だからといってべつに生き方を改めたりすることもないので、ただもう、〈わたし〉が生きて在るということ自体がすさまじくおかしなこととして、みょうな座りのわるさだけをのこして、そして〈わたし〉は余計にくたびれてくる。

 

冬いまやをはりつつあり神あらばふかき疲労のひとひと思ふ

 

「純粋な内在とは、〈ひとつの生〉、それ以外のなにものでもないといえよう。純粋な内在は生への内在ではなく、なにものにおいてあるものでもない内在的なものが、それ自体ひとつの生となる。ひとつの生は、内在の内在、絶対的な内在、それは力、まったき至福。主体と客体から生まれる出口なしの難問を乗り越えるにつれ、フィヒテはその最後の哲学で、超越論的場を、《存在》に依存することも《行為》に従属することもない〈ひとつの生〉として提示した。その活動そのものがひとつの存在に向けられることを止め、ひとつの生の中に自分を置き続ける絶対的な直接的意識。このとき超越論的場は、真にひとつの内在平面となり、哲学の事業の最深奥に再びスピノザ哲学を導入する。これと同じようなひとつの冒険が、メーヌ・ド・ビランを訪れたのではなかったか。その「最後の哲学」(疲労のためやり遂げられなかった哲学)において、努力の超越の下にひそむ、絶対的に内在的なひとつの生を発見したときのかれに。超越論的場はひとつの内在平面によって定義され、内在平面はひとつの生によって定義される。」(ジル・ドゥルーズ「内在―ひとつの生……」小沢秋広訳。引用に際して一部の訳語をあらためた)

 

 もう十五年以上むかしのことになるが、はたちの頃、劇作家の宮沢章夫氏の講義にでていた。「サブカルチャー論」という講義で、NHKで放送された連続番組や、本になっている東大での講義と同じような題材で語られるものだった。まだ「オタク」と「サブカル」のあいだに垣根をつよく感じさせるような時代で、こちらでもじぶんを「オタク」のがわの人間だとおもっていたのが、宮沢さんの影響を受けたというだけではないが、気がつくと「サブカル」っぽくも染まっている。サブカルチャーの主要な流れとして当然ポピュラー音楽はあり、じぶんにとって英語圏のロックの歴史についての教科書的な理解はここで作られたものになる。日本からはYMOが紹介され、その年の夏休みに行った夏フェス・ワールドハピネスでは、大トリのYMOの前に出るバンドが相対性理論だった。「オタク」との架け橋になりそうな話題としては、特撮ドラマ「怪奇大作戦」での岸田森や実相寺昭雄の話があった。これはのちにNHKのラジオ番組でも語られた話題だが、こちらにとってはその後まったくべつの経緯から、川崎市市民ミュージアムで実相寺昭雄の遺族から寄贈された資料を調査するアルバイトをすることになったので、忘れがたいものがある。その宮沢章夫氏の最期のツイートを、歌人の伊舎堂仁さんが振り返っていた。宮沢さんはまさに「サブカルチャー論」の講義中に、ツイッターという変なサービスを使いはじめたことを語り、「つぶやき続けて百回目」とつぶやいた、ということのナンセンスさを軽い口調で笑っておられた。その宮沢さんはもうこの世におられない。サブカルチャー論の講義で宮沢さんは80年代の「昭和軽薄体」的なゴテゴテした文体とはべつのユーモアエッセイの書きかたを90年代に模索したはなしをして、おなじような苦闘をした書き手としてナンシー関の名前をあげられた。ナンシー関はそのころもう、死んで十年近く経っていて、神格化されだしていた。喜劇人の系譜というはなしで、タモリやいとうせいこうのような「上半身の笑い」に対する「下半身の笑い」として由利徹の、ほんとうにバカバカしいとしか言いようのない泥酔したおやじの演技を見せて、学生たちと一緒になって、宮沢さんも笑った。「上半身の笑い」の系譜にある若手として「バカリズムくん」の名前をだし、芸人として舞台に上がるのがきついなら、脚本を書くがわに専念する道はいくらでもひらかれていて、早くそっちにこいよと言っている、というニュアンスのこぼればなしもあった。バカリズムはもうじきNHKで「朝ドラ」の脚本を担当する。かつて教えていた美大でのレポート課題で、封筒で郵送できるものなら絵でもデザインでも立体なんでもいいと伝えたら、ガリガリ君を郵送してきた学生がおり、とうぜん袋のなかで溶けてしまっている、その処置と評価にこまった、と、含羞をにじませた笑みを浮かべておられた。

 どの授業も最前列で受けることをじぶんに課していたので、宮沢さんの講義も大教室の一列目に陣取っていた。あの講義はもぐりの学生や業界関係者もおおく、そういう人たちはうしろのほうの席にいたのだと思うが、最前列には毎日ばりばりのロリータ・ファッションできめている女子学生や、ヒッピーふうの長髪無精ひげの男子学生、ある政治セクトに属しているのではないかと目されていた年かさの学生などがひしめいていた。宮沢さんはときどき最前列や二列目、三列目あたりまでの学生を、指名するというかんじではなしに、はなし相手のようなぐあいで選びだして、問答をされることがあった。ロリータにもヒッピーにも得意分野らしき話題をふって授業をすすめておられたが、いつも最前列にいるものの、私語を発さず、ひとりぼっちで、地味な服装をした、色白で黒髪で細身で、うつむきがちの陰鬱な青年であった〈わたし〉に、宮沢さんの質問が飛んできたのは一度きりだった。

「あのうほら、映画でもあったじゃない、モーツァルトのことを憎んでいたような、ライバルの……あれ、なんていうんだっけ?」

 サリエリ……と消え入りそうな声でこたえると、そうそう、そうだサリエリだ、とすぐ講義はもとのながれに戻っていった。『アマデウス』くらいなら、クラシックが好きでない学生、映画が好きでない学生でも、少しくらい知っている。要するにはたちの頃、じぶんはそのようなありふれた青年という枠から一歩もはみ出さない存在だったのだろう。

 宮沢さんは「80年代は『スカ』だった!」という宝島社かどこかのムックがつけたコピーを否定するため、80年代がもっていた可能性をよみがえらせるため、ときに懸命に語られた。サブカルチャーのなかでも「悪趣味系」や「ロリコン系」につながる、今であればまちがいなくキャンセルされる流れを、まだじぶんとは切り離して断罪できるほど距離をおけない人が大多数だったそのころ、『自殺されちゃった僕。』という本があり、まさにそうした80〜90年代の「サブカル」の悪趣味なところを生きていた人たちが、90年代の半ば以降に非業の死を遂げていきつつあった。そのことに触れながら宮沢さんは学生たちに、とにかく自殺をしないでほしい、と急に懇願するようにはなしだした。どうしても死ぬほかなくなったら、死ぬまえに時間をくれ、電話をかけてきてくれていい、せめてなにか、おもしろいことを言って笑わせるから……。宮沢さんはきっと、死を前にして最期のツイートをされたとき、ひどくくたびれておられたのだろうな、と、今はただそのようにおもう。

 

人あまた死なしめてのち神は死ぬ やよひのひかりみだらに射して

 

みちに雪ふりつみてのうすあかりわれらは神をかつて殺めき

 

神の死ののちもなほ死ぬ人あまた春のあらしはかくまで白く

 

「内在とはなにか? ひとつの生……超越論的なものの指標として不定冠詞を理解しつつ、ディケンズほどみごとに、〈ひとつの〉生とはなにかを語った者はいない。極道が一人、みんなが侮辱し相手にしない悪漢が一人、瀕死状態におちいって運ばれてくる。介抱にあたる者たちはすべてを忘れ、瀕死者のほんのわずかな生の兆しに対し、一種の熱意、尊敬、愛情を発揮する。みんなが命を救おうと懸命になるので、悪漢は昏睡状態の底で、なにかやさしいものがこんな自分の中にも差し込んでくるのを感じる。しかし、だんだんと生に戻るにつれ、介抱に当たった人々はよそよそしくなり、悪漢は以前と同じ下劣さ、意地悪さにもどってしまう。この男の生と死の間には、死とせめぎあう〈ひとつの〉生のものでしかない瞬間がある。個人の生は、人称とはいえ特異なひとつの生を前に身を引き、ひとつの生はそこに、内的かつ外的な生における諸々の偶発事から、つまり到来するものの主体性と客体性から自由になった、純粋な出来事を開示する。だれもが憐れみをよせ、一種の至福に達した「〈ホモ・タンツム〉(just man)」。もはや個体化ではなく特異化からなる此性。純粋な内在の生であり、いまでは善悪を越えた中性的な生、というのは、生に善悪を与えていたのは、諸事物の間で生を体現していた主体だけだったからだ。個体性からなるこんな生は消えていく。他の者とは混同されないが、もはや名を持たない一人の男に内在する特異な生を前にして。特異な本質、ひとつの生……。」(ジル・ドゥルーズ「内在―ひとつの生……」小沢秋広訳)

 

 求道者であることと怠惰であることとは、たぶん両立する。自分では怠惰のゆえに避けているとばかり思っていたさまざまのことが、はたから見れば求道のために不要なものを切りつめていく態度でないとはいえない。苦行のなかに身を置いてじっと耐える求道者は、一日じゅう寝床を出ない無精者にも見えるだろう。

 

「個々の生はそれがひとたび生じてしまえば、他に代置できない、引き戻すことのできない過程を引き受けることにおいて受苦的である。受苦的であることこそ精神の条件である。自発的にそれが生じるのではない、あくまでもそれは受苦的に現れる。」(岡崎乾二郎『而今而後』)

 

 ひどくくたびれて、何もできずにいた。2025年の夏まえに書きはじめたこの原稿は、中断をはさみながら一年もかかえこんでしまった。冬に祖母が死に、春さきにまえの仕事をやめ、四月からはあたらしい仕事をはじめた。あたらしい仕事も、あたらしい街でのくらしも、なにも思うようにできなくて、くたくたにくたびれて、英語ならexhaustedというのか、消耗しきっている。いくたびも、いくたびも、この世に生をうけ、生きてあることは、ひたすら苦しみをうけつづけることであって、死んでしまうほか楽になる途はないのではあるまいか、と思いつめた。生きていることをどうしても肯定できない。じぶんが生まれてきたこと、生まれてきて死にもせず、いまも生きていること、そのすべてが苦しくて、どうにもみとめられない。

 

「ひとつの生を、個体の生が普遍的な死に直面する単一の瞬間に収め込んではいけないだろう。〈ひとつ〉の生はいたるところ、かくかくの生きる主体が横切っていくすべての瞬間、かくかくの生きられた客体によって測られるすべての瞬間にある。内在する生は諸主体や諸客体において現勢化されるだけの出来事たち、特異性たちを引きさらっていく。この不定の生は、それ自体では瞬間を持たず、どんなに接近したものであれ、時間と時間の間、瞬間と瞬間の間しか持たない。それは発生もせず継起もせず、ひとつの直接的意識の絶対性において、未到かつ既到の出来事がみられる空白な時間の巨大さを提示している。レルネット=ホレーニアの小説作品は、諸連隊をまるまるのみこんでしまいうるひとつの間―時間の中にできごとをおいている。」(ジル・ドゥルーズ「内在―ひとつの生……」小沢秋広訳)

 

 死のほうからひとつの生をさかのぼって、というか死を出発点として生というものが〈ひとつ〉であるという枠ぐみをつくる考えかたというのが、世のなかには、おそらく、たくさんある。ハイデガーの『存在と時間』なんていうのはそういう本なのだとおもって高校生のときから読んできたし、死から逆算して生のことを照らしだすという視点から、三島由紀夫のことや、じぶん自身のことを書いたりしてきた。

 ドゥルーズがここで書いている生というのは、時間と時間のあいだにしかないという。生きている主体、生きられた客体が、じぐざぐに、でたらめに、たくさんの線をひいていく。あるいは、生きているということ、生というもののなかに、襞のようにおりたたまれて、ひとつひとつの主体の生とか客体の生とかいうものが、ぎゅうっとされていたり、逆にばあっとひろがっていったり、真逆のようなイメージがいっしょに同居している。瞬間のなかに永遠がおりたたまれているのではなく、瞬間と瞬間のあいだに、かぞえきれないほどたくさん、起きてしまったこととまだ起きていないこととが、すさまじいスピードで収縮と拡散をくりかえしている。

 

「答えは小説の中にはないし、小説の外の世界にも存在しない。しかしテクストとともに、漸近線をたどって見分け難い差異に近づいてゆくこと、これだけは可能である。そして、このようなテクスト、対話を交わし続ける終わりない旅程の友人であるテクストをこそ、我々は今もっとも、必要としているのである。」(荒木敦『アミチエ、あるいは和解なき友愛のあかしに』)

 

 荒木さんというひとの本を、というか遺稿集を、十年いじょう前、大学の仏文研究室でながめていた。荒木さんというかたは、京都大学を出て、詩人のピエール・ルイス(ルイ、とよむのが正式だともいわれる)だとか、ジャン・ジュネだとか、フランス文学を研究して、和歌山大学でおしえておられたが、若くして亡くなられ、遺稿集が編まれたのだと、本にはさみこまれた挨拶状に古めかしいワープロの文字がならんでいた。そこには論文や書評、ジュネの書簡の翻訳などとともに、せつなくてものがなしい、少年や少女のさびしい青春小説の断片のようなものもはいっていた。

 本をさがしているとたまに、そういう早くに亡くなられた学究の遺稿集というものに出逢うことがある。フランス文学ということだと、北大でマルグリット・デュラスを研究しておられた女性の遺稿集もあったし、そのほかにも仏教思想の研究者とか、ドイツ文学の研究者とか、いろいろの遺稿集を読んできた。遺稿集はそのひとの生を死から逆算して〈ひとつ〉にまとめる結節点のようでありながら、頁をめくり、さまざまなジャンルの文章のまぜこぜメランジュを読んでいくと、その〈ひとつの生〉が無限の遠さへむかっておそるべき速さで飛び去っていく無数の線をうねうねとおりたたんだ姿にすぎず、読みすすめればすすめるほど、そのひとを死からさかのぼって〈ひとつ〉にまとめるというのは、ごく便宜的なとらえかたにすぎなかったのだと気付かせてくれる。

 

「〈ひとつの〉(une)生を構成する諸々の特異性や出来事は、それに対する〈一般的〉(la)生の諸々の偶発事と共存する。しかしこれらの特異性や出来事と偶発事とでは、グループにされる仕方や分割される仕方が異なる。それらが互いにコミュニケートしあう仕方も、諸個人のそれとはまったく異なる。ひとつの特異な生が、いかなる個体性もなしですませること、生を個体化する相伴物も一切必要としない場合さえある。たとえば、乳児たちはみな似たりよったりで、個体性をほとんどもたない。しかしそれらには、笑みひとつ、しぐさひとつ、しかめっ面ひとつといった特異性、主体的性格とは無縁の出来事がある。純粋な力であり、諸々の痛みや弱さを通じた至福でさえあるひとつの内在的生が、乳児たちを横切っている。」(ジル・ドゥルーズ「内在―ひとつの生……」小沢秋広訳)

 

 ドゥルーズがえがきだす生は、乳児から老人までのすべてがたたみこまれた〈ひとつ〉のようでもある。檜垣立哉さんのドゥルーズ入門の本では、たしかドゥルーズの考えかたを説明するのに、ひとつのイメージとして「らん」をつかっていた。すこしずつ分化し、分裂していくことで、数かぎりない変化をとげ、あらゆる可能性を潜在的にふくみながら、すさまじい勢いで、あるいはひどく緩慢に、もしかするとグレン・グールドの弾くピアノ曲のように、ふしぎな速さと遅さとを行き来しながら、すがたを変え、おのれの在り方を変えていく。

 高校生のとき、顕微鏡でのぞいたイモリの受精卵、それがだんだんに細胞分裂をくりかえして、すこしずつイモリのおたまじゃくしのようなかたちがあらわれてくる標本のことをおもう。内がわにおりたたまれていた、ある〈ひとつ〉のイモリの生が、ちいさなちいさな卵からつぎつぎにあらわれ、実現されていく。ひどくグロテスクで、そしてまさにそのことによって、ひどくうつくしい生のすがただ、と、まだじぶん自身の〈生〉を肯定できないでいる〈わたし〉は感じる。

 

「「おそらく人は、老いをむかえ、人生の黄昏どきになって、具体的に語るときがやって来る。(……)老年が、永遠の若さなどといったものではなく、まさに老年であるがゆえに至高の自由、純粋の必然といったものを人にもたらすことがあるのだ」。ジル・ドゥルーズは書く。これを六十歳半ばを越えた哲学者の素朴な感慨と読んでもかまわない。しかし、ここではドゥルーズは明らかに半ば〈戦略的に〉「老い」という言葉を提示している。ドゥルーズはニーチェを語りスピノザを語りながら、絶えず、哲学者における「病身」の持つ意味の重要さを指摘して来た。〈何故なら「病身」は哲学者を「未来」からも「過去」からも切断して、ただ「今」の具体性においてのみ語ることを要請するモメントに他ならないからである〉。「病身」とは生と死、あるいはむしろ”ひ”と”し”の狭間に身を置くことによって、あらゆる幻想的記憶の厚みから自由になり、「今」の具体性への絶対的な肯定へと哲学者を不可避的に位置づけるモメントとなる。その意味でドゥルーズの哲学を誤解を恐れずに、「病身の哲学」と呼んでもよいかもしれない。むろんここにもすでに戦略に近いものがあって、誰もが知るように「病身」は逆に、世界に対するシニカルな拒絶と嘲笑と自己憐憫という最悪の思考を生み出してしまう。ドゥルーズは「病身」を或る肯定のモメントとして提示することによって、「病身」の世界の具体性をルサンチマンから離脱させ、真の唯物論的肯定へと思考を導く存在論的シフターへと変移させようとするわけである。「病身」の力は、あらゆる制度的配置を批判的抽象的思考においてではなくその身体の苦痛の斜線の具体的な抵抗によって暴露するという点にあるだろう。「病身」は哲学的力であり、フーコーが「囚人」たちの身体について語ったように、戦いの轟きが発する場所でもあるだろう。」(丹生谷貴志「「松浦寿輝の余白に」」『現代詩文庫 松浦寿輝詩集』)

 

 ドゥルーズは長患いのはてに、窓から身を投げてあっけなく死んだ。その老身がえがいたであろう放物線には、死をめぐるロマンはもはやどこにもない。ごく即物的な死にざまだ。生老病死などと仏教のほうではいうけれども、老と病と死はすべて、生のなかにおりたたんで格納され、おもてにあらわれるときを待ちのぞんで、いまかいまかとあらわれようとしている、たとえばイモリの卵のなかにあるヒレエラとおなじようなものだろう。老いも病いも死までもふくめ、ぜんぶひっくるめて包みこんだり、ひろげたりしてみせる平面がきっと〈生〉なのだ。

 

「ともあれ、ジル・ドゥルーズの死はおそらく如何なる主張も含まない死ではあるだろう。「時代の保守化の壁」への絶望と或る人は口にしたが、その理由づけは言わば「虚無への供物」以上のものではなく、むしろ徹頭徹尾灰色の「郊外での病床老人の死」があっただけであるだろう(その日パリは晴れていたのだろうか曇天だったのだろうか、或いは……)。だいいち、慣習として自殺を意味化することを拒否する国で、自殺自体は単純な疲労或いは使い切り以上の表明を解読されることはないし、その必要もない。」(丹生谷貴志「ひたすら「砂のようなもの」に……」『死体は窓から投げ捨てよ』)

 

 ひとつであること、というのは、フランス語でかんがえたドゥルーズにとっては、まずunとかuneとかいう不定冠詞の問題だった。だから不定詞のたとえが出され、英語だとto doのようなかたちが不定詞だが、フランス語のばあいは英語でいう動詞の原形が不定法というひとつの活用型としてみられて、いちばん基本のキのかたち、まさにいろいろな活用形を〈ひとつ〉にまとめた呼びかたとしての不定詞、その「不定」という言い方かたにこだわる。その〈ひとつ〉という不定なものはしかし、超越論的な場というから、動詞でいうあらゆる活用形を不定法のひとつに集約するようにして、そこにまとめるという意味で頭ひとつ飛び出したようなところにはあるのだけれども、そのあらゆる活用形、生なら生のあらゆるあらわれかた、受精卵から乳児から老人から死体になる直前のくたびれきったからだまで、それらすべてを〈ひとつ〉へむかって折りたたむ”はたらき”そのものとでもいうのか、それに対しては従うことになる。そのはたらきというのが、内在ということなのではないか。

 超越と内在のどちらを上位におくかというめんどうくさい議論を、ドゥルーズはひどくそっけない言いかたで、投げだすように書いている。その〈ひとつ〉に折りたたまれた襞をいくつもひろげてみているのが、これをいま書いていることに対応する。けれどもドゥルーズはおそらく、そうやってせっかく折りたたんだものをひろげるには、もう、あまりにくたびれすぎていたから、投げだすような書きかたをしたあと、こんどはじぶんの身体を窓から投げだした。その死にざまを、わざわざこちらでひろげてあれこれ言っても、たいした意味はないだろう。

 

「ひとつの生における不定なものは、内在平面を満たすという意味では、または厳密にはおなじことだが、ひとつの超越論的場の諸要素を形成するという意味では(反対に個人の生は経験的なひとつの決定因から分離されることがない)、非決定性をまったくもたなくなる。不定としての不定詞は、経験的な非決定を記すのではなく、内在の決定もしくは超越論的な決定可能性を記している。不定冠詞は、特異なものの決定であることなしに、人称の非決定となることはない。《ひとつ》とは、内在さえも収容できる超越するものではなく、ひとつの超越論的場に収まった内在的なものである。《ひとつ》はつねに多様体の指標である。ひとつの出来事、ひとつの特異性、ひとつの生……。超越するものをひとつ、内在平面の外に落ちるものや、内在平面を自分にあてがってしまうようなものとして、引き合いに出すのはつねに可能だ。それでも、あらゆる超越が、この平面に固有の内在的意識の流れの中にのみ成立する事実は動かない。超越とはつねに、内在が産み出すひとつなのだ。」(ジル・ドゥルーズ「内在―ひとつの生……」小沢秋広訳。引用に際して一部の訳語をあらためた)

 

 たとえば、あるひとの死に直面して、ひとは泣き、涙をながし、なんらかの精神状態を経験するわけなのだが、それはどこまで掘り下げていっても〈わたし〉以外にはさしたる関係がない。なんなら〈わたし〉自身の死にもあまり関係がない、ただよくわからない一個の出来事として胸のなかにのこり、ずしんと、黒のクレヨンで画用紙をぐるぐる乱暴にぬりたくってえがいたような、こんなばかみたいな喩えをつかってしまってもうしわけないが、かつて「あさま山荘」の横っぱらを、クレーンで振り子のように吊り下げられてぐしゃぐしゃと破っていった、あの鉄の球体が、じぶんの胸郭のうちがわに、でん、と鎮座ましましているような状態がただひたすらつづき、しかし精神の状態である以上はつねに変わりつづけている。それは「死」と出逢うことなのか、それとも「死」から目をそらしつづけることなのか、それすらも〈わたし〉には判断がつかなくなるのだが、〈わたし〉という個体の個体たることとは無関係に、別の個体において死という現象が発生し、または生命という現象が終了し、その個体は生命体から死体へと性格を変容させ、〈わたし〉の日々の微々たる変化にくらべれば、はるかにおおきな変化をこうむりながら、しかし死体がものを言うことはとうぜんにないのだから、その変化を受けとめるのは変化した個体そのものではなく、ほかならぬ〈わたし〉という個体だけである。

 

「――映画を観て泣くことがありますか。

G.D. ――泣くこと、というよりむしろ泣かせること、それから笑わせることは、個々のイメージの機能です。あまりに美しい、あるいはあまりに強烈な画面を前にして、われわれは泣くわけです。」(ジル・ドゥルーズ「観客としての哲学者の肖像」エルヴェ・ギベールによるインタビュー、野崎歓訳)

 

 恋愛関係にあったひとの死に遭遇して、通夜や葬儀といった儀礼にもきちんと参加し、そのひとのことをくりかえし想起しながらしかし、数年にわたって一滴の涙もながれなかった、ということがある。数年ののち、あるテレビドラマの総集編の、おそらくおおくのひとが涙をながしたであろう、ごくありふれた場面の一部をきりだしたものをみながら、ふいに嗚咽した。愛するものが死んだときには、自殺をしなけあいけません。そううたったのは中原中也で、するとすぐそのとなりには小林秀雄と長谷川泰子、はたまたひどくゆがめられた理解で翻訳されたランボーやベルクソンの名前がつながって出てくるのだが、恋愛関係のさなかにあった相手の「死」にふいにたちあったとき、そうしたことはやはりどこまでいっても他人のものまねであって、しかし他人のものまねをすることでしか死をいたむということすらできない。だとしたら〈わたし〉という個体が個体であって、ほかのなにものともことなるということに、どのような意味があるのか。涙がながれることと、精神状態の変化とは、たしかに連動しておとずれるのだが、そこにはつねにデバイスとの同期がいくらかずれるような「時差」があり、また無線通信の電波状況の変化にともなうような微差が生じつづける。

 その小林秀雄や三好達治が、それぞれ東京や京都の高等学校から東大の仏文科にはいった年に、長野県の松本にある高等学校から、その学校ではドイツ語をならうクラスしかなかったために、カトリックの坊さんにフランス語をならって、しかし無試験なのでそのまま入ってきた中島健蔵というひとがいた。かれはボードレールについて論文をかいたりするかたわら、なんにでも首をつっこんで、サッカーや、野兎病ヤトびょうの研究や、機械の発明や、中国の切手のコレクションや、いろんなことの専門家になり、しかし歳をとってから『回想の文学』という五巻にもなるながい本をだした。それはまさに小林秀雄や三好達治たちとともに東大にはいった、関東大震災のあとのバラック小屋の教室のはなしからはじまって、それを書いている戦後の現在のはなしと行ったり来たりしながら、むかしじぶんが書いていた日記をひたすらひき写し、それにまた現在地点からコメントをつけたりしている。

 そこで中島健蔵はじぶんのことをいいあらわすのにétat d’âmeというフランス語をくりかえしもちいる。精神状態、と訳せばそのとおりなのだけれど、âmeというのは英語のソウル、ドイツ語のゼーレにあたる「魂」でもある。英語にはソウルとはべつにスピリットもあり、ドイツ語にはガイストがあるが、フランス語だとこれがespritになる。ほかにも英語のハート、ドイツ語のヘルツにあたる「心/心臓」はcœurになる。それぞれがべつな広がりをもったことばで、そのなかで中島健蔵がâmeをつかったいいまわしを日記で多用していたのが、ふしぎに印象にのこっている。

 それはフランス語の辞書をひいたりすると、あまり一般的な精神状態、いまのカタカナことばならメンタルヘルスをいうのにつかう語彙ではないようで、たぶんなにがしかのフランス語文献からそのようなことば遣いをみつけてきて、そのままうまい日本語のいいかえがみつからなくてそう日記に書きつづけたのだろうとおもうが、「死」にたちあったり、あるいは〈わたし〉が死によって消滅したりするとき、いちばんおおきく変化するのは精神というより、このâmeなのだというかんじがある。

 

払暁はまづ雪明かり いろこひはたまに夢みるだけでよろしい

 

みちみちと女体のごとく意味満ちて神の死ののち世は花ざかり

 

なにものもこの世を超えず雲うかぶ 気ぐらゐ高き娼婦のごとく

 

「『生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、わかった例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。そこに行くと死んでしまった人間というのは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな』

 この一種の動物という考えは、かなり僕の気に入ったが、考えの糸は切れたままでいた。歴史には死人だけしか現れて来ない。従ってのっぴきならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物であることから救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に留まるのは、頭を一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。

 上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴の様に延びた時間という青ざめた思想(僕にはそれが現代における最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。成功の期はあるのだ。」(小林秀雄「無常という事」)

 

 小林秀雄の「無常という事」をはじめて読んだのは高校一年生のとき、国語の教科書に載っていたからだった。授業でとりあげられた記憶はない。ただ教科書をひまなときに隅から隅まで読んで、そのなかで触れて、すごい文章だと感服したのをいまでも思い出せる。記憶することと思い出すことの区別を、小林秀雄はここで書いている。小林秀雄のアキレス腱というか、重要な晩年の蹉跌として、ベルクソン論「感想」をながらく連載しても完結させられず、単行本にすることも禁じて中断したことがあげられるが、まさにそのベルクソンは主著のひとつ『物質と記憶』において、mémoireとsouvenirという二通りの「記憶」を区別している。大学生になってからベルクソンのこの本がことあるごとに推奨され、図書館でもあたらしい邦訳はずっと貸出中で、なんとか借り出した白水社のふるいベルクソン全集の『物質と記憶』は田島節夫が訳していた。そこでメモワールは「記憶」、スヴニールは「思い出」と訳し分けられていた。そのときは「思い出」という訳語にへんなものを感じたが、おもえばあれは小林秀雄の「無常という事」をふまえた語彙だったのではあるまいか。小林秀雄は「感想」のはじめの回を「母親の死」に際して遭遇したふたつの神秘体験から書き起こしていて、その回だけは単独のエッセイとしても出来がいいので例外的に単行本などに収められることも多く、いま手許にある『人生について』という文庫本にも収録されている。

 小林秀雄というとどうしても、長谷川泰子をめぐる中原中也との三角関係のはなしになり、それをだいぶ前に浅田彰さんがゲンロンのインタビューで、ホモソーシャルだとばっさり切り捨てていたのが思い出され、「Xへの手紙」もそうだし「死んだ中原」もそうだけれど、あれはまずい感傷だよなあとにがにがしい思いにかられる。三角関係に固執しつづけた漱石を論じたあと、おなじく三角関係から出発した小林秀雄を取り上げてモノグラフを書くことで批評の保守本流に名乗りをあげた江藤淳について、いま若い批評家たちがこぞって論じているのは「もっともうまく『三角関係』という謎を読み解いた者が勝者となる」ルールの一種の「聖杯戦争」をかれらが戦っているからではあるまいか、ということを考えたりしていた。そういえば江藤淳の『小林秀雄』がすさまじかったのは、ひとつには、小林秀雄がまだ論壇の重鎮として君臨していたころに、小林の若き日の自殺未遂を取り上げて書いたことがあるのだという。そのころは、まだ長谷川泰子も存命だった。

 

もはら死のことをおもひて過ぐしけりはるさめのもと身は冷えゆきて

 

むなしきにゆき逢ふまでのながながし旅としおもふあかねさす死は

 

眼前に闇をみすゑて暴力のにほふ玻璃器をあらへば真冬

 

夜は暗く星はみちびく シリウスはあをく身をくおほきいぬの名

 

ばさばさと雪降りやまず鶺鴒せきれいは羽ばたくことをやめ歩みだす

 

薔薇は咲く なぜなしに咲く うばたまの烏おまへに孤独はありや

 

烏きて窓辺に啼けりこの世とは生くるに値するかと問へば

 

「「今でも何故あの人が自殺したか分からないのです」……とんでもない、自殺者は単純に使い切ったから、うんざりしたから、もうじゅうぶんだと感じたから、外出したいから、或いは眠りたいから、死ぬのだ。ドゥルーズの自殺は何ものかへのプロテストや絶望など一切含まないし、ましてや哲学的敗北(!)の表明でもない。この自殺に導かれて「哲学者の自殺」などを問題めかして口にする必要などないし、死の捉えがたさを口にする必要もない。ましてや彼の「生の哲学」は病の苦痛と死の壁に衝突して挫折したなどと口にするとすればそれは、挫折を感傷的支えにして生を閉鎖し憫笑しようとする恨みがましさに過ぎない(中略)。与えることが出来るものを、与えることが出来る間に、与える機会が生じた時点で自らに与えること……これは「七十歳の老いた病人」にとって、運命でも決意でもなく、「スリッパを履いて外出する」ことと同じほどに〈単純な〉、一つの〈軽い〉「持続の海洋への」挨拶であるだろう。彼は海への〈回帰〉を決意しない。ただ自身の臨界を〈力において〉認知するのであり、そして臨界は運命などではなく絶望の認知でもない。」(丹生谷貴志「エンペドクレスのサンダル」『死体は窓から投げ捨てよ』)

 

 じゅうぶんだ、というのは、たとえばフランス語だと assez という単語にあたるのだろう。篠沢秀夫の本をよんでいて、日比谷高校(かれは湘南から転校してきた江藤淳の同級生だったはずだ)のころにかよっていたアテネ・フランセで動詞の活用をまちがえたりすると、その場でおっかない先生にとっちめられて活用変化を暗唱させられる。そこで直説法現在一人称単数、二人称単数、三人称単数、一人称複数、二人称複数、三人称複数、直説法単純過去、複合過去、半過去、大過去、単純未来、前未来……とえんえんと唱えていくと、フランス語の〈ひとつ〉の動詞には百ちかい活用形があるから、とちゅうで「アッセー!」と怒鳴られて、それでおわりになるのだというはなしが出てきた。なんべんもくりかえし唱えておぼえた動詞の活用を、また一からすべて、おぼえているかどうか確認するためにぶつぶつと唱えなおす、そのひどくめんどうくさい、くたびれてくたびれて仕方がない、うんざりしたような気持ちで、ここから先はまちがえようがない、もう散々やってきたのだから、と思って暗唱をやめる。たとえばそのようなかたちで、ドゥルーズはくたびれきった、épuiséされたからだを窓から、さいごのいくばくかの力をふりしぼって、ぽい、と投げだした。

 

「ひとつの生が収めるのは潜勢的なものだけだ。ひとつの生は、潜勢力、特異性、出来事からなる。潜勢的と呼ばれるものは、現実性を欠いたなにかではない。そうではなく、それに固有の現実性を与える平面にそって、現勢化のプロセスにはいっていくものだ。内在的な出来事は、ひとつの事物の状態とひとつの生きられたものの中に現勢化する、つまり事物の状態と生きられたものが内在的な出来事を到来させる。内在平面そのものさえ、自分にあてがうひとつの《客体》とひとつの《主体》において現勢化する。しかし、どんなに現勢化から分離し難いとしても、内在平面そのものは潜勢的であり、その分、内在平面を満たす諸々の出来事も潜勢力となる。内在平面が諸々の潜勢的な出来事に十分な現実性を与えるように、諸々の出来事や特異性は、内在平面にそれらの潜勢力を与える。出来事が、現勢化されない(不定の)ものと捉えられていても、そこに欠けるものはなにもない。その相伴物たちと関係付けるだけで十分だ。ひとつの超越論的場、ひとつの内在平面、ひとつの生、諸々の特異性。」(ジル・ドゥルーズ「内在―ひとつの生……」小沢秋広訳。引用に際して一部の訳語をあらためた)

 

 潜勢的というのはヴァーチュアルで、現勢的というのはアクチュアルにあたる。〈ひとつ〉の生のなかにはさまざまな出来事が、まだおもてに出てこないかたちで折りたたまれて、しまわれている。そのしまわれてあるというのが内在平面で、まだ起きていないすべてのことや、もう起きてしまったがいまは表面にあらわれていないすべてのことが、そこに大事にたたみこまれている。さきに書いた、ライプニッツ『弁神論』のさいごに出てくる、現実の世界を頂点に、そのようになることもあり得たけれどもそのようにはならなかった、という無数の可能世界が、下へむけて無限にひろがってピラミッドのようなかたちになっている、その四角錐の頂点のことを、また思い出す。そこでさらに、ベルクソンの『物質と記憶』に出てくる、思い出せないようなこともふくめ、そのひとのすべての記憶を無限に遠いところにある底面として、そこから今まさに向き合っている現実をとらえるために記憶のなかから動員されているものが「知覚」として頂点にある、記憶の逆円錐形とよばれている図のことも連想される。ライプニッツのピラミッドの頂点と、ベルクソンの逆円錐形の頂点とが、たぶん「いま現に起きていること」というかたちで重なる。その点から、下のほうに向かってはライプニッツがえがきだしたピラミッドがそびえ立ち、上のほうに向かってはベルクソンが作図した円錐形がのびている。

 

「美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(中略) ジャコメッティの芸術は、私には、どんな人にも、どんな物にさえあるこの秘密の傷を発見しようとしているように思われる。その傷が、それらの人や物を、光り輝かせるように。」(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』)

 

 ジュネの「ジャコメッティのアトリエ」はとてもいい、ジュネが書いたもののなかでいちばんよいですね、と、そのひとは言った。そのひとはたいへんに高い評価をうけた老詩人で、そのとき、ふたりで夏の都心をあるいていた。中華屋でタピオカを食べ、モダンな内装の店でチョコレート・ドリンクを飲んだ。「ジャコメッティのアトリエ」は、宮川淳が訳し、鵜飼哲も訳していたのではなかったか。

 かよっていた大学の仏文科にはフランス人の先生がいて、フランス語で本を読めるようにする訓練として、リラックスした寝るまえなどの時間にフランス語の本を一段落読んで、これはこういうことかな、とひととおり辞書などひかずに考え、じゅうぶんだ、というところでようやく邦訳を手にとり、その段落がじぶんの考えていた解釈で合っているのかどうかたしかめる、という読みかたをすすめておられた。そのようにして読むのに適した本の例として、ネルヴァルの『シルヴィ』やロラン・バルトの『彼自身によるロラン・バルト』などとならんで、ジュネの『ジャコメッティのアトリエ』があげられていたのを、ふしぎなほどはっきりと思い出せる。小説はどうにも苦手で、『シルヴィ』にかぎらずネルヴァルの短篇すらまともにフランス語でよみきることはできなかったが、ジュネやバルトの本はどこから読みはじめてどこで読みおえても大して問題なかろうと思えたので、江原書店という大学のそばにあった古本屋でペイパーバックの安い原書を仕入れてきて、図書館でかりてきた邦訳とつきあわせたり、あるいはもうそれすらもめんどうくさくて、大体こういうことであろうと自分のなかで勝手に見当をつけたりして、でたらめに読んだ。

 けっきょく、フランス語の学習はあまりはかどらず、語学の教師になることはできなかったが、この春からどういうわけか大学で教えることになり、翻訳のバルトなどを見開きで一枚にコピーしたものをくばって、それを読んで参考にしながら日本語で真似して書いてみるとか、そんなことをやりはじめた。じぶんで、まだじぶんのことを教師だとおもうことができず、そのことが頭でわかっている以上にだいぶ身体にストレスをかけているらしく、授業をしなくてはならない、とおもうと、不安で押しつぶされそうになり、くたびれて家に帰るときはずっと、ひどい吐き気におそわれている。

「私はひとりで書くことなら好きだが、講義の場合のように、言葉が他の事柄に従属している場合は別として、話すことはあまり好きではない。」(ドゥルーズ「宇野への手紙──いかに複数で書いたか」宇野邦一訳)……ドゥルーズもそんなふうに言っている。ドゥルーズへのインタビューをあつめた映像『アベセデール』を見た恩師の千葉文夫先生が、さしむかいの博士課程のゼミで『差異と反復』の序論を読んでいただいていたとき、ふとあの映像でドゥルーズも、この「反復(répétition)」というのを、なんべんも授業のリハーサルをやることになぞらえて説明していたよ、とおっしゃったのを記憶している。その千葉先生も定年よりやや早く教壇を去られたあと、トークイベントの席などで、これから授業をしなくてはならないというので教室に向かうときのきもちを、今まさに売られてゆく牛のきもちになぞらえて冗談をとばしておられた。ドナドナの気分で、教師たちは教室へむかう。ジル・ドゥルーズも、千葉文夫も、新米の〈わたし〉も。労働者たちは、おのおのの職場へむかう。

 生きるというのは、くたびれて、くたびれて、そのうちにくたばってしまうまで、ひたすらくたびれつづけることなのだろうと、しみじみ思いながら、単身者向けマンションのトイレで身体をへんなふうに折りまげ、もだえ苦しみながら酸っぱい胃液を吐きだす。

 

「ひとつの傷が、事物のひとつの状態とひとつの生きられたものの中に、受肉もしくは現勢化する。しかしこの傷そのものは、わたしたちをひとつの生の中に引きさらっていく内在平面のうえにあって、純粋にしてひとつの潜勢的なものである。わたしの傷はわたし以前にも存在していた……。高次の現実性としての、傷というもののひとつの超越なのではなく、つねにひとつの中間(場または平面)にある潜勢力としての内在。超越論的場の内在を決定する潜勢的なものたちと、それを現勢化し、超越するものに変えてしまう可能的諸形態の間には、ひとつの大きな差異がある。」(ジル・ドゥルーズ「内在―ひとつの生……」小沢秋広訳。引用に際して一部の訳語をあらためた)

 

 ドゥルーズの傷から、ジュネがえがきだすジャコメッティの傷のことを考えていたが、ドゥルーズがこの傷ということばを引っぱってきたのはジョー・ブスケからだ。ドゥルーズは『意味の論理学』でブスケのことを書いていた。

 

「ルサンチマンには実に多くの姿がある。出来事を意志することが、何よりもまず、出来事を養う火のごとき永遠真理を出来事から解き放つことであるならば、この意志は、戦争を戦争に反して導くこと、まるですべての傷の傷跡のように傷を生々しく描くこと、すべての死者に対し故意の死を返すことを意志するまでに到る。意志的直観、あるいは、突然変異である。ブスケは述べている。「私の死の趣味は、意志の挫折であった。それを私は死ぬことへの切望で置き換えるだろう。これが意志の光栄である」。趣味から切望へ。何も変わっていないとも言える。ただし、意志の変化、その場での全身の一種の跳躍があって、有機体の意志を霊的な意志に取り替えてしまう。」(ドゥルーズ『意味の論理学』小泉義之訳)

 

 ドゥルーズは『意味の論理学』を書いていたころ、ウイスキーばかり飲んでいて、消化器がよわいからアルコール依存になりきってしまうことはなかったけれども、その手前のところで書いていたのだという。

 さいきん、ウイスキーをよく飲むようになった。くたびれて帰ってきて、あしたは休みだ、というときなどに、部屋にウイスキーの瓶があって、それを乱暴にラッパ飲みして、口にウイスキーをふくんだまま、こんどはペットボトルから直にミネラルウォーターを口に入れて、口腔内で水割りにしてみくだす。おかずと米をいっしょに口に入れるのを「口中丼」といって行儀がわるいとおこるひとがあるが、こちらは口のなかでウイスキーと水をまぜて飲んでいるのだから、行儀がわるいどころのはなしではない。すさんだ暮らしぶりである。

 家にほかにだれもいない独り身だからこそできることだ。じぶんはあまり孤独ということを感じないたちなのだな、と思うようになった。同じ屋根のしたに他のニンゲンがいるというのは、どうも気を張ってしまって、ひどくくたびれる。相手が家族や恋人でもそうだ。だから一人がいいのだが、ひとりになると他人の目を気にしなくてよいので、そういうめちゃくちゃな酒の飲みかたをして、またひとりで気持ちわるくなって嘔吐したりする。

 

「このように呼び方はさまざまですが、ともあれ、カオス的な領野があって、そこでは私も世界も多数多様な粒子と流束の群れになっているというわけです。したがって、それは独我論の対極に見える。

 しかし、すべてがひとつの「内在平面」の内にあって、私も複数、他者も複数なのだから、そこに他者性はない。その意味で、ドゥルーズの哲学は、過激な独我論―――自我さえ必要としないほど過激な独我論だと言ってもいいのではないかと思うんです。」(『批評空間』共同討議「ドゥルーズと哲学」より浅田彰の発言)

 

 漫画家のじょじむらという人は、そのキャラクターの「うつねこ」や「うさおちゃん」たちに、「げんじつをぼんやりさせるため」に酒をのむのだと言わせていた。ドゥルーズの書きぶりだと、変状というか、生成変化というか、ドラッグなどもふくめて、じぶん自身とその感じとるまわりの世界を変えていくために酒を飲むということになるのだったか。じぶんが変わるとき、じぶんのまわりの世界もかわって、現実というのは〈ひとつ〉でありながらいろいろな在りようをするものなのだな、と思わせられる。思う、よりさきに、じぶんのまわりの世界は、じぶんを通してしかわからないから、現実に世界そのものが、変わる。〈わたし〉は、サントリーの天然水だけを口にしているときと、そこにサントリー・オールドをまぜて嚥みくだして酩酊しているときとで、おなじ〈ひとつ〉のわたしでありながら、いくつもの〈わたし〉、かつて〈わたし〉であったものや、いまだ〈わたし〉になっていないもの、それらの無数の束になって、まわりの世界ごと、現実ごと、ぼんやりと変わりつづけている。

 

まづ苦痛ありてそののちわれのある冬と春とのさかひの咳か

 

「ドゥルーズの哲学はその一見異様な相貌にもかかわらず、「未聞の未来」を開示しようとするものではない。それはむしろ、誰にも周知のこと、あまりに周知でありながらそれを受け入れることの或る種の「残酷さ」故に出来ればそれを知らずにいることを誰もが望む或る世界の「貌」を、その〈素朴さ〉のままに置きつづけようとする、そうした哲学である。フーコーはそのことを指摘して、あらゆる意識的無意識的配置の〈たが〉の背後から、「人間を必要としない世界」の白々とした砂の流動のような、乾燥と不思議な活力からなる「所与=内在性=生」〈本来の〉(周知の!)様相が現れる、そうした事態をドゥルーズの中に見ていたのかもしれない。ドゥルーズを通して、はたぶんやがて、その「所与」から目を逸らすことが出来なくなるだろう、と。」(丹生谷貴志「ひたすら「砂のようなもの」に……」『死体は窓から投げ捨てよ』)

 

 ドゥルーズの言うことの「残酷さ」を、もっと身も蓋もない言いかたで書いたのが、先ごろ亡くなったクレマン・ロセなのかも知れない。クレマン・ロセは『現実とその分身』という本が一冊、日本語で読めるだけのフランスの哲学者で、ドゥルーズとは書簡のやりとりもあった。たしか『アンチ・オイディプス』にすこしだけ名前がでてくる。

 ロセは「残酷な現実そのものを受け容れる」というような思想を、くりかえしいろいろなかたちで書いたひとだったが、歳をとってからうつ病になった。むかし英訳本の論文集『Joyful Cruelty』というのを読んだことがある。ほかに何冊か、恩師の千葉文夫先生からゆずりうけたものも含め、ロセの本がある。『不可抗力(La force majeure)』にはニーチェ論やシオラン論がはいっている。『反自然(Anti-nature)』や『最悪の論理学(Logique du pire)』はフランスの大学出版局から出ていて、前者はこのひとの博士論文だ。ギリシア哲学やショーペンハウアーについての論もあるし、うつ病になったときのことを日記のかたちで書いた『夜の道(Route de nuit)』なんて本も手もとにある。この連載の何回かあとに、ロセの本をフランス語で何冊か読んだ、その読後感のようなことを書こうとおもっている。

 

「ヒュームは、『自殺論』のなかで、例外に関するその理論の一例を、次のように分析している。自殺は、《神》へのわたしたちの義務に対する侵犯ではなく、社会へのわたしたちの義務に対する侵犯でもない。自殺は、「家を建てる能力と同様に不敬虔ではなく」、例外的ないくつかの事情において利用すべき人間的能力である。例外は、《自然》の一目的へと生成する。

『自殺する者は、自然に背くわけではなく、あるいはこう言ってよければ、おのれの創造者に背くわけではない。彼は、苦しみから脱するために、自然が彼に残しておいてくれる唯一の道をとることによって、この自然の衝動に従うのであり、……死ぬことによって、自然の命令のひとつを果たすのである』」」(ドゥルーズ『経験論と主体性』財津理訳)

 

 ドゥルーズの『経験論と主体性』という最初の本、二十二歳で書いたヒューム論を手にとったのは、去年の春だった。地元の町の図書館にはいっていることがわかり、取り寄せてもらって、実家から2キロほど歩いたところにある公民館で借りたのだ。そしてこの文章を抜き書きした。ヒュームは大胆な経験論をとなえた哲学者として知られているわけだが、自殺論もかいていて、じぶんでじぶんの命を絶った、〈生〉を絶ったひとたちのことを擁護するというか、弁護している。死んだひとたちの弁護をしてもたいした得にはならなさそうだが、つきつめた論理をいきわたらせないと気がすまないようなひとで、じぶんでじぶんを死なせるということはそこまで非難されなくてはならないことだろうか、という思いで書いているような感じがする。そしてドゥルーズはヒュームの自殺論について二十歳そこそこで書いた論文のなかでとりあげ、そこから半世紀もたたず身を投げて死ぬことになる。

 

「それが十一月になって、ドゥルーズが死ぬわけです。その死に方を聞いたとき、すぐにストア派の自殺だったんだなと思って、納得感が先立ちました。ショックということはまるでなかった。ドゥルーズ哲学を生の哲学、内在的に生成する生の哲学としてだけとらえる傾向は当時もあり、その筋から見ると自殺は呑みこみ難かったにせよ、ドゥルーズのいう生は、病、死、そして狂いを織り込んでいるからには、なんの不思議も感じませんでした。すこし経って、ある著名な精神医学者が、自殺するにいたったからには、やはりなんらかの精神的な病を抱えていたのだろうと書いたときも、そこも十分に承知の上でのストア派的な自殺だろうが、と軽く反発を感じた記憶もあります。」(小泉義之、千葉雅也との対談「ドゥルーズを忘れることは可能か」『ドゥルーズ 没後20年 新たなる転回』)

 

 ドゥルーズの死にぶりを、小泉義之さんは「ストア派の自殺」だとおもったという。小泉さんが生とか死とか病いとかについて書かれるものを、こちらは勝手な感動をおぼえながら読んできた。いつまで経ってもじぶんが生きていること、じぶんが生まれてきてしまったことをみとめられず、苦しくないやりかたで殺してほしい、たとえばディグニタスがスイスでやっている安楽死のように致死量のネンブタールを投与して、そのあと口なおしにオレンジジュースを飲んで……などと考えてばかりいるので、時おり小泉さんの書かれる「生きること自体の絶対的な肯定」とでも呼びたくなるような力づよい文章を読むと、横っつらを手でいきおいよく張り飛ばされるようで、ふしぎな爽快感がある。じぶんの生を肯定できないまま、じぶんの生を継続させられることのふしぎな快楽に、ひとときであるにせよ、身をまかせることになる。

 ストア派のことをおもい、しばらくマルクス・アウレリウスの『自省録』をいろいろの翻訳で読んだりした。エピクテトスはなかなか訳本が手にはいらない。ストア派というのは人生訓、処世訓のようなもの、それもだいぶマッチョで手きびしいもののようにおもわれ、哲学として見るべきところはあまりないように言われがちな気がするが、ドゥルーズは『意味の論理学』でストア派のことをいくらか書き、またドゥルーズと親しかったフーコーもその晩年、やはりストア派のことを考えて『性の歴史』を書いていたはずだ。

 セネカの死にかたをおもい、ネロのことをおもい、いまの世にはびこる暴君たちを連想し、いくらかげんなりしながら、しかし、まだ〈わたし〉はどうやら死んではいない。

 

「ついでに言えば、ぼくは昔から一貫して自殺の権利を擁護してきました。自殺は残された者に耐え難い苦しみを与えると言いますが、そんなことを気にしていられないほどの苦しみの中にある人が、その苦しみを現実的に解消する手段として自殺を選んだとしても、誰もそれを非難することはできないでしょう。とくに、医療が発達し、終末期に苦痛の多い延命を強いられるケースが増えてきた今日、(「安楽死」や「尊厳死」という婉曲語法は嫌いなのであえてはっきり言えば)自殺と自殺幇助の合法化は喫緊の課題だと思います(悪用されない形で法律化することは技術的にきわめて難しいだろうとも思いますが)。むしろ、じりじりと追いつめられて最後に首吊りや飛び降りに至るより、いざとなれば誰でも手軽に利用できる自殺幇助システムがあって楽に死ねると思えれば居直って生きることもずっと容易になるのではないでしょうか。

 そのような自殺も含め、死はたんなる出来事であって、そこには悩むべき謎などありません。自らも呼吸器病の苦しみを逃れて窓から身を投げたジル・ドゥルーズが言ったように、雨が降るように人が死ぬだけのことです。死によって、その人とその人の世界はたんに消滅します。来世などというものはありません。ただし、生き残った人々にとって、死者の痕跡と記憶は――より強く言って死者のゴーストは、自分たちの世界の中に存在し続け、場合によって大きな影響を与えます。たしかラカン派の新宮一成さんもそういう言い方をされていたと記憶しますが、その意味で(その意味においてのみ)「私にとっての来世とは私の死後の現世である」と考えてみてもいいでしょう。私が死によって消滅しても、私のゴーストはそのような意味での来世に残ります。言い換えれば、私の生きるこの現世も、すでに死んだ人々の来世の重ね合わせであり、そこには無数のゴーストがひしめいています。しかし、繰り返して言えば、そこには悩むべき謎などありません。

 こうした意味において、生きるとは無数の死の後にサヴァイヴする(生き残る)ことです――未来の無数の生の前に生き、死後もゴーストとしてサヴァイヴすることであると同時に。死を生の絶対的な否定としてとらえ、その死の謎に答える特権的なメディウム(媒体=霊媒)として宗教や擬似宗教としてのアートを要請するのは間違っている。むしろ、アートとは生/死ではなくサヴァイヴァルにかかわるもの――端的な art of survival (サヴァイヴァルの技法)だと言ってもいいでしょう。」(浅田彰「先制第一撃批判」)

 

 浅田さんのこの文章を、何度となく読みかえしてきた。この文章を、というよりは、この箇所を、というべきか。

 生きていくなかで、いくつもの死と出逢い、そのいくつかにはひどく動揺させられ、じぶんが生きていくことに耐えがたい苦痛を感じさせられもした。した、と過去形で書くのが座りがよいけれど、今だって生きていることを耐えがたい苦痛だと感じるような要素はじぶんの生のなかにたたみこまれ、折りこまれているのであって、また外がわのなにかにぶっつかって、おもてに出てくることだって、生きているかぎり何度もあるだろう。

 すくなくとも、じぶんにとっては死ねば死にきりであって、その先にはじぶんはもういないのだから、じぶんにとってのじぶんの死というのはさして問題にならないようにおもえる。ただ、そのようにしてじぶんが生を終えるまでのあいだに、無数の他者の死があって、それら無数の死後を生きるというのは耐えがたく苦しいことだ。その耐えがたさのなかで、しかし生きのび(てしまっ)たものとしてとりあえず今のところは死なずにおくこと、死なずにいることが、サヴァイヴァルの技法ということか。

 

白鶺鴒はくせきれい追ひつつ来れば冬空にぱきりと虹の架かりたる見ゆ

 

昨夜来降りゐし雪はやうやくにをさまりて陽の金色こんじきぞさす

 

神さびてたましひ白く蛍光す あすもふぶきの予報なるべし

 

 じぶんの死とは、たとえば、ほかのだれかの生に傷としてあらわれ、襞のように折りたたまれ、表からはみえなくなりながら、そのひとが生を終えるまで、傷としてのこりつづけるようなものかも知れない。逆にいえば、じぶんの生には、つねに゠すでに無数の「他者の死」という傷がつけられて、あるものは見えないところに折りたたまれ、またあるものは生の表面にまであらわれてきて、耐えがたい苦痛をいくばくかの時間にわたってもたらす。

 無数の雨粒が、無数の黒い線になって、窓のむこうを落下していく。無数の死のあとに、無数の死のなかに、ひとつの生があり、雨が降るように死がおとずれる。苦しくて、耐えがたい。しかし苦しくて、耐えがたいというだけのことだ。そのようにして雨は降りしきり、雨が降り、ひとが死ぬ世界に、いくつものひとつの生があらわれ、さまざまに展開されたのち、そのあらかじめ織りこまれたひとつの可能性としての死が現実のものとなり、死というかたちをとる。世界には、ただ雨が降る。

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著者略歴

  1. 吉田隼人

    1989年、福島県生まれ。県立福島高校を経て2012年に早稲田大学文化構想学部表象・メディア論系卒業。早稲田大学大学院文学研究科フランス語フランス文学コースに進み、2014年に修士課程修了、2020年に博士後期課程単位取得退学。高校時代より作歌を始め、2013年に第59回角川短歌賞、2016年に第60回現代歌人協会賞をそれぞれ受賞。著書に『忘却のための試論』(2015年、書肆侃侃房)、『死にたいのに死ねないので本を読む』(2021年、草思社)がある。

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