道元の「坐禅箴」とは
*本連載は宮川先生と藤田先生のお二人のコラボレーションです。最初に宮川先生の「身読コラボ」、次に藤田先生の「身読コラボ」が掲載されるという異色の構成です。ご堪能ください。(編集部)
【宮川敬之】身読コラボ①
〈はじめに〉
これから藤田一照老師とともに、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』「坐禅箴(ざぜんしん)」巻(かん)を講読したいと思います。このテキストは日本の鎌倉時代の僧侶で、のちに日本曹洞宗(そうとうしゅう)の祖とされた道元禅師(どうげんぜんじ)(1200-1253)によって書かれたものです。道元禅師は坐禅の重要性を説き、坐禅を中心におく生活作法を中国より日本に導入して、そこに独自の思想を加味しつつ、坐禅の鼓吹と実践とに勤めました。この巻もまたこうした坐禅の鼓吹のために示されたものです。仁治三(1242)年、道元禅師四十三歳の時に記され、翌年に修行僧に示されたものとされています。
なお『正法眼蔵』とは、漢字仮名交じり文で書かれ、九十巻を超える膨大な仏教思想=実践のテキスト(この「坐禅箴」巻もその一巻として含まれています)の題名であり、道元禅師はこのテキストを弟子への「示衆(じしゅ)(説法)」として遺しました。また、これ以外にも多くの著作や弟子への言葉を遺しました。その全容は、現在、筑摩書房版『道元禅師全集』(二巻)、春秋社版『道元禅師全集』(七巻)、春秋社版『原文対照現代語訳 正法眼蔵』(十七巻)などによって見ることができます。わたしたちの講読は、基本的に春秋社七巻本(第一巻所収)によって進めて行きます。
〈坐禅の起源〉
さて、講読の前に、道元禅師がその重要性を鼓吹し、実践した「坐禅」とは、そもそもどのようなものだったのでしょうか。みなさんご承知のように「坐禅(坐る禅)」とは、足を組んで姿勢を整えて坐り、深く呼吸して瞑想することですが、これはインド・中国をはじめとするアジア世界で古くから勤められた基礎的な瞑想修行の方法でした。もともとはインド語でジャーナ、ディヤーナと呼ばれていたこの瞑想方法は、仏教においては、開祖となる釈尊(しゃくそん)が悟りをひらいたのが、その最中であったとされることから、特に重要な修行として継承されます。中国流入当初は、「静慮(じょうりょ)」「定(じょう)」「禅那(ぜんな)」「禅定(ぜんじょう)」などと翻訳されました。「禅」という言葉じたいは、元々の中国語では「ゆずる」という意味で、瞑想の意味はありませんでしたが、この語がジャーナの音写語「禅那」に当てられて以降、後代にいたると、この瞑想修行の思想性までを「禅」という言葉で特化して呼ぶようになります。こうしたインド語訳語である「禅」に、「坐る」という中国語が加えられて、中国において「坐禅」という言葉が定着したと考えられます。
〈坐禅のマニュアル〉
こうした歴史のうちで、坐禅のやり方が一種のマニュアルとして残されるようになりました。足の組み方、手の組み方、目の開閉、舌の位置、姿勢の整え方、呼吸の仕方、心の持ちよう、そうした身体的な細かい作法が記され残されるようになったのです。このようなテキストの代表的なものとして、宋代の長蘆宗賾(ちょうろそうさく)(生没年不詳)の『禅苑清規(ぜんねんしんぎ)』(1103刊 続蔵百十一巻)所載の「坐禅儀」があげられます。その内容は隋代の智顗(ちぎ)(538-597)が講じた『天台小止観』(大正蔵四十六巻)まで遡ることができ、それが唐代の宗密(しゅうみつ)(780-841)の『円覚経道場修証儀』(続蔵百二十八巻)に引き継がれ、さらにそれを引き継いで『禅苑清規』に収められたのでした。宋代以降、禅宗における坐禅のマニュアルは、ほぼすべて宗賾の「坐禅儀」を元にすることになります。道元禅師も宗賾の「坐禅儀」を元に、『普勧坐禅儀』(1227撰 全集第五巻)、『正法眼蔵』「坐禅儀」(1243撰 全集第一巻)などを書きました。
坐禅のマニュアルは、このような身体的な側面とともに、思想的な側面についての教えとしても遺されることになりました。むしろ、後者の記述のほうが古く、またバリエーションも豊かに遺されることになりました。それは次の理由によります。仏教の中国流入に際しては、中国の土着の思想である老荘思想/道教の考えと比較・対照されて取り入れられることになりました。道教は、東洋医学の淵源となる考えも内包して、身体の養生の仕方を重視しつつも、それを思想的に昇華する傾向を持ちます。そうした道教的思考と融合することによって、坐禅についても、身体的マニュアルよりも精神的・思想的側面を強調した言葉が遺されることになったわけです。それらは多く詩偈(しげ)(仏教思想が盛り込まれた漢文詩を詩偈あるいは偈頌(げじゅ)といいます)のかたちで遺され、暗唱できるように工夫されていました。『信心銘(しんじんめい)』(三祖僧璨(さんそそうさん)(?‐606)撰 大正蔵五十一巻)『証道歌(しょうどうか)』(永嘉玄覚(ようかげんかく)(675-713)撰 大正蔵四十八巻)『参同契(さんどうかい)』(石頭希遷(せきとうきせん)(700-790)撰 大正蔵五十一巻)『宝鏡三昧(ほうきょうざんまい)』(洞山良价(とうざんりょうかい)(807‐869)撰 大正蔵四十七巻)などがその代表です。禅の事跡を多く収録した『景徳伝灯禄(けいとくでんとうろく)』(1080刊 大正蔵五十一巻)や『嘉泰普灯禄(かたいふとうろく)』(1205撰 続蔵百三十七巻)などの本には、巻末にこうした種類の坐禅の精神的・思想的マニュアルが多く採録されています。この一群のマニュアルのなかに、「坐禅銘」や「坐禅箴」と題された文章も見ることができるのです。わたしたちがこれから読もうとする「坐禅箴」巻は、そのような歴史的文脈につながるものとして、坐禅のマニュアル、特にその思想性を説くマニュアルの系譜上にあることを、まず確認しておきたいと思います。
〈題の意味と内容構成〉
このように歴史的文脈をふりかえったところで、それではまず、『正法眼蔵』「坐禅箴」という題号・巻名についての解釈からはじめましょう。書名となった「正法眼蔵」とは、『禅學大辞典』では「仏法の真髄」の意としています。この言葉は、そもそも釈尊が第二代となる摩訶迦葉(まかかしょう)に対して、みずからの教えを伝えた時の逸話に基づいています。釈尊はあるとき、金鉢羅華(こんぱらげ)という花を掲げて弟子たちに見せ、目をまたたいて、なにもしゃべりませんでした。並み居る弟子たちが皆なんのことかわからない中で、年長の弟子である摩訶迦葉(まかかしょう)だけが、にっこりと笑いました。それを見た釈尊は、「吾が有せし正法眼蔵涅槃妙心(ねはんみょうしん)、摩訶迦葉に付与す」と言って、摩訶迦葉を自分の仏法の真髄(正法眼蔵涅槃妙心)を受け渡し、後継者としたという逸話です。この話は「拈華瞬目(ねんげしゅんもく)」「拈華微笑(ねんげみしょう)」などとよばれ、禅の伝統では、釈尊から直伝された仏法の継承を主張する有名な逸話となりました。しかしながらこの話はインドまで遡れるものではなく、実は中国で造られたものといわれます。
ともあれこの逸話から、「正法眼蔵」とは、全体で「仏法の真髄」を指す言葉とされたわけですが、ひるがえって文字のそれぞれの意味を解説するならば、昭和初期に活躍された曹洞宗の禅僧である橋本恵光(はしもとえこう)老師によれば、「「正法」とは摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみつ)(智慧・さとりの意味)のことであり、それを見きわめることができることを「眼」という」ということです(『正法眼蔵坐禅箴 薬山弘道大師非思量の話』2000)。また、このような正法眼によって一切の功徳が蔵される場所という意味で「蔵」といわれたということです。けれどもこのように言われても、なかなかはっきりとしたイメージが湧かないのではないかと思います。そこでわたしとしては、「正法眼を蔵する蔵」とは、端的に、「坐禅するそのことである」と提示したいと考えます。というのは、『正法眼蔵』の題号が付けられてはじめて論じられた巻を「摩訶般若波羅蜜」巻(全集第一巻)といい、そこでは、全身全霊でもって坐禅することにおいて、身体、世界、行住坐臥の全体が摩訶般若波羅蜜になり、その蔵を開けば、あらゆる教えと行為がその蔵からあふれ出てくるというイメージが基調になっているからです。「正法眼蔵」とは、そうした智慧の眼が蔵され、開かれる蔵としての坐禅の姿というイメージで解釈したいと思います。
つぎに「坐禅箴」における「箴」とは、針、ぬいものをする際に使う針だということです。そこからしつけ、いましめ、おしえという意味になりました。ですから「坐禅箴」とは「坐禅の際のいましめ、おしえのことば」という意味に解してまちがいないと思います。なお、「箴」を、東洋医学で医療用に使う鍼の意味として、「坐禅についてまちがった見解を直す」という意味を読み込む注釈も多くありますが、『正法眼蔵』の最も古い注である『正法眼蔵抄』には、「をしへ、しるし、わかつ」(『正法眼蔵註解全書』第四巻)とあるだけですので、医療用の鍼(箴)の意味については、わたしはあまり強調しないでおきます。
こうして題号の解説ができましたが、この題だけを見ると、「坐禅箴」巻は、道元禅師の「坐禅についてのいましめ、おしえ」が記された詩が、その解説とともに示されたものだろうと予想されそうです。しかし実際には、本編はそのような単純なものではなく、複雑な構成になっています。というのは、本編中にたしかに道元禅師自身の「坐禅箴」の詩偈が示されているのですが、それは最後に置かれていて、それ以前に三つの別のトピックの言及が長々となされているからです。この三つとは、冒頭から順に「薬山非思量(やくさんひしりょう)の話(わ)」「南嶽磨塼(なんがくません)の話」「宏智(わんし)坐禅箴とその解釈」といいます。この三つの言及のあと、ようやく道元禅師自身の「坐禅箴」が示されるのです。しかもその肝心な自らの「坐禅箴」について、道元禅師はなんの解説もされず、ただ提示するばかりなのです。
また、より複雑な事情もあります。この道元禅師の「坐禅箴」が、全くのオリジナルのものなのではない、という点です。それは直前に言及した「宏智坐禅箴」、すなわち、宏智正覚(わんししょうがく)(1091-1157)が遺した「坐禅箴」を下敷きにして、ほぼ同じような構成をとりながら改作したものであるのです。「宏智坐禅箴」に対する道元禅師の評価はたいへんに高く、「諸代の老宿のなかに、いまだいまのごとくの坐禅箴あらず(歴代の高僧の方々でも、このような坐禅箴は書かれなかった)」と絶賛しています。しかしそのうえになおそれを改作して、道元禅師自身の「坐禅箴」が提示されているのです。『正法眼蔵』「坐禅箴」は、およそこのような複雑な、あるいは奇妙な構成になっているのです。
〈どう読むか〉
この複雑な本編における中心はどこかといえば、それは明らかに、道元禅師がどのように「宏智坐禅箴」を改作して自らの「坐禅箴」に書き換えたかという点にこそあります。この改作の意図の解明において、「坐禅箴」の手前に収録される三つの話頭の解釈もなされるべきでしょう。さらにまた、道元禅師が撰した坐禅についての他のマニュアル、すなわち『普勧坐禅儀』や『正法眼蔵』「坐禅儀」などと関連するのも、この改作の意図においてだろうと予想できます。改めて言えば、
①道元禅師が「宏智坐禅箴」を改作して自分の「坐禅箴」を造った意図とはなにか。
②その意図と「坐禅箴」提出の前に説かれた三つの話頭とはどのように関連するか。
③『普勧坐禅儀』や『正法眼蔵』「坐禅儀」などといった坐禅のマニュアルと「坐禅箴」とはどのような関連性を持つか。
ということがらの解明こそが、これからのわたしたちの読解の中心となるということです。
なお、こうした解明にのぞんで、注意しておくべきことがあります。「坐禅箴」の考察において文字の解説に終始してそこに埋没し、解釈のための解釈を施すことはいけないということです。「坐禅箴」とはあくまでも坐禅のマニュアルなのですから、その解釈はわたしたちみずからの坐禅の実践によってのみ真に検討され続けなければなりません。この当たり前のことを常に確認しておきたいと思うのです。ともに読解する藤田老師は筋金入りの坐禅人であるので全く心配ないのですが、心配なのはむしろわたしのほうです。わたしはきわめて意志の軟弱な、根性のない、あたまだけで考えて済まそうとする俗人です。「坐禅箴」の考察は、徹頭徹尾坐禅の実践において検討されなければならないということを、わたしは自分への「箴」として絶えず自らに突き刺しながら、これから読解に向かいたいと思います。どうぞ宜しくお願いします。
【藤田一照】身読コラボ①
〈はじめに〉
私は、2017年12月8、9、10日の三日間にわたって山形県庄内町の曹洞宗寺院見龍寺で行われた接心(坐禅を集中的に行じる合宿形式の修行)に、提唱の講師として参加した。みんなで一緒に坐禅をじっくり修行しようというただそれだけのための全く自主的な集まりなのに、この寺の住職の池田好斉さんの呼びかけに応じて他県からの参加者も含めて20数名もの若いお坊さんたちが集まってくる。私はそのことにひどく感激したので、その前年に始まった1回目の見龍寺接心から講師を引き受けていた。
この2回目の接心には、私がまだアメリカに住んでいた頃、ロサンジェルスの日系寺院で行われた大きな授戒会に随喜したときに初めてお会いした曹洞宗僧侶の宮川敬之和尚(以下、親愛の情を込めて「敬之さん」と呼ばせていただく)が参加していた。彼は1971年鳥取県に生まれ、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程(倫理学専攻)を卒業し、現在鳥取県の天徳寺の住職をしている。『再発見 日本の哲学 和辻哲郎―人格から間柄へ』 (講談社学術文庫)という和辻哲郎の倫理思想についての好著がある。彼と会うと、いつも道元や『正法眼蔵』の話で盛り上がり、知的な刺激をたっぷりいただくのが常だった。
この接心の時も、彼といろいろ話しているうちに、次回2018年12月に開かれる3回目の見龍寺接心では、道元の『正法眼蔵』「坐禅箴」の巻を二人の掛け合いで講義しようではないかということになった。こういうやり方はわれわれにとってもきっと面白く勉強になるに違いないだろうし、それを聞くみんなにもたぶん何か有益な坐禅修行の糧になるはずだと、二人ともそれを楽しみにして準備を進めていたのだった。しかし、あいにくその接心初日当日に大雪が降り、私の乗った飛行機が視界不良のため庄内空港に着陸できず、羽田空港に引き返してしまい、けっきょくその年の接心に私は参加することができなかった。そういう事情でわれわれ二人の当初の計画は実現しなかったのである(今年2019年12月の4回目の接心では、二人の掛け合いの講義を再度試みる予定でいる)。
そういう残念なハプニングが心残りだったこともあって、このWeb春秋への連載寄稿を依頼されたとき、実現しなかった敬之さんと『正法眼蔵』「坐禅箴」を一緒に解読していく作業をWeb上でやれないだろうかというアイデアを編集者に提案してみた。すると「それはすごく面白そうですね。ぜひやってください。」という返事をいただいたので、敬之さんに伝えたところ幸い快諾していただけた。
そういう成り行きで、これから春秋社版『道元禅師全集』(全7巻)の第1巻所収の『正法眼蔵』第十二「坐禅箴」の巻をテキストにして、敬之さんと一緒にコラボで味読していくことにする。今回は第一回目として、それぞれの今後の抱負のようなものと「坐禅箴」という巻名についてのコメントを書くことにした。
本文そのものの読解は次回から始める。毎回、「坐禅箴」本文から適当な分量の文章を取り出し、それぞれが独立にその部分について言いたいことを5000字くらいの文章にして書き綴っていく。したがって、読者は同じ道元の文章について、二つの異なった解説を読むことになる。敬之さんは曹洞宗の伝統的な宗学に詳しく、しかもアカデミックな訓練を積んだ人だから、彼からは伝統にのっとったオーソドックスな解釈を聞くことができるだろう。一方、私はそういう学問的な背景を持たないので、我流のアンオーソドックスな解釈を披露することになるだろう。こういう共同作業の相方として敬之さんを選んだのは、彼のような学問的にしっかりした基礎を踏まえた人が抑えとして一緒にいてくれたら、自分は安心して勝手な気ままな読みができると思ったからだ。読者の皆さんには、2人の解釈の相違やその違いのあわいに立ち上がってくるものを愉しんでいただけたら幸いである。
われわれは基本的に相手が書くことを意識せず、道元の文章だけを見て、自分が考えるところを述べて行くことにしている。今のところ、2人の間では、本文の解釈などに関してまったく意見交換はなされていない。しかし、お互いの書いた前の回の文章を読んだ上で、必要があれば短いコメントを寄せあい、そういう形で二人の間でのやりとりも行っていくつもりである。もしかしたら、回が進んで行くにつれて、自ずとお互いの間に影響関係が生まれてくるかもしれない。そういう予期せぬ展開が起こることも楽しみにしていただきたいと思っている。
対談でもなく、また往復書簡でもない、このような変則的な形式で同じテキストを読み込んでいく試みは2人ともまだやったことがないので、「坐禅箴」を読み終わったときに、2人にどのような展望がひらけることになるのか、今はまったく予想がつかない。とにかく、始めてみて、何が起こるか、それを見届けることにしよう。
〈なぜ『正法眼蔵』「坐禅箴」か?〉
私は26歳のときに、鎌倉円覚寺内の居士林での冬の学生接心で生まれて初めて坐禅をした。伊那で漢方思之塾(ししじゅく)という東洋医学の私塾を主宰していた伊藤真愚先生の弟子になるための条件として、先生の指示に従ってなんの下準備もなしに、いきなり5日間の接心に飛び込んだのだった。当時の私は、東京大学の大学院で発達心理学を専攻する博士課程の学生だったが、この時の接心での体験が機縁となり、それから1年半ほど経って、28歳で大学院を中退し、兵庫県山中の禅の修行道場安泰寺に入山した。そして翌年、曹洞宗の僧侶として正式に出家得度した。
両親も含め、私を知る周囲の人々は、この一連の出来事を見て私にいったい何が起きているのか理解できず、驚き、狼狽した。当の私自身にもうまく説明できないのだから、無理もないことだった。しかし、私の中には、「長年探し続けていたものをついに見つけた!」というはっきりした確信のようなものがあった。暗い森の中を手探りでさまよい続けていた者が思いがけず、明るい空間が広がる道に出くわしたときのような感じだった。道には、①それが確かにどこかに向かっているという方向性があること、②森の中のように倒木やいばら、大きな岩といった障害物がなくスムーズに進めること、そして③過去においてその道を切り開き、これまで維持して来た人々、現在そこを歩いている人々、未来においてそこを歩くであろう人々というその道に関わる過去・現在・未来にわたる他者との共同体が想定されていること、という少なくとも三つの特性を持っている。だからこそ、古来、道が宗教的なメタファーとしてしばしば用いられて来たのだろう。仏教に当てはめて言うなら、道が備えているこの三つの特性は三宝のそれぞれ、つまり仏(目覚めという方向性)、法(修行の原理、道筋)、僧(修行者の共同体)に対応しているように思われる。私の場合、その道とは具体的に言えば、坐禅の道だった。
坐禅とそれを伝えて来た禅の伝統に出会って、やっと自分の歩むべき道が見つかったという大きな喜びを感じたとき以来、決してうまくできたとは言えない未熟な初めての坐禅がなぜ自分にそれほどのインパクトを与えたのかをずっと考え続けて来た。坐禅それ自体は「端坐して時を移す」だけという極めてシンプルで、簡素極まりない営みであるにもかかわらず、「仏道の正門」と呼ばれ「仏法が伝わるということは坐禅が伝わるということだ」とまで言われるほどに重要なものとされるのは、いったいどういう理由によるものなのか。坐禅の功徳、価値、素晴らしさという問題についての探究は今も自分の大きなテーマになっている。樹下に打坐し目覚めたブッダや中国の僧院で只管打坐して身心脱落を得た道元が生きた時代とはあらゆる点で大きく異なっている現代においても、坐禅は同じような意義をもつものなのだろうか?現代人が坐禅をすることの意味はどこにあるのだろうか?そういった問題意識に立って、坐禅の基本文献の一つである『正法眼蔵』「坐禅箴」を読んでいきたいと思っている。
曹洞禅の伝統においては、坐禅についての基本文献としては他に、道元の『普勧坐禅儀』、『正法眼蔵』「坐禅儀」、瑩山の『坐禅用心記』などがある。坐禅の具体的な作法を知るためには『普勧坐禅儀』を取り上げるべきだが、坐禅の内面、あるいは態度という問題に関して学ぶためのテキストとしては、『正法眼蔵』「坐禅箴」がもっとも適していると思われる。見龍寺の接心の提唱の時に、2人が一緒に『正法眼蔵』を講読していくのなら、まずは何をおいても、坐禅することの意味について深く掘り下げが行われているこの巻から始めるべきだろうとわれわれ2人の意見が一致したのである。
〈『正法眼蔵』「坐禅箴」について〉
道元自身が編纂したと言われている75巻本『正法眼蔵』においては、第11巻に「坐禅儀」があり、そのすぐ後の第12にこの「坐禅箴」がおかれている。「坐禅儀」は1243年11月吉峰寺(京都興聖寺から越前に移ってきて、永平寺の前身である大仏寺が完成するまで仮住まいした寺)における示衆(師家が修行僧たちに向かって説法し指導すること)として書かれたものである。比叡山の僧衆からの度重なる迫害を背景として、大きな決断のもとに行われた吉峰への入山はその年の秋頃であったとされるから、それからあまり時間が経っていないタイミングで書かれたものだろう。そのような事情を考慮すれば、中国からの帰朝後まもなく著した『普勧坐禅儀』において明らかにした正伝の仏法に基づく坐禅を改めてとらえ直し、自分についてきた弟子たちに坐禅の実修の仕方とその際に注意すべき点を明確にかつ丁寧に説き示して、新しい地における坐禅を中心とした修道生活の樹立への励みにしようとしたのではないだろうか。
「坐禅儀」には坐禅の具体的なやり方が細かく記されているが、坐禅が正伝の仏法の精華であるという点についての突っ込んだ議論はなされていない。わずかに、非思量が坐禅の法術であること、坐禅が禅定の習熟を目指す習禅ではなく、大安楽の法門であり、自我の思惑が寄りつけない不染汚の修証(実践)であることが末尾で言及されているにとどまっている。これらの重要な問題についての詳しい解説は、次の「坐禅箴」においてなされているから、坐禅を学ぶ者は、この二つの巻をワンセットにして読むべきであろう。
「坐禅箴」には撰述の場所や日付などを知る奥書と言われるものが付されていないが、おそらく道元が43歳の時、興聖寺において撰述され、後に加筆・修正が加えられたのではないかと推測されている。そうだとすれば、「坐禅儀」よりも少し前に書かれていることになるが、75巻本ではその後に配置されている。坐禅の作法に具体的に述べた「坐禅儀」の後に、そこおいてはただ言及するのみであった、非思量、不染汚など正しい坐禅のあり方を理解する上で欠かせない重要なコンセプト群について、薬山非思量の話、南嶽磨塼の話、宏智禅師の坐禅箴、道元自身の坐禅箴を取り上げて、徹底した掘り下げを行なった「坐禅箴」を置いた道元の意図をくみ取らなければならない。
〈「坐禅箴」という題名について〉
「坐禅箴」の「箴」というのは鍼灸の鍼のこと。石や竹で針を作り人体の急所、いわゆるツボを刺して病気を直す鍼の術が、昔の中国で開発された。今は金属で針を作るので「鍼」と表記するが、かつては竹であったので「箴」と書かれていたのである。この漢字の意味は辞書によれば「はり。石針。裁縫に用いる針。鍼。いましめる。教えさとす。いましめを書いたもの。」とあり、急所を突いて人をいましめ正すという意味から「箴言(いましめとなる短い句、教訓の意味をもった短い言葉の意)」と熟語される。したがって、「坐禅箴」を「坐禅のための箴」と解すれば、「坐禅における病気を治療するための箴(はり)」という意味になるだろう。そう理解するなら、「坐禅箴」は、当時の中国や日本の仏教界で行われていた主流の坐禅は道元の目から見れば致命的な病に陥っていたので、それを根本から治療するための書として書かれたことになる。現在においても、坐禅についての様々な誤解が世に蔓延しているから、この「坐禅(のための)箴」をフルに活かして、それらの坐禅に対する考えの病気を治して行かなければならない。
伝統的には上記のような「坐禅の病気を治すための箴」という理解がなされているが、私は「坐禅箴」を「坐禅という箴」と読んでもいいのではないかと思っている。つまり、坐禅はわれわれが陥っている無明という根深い病を治す、強い効き目を持った箴であるということだ。そのような箴としての坐禅はどのようなものでなければならないかを述べたのがこの「坐禅箴」なのである。釈尊以来、仏祖たちが脈々と伝えてきたのは本来そういう箴としての坐禅であったはずなのだが、いつの間にか坐禅の矮小化、偏向化、変質化が起きてしまい、もはや箴としての力を失ってしまったというのが「坐禅箴」を書いたときの道元の脳裏にあった診断ではなかっただろうか。
だとすると、「坐禅箴」という表現には、「われわれの無明という病を治す強力な箴であるはずの坐禅がいまや病気になってその力を失ってしまっているから、それを治療するためのいましめの言葉(箴言)」という二重の意味を読み込めることになる。「坐禅箴」は「坐禅を箴として回復させるための箴言」なのである。私はそういう理解に立って、これから本文を読んでいこうと思う。