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社会を癒す「私」になる――マインドフルネスとポリヴェーガル理論が拓くケアのまなざし 井上ウィマラ × 花丘ちぐさ

ポリヴェーガル理論からマインドフルネスを考える(後編)【井上ウィマラ】

マインドフルネスの基礎:2つのポイント

 

 このようなマインドフルネスの基礎トレーニングである呼吸観察には2つのポイントがあります。1つは「呼吸の見つめ方」であり、2つ目は心が呼吸からそれてしまった時の「雑念への関わり方」です。私は雑念への関わり方を「気づきの作法」と呼んで、①気づく、②感じる、③整えて戻るという3ステップにまとめています。

 これまでお話してきた16の観察法や13グループの瞑想対象などの全てが、この2つのポイントによって集約されてゆきます。これらは、これまでいろいろな場面で瞑想指導をしながら見出してきた私なりのメソッドです。「呼吸の見つめ方」と「雑念への関わり方」を身に着けることによって、あらゆる現象がマインドフルネスの瞑想対象になってしまう瞑想ネットのような構造です。

 

呼吸の見つめ方

 

1.吐く息と吸う息の感触(温かさ、涼しさ、湿度etc.)の違い:

 まず、呼吸を見つめる際に、息を吸うときと吐くときに感じる感触の違い、たとえばどちらが涼しく、どちらが温かく感じるかといった具体的な感覚に気づくことが大切です。これらは、生命現象を構成している2つの要素(摂取と排泄、陰陽など)の質感(クオリア)です。吸う息と吐く息の感触の違いを把握できるようになると、話すときの息づかいを通して、マインドフルネスをコミュニケーション場面に応用しやすくなってゆきます。私たちは言葉を話すときには息を吐きながら発声しているからです。「息づかい」という、コミュニケーションを支える非言語的な要素に注意を向けやすくなるのです。

2.吸い始めから吸い終わりまで、吐き始めから吐き終わりまで:

 すべての現象と同じように、呼吸には始まりと終わりがあります。吸い始めと吸い終わり、吐き始めと吐き終わりです。始まりと終わりの瞬間を意識するように心がけると、「なぜ息を吸い始めるのだろうか?」とか、「吸い終わりってどこ?」といったことに興味が湧いてきて、呼吸を見つめるのが面白くなります。呼吸を観察しているとすぐに退屈して眠くなってしまうのは、こうしたことに関心を向けたことがないからかもしれません。

 吐く息に関しては、鼻から出て行く息が終わった後でも、横隔膜や呼吸筋と呼ばれる体壁の筋肉を使って肺を絞り続けるように感じられる短い時間帯があります。吐き終わり際のこの間に、心が一番逃げやすくなります。魔が差しやすい時間帯です。息が止まっているようにも感じられるこの時間帯に、胸や鳩尾みぞおちやおなかなどの感覚を通して注意を保っていられるようになると、集中力が眼に見えて向上してきます。

3.呼吸の長さ・短さ、深さ・浅さの変化:

 呼吸は1回1回、吸う息も吐く息も長さや深さが異なります。1つとして同じ息はありません。一期一会なのです。毎回違う呼吸の顔に気づけるようになると集中力が持続しやすくなります。しかし、熟練した修行者でも、ただ自分の呼吸を観察しているだけではこうした違いに気づくことが難しいものです。

 そこで私は、二人一組になって、お互いに相手のおなかの動きを観察したり、おなかに手を触れて相手の呼吸を感じてもらったりするようなペアワークを取り入れるようにしています。

 

呼吸のモニタリングなどの間主観的アプローチ

 

 これは間主観的な観察法を瞑想の実践に取り入れたものです。安心できる人と二人組になって、一人が仰向けに横になり、もう一人が横に座って、横になっている人のおなかに手を当てます。こうすると、てのひらを通して感じられる呼吸の動きに生命現象のダイナミックなエネルギーとぬくもりを感じて、生命への愛おしさを感じられるようになります。呼吸のリズムが急に変化して、しばらく息(おなかの動き)が止まっているようなときには、「このまま死んでしまったらどうしよう…」と不安を覚えることさえあるくらいです。

 相手のおなかの動きに合わせて「フ~」という声を出してモニターしてみると、息を合わせる・合わせてもらう実感と共に、呼吸の長さや速さや深さの変化のあり様を如実に体感することができます。その後で感想を話し合ってみると、モニタリングの微妙なズレをどう感じたか、モニタリングする時に相手をコントロールしようという思いが湧いてきたか、ずれているモニタリングに「合わせなければいけない」という思いが湧いたかなど、とても微細なレベルでのコミュニケーションの癖が浮かび上がってきます。そしてさらに深く見つめてゆくと、そうした微細なレベルでの癖には、まだ幼かった頃の親子関係が影響していることなども見えてきます。

 こうした洞察は、間主観的なマインドフルネス実践から自然に生まれてくるものの一例です。逆に言うと、マインドフルネスで間主観的な観察が必要になるのは、呼吸の変化を含めて、こうした事実に関しては自分ひとりで自分を見つめているだけでは気づきにくいからなのです。

 

補助技法について

 

 昨今のマインドフルネスブームの中では、数息感すそくかんやプラーナヤーマのようなコントロールするタイプの呼吸法がマインドフルネスとして紹介されることが少なくないように見受けられます。ブッダは、その時々の呼吸をありのままに見つめることをマインドフルネスとして教えています。しかし『清浄道論』という注釈書では、息を数えたり身体の中を経巡へめぐらせたりコントロールしたりすることが、補助技法として紹介されています。そして、しっかりと呼吸を実感できるようになったら、経典に説かれているように出る息と吐く息の質感の違いや、長短や深浅や速さの違いなどを感じてゆくように解説されています。それらは、①数を数える、②感じやすいところをつないで感じてゆく、③心が安定し落ち着く、④安定した集中状態から出て実感とその変化を観察する、⑤無常・苦・無我を洞察して世界観が転換する、⑥心が浄化されて自由と幸福を得るという段階にまとめられています[1]。こうした段階説は、後に述べるトラウマ治療の段階説に通じるプロトタイプではないかと思われます。

 おそらくブッダの時代から、こうした補助技法は用いられていて、弟子たちの中では適宜使われて、口伝で伝えられていたのでしょう。だから注釈書にこうした記述が残っているのだと思います。それではなぜ、経典には補助技法が出てこないのでしょうか?

 

コントロールするから守られること

 

 それは、ブッダのマインドフルネスは解脱に至る一本道として説かれているからです。解脱に至る智慧を得るためには、「無常・苦・無我」の三法印にまとめられた真理を洞察する必要があります。すべてのものごとが常に移り変わっていて(無常)、それは「私」の思い通りにコントロールすることのできるものではなく(無我)、思い通りに支配できず変化していってしまうものは「私」にとって不確実で不完全な印象を与えて不安や不満をもたらすもの(苦)だということを身に染みて深く受けとめるのです。

 呼吸をコントロールすると集中力が増して、「無念無想になって気持ちがよかった…」という感想に安住してしまいがちです。そこには「嫌なことは見たくない」という気持ちが隠れているものです。嫌なこと・見たくないもの(自分のシャドウ・影の部分)を見るためにはそれなりの観察自我の強さが必要であり、その強さがないうちにこうした真理に直面してしまうこと、ほんとうの自分を見てしまうことは不安や恐怖の体験になりかねません。

 この真理に心を開くためには準備が必要になります。その準備ができていない状態で、無理やり真理に目を向けようとすると、心は嫌がり、傷ついてしまう可能性が高くなります。最近のマインドフルネス研究では、有害反応として集中的なリトリートなどで不安が高まる事例が報告されていますが、その背景にはこうした現実が潜んでいるのです。

 補助技法がコントロールすることで私たちを守ってくれるものは、トラウマを含めて、自分自身の影の部分に直面することの不安・恐怖・辛さ・厳しさからなのです。

 

コントロールを手放すことの難しさ

 

 「ありのままの呼吸を見つめようとすると、自然な呼吸ができなくなって、息苦しくなってしまうのですが、どうしたらいいでしょうか?」という質問を受けることがよくあります。「見つめよう」とする思いの中に隠れている強さが出てきてしまい、ついつい「見張って」しまうからです。

 その見張る「強さ」は、自分の中のトラウマや影の部分を見てしまうことの不安や辛さから自分自身を守ろうとして頑張って生きる傾向性でもあります。こうした強さや堅さは、頑張って生きようとする気持ちや価値観を含むものであるため、親から子へと無意識的に世代間を伝わってゆくものでもあります。フロイトはそれを「超自我」と呼びました。

 コントロールを手放すためには、こうした超自我に気づき、「善い、悪い」の価値判断を手放して、見守ってゆくための学びが必要になります。コントロールを手放す際の不安に気づき、価値判断を手放そうとする際の葛藤に寄り添うのです。「こうやって頑張って生きてきたんだね」と、これまでの自分の頑張りをねぎらってあげる必要があるかもしれません。それができると、見張っている状態から見守る状態に移行することができて、厳しさや強さや冷たさが消えて、見つめる眼差しが柔らかな温もりに包まれるようになります。

 

マインドフルネスの展開

 

 数えることやコントロールすることを手放して、ありのままの呼吸を見守ることができるようになると、呼吸の長さや短さ、深さや浅さ、速さや遅さなどを実感することができるようになります。そしてそこから命に関する様々な洞察が生まれてきます。

 呼吸には同じペースを保とうとする側面と、何かをしようとして変化する側面があります。自然環境の中で生きている心身の働きに応じて呼吸も変化し続けているのです。こうした呼吸の変化に気づいてゆくところから、仏教でいう「無常」の理解が深まってゆきます。

 マインドフルネスがさらに深まってゆくと、息を吸うときには心拍が上がり、吐くときには心拍が下がってゆく、そんな変化を感じられることもあります。この現象は、私たちが一粒の受精卵から多くの細胞で構成された人間の身体へと発達してゆく過程で、海の中でえら呼吸をしていた時代から上陸して肺呼吸をするように進化してきた歴史を受け継いでいて、呼吸性洞性不整脈こきゅうせいどうせいふせいみゃく(Respiratory Sinus Arrythmia)と呼ばれます。私たちは呼吸を通して三十数億年の生命進化の歴史を「思い出している」かもしれない、ということなのです。

 

三木成夫が教えてくれたこと

 

 マインドフルネスの瞑想指導をしていて、こうした呼吸の変化を観察することの重要性を説明するために苦労していたころ、三木成夫(1925-1987)の『生命の形態学』に出会いました。そこには、解剖学の視点から、人体には植物系の組織と動物系の組織がらせん状に重なり合っていることが美しいデッサンで詳細に描かれていました。エネルギー源となる太陽光に向けて遠くの彼方を目指して真っ直ぐに伸びる植物、近くの環境を知覚して食べ物を求めて動き回る動物、それらの働きが重なり合って身体が構成され生命現象が展開されていることが、解剖学的な形態を通して説かれています。

 呼吸もその一つで、延髄支配で同じペースを保とうとする植物系の生命呼吸と、大脳皮質が支配して捕獲や逃走などの行動のために呼吸をコントロールする動物系の意思呼吸とがあると書かれています[2]。これは、集中した時の呼吸の深まりや、眠りに落ちたり何かの思いにとらわれたりした時の呼吸の変化を理解するためにとても役立つものです。私は、それまでの呼吸観察で感じていたことや、瞑想指導で「どう説明したものか…」と思案していたことが、一気に「これだ!」と腑に落ちたような気がしました。

 

繰り返される進化の記憶

 

 ここで、三木成夫の『胎児の世界:人類の生命記憶』[3]という本を紹介したいと思います。この本では、私たちが母親のおなかの中で、胎児として生命進化の過程を繰り返している時の様子が詳細に描かれています。受精後36日目には、3億年前に上陸した原始爬虫類の顔に似ているそうです(私には魚の顔に見えましたが…)。私たちの「思い出す」という営みには、身体の形態として進化の過程を繰り返すことが含まれ、その上で私たちは、上陸してから獲得した肺呼吸ができるようになっているのです。

 

『胎児の世界』(三木成夫著、中公新書)より

 

 「個体発生は系統発生を模倣する」ともいわれますが、私たちの身体は、記憶にない胎児としての発生過程で地球上の生命の歴史を思い出すように繰り返しながら成長してきたようです。そして今の人間としての呼吸があり、その呼吸は周囲の状況や自分自身の身心の状態に応じて変化し続けているのです。こういう視点から見てみると、私たちの呼吸の機微や微細な変化の中にも、地球上での生命進化の歴史の片鱗がうずもれているのかもしれません。そんな思いを抱いてみると、呼吸観察がまた一段と楽しくなってきます。私も瞑想指導の楽しみがまた一つ増えてきました。

 

成長と時間の速度

 

 次の図表は同書の「比較解剖」という図表です。それぞれの種族の進化の過程と、個体進化の中で繰り返される時間との相関関係が比較されています。人間の胎児は、受精後32日から38日目までの6日間で、6000万年をかけた上陸の過程を繰り返して終えてゆきます。この時期の胎児の1日は生命進化のための1000万年に相当するのです。上陸した後の胎児の1日は120万年くらいの進化の歴史を繰り返しながら成長するそうです。

 人間の胎児は生物学的に未熟な状態で生まれてくるので、生まれたばかりの赤ちゃんはまだ立って歩くことができません。原始人類が数百万年ほど前に獲得した直立二足歩行ができるまでに成長するためには、1年ほどの時間を必要とします。ホモサピエンスが言語を獲得したのは数万年くらい前だと言われていますが、子どもが言葉をしっかりと話せるようになるのは3~4歳くらいになってからです。自我の確立もこの頃で、私たちが思い出すことができるのも、たいていはそれくらいの頃からの出来事に限られています。

 


『胎児の世界』(三木成夫著、中公新書)より

 

 人間は、受精してから生まれるまでの間に、胎児としての身体を通して進化の歴史を途中までたどりながら成長します。生まれ出てきてからの成長過程で、その残りの過程をたどりながら立って歩くようになり、言葉を覚えて、人間としての自我を獲得してゆくのです。

 

いつ「私」になるのか?

 

 大学でのスピリチュアルケアの講義で、「あなたは、いつ『私』になったと思いますか?」という問いを投げかけることがあります。終末期における看取りを中心にするスピリチュアルケアでは、「私」という意識がどのようなものであるかをよく理解しておくことが、クライアントさんが自らの死をよりよく受けとめられるように支援するための基礎知識として重要になるからです。その人の「私」がどのようにして作られてきたものかによって、死への向き合い方が変わって来るからです。

 この質問に対して学生たちからは、「受精した時」、「着床した時」、「出産の時」、「自我意識が芽生えてきた時」などの回答が出てきます。どれもみんなそれなりに正解です。それぞれの思いを聞いてから、「もし認知症になったら、あなたは『誰』になると思いますか?」と問いを重ねます。すると、大体はそこで行き詰まってしまいます。

 そこで、『私は私になっていく』[4]という本を紹介します。クリスティーン・ブライデン(1949-)という世界で初めて認知症であることをカミングアウトして活動している元オーストラリアの政治高官のお話です。認知症で、「私」としての役割意識が失われていっても、子どもの頃のような純粋な感情は残っていて、近くにしっかりと寄り添ってくれる人がいてくれれば、その役割意識を失ってゆく体験は「本当の自分」に出会ってゆく体験になり得るようです。

 「認知症になったら『私』は誰になるのか?」という問いは、「私」とは何かという問いを逆照射してくれるものです。同時に、それぞれの時期に、両親をはじめとする多くの存在に守られ支援されて生きることができたことを忘れてはなりません。

 

プロセス全体を見つめる

 

 吸い始めから吸い終わりまで、吐き始めから吐き終わりまで、呼吸のプロセス全体を感じて見つめてゆくマインドフルネス瞑想は、身体全体を感じて見つめることへ、そして生態系における生命現象としての呼吸を感じて見つめることへと展開してゆきます。人生の苦しみからの解放を求めて始まった探求の旅は、「私」の仮想性や虚構性への洞察に到達し、「私」が仮想現実であることを自覚した上で改めてその「私」を自他のために使いこなす試行錯誤を楽しめるようにと、探求の旅路が展開してゆくのです。

 「私」という仮想現実を使いこなす「方便」の学びは死ぬまで続きます。それは修行として努力するというより、自然にそうすることが楽であり、「幸せだ」と思えるようになるような変容です。

 こうした展開の接続領域として重要になるのが、息の吐き終わりから吸い始めにかけての観察です。そこでは、呼吸を介して内部と外部がいかにつながり合い、終わりと始まりとがいかに循環し、生きることと生かされること、コントロールすることと委ねることとが相補的に依存し合いながら生命現象が浮上してくるのかを垣間見ることができます。

 こうして、身体を構成する植物系と動物系の生命現象が織りなす呼吸のリズムに乗って、「感じる」こと、「知る」こと、そして「思いやる」ことがスパイラルに絡まり合いながら花を咲かせてゆく四季折々の風景を愛でる瞑想実践の旅になってゆくのです。

 

全身を感じる(外呼吸から内呼吸へ)

 

 最初はガス交換としての呼吸観察から始まったマインドフルネス瞑想は、吐く息から吸う息への接続領域における微細な身体感覚を通して、次第に内呼吸(エネルギー代謝)を感じることへと誘われてゆきます。内呼吸は、肺で取り入れた酸素をヘモグロビンに付着させて細胞に送り届け、細胞のミトコンドリアがエネルギーモーターとして熱エネルギーや運動エネルギーを生み出す現象です。

 経典では「全身を感知しながら息を吸おうと訓練し、全身を感知しながら息を吐こうと訓練する」と説かれていますが、注釈書では呼吸の始まりから終わりまでという意味での「全身」と、手足の指先から内臓や血液を含む身体全体という意味での「全身」のふたつが含意されると解説されています。

 「気の流れを感じる」という人がいますが、そうした微細なレベルでの感じ方が始まるところでもあります。体温や運動に伴う緊張や発熱や発汗や疲労感など、内受容感覚と呼ばれる身体感覚などへの気づきを通して、呼吸を感じてゆくことが自然に全身を感じることにつながってゆくということが起こります。

 

魅力と厭わしさと脱出法

 

 このようにしてプロセス全体を見守ることができるようになると、身心相関現象の起承転結の全体が洞察されてきます。例えば怒りの観察においては、①何を見たり聞いたりして怒りが発生したのか、②怒りが「正義感」として燃え上がる際には怒りとして自覚できないこと、③ピークを過ぎると「少し言いすぎてしまったかなぁ…」と反省する心が生まれて後悔すること、④a.「怒りは悪いもの」として抑え込もうとすると一時的に消えたように見えてもまた同様な機会を見つけて芽を出してくること、あるいは④b.他のことに関心が移ると都合よく解釈して忘れてしまうことなどを自覚することができるようになります。

 こうした体験全体において、その時々の呼吸や身体感覚がどのように変化しているのかもうっすらと自覚できるようになり、発生時における魅力も、ピークを過ぎた後にやってくる厭わしさや危惧感もじっくりと味わえるようになります。そうしていると、「酸いも甘いも嚙み分ける」と言われるような人生体験の統合が始まり、どうしたらその体験のループから脱出できるのかの見立てができるようになります。それは「わかっちゃいるけどやめられない」状態から「もう充分に分かったからやりたいとは思えなくなってきた」という状態への変化をもたらします。

 マインドフルネスが教えてくれる苦しみからの脱出法は、そうした一つ一つの人生体験をしっかりと丁寧に(できれば安全な仕方で)体験し尽くしてゆく道だったのです。

 

  

無意識的な意図が自覚化されて身体の動きや呼吸が静まってくる

 

 私たちは日常生活で多くの無意識的な身体の動きをしています。睡眠中にも何回も寝返りを打ちます。寝返りを打つのは、体の一部が圧迫されて不快感があるからか、夢を見て何かを思って体が動いてしまうなどの理由があります。目覚めているときにも無意識的な身体の動きは少なくありません。蚊が飛んできたときに思わず追い払ったりパチンと叩いたりするのもそうですし、愛想笑いをしたり、貧乏ゆすりをしているのもそうです。

 マインドフルネスのトレーニングを積み重ねて呼吸を丁寧に見つめられるようになると、こうした無意識的な動きの直前に発生している不快感や警戒感などを自覚することによって、それまでは無意識的に身体を動かしていた無意識的動機に気づけるようになります。無意識的動機に気づけるようになると、「動機」と「動き」の連鎖の間に気づきのくさびが打ち込まれ、その動作をするかしないかを意識的に選択するスペースが開けてきます。こうして身体の無意識的な動きが収まり、呼吸も静まって落ち着いてくるものです。

 

気づきの作法:雑念への関わり方

 

 私たちはマインドフルな呼吸観察を通じて、地球上に生命が生まれて進化してきた歴史にそっと触れながら、他者や自然の生態系につながっていることを感じ取ることができるようになります。これは、マインドフルネスの原語である sati が「記憶」という意味を持っていたことと深い関係があります(前編参照)。マインドフルネス実践を通して、私たちは生命記憶に触れなおしているのです。

 それと同様に、「気づきの作法」を通して、これまでは「雑念」だと思って邪魔者扱いにしてきた想念の中に、自分自身の本音や過去からの残響を聞き届けることができるようになってゆきます。雑念は、本当の自分からのメッセージを伝えるSOSのサインだったのかもしれないのです。

 「気づく、感じる、整えて戻る」という3つのステップは、『念処経』に説かれた身体・感受・心・法の観察の全てを取り込むネット構造になっています。呼吸観察をしている心が呼吸からそれて何か呼吸以外のことに気を取られてしまったことに気づくたびに、この「気づきの作法」を実践すれば、それが自然な形で『念処経』に説かれたマインドフルネス瞑想実践の一つになっているのです。

 

見張りから見守りへ(①気づく)

 心が呼吸から離れてしまったことに気づいたら、そこで何が起こっていたのかをありのままに確認します。思い出していたのか、考えていたのか、何かを予測して不安になっていたのか、嬉しかったことを思い出して喜んでいたのか…、気づいたとおりに確認します。「また考えちゃった…」とか、「駄目じゃないか…」と自分を叱っているかもしれません。一生懸命に瞑想しようと思うほど、雑念に気を取られた自分を責めてしまうことが少なくありません。そんな時には、「責めている」という風に自覚することも役に立ちます。

 見つめようとすることが監視することになってしまうことは多いものです。ありのままに見つめるためには、この監視癖に気づくことが必要になります。少しずつ時間をかけて、見張る姿勢から見守る姿勢に移行してゆけるように心がけましょう。そのためにも、雑念に気を取られてしまったことを責めてしまう自分、監視して見張ってしまう自分に気づいて、認めて、受けとめてあげることが大切なステップになります。「そうやって頑張って生きてきたんだね、でも、今は大丈夫だよ」と自分に声掛けしてあげる感じです。

 

受容の基盤づくり(②感じる)

 呼吸以外の何かに気を取られた瞬間、その想念が身体のどこにどんな影響を与えているのかを、身体の部分を特定しながら丁寧に感じます。「胸がドキドキしている」、「歯を食いしばっている」、「眉間にしわが寄っている」、「手に汗を握っている」、「頭がズキズキ痛い」、「おなかが温かい」などと、できるだけ具体的に感じてみましょう。身体の部分を特定して具体的に感じることで、圧倒感から抜け出す準備が整ってゆきます。

 こうして具体的に身体で感じることが、「気持ちを受けとめる」ことにつながってゆきます。そして感じたことが変化してゆく様子に気づくことがトラウマ治療へとつながる道を開いてくれます。

 

優しさへの種まき(③整えて戻る)

 何かに気を取られた時には、自然に姿勢も「考える人」や「悩む人」や「悲しむ人」あるいは「浮かれた人」などの姿勢に微妙に変化してしまっているものです。そこでそのわずかな変化を、「胸が開いているように…」、「肩の力が抜けているように…」、「頭が背骨の上に自然な真っすぐさで乗っているように…」という3つの視点から整えてあげます。吐く息に合わせて緊張を緩め、吸う息に合わせて新鮮なエネルギーで身体を満たしてあげるようなイメージです。

 違和感や緊張感がとけて全身が楽になったことを確かめたら、ゆっくりと優しく呼吸に戻ります。泣いて嫌がる子どもの手を引っ張るようにして強引に連れ戻すのではなく、安心できる仕方で優しく戻ることがポイントです。この「優しい」戻り方を心掛ける中で、自分自身への優しさの種まきがなされてゆきます。

 

自由連想やPEとの類似性

 

 「気づきの作法」が身についてくると、呼吸を見つめながら浮かんできた想念に寄り添うマインドフルネス瞑想の実践は、自由連想や持続的暴露療法(PE:Prolonged Exposure)に似たものになってゆきます。呼吸を安心できるよりどころとして、浮かんできた想念に気づき、受けとめ、自分自身の一部として受けとめてゆく実践になるからです。精神分析を実践している人がマインドフルネス瞑想を通して「自由連想が何であるのかがわかった気がする」という感想を漏らすことが少なくないのもそのためです。

 換言すると、マインドフルネスは、分析したり癒したりしようと意図することなく、自然な形で心の中が整理されて、傷ついた心(トラウマ)が癒えてゆくような効果をもたらす心の向け方のトレーニングだったのです。

 

トラウマとは

 

 トラウマは人類史のどの時代にもあったものです。もちろんブッダがマインドフルネスの教えを説いた2600年前にも存在していました。ただ、その苦しみが「トラウマ」という言葉で表現されることはありませんでした。経典の中には、独り子を亡くして混乱し蘇らせようと苦悩したキサーゴータミーの事例、家族全員を次々と失って裸でさ迷っていたパターチャーラーの事例、そして凶悪な殺人を繰り返してしまったアングリマーラの事例など、明らかにトラウマだとわかる事例が出てきます。彼らはブッダに出会って、受けとめられ、支えられながらマインドフルネスを実践して、癒され、悟って解脱してゆきました。ただ、その苦しみは「トラウマ」という言葉で識別されることなく、「苦しみ(dukkha)・苦悩(dukkha-domanassa)」という言葉の中に含めて語られていました。

 言葉にすることの難しいトラウマが現代医学の中で治療や研究の対象として取り上げられ始めたのは、フロイト(1856-1939)やジャネ(1859-1947)の時代からでした。その後の紆余曲折を経て、ベトナム戦争帰還兵の治療と調査研究から1980年代にPTSD(Post Traumatic Stress Disorder:心的外傷後ストレス障害)という診断名がつけられるようになり、治療法が科学的に研究される流れが定着して、レイプや家庭内暴力や虐待などを含めた包括的な研究が進められています。

 

トラウマの症状

 

 トラウマの症状としては、フラッシュバック、回避、過覚醒、世界観の萎縮などがあります。

 フラッシュバックは、トラウマに関連する不快で苦痛な記憶が突然蘇るもので、悪夢が繰り返されることもあり、トラウマを思い出したときの不安、動悸、震え、発汗といった身体症状で現れることもあります。

 回避症状は、トラウマとなった出来事を思い出させる場所や事物や感覚情報などを避けようとすることであり、トラウマについて考えたり話したり感情が沸き起こったりするのを抑え込んだりしてしまいます。

 過覚醒症状とは、必要以上に警戒してビクビクしてしまう精神的な緊張が高まった状態で、イライラして怒りっぽくなったり、集中できなくなったり、嫌なことを避けるために過剰に活動してしまうこともあり、眠れなくなることもあります。

 こうした状態が、1か月以上続くとPTSDと診断され、1か月以内で収まるようであれば ASD(Acute Stress Disorder:急性ストレス障害)とされます。

 また回避に類似した症状として、頭が真っ白になって出来事の一部が思い出せなくなったり、趣味や日常活動に興味や関心が向かなくなったり、他人との間に壁ができたような孤立感を感じたり、感情が麻痺して愛情や幸福感が感じられなくなり、将来の人生を前向きに考えられなくなるなどの精神的麻痺が起こることもあります。こうした症状は、自分の価値観を低下させてしまい、世界は安心できる場所ではないという世界観の萎縮をもたらします。

 

トラウマ治療の本質

 

 今のところ、トラウマ治療法として科学的に認められているものは持続的暴露療法(PE)とEMDR(Eye Movement Desensitization and Reprocessing:眼球運動による脱感作と再処理法)の2つです。これらの土台になっているのが、フロイトがブロイアー(1842-1925)との共著「ヒステリー現象の心的規制について」(1893)[5]で次のように述べた見解です。

 

すなわち、われわれは、誘因となる事象の回想を完全な明白さで呼びおこして、それによってこれに付随していた感動をも呼びさますことに成功し、そのうえで患者が自らその事象をできるだけ精細に述べてその感動に言葉を与えるようにすれば個個のヒステリー症状はたちどころに消滅し二度とは起こるものではない、ということを発見したのであったが、発見の当初はひどく驚いたものであった。

 

 その後、催眠療法を離れて精神分析を確立していったフロイトは、「想起、反復、徹底操作」(1914)[6]で「反復強迫」という概念を導入して、言葉で思い出せない記憶が無意識的な行為で繰り返されたり、セラピストとの転移関係の中で繰り返されたりすることをうまく利用して、患者が抑圧していた感情を発散し、そのことを自覚しながらトラウマ体験を語りなおすことで人生に統合して行けるように巧みに寄り添うための道筋を明らかにしてゆきます。それは、以下の3つのRにまとめられる営みです。

 

1.Re-member:トラウマ体験を思い出すこと(言葉で思い出せないことは無意識的な行為で繰り返される:反復強迫)

2.Re-lease:(反復強迫や転移の中で)ため込まれたエネルギーを解放・発散すること(その時の抵抗を和らげるために解釈の投与が必要になることが多い)

3.Re-integrate:言葉で語りなおすことによって自分の人生の一部として再統合すること(自覚的にそれができるように解釈が役に立つこともある)

 

 また、トラウマからの回復に関する三段階説については、ハーマン(1942-)が『心的外傷と回復』(1999)で[7]、ジャネの①安定化を目指し病状指向的治療を行う、②外傷記憶の探索、③人格の再統合と再社会化に基づいて、①安全、②回想と服喪追悼、③再統合の三段階にまとめています。

 コークはこれらを、①落ち着いて意識を集中した状態になる方法を見つけること、②過去を思い出させる光景や思考、音、声、身体的感覚に反応するときに、その落ち着きを保持することを学ぶこと、③今を思う存分に生き、周囲の人々と十分に関わり合う方法を見つけること、④どうにか生き延びてきた手段についての秘密を含めて、自分に隠し事をしないで済むようにすることの4項目にまとめなおしています[8]

 以上をまとめてトラウマ治療のポイントを比較すると、以下の表になります。

 

トラウマ治療法の比較表

フロイト

ジャネ

コーク

PE

EMDR

1.トラウマ体験を思い出す(言葉で思い出せないことは、無意識的な行為として繰り返される:反復脅迫)

1.安定化を目指し、病状指向的治療を行う

1.落ち着いて集中した状態になれる方法を身に着ける

 

1.トラウマ体験を思い出して語り、リラックス技法や呼吸法を使いながら処理(脱感作)する

1.生育歴や病歴の聴取

2.心理教育、説明と同意、安心する方法の準備

2.過去の記憶に対するときにその落ち着いた状態を保持できるように学ぶ

3.トラウマ記憶へのアクセスと評価

2.(無意識的な行為/あるいは転移として)繰り返し思い出す(反復する)中で、ため込んでいたエネルギーを解放し発散する(抵抗を緩めるように解釈を投与する)

2.対象記憶の探索

4.記憶の脱感作(眼球運動による再処理)

3.思う存分に生き、人々と十分にかかわりあう

2.トラウマ体験を思い出すと苦痛を感じる(しかし実際には安全な)場所、人、物、状況に、生活場で繰り返し向かい合うようにして慣れてゆく

5.記憶に対する望ましい認知を植え付けて定着させる

6.全身を感じてチェックする

3.(解釈に支えられたりしながら)そのことについて自覚的に語り人生の一部として再統合できるようにやり遂げる(徹底操作)

3.人格の再統合と再社会化

4.自分に隠し事をしないで済むようにする

7.安心して日常に戻れるようにリラックスしてセッションを終了する

8.前回の治療効果を再評価して次のターゲットを定める

 

 「気づきの作法」は、上記の表にまとめた各要素がその人に合った自然な形で実践できるように、その時に現れている身心現象に心を向けてゆくマインドフルネスの実践なのです。

 

安心感について

 

 こうしたトラウマ治療の基盤となるのが、花丘先生がポリヴェーガル理論に基づいて腹側迷走神経複合体の視点からお話しくださった安心感です。ポール・マクリーン(1913-)の脳の三位一体説[9]の視点から見ると、哺乳類が一緒に子育てをすることで育んできた進化の達成物です。この安心感に支えられているという実感があるからこそ、辛い体験でも思い出してみる勇気が湧いてきますし、安全に処理し脱感作することができるようになるのです。

 この安心感は、生後1年ほどの間で育まれる基本的信頼の中で培われるものです。人類はこの人生の最初期を絶対依存の状態で過ごします。親に育ててもらう中で、「大丈夫だ。この世界は何とかなる。死なないで生きてゆける」という漠然とした万能感のような確信が持てるようになると安心感が育まれます。ウィニコット(1896-1971)はこの時期の子育てのポイントについて、「赤ちゃんの万能感を満たしてあげること」だと述べています[10]。万能感を満たすためには、赤ちゃんが身振りや泣き声で表現していることを察知して対応してあげることが必要です。こうして相手のニーズを察知してあげる心の向け方にマインドフルネスの要素が働いています。

 この基本的信頼にひび割れが入ってしまうと、成長後の人間関係の中で安定した関係性が結べなかったり、自己肯定感が持てなかったり、疎外感を感じてしまったりするような生きにくさを抱えるようになります。バリント(1896-1970)はこうした現象を「基底欠損(Basic Fault)」と呼びました[11]が、これは昨今「発達性トラウマ」と呼ばれるようになったものの根底にあるものです。

 

間主観的な視点から見た安心感とトラウマの関係

 

 この安心感とトラウマの関係について、間主観的視点から精神分析を革新したストロロウ(1942-)は次のように述べています[12]

 

 トラウマは、激しい情緒的な痛みが、それを支え得るような関係性を与えてくれる我が家ホームのようなものを見出すことができない相互主観のコンテキストにおいて構築される。このようなコンテキストの中では、痛ましい情動状態は耐えきれないもの、すなわち心的外傷を作ってしまうのだ。

 きちんとした反応が受けられる環境の中で起こったのであれば、心を傷つけるような幼児期の体験は、それ自体が自動的にトラウマになったり、心の病のもとになったり(少なくとも、それが持続的にそうあり続けたり)はしないことは、 どんなに強調してもしすぎることはない。

 痛みが精神病理なのではない。子どもの痛ましい情緒の反応が起こっている際に、その気持ちに合わせてもらったり、適切に反応してもらったりができなかったことによってこそ、こういう情緒的な反応が耐えられないものになり、かくしてトラウマ状態のもとになったり、精神病理になったりするのである。

 

 同じ苦しい経験をしても、それがトラウマになるかどうかは、「わが家のような安心感」があるかどうかによって左右されるのです。心を寄せてくれて、「大丈夫だ」と思わせてくれる存在があれば、それは悲劇トラジェディではあってもトラウマにはならずに済むのです。そして、マインドフルネスは呼吸をはじめとする生命現象をありのままに見つめることによって、そうした安心感を自らの中に培い、その安心感に基づいた雰囲気が周囲にも伝わってゆくようなエネルギーを生み出す実践なのだと思います。

 

マインドフルネスの定義を巡って

 

 こうした考察を踏まえて、伝統的なマインドフルネスの定義について紹介して、一区切りにしたいと思います。花丘先生は、「意図的に、今この瞬間に、価値判断することなく注意を向けること」というジョン・カバットジンの定義を紹介してくださいました。これは、「bare attention(純粋な注意)」[13]というニャーナポーニカ長老(1901-1994)の言葉を基にしたものです。ニャーナポーニカ長老は、ビルマのマハーシ長老から直接ヴィパッサナー瞑想の指導を受けていました。私がビルマ(現ミャンマー)で瞑想の指導を受けたのは、マハーシ・サヤドゥの直弟子として英語の通訳をしたチャミ・サヤドゥからでしたので、同じ系統に当たります。「bare(裸の・純粋な)」という言葉には、「善悪の価値判断を超えた」というニュアンスが込められています。

 善悪の価値判断を超えて、ありのままを純粋に見つめることは、マインドフルネス実践の核心であり、とても重要な要素なのですが、私たちには最初からそんなことができるわけではありません。マインドフルネス瞑想を極めて、阿羅漢あらかんと呼ばれる最高の解脱の境地に達した人は、唯作心ゆいさしんkiriyā-citta)と呼ばれる、善いことをしても「善いことをした」というこだわりのない心を体験することができるようになります。しかし、誰でもはじめのうちは、善悪にこだわり、欲望や怒りに紛れながら幸せを追い求めるところから出発するものです。そしてそうした努力の中で、善悪やこだわりの様々な側面をしっかりと体験することを通して、少しずつ自分のこだわりや思い込みに気づきながら、「ありのまま」に近づいてゆくことができるようになるものです。

 伝統仏教のアビダンマと呼ばれる瞑想心理学による「sati (マインドフルネス、念)」の定義では、「記憶」という語源的な意味に沿って、そうした実践の側面が上手く説明されています。私の経験をもとに要約すると、次のようになります。

 

「思い出し、忘れずに保っておき、浮遊しないという性質を持ち、対象に向き合うように現れてきて、変化する具体的様相を網羅し列挙できるように見守る性質を持つ」[14]

 

 呼吸をはじめとする人生の様々な現象を、その人なりにしっかりと向き合い、何回も丁寧に繰り返し見つめる実践こそが、マインドフルネスの旅路を支える原動力になってくれるものなのです。

 

 

 

参考文献

[1] 水野弘元訳注『南伝大蔵経63清浄道論2』 大蔵出版 2004, pp.97-114.

[2] 『生命の形態学―地層・記憶・リズム―』 三木成夫 うぶすな書院 2013, p.165-172.

[3] 『胎児の世界:人類の生命記憶』 三木成夫 中公新書 1983

[4] 『私は私になっていく:認知症とダンスを』 クリスティーン・ブライデン クリエイツかもがわ 2012

[5] 『フロイト著作集』7 J・フロイト 人文書院 1974, p.12.

[6] 『フロイト著作集』6 J・フロイト 人文書院 1970, p.49-58.

[7] 『心的外傷と回復』 J・L・ハーマン みすず書房  1999, p.242.

[8] 『身体はトラウマを記録する』 ベッセル・ヴァン・デア・コーク 紀伊国屋書店 2016, p.333.

[9] 『三つの脳の進化』 P・マクリーン 工作舎 2019

[10] 「本当の、および偽りの事故という観点から見た、自我の歪曲」『情緒発達の精神分析理論』 岩崎学術出版社 1977, p.177.

[11] 『治療論から見た退行―基底欠損の精神分析』 M・バリント 金剛出版 1978

[12] 『トラウマの精神分析』 R・D・ストロロウ 岩崎学術出版社 2009, p.16.

[13] The Heart of Buddhist Meditation,  Nyanaponika Thera, Weiser Books, 1954, pp.30-45.

[14] Buddhist Path to Awakening, R. M. L. Gethin, Oneworld, 2001, pp.36-44.

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著者略歴

  1. 井上ウィマラ

    1959年山梨県生まれ。京都大学文学部哲学科宗教哲学専攻中退。日本の曹洞宗で只管打坐と正法眼蔵を学び、ビルマの上座部仏教でヴィパッサナー瞑想、経典とその解釈学ならびにアビダンマ仏教心理学を学ぶ。カナダ・イギリス・アメリカで瞑想指導のかたわら心理療法を学ぶ。バリー仏教研究所客員研究員を終えて還俗。マサチューセッツ大学医学部のマインドフルネスセンターでMBSRのインターンシップを研修後に帰国。高野山大学でスピリチュアルケアの基礎理論と援助法の構築に取り組む。現在はマインドフルライフ研究所オフィス・らくだ主宰。著書に『子育てから看取りまでの臨床スピリチュアルケア』(興山舎)、『楽しく生きる、豊かに終える』(春秋社)、『呼吸による気づきの教え』(佼成出版社)、共著に『トラウマとマインドフルネス』(北大路書房)、『私たちはまだマインドフルネスに出会っていない』(日本評論社)、『瞑想脳を拓く』(佼成出版社)、『スピリチュアルケアへのガイド』(青海社)などがある。

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