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スカートの裾を投げて――女性シンガーソングライターとポストフェミニズム 星川彩

はじめに

 「シンガーソングライター」というのを十年ほどやっている。なりたいからなった、というわけではなかった。本当はロックバンドをやりたかったのだけれど、それがどうにもうまくいかなくて、自分で作った歌をうたっているうちにシンガーソングライターになっていた。

 わたしはどうやら「女性シンガーソングライター」という区分の歌い手らしい。自分のことは女性だと思っているし、自作自演のアーティストをひろく「シンガーソングライター」と呼ぶのなら、たしかにわたしは「女性シンガーソングライター」ということになるのだろう。

 このような形容に対する異論はあまりなかったのだが、ここ最近、自分にはりついている「女性」と「シンガーソングライター」というレッテルについて考えさせられることが増えてしまった。できればこんな面倒なことなど考えずに歌っていたかったが、わたしが思う以上に、周囲のひとびとはわたしを「女性」として位置づけたからである。

 たとえば、男性の「ファン」からアドバイスもどきの自分語りを長時間聞かされたり、終演後に食事に誘われたり、「一晩付き合ってくれたら音楽事務所を紹介するよ」と言われたことがあった。歌をうたっているだけなのに、どうして「女性」というカテゴリのなかで自分を消費されないといけないんだろう。ちなみに最後のケースに至っては、本人は音楽事務所とは一切関係のない、ただのおじさんだった。一体どこに紹介する気だったのかは気になるところである。

 このような場面に出くわすと、自分の尊厳を傷つけられたような気分になった。知人のミュージシャンに相談してみると「売れてないからしょうがないんじゃない?」などと言われるし、なんなら「女ってだけで客呼べていいよね」と鼻で笑われたこともある。ほとほと嫌になった。べつに「女性シンガーソングライター」という肩書きのせいではないけれど、本気で嫌気がさしていた。

 わたしは女性シンガーソングライターである。そう呼ばれていたので、一応そういうことにしてきた。だけど今は、これまで自分を形容してきた「女性シンガーソングライター」という枠組みを、批判的に捉えなおす必要に駆られている。胸を張って「わたしは女性シンガーソングライターだ」と言えるようになりたい。そのためにはまず、わたしに長いことはりついてきた「女性」と「シンガーソングライター」というカテゴリについて、少し真面目に考えてみる必要がある。

  

「この歌あたしのこと歌ってる」?

 そもそも「シンガーソングライター(singer-songwriter)」という言葉が国内で使われはじめたのは、1970年代以降のことだ。それまでの音楽制作システムは分業制をとることが多く、作詞や作曲、編曲、演奏や歌唱といった各部門はそれぞれのプロフェッショナルが担っていた。しかし1960年代後半に生じたフォークソングのムーブメントをきっかけに、それらすべてをひとりの演じ手が引き受ける「自作自演」システムが生まれた。

 この自作自演システムは「ニューミュージック」と呼ばれる音楽ジャンルにも引き継がれて、シンガーソングライターは国内のポピュラー音楽において欠かせない存在になっていった。それは今日流行しているポピュラー音楽にもある程度は指摘できることだろう。たとえば2024年紅白歌合戦に出場したアーティストのラインナップに、藤井風や星野源、椎名林檎、aiko、あいみょん、米津玄師、西野カナ、Vaundyといった多くのシンガーソングライターが含まれていたことも、記憶に新しいと思う。

 このように「自分で曲を作り、歌う」ことが、シンガーソングライターにとって重要な一側面であることは間違いない。だからこそシンガーソングライターの歌は、しばしば《自分》を表現したもの――「自己表現」として受け取られる節がある。これはつまり、その作品や歌詞が、歌い手(=自分)自身の経験や感情、信念に基づくものとして聴取されるケースがあるということだ。音楽学を専門としているマーク・エヴァン・ボンズは、この「自己表現」をめぐって、次のような傾向が生じることを指摘している。

ポピュラー・ソング、ロック、ラップは、ソングライターと演奏家が同一人物である場合はとくに、自己表現――より正確には自己表現として聴くこと――が決定的役割を果たしてきたジャンルである。例はたくさんある。シンガー・ソングライターのテイラー・スウィフトが《私たちは絶対にヨリを戻したりしない We Are Never Ever Getting Back Together》を二〇一二年八月にリリースすると、批評家達はすぐ、この歌が彼女自身の人生のひそかな注釈ではないかと推測した。崇拝者であろうと反対者であろうと、すぐにこう問わざるをえなかった。この歌は誰に向けられたものか、と。[ボンズ, 2022, 294]

 歌を歌い手自身の「ひそかな注釈」と解釈すること。これこそが歌を「自己表現」としてみなすことである。もうひとつ例を挙げよう。

辛かった別れはあたしをほんの少しだけど
可愛くねしてくれたんだと思っている

そんなあたしはシンガーソングライター
君にフラれたくらいで 生きる意味なくしたりしないよ全部ネタにするから
君にたくさん大好きと 伝えてたこの声で歌うの[コレサワ, SSW

 上に引用したのはコレサワ《SSW》の歌詞の一部分である。これは歌が歌い手自身の「ひそかな注釈」として解釈されることに対する、一種のメタ的な表現であるように思えてならない――つまり失恋というパーソナルな出来事が「ネタ」として歌に昇華されるプロセスこそが、シンガーソングライターの「自己表現」をめぐるひとつの言説なのだ。

 上記の例は特に(テクストとしての)歌詞を中心としたものだが、聴き手は歌詞だけでなくメロディ、歌い方、態度、表情、ファッション、ふるまいにいたるまで、さまざまな要素を、歌い手の社会的/政治的立場やパーソナリティを示すものとして認知する。しかしながら、こうした自己表現をめぐる聴き手のまなざしは、実は中立的なものではない。歌の内容だけでなく、その声を発する身体が誰のものかによって、歌に与えられる意味が大きく変容させられてしまうからである。

 

女性シンガーソングライターとジェンダー

 このような意味変容の過程において重要になるのが、ジェンダーにかんする問題である。ジェンダーは、文化的・社会的に決定される「性差」をあらわす概念として理解されることが多い。しかしながら今日では、ジェンダーは女性/男性という単純な二分法に対する批判概念として機能していて、それはたんに「性差」の枠組みにとどまるものではない。だが女性シンガーソングライターの「女性」という区分について考えてみると、これは歌い手の「性差」を強調した呼称であることは指摘できるだろう。

 実はさきほどの「自作自演」と「自己表現」についての話も、女性シンガーソングライターの事例をベースに見ていくとやや事情が異なってくる。たとえば「女性シンガーソングライター」という呼称が定着したのは、「シンガーソングライター」が定着したのと同時期、1970年代初頭のことだ。だが当時の音楽批評を見てみると、女性シンガーソングライターの「自己表現」をめぐる言説は、あくまでも「女性」というカテゴリのなかで語られている場合が多い。1977年に発売された『ニューミュージック白書』に掲載された記事「女性SINGER 女性ゆえに作れる音楽世界──偽りのない心と、きめの細やかさ」を見てみよう。

これは女性ゆえに作れる愛の世界だ。殊、女性シンガー=ソング・ライターと云えばフォーク・シンガーに限られていたわけだが、その彼女たちが脚光を浴びだしたのは、フォーク全体(中心は男性)が音楽の域を飛び出して、攻撃的になり過ぎた事だろう〔中略〕緊張のしっぱなしの中に求めるものは・・・・・・やすらぎ。〔中略〕視野を広くもつ男性陣にくらべ、自分の身の回りという狭い視野で音楽を作る女性たちは、偽りのない心ときめの細やかさがある。[小林, 1977, 70]

歌い手自身の「ひそかな注釈」が、「女性」というカテゴリを通じて行われているのがわかるだろうか――このような批評は70年代当時多く見られたし、驚くべきことに2010年代中盤にも似たような批評を複数見つけることができる。2011年に刊行された『W100 シンガーソングライター――今という時代を探る』に掲載されている、音楽ライターの金澤寿和の解説文を見てみよう。この書籍はシンガーソングライターとして活動する女性100人への簡潔なインタビューをまとめたもので、金澤はその巻頭言として、女性シンガーソングライターのありかたを次のように指摘している。

シンガーソングライターとは、自作自演歌手を指す言葉である。しかし、曲を書いて自分で歌うアーティストはすべてシンガー・ソングライターなのか? と言うと、必ずしもそうではない。重要なのは、自己表現の手段として有効に機能しているかどうか〔中略〕つまり、音や旋律で自分を表現する欲求を持つのが、シンガー・ソングライターの第一歩。更に自分自身の言葉を持っていれば、それが理想的なシンガー・ソングライターということになる。そのうえで女性という括りを付与するなら、男性シンガー・ソングライターとは違ったフェミニンな感性、繊細且つふくよかなエクスプレッションを持ち併せていることが必要だろう。[金澤, 2011, 4]

金澤は「自作自演」と「自己表現」の結びつきを認識しながら、女性のシンガーソングライターには「フェミニンな感性、繊細且つふくよかなエクスプレッション」が必要であると説いている。この背後で「理想的な」シンガーソングライターとして想定されているのは明らかに男性だし、女性シンガーソングライターは副次的な存在として「フェミニンな」役割に徹することを求められているのではないだろうか。

 このように、女性シンガーソングライターの場合、「歌い手の社会的/政治的立場やパーソナリティを示すもの」としての楽曲が、「母」や「感情」「身体」といったパーソナリティに還元されるケースが多々ある。上記のような言説は、日本においてシンガーソングライターが台頭してきた1970年代から、形を変えながらも継続して行われされてきた「神秘化」の一種なのだ。70年代以降のポップスにおいて重要な役割を果たし続けてきた「シンガーソングライター」の姿を考えるためには、このように女性の演じ手を特定のジェンダーロール(性役割)のなかに位置付けてきた歴史をまず再考する必要があるだろう。

 

シンガーソングライターの現在地

 とはいえ、2025年現在の音楽シーンを見てみたとき、「女性シンガーソングライター」のありかたは明らかに変化している。音楽を取り巻く社会や思想――「フェミニズム」にかんする諸問題――が大いに変貌を遂げたことを考えれば当然のことかもしれないが、この変化はとても重要なものだ。冒頭では自分自身の女性シンガーソングライターとしての体験から、「女性」としてのわたしに向けられるまなざしへの違和感について(やや愚痴っぽく)述べたけれども、最近では演者同士で「めんどくさい」お客さんについての情報共有をしたり、演奏活動をするなかで体験したセクシャルハラスメントについて告発したり、「女性」というカテゴリのなかに無理矢理押し込まれることに対してNOを宣言する女性シンガーソングライターもたくさんいる。一方で「女性」というカテゴリのなかで歓迎される要素を積極的に取り入れて、魅力的なパフォーマンスを繰り広げる女性シンガーソングライターも多く存在する。この変化はどのようにして生じたのか――わたしの考えでは、この変化が生じた原因はひとつ前の世代、つまり2000年代にさかのぼれるのではないかと思っている。

 本連載の試みはまさにここにある。少々ややこしい表現になってしまって恐縮だが、わたしはこの連載を通じて、2000年代以降を中心に活躍した女性シンガーソングライターの主体性、および彼女らをめぐるジェンダーロール(性役割)について検討したいのだ。その過程を通じて、「女性シンガーソングライター」と称される/自称する存在がどのように変化したのか/あるいは過去のありかたを踏襲しているのかを、具体的な作品を追いながら考えていきたいと思う。

 

フェミニズムのあとで?――ポストフェミニズム

 さて、やや大きめの野望を暴露したところで、この野望を果たすための重要な役割を果たす(かもしれない)概念をひとつ紹介したい。それは「ポストフェミニズム」と呼ばれる一連の現象と、その状況をめぐって交わされてきた議論である。

 先ほどわたしは「『フェミニズム』にかんする諸問題が大いに変貌を遂げた」と書いた。その「変貌」のひとつとして、「男女平等は既に達成されたし、フェミニズムとかもはやいらないんじゃないの」と考える人が増えたことが挙げられる。実際にわたしも、大学院に入るまでは「もう世の中ふつーに男女平等っしょ」と思っていた。実際に、日本においてもフェミニズムが「社会的に意味があるものとして認知され」たと感じる読者も多いだろう――最近の例では、東洋水産のコマーシャルが批判に晒されていた(炎上)一件を受けて、「ジェンダー平等にたいする意識が日本全体で高まって」いることを肌身に感じたかもしれない。田中東子の言葉を借りれば、たしかにフェミニズムは社会に「まあまあ」普及しつつあるのだ[田中, 2020]。このようにフェミニズムの目的が達成され、すでに必要のないものとして認識される状況は「ポストフェミニズム」と呼ばれている。

 しかしながら、そのような感覚は、日々わたしたちが生活するなかで実際に直面する数々のジェンダー不平等を、かえって見えにくくしてしまうという危険性をはらんでいる。社会学理論やジェンダー理論を専門としている高橋幸は、『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど――ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』という書籍のなかで「フェミニズムは不要だ」という態度をとる「ポストフェミニスト」が、のちにメディア文化研究やポップカルチャー研究において分析の対象となったことを指摘している。そのような女性像が頻繁にみられるようになった時代や社会状況が「ポストフェミニズム」として捉えられ、とりわけ2000年代後半以降にはこの語のもとに、さまざまな研究が蓄積されていったのだ[高橋, 2020, ii]。

 とはいえ「ポストフェミニズム」をめぐる研究の多くが参照しているのは英米の事例であって、日本はそもそも「ポスト(以後)」と呼べるほど大きなフェミニズムのムーブメントが生じたとは言い難いことも重要な点である。ゆえに日本における「ポストフェミニズム」的な状況は、より具体的な事例からていねいに分析する必要がある。わたしはこの「具体的な事例」に、女性シンガーソングライターはぴったりなのではないか?と考えているのだ。現在進行形で変化しつつある日本の女性シンガーソングライターの主体性の問題は、この国における「ポストフェミニズム」の問題とどこかで繋がっているはずなのである。

 少し話が大きく、抽象的になってしまったかもしれない。次回からは具体的に、女性シンガーソングライターの作品に迫っていこうと思う。わたしが初めてお小遣いで買ったCDに収録されていた一曲――大塚愛《黒毛和牛上塩タン焼680円》からはじめたい。

 

参考文献

Bonds, Mark Evan, 2019, The Beethoven Syndrome: Hearing Music as Autobiography, Oxford University Press. 2022, 堀朋平西田紘子, 『ベートーヴェン症候群――音楽を自伝として聴く』,春秋社.

金澤寿和,2011,「女性シンガー・ソングライター変遷分析論――時代を彩り、新たな潮流を生み出し続ける女性たち」W100プロジェクト(編集)『W100シンガーソングライター――今という時代を探る:100のWORK 100のWOMAN 100のWANDERFUL』,シンコーミュージック,4 – 8.

小林佳人,「女性SINGER 女性ゆえに作れる音楽世界 偽りのない心と、きめの細やかさ」『ニューミュージック白書―《保存版》日本のフォーク&ロック20年のあゆみ』,エイプリル出版.

星川彩,2025,「音楽評論における女性シンガーソングライターとジェンダーロール――「自作自演」と「自己表現」の言説を手がかりに」.『阪大音楽学報』第21号,71 – 92.

高橋幸,2020,『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど――ポストフェミニズムと『女らしさ』のゆくえ』,晃洋書房.

田中東子,2020,「フェミニズムが『まあまあ』ポピュラーになりつつある社会で」.『早稲田文学』2020年春号,118 – 127.

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著者略歴

  1. 星川彩

    1998年福島県いわき市生まれ。大阪大学大学院博士後期課程芸術学専攻音楽学研究室所属。専門はポピュラー音楽研究、ジェンダー論。主な論文に「音楽評論における女性シンガーソングライターとジェンダーロール ――「自作自演」と「自己表現」の言説を手がかりに」(『阪大音楽学報』第21号,2025年)、「欲望のまなざしに歌う――女性シンガーソングライター(SSW)のジェンダーポリティクス」(『阪大音楽学報』第20号,2024年)、「フォークゲリラと歌う声――身体のコントロールによる政治」(『ポピュラー音楽研究』第26号、2022年)など。東京都内のライブハウスを中心に、「星川あや」名義でシンガーソングライターとしても活動中。

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