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戦後を譲りわたす——日本の「モダン・ムーブメント」建築史 岸佑

「空地の思想」を譲りわたす⸺川崎市河原町高層住宅団地

出典表記のない写真は筆者による 

はじめに

  JR川崎駅からラゾーナ川崎を抜けて徒歩で15分程度。高層の集合住宅が建ち並ぶ川崎市河原町住宅団地が見えてくる。全15棟からなる河原町団地は、総戸数3600戸、当初予測人口12600人、30年後予測人口15500人の居住人口を収容する大規模な市街地団地である。開発主体は、神奈川県、川崎市、そして住宅供給公社の三者であり、それぞれ県営住宅棟、市営住宅棟、そして分譲住宅棟として供給されている。なかでも強い印象を与えるのは、「人」という文字をそのまま巨大化させたような、逆Y字形の4号棟、6号棟、8号棟である。

逆Y字形が特徴的な河原町高層団地

 

 この団地は、竣工当時から、同時期に竣工した広島の基町団地と並ぶ大規模団地の建築事例として、建築を学ぶ学生を中心によく知られている。この団地建設の背景には、次のような事情があった。1960年代に入ると、都市部で土地の需要が高まり、都会の土地を確保するために大学や工場が郊外へ移転していく動きが全国的に見られた。河原町団地も、この流れのなかで日東製綱(現在の東京製綱)川崎工場跡地に建設された。団地の敷地内には保育園や小学校なども設置された(小学校は2006年に閉校し、跡地に県立特別支援学校の建設が検討されている)。

 近未来を思わせる造形のこの住棟を設計したのは、大谷幸夫(1924–2013)とその研究室のメンバーだ。大谷は1946年に東京大学第一工学部を卒業後、丹下健三のもとで広島世界平和聖堂第7回を参照)や広島平和記念資料館第6回を参照)、旧東京都庁舎などの設計に携わったのち、1960年に独立した。1964年、東京大学工学部都市工学科の教員に就任し1984年まで教鞭を執ったのち、千葉大学で1989年まで教えた。1989年、株式会社大谷研究室を設立、引き続き設計活動に従事し、2013年逝去。代表作として、国立京都国際会館(竣工:1966年)、金沢工業大学本館(竣工:1969年)、沖縄コンベンションセンター(竣工:1987年)などがある。今回取り上げる川崎市河原町高層住宅団地(第一期竣工:1970年)も大谷の代表作のひとつだが、『建築文化』や『建築』といった建築専門誌には、大谷研究室の名義で発表され、大谷のほかに大谷研究室にいた大学院生など8名の名前が掲載されている[1]

 

逆Y字はなぜ生まれたか

 この団地はもともと、神奈川県と川崎市の共同による公営住宅建設を中心とした市街地の再開発計画として構想されていた。県と市からの要望は、「一戸でもたくさんの住戸を作ること、しかも日照条件を十分確保すること、その上になおかつ大きな空地を生み出すということ」だったという[2]。集合団地では、各建物と各建物の間を距離を空けて建てないと日光が入らなくなってしまう。例えば日本住宅公団の建設する団地では、もっとも日が短くなる冬至の日に各住戸が4時間、日が当たるようにしなければいけない。そのために一定間隔で板状建物が同一方向に並ぶ景観が生まれることとなった。河原町団地の場合は、高密度な住宅環境を建てながらも、この日照条件をクリアし、かつ大きな空地を生み出すためのかたちとして、特徴的な逆Y字形が考え出されたのだった。大谷研究室で河原町団地のプロジェクトを担当した斎藤邦彦は、建築学者の大月敏雄らの座談会で、次のように述べている。

斎藤 行政の方に説明に行くとどうしても逆Y字の断面に強い拒否反応があって(略)しかしある徹夜明けの朝、新大久保の喫茶店でコーヒーを飲みながら紙ナプキンにガーっとスケッチを描いていたら、突然閃いたんです。この逆Y字は、県が要求する高密度な住棟を建てながらも、日照条件をクリアして質の良い居住環境を確保する究極の形態だ、と。下の階が階段状にせり出すことによって、1階の日照時間と5階の日照時間がほぼ一致するんです。ついに実施設計の前に立ちはだかっていた壁を突破する強力な武器を手にした!と直感し、興奮しました。[3]

大月 逆Y字そのものは大谷先生がいつかの段階でスケッチを描かれたんですよね?

斎藤 はい、マジックで、でっかく。当時は(略)吹き抜けを介して二つの住棟が並ぶ形態が注目されていたのですが、その下層部分を開いたら大きな空間を作れるよなぁって。

大月 いわゆる「ツーコリダー型住棟」の地上部分に広場をつくろうと。

斎藤 そうです。だから逆Y字の形態は大谷先生が生みの親ですけれども、実現に向けての生みの親は、極端にいえば全共闘なんです(笑)。[4]

 建物の形そのものは大谷の発想だったが、公共的なプロジェクトである以上、その形に機能的な意味を与えなければ行政からは承認を得られない。そこで、日照条件のクリアという実現のための必要性を逆Y字形に与えたのが斎藤だった、という。

 

建築に都市を内包する

 斎藤はこの座談会で、河原町団地を設計していた当時、ふたつの異なる設計思想が重層していた、と述べている。ひとつは大谷研究室内での議論で、中庭や広場といった要素を建築に組み込みながら、街へ建物を開いてゆく方法を模索していた。もうひとつは研究室の外、新大久保の全共闘のアジトでの議論で、建築を既存体制の硬直した状態とみなし、それを破壊する反体制的ものとして都市に期待する、というものだった。それを端的に示す表現として斎藤は、「建築に都市を内包する」というフレーズを述べている。

 一方で大谷は、植田実との対談のなかで、「建築に都市を内包する」というフレーズを次のように表現している。

〈共有の体験〉ということは、たぶんひとびとの行為とか、目的意識と無関係には成立しないでしょう。また、どのような目的や行為においても共有の体験が効果的に発生するとはいえないのですから、空間にどのような機能を想定するかは重要なポイントになるはずです。ただ次のようなことに注意する必要があると思うのだけれど、それは空間設定の目的を明確に規定すればするほど、そこでのひとびとの共有の体験は起こりにくくなるという現実があることです。それは、空間の目的が明確にされればされるほど、それに相応した確固とした所有・管理主体が出現すること。また、ひとびとは、そこでは合目的性、合理性の観点からのみ空間を認識する。(略)しかしぼくは、このことによって空間の目的化、合理性の追求を直ちに否定するものではない。問題は空間の合理性を追求しながら、しかも共有の体験を可能とするような空間が実現できるか、ということです。この課題については、金沢工業大や川崎の団地計画にあたって考えてきたことですけれど、それは、建築や都市の空間は、人間にとってどのような意味を持っているのか、ということに関連している。つまり空間には二つの意味があるということ。そのひととは、それぞれの時代に、ひとびとが大切だと考えたこと、必要だと思ったある目的を実現するための場であり装置として規定されている。そこでは、空間はすぐれて合理的なものであることを要求されています。他のひとつは、建築も都市も人間の全生活の環境としてあった、ひとびとが未だに明確には捉えていない、あるいはいま育ちつつある何ものかの存在を保障する環境として在った、ということです。[5]


現在ならば、多様性への注目、地域コミュニティの形成や再生、合理主義や機能主義への批判といった言葉で表現されるかもしれない。こういったものは何によって担保されるのか。大谷によれば、それは「空地(くうち)」である。

私が「他の何ものかのために留保する」という姿勢や考え方を重視するのは、現代では、それぞれがその時点で必要とし、価値があると評価したことの実現にのみ熱中する、という行動が空地を喰いつぶし、あるいは、町並み等の伝統的環境や文化を崩壊させる結果をつくり出していると考えるからである。
留保する、余地を残す、という考え方は、私たちには総てが見えているわけではない、ということの自覚を基底としている。そして、未知なるものへの恐れは、すべてを既知のもので覆い尽くすのではなく、未知なるもののためには何にかを留保し余地を残す、といった措置や判断を導く。[6]


いわばバッファをもたせることで、未来の可能性に期待する態度ともいえよう。逆Y形住棟では、1階から5階までが階段上にせり出した結果として内側に生まれる半屋外空間が、いわばこの「空地」にあたる。主旨説明では

一たび獲得されたこれらの空間は、単にアプローチの道具としてではなく、雨天の日の遊び場、あるいは夏の日の日陰のスペースなどとして、かつてなかった、魅力ある空地になる可能性をもっている[7]

 
と述べられている。


逆Y字により生まれた「空地」

 

 興味深いのは、この半屋外空間が広場であると明確に記されていない点である。斎藤の発言を引用すれば、「日照条件をクリアして必要な戸数を入れたら偶発的にこうした空間ができた。それをどう使うかは、住む人にお任せです」ということなのだ[8]。そのため、この空間は建築面積には含まれていないのだという。

 実際には夏祭りの際に、神輿が集まり、一種の祝祭空間としてこの場所は機能する。この場所を通して、住棟のそして団地全体のコミュニティが形成されるのだ。

 

おわりに

竣工から50年以上が過ぎて、河原町団地もまた、居住者の高齢化や日本語が不得意な居住者とのコミュニケーションという、日本社会が直面する問題と向き合っている。逆Y字型が生み出した空地は、現在、騒音などの問題から夏祭りといった特定の目的でしか使われなくなっているという。大谷が「空間の目的が明確にされればされるほど、それに相応した確固とした所有・管理主体が出現」したのだ、といえるかもしれない。

他の住棟では、鉄骨ブレースによる耐震補強がなされている

 

また落下事故を防ぐネットが張られている住棟もある

 その一方で、近年のブルータリズムへの注目や団地への注目といった点から、河原町団地は再評価を受け始めているといっても過言ではないだろう。分譲マンションと県営・市営住宅の併存は、河原町団地の独特なコミュニティを形成する。この空地が年配居住者の井戸端会議の場として使われ始めている、という記事をみつけた[9]。筆者が訪れたときはまだ冬の寒いときだったからか、屋外にいる人は少なかったが、暖かい季節になるとおそらく状況は変わってくるのだろう。高度経済成長期のデザインながら、半世紀以上の時間に耐えうるデザインの強度を感じることができる。

 当たり前のことだが、そこに「空地」がなければ井戸端会議はできない。設計者が空間の使い方を規定するのではなく、使用者が空間の使い方を規定することで、それが可能になったのだ。このようなユーザー指向の空間というのは、今の公共建築などでもしばしば見つけ出すことができる。河原町団地は、そのような発想が実現した初期の事例になるだろう。その意味で河原町団地は、現在でもコミュニティを形成するための空間をどう設計するのか、という挑戦が時間による審判を受け続けている、稀有な事例なのである。

 

主な参考文献

『現代日本建築家全集 大谷幸夫 大高正人』三一書房、1970年

大谷幸夫『建築家の原点』建築ジャーナル、2009年

大谷幸夫『空地の思想』北斗出版、1970年

 

 註

[1] 大谷研究室「川崎市河原町高層住宅団地基本計画」『建築』1969年10月号、28頁。

[2] 大谷研究室「川崎市河原町高層住宅団地基本計画」『建築』1969年10月号、28頁。

[3] 「座談 “都市の精神”を宿す団地」『住宅建築』2016年8月号、81頁。

[4] 「座談 “都市の精神”を宿す団地」『住宅建築』2016年8月号、81頁。

[5] 『現代日本建築家全集 大谷幸夫 大高正人』三一書房、1970年、87-89頁。

[6] 大谷幸夫『空地の思想』217-218頁。

[7] 大谷研究室「川崎市河原町高層住宅団地基本計画」『建築』1969年10月号、34頁。

[8] 「座談 “都市の精神”を宿す団地」『住宅建築』2016年8月号、82頁。

[9] https://machinote.net/report/824/

[10] 松村秀一『「住宅」という考え方』東京大学出版会、1999年、130頁。

[11] 朝日新聞1960年9月6日夕刊。原武史『団地の空間政治学』より引用。

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著者略歴

  1. 岸 佑

    1980年、仙台市生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士課程修了。博士(学術)。
    現在、東洋大学、青山学院大学などで非常勤講師を務める。専門は、日本近現代史、日本近現代建築思想。
    主な論文に「モダニティのなかの『日本的なもの』:建築学者岸田日出刀のモダニズム」『アジア文化研究 別冊20号』(国際基督教大学アジア文化研究所、2015年)など。共著に、矢内賢二編『明治、このフシギな時代3』(新典社、2018年)、高澤紀恵・山﨑鯛介編『建築家ヴォーリズの「夢」』(勉誠出版、2019年)、訳書にマーク・ウィグリー著坂牛卓他訳『白い壁、デザイナードレス』(鹿島出版会、2021年)などがある。

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