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軽刈田凡平の新しいインド音楽の世界 軽刈田凡平

ダンス天国、ゴア!

 

踊ってばかりの国のダンス天国

 ここまで書いてきた通り、現代のインドでは、メインストリームの映画音楽にヒップホップや最新のダンスポップが取り入れられ、より個性的な表現を追求したインディペンデント音楽も人気を集めている。「ずいぶんインドも変わったんだなあ」と感じるかもしれないが、インドには今も根強く保守的な部分が残っている。

 結婚を前提としない恋愛は、信仰や階層を問わず歓迎されないし、アルコールを飲むことを不道徳な行為だと考える人も多い(とくに女性に対しては風当たりが強い)。都市部の新興富裕層や海外での生活を経験した人のなかには、リベラルな欧米人と同じくらい自由な考え方をする人もいるが、社会全体が自由になったというよりも、むしろ価値観の分断が広がったようにも感じられる。

 そんなインドで、もっとも開放的な街はどこかと尋ねたら、おそらく多くの人から「ゴア」という答えが返ってくることだろう。

 美しいビーチ、南ヨーロッパのような街並み、アルコールや豚肉食にも寛容な食文化など、確かにゴアは、インドの他の地域とはまったく違う自由な空気のある街だ。

 私がゴアを訪れたのはもう25年も前になるが、道路脇に「パッソア」の大きな看板が掲げられていたのを見てびっくりしたのを覚えている。日本でもバーでしか見かけないようなフランス製のパッションフルーツのリキュールがインドで宣伝されているなんて、夢にも思わなかったからだ。

 その頃のゴアで目立っていたのは、アンジュナ・ビーチやバガトール・ビーチのレイヴ(野外トランスミュージック・パーティー)を目的にやって来た欧米人のバックパッカーたちだった。

 あれから四半世紀がたち、今のゴアは「インドの中の外国」を求めてやってくる、都市部のミドルクラスの若者たちであふれている。

 時代とともに客層が変わっても、この街にやってくる人々の、自由な空気の中で音楽を楽しみたいという気持ちに変わりはない。

 トランスのレイヴが下火になったゴアで2007年に始まった「サンバーン・フェスティバル」(Sunburn Festival)は、年々規模を拡大し、今では30万人ものオーディエンスを集めるアジア最大のEDMフェスになった。スクリレックスやDJスネイクといった世界的ビッグネームが出演するこのフェスにやって来るのは、ほとんどがインド国内の若者たちだ。

 ゴアは、外国人ヒッピーがアンダーグラウンドなパーティーに集う場所から、踊ることが大好きなインド人たちがガンガン踊り狂う「ダンス天国」へと変貌した。インドのなかでも独特の空気を持つこの街の音楽カルチャーは、いったいどのように形成されたのだろうか。話は大航海時代にまでさかのぼる。

 

インドのなかのヨーロッパ

 ゴアは、インドの西側の、アラビア海に面した海岸線のちょうど真ん中あたりに位置している。

 1498年、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが希望峰を越えてインド南西部(現ケーララ州)のカリカット(現コーリコード)に到達した。当時のポルトガルは、強力な海軍力を武器に、インドの香辛料の海洋貿易を独占することを目論んでいた。ポルトガルは支配体制が脆弱だったゴアに目をつけ、1510年に征服。以降、長い間アジア交易の拠点とした。

 宗教的な面では、ゴアはイエズス会によるアジアへのキリスト教布教の拠点でもあった。日本にキリスト教を伝えたのち、中国で死去したザビエルの遺体は、ゴアへと移され、今もこの街の教会に安置されている。ザビエルの死後しばらくの間、ミイラ化した遺体は信徒たちに公開されていたそうだが、17世紀に興奮したポルトガル人が遺体の足の指を噛みちぎるという事件が発生し、以降、厳重に管理されるようになったという。信仰心が暴走してミイラに噛み付くというのはよく分からないが、この街にはその頃から旅人を熱狂させる何かがあったのかもしれない。

 ポルトガルによるゴア支配は、1961年にインドに併合されるまで、450年にも及んだ。こうした歴史から、今でもゴアの人口の25%がカトリックを信仰しており、彼らの多くはポルトガル語のファミリーネームを持っている。カトリックの家に生まれたミュージシャンたちは、早くから西洋音楽に親しんでいたため、イギリス統治時代から、ムンバイやコルカタなどの都市でジャズバンドのメンバーとして活躍していた。ボリウッドがジャズやロックンロールなどの流行音楽を次々と導入することができたのも、ゴア出身のミュージシャンたちの力によるところが大きかった。

 ゴア出身の代表的なアーティストを一人挙げるとしたら、レモ・フェルナンデス(Remo Fernandes)だ。1953年生まれの彼は、7歳のときにビル・ヘイリーの「Rock Around the Clock」でロックンロールに夢中になり、14歳から曲を書き始めると、ゴアのコンテストで多くの賞を受賞した、早熟なミュージシャンだ。このエピソードからは、彼の天才ぶりとともに、当時のインドでゴアがいかに欧米のカルチャーに近かったかがうかがえる。

 ムンバイの大学に進んだ彼は、ビートグループ「サヴェージズ」のメンバーとして活動。卒業後は1977年から3年間ほどヨーロッパと北アフリカを放浪して回った。こんな旅ができたということは、彼の家がよほど裕福だったに違いないが、そもそも彼がゴア出身でなければ、こんなバックパッカー顔負けの旅をしようという発想自体、生まれなかっただろう。帰国後のレモは、ゴアに集まったヒッピーたちに向けて演奏するようになる。

 80年代には、英語のロックアルバムを何枚かリリースしたのち、1987年に『ビバリーヒルズ・コップ』のボリウッド版リメイク(パクリともいう)『Jalwa』で映画音楽にも進出。これまでに英語、ヒンディー語、ポルトガル語に加えて、ゴアの地元言語であるコンカニ語の楽曲もリリースしている。レモはドラッグ濫用を戒める「Pack That Smack」のような社会的なメッセージのある曲も歌っているが、どんな曲を歌っても、太陽のような明るさがあるのが彼の歌の特徴だ。レモはどこまでもゴアらしいシンガーなのである。

 この世代には珍しく、あくまでも自作の非映画音楽を中心とした活動を続けている彼は、現在のインドの音楽シーンを何十年も前から先取りしていたアーティストでもあった。

 

ヒッピー・トレイルの終着地

 ここまでに書いたのは、ゴアの「正史」というか、ゴア人の側から見たゴアの歴史とポピュラーミュージック史である。だが、視点を変えて、西洋中心のサブカルチャーから見たゴアは、まったく別の顔をもっている。ゴアのもう一つの顔は、「ヒッピーたちの楽園」だ。

 前回も書いた通り、1960年代にアメリカで生まれたヒッピー・ムーブメントは、インドに多大な影響を受けていた。多くのヒッピーたちがインドにやってきたが、彼らのほとんどは、ビートルズのようにアーシュラム(ヨガ教室)での修行をしに来たわけではなかった。ヒッピーたちがインドに求めていたのは、禁欲的な修行よりも、むしろ物価の安さと旅の気楽さによる、母国では味わえない自由だった。

 温暖で美しいビーチがあり、欧米の文化に親和性があるこの街は、彼らにとってこの上なく過ごしやすく、すぐにヒッピーたちの溜まり場となった。西洋とは異なるものを求めてインドに来たくせに、結局ヨーロッパっぽいリゾートに集まるのかよ、と言いたくなるが、ともかく、こうしてゴアはヒッピーたちの楽園になった。

 ヒッピー・ムーブメントはアメリカ発祥のカルチャーだが、ゴアに多かったのはヨーロッパのヒッピーたちだ。その理由のひとつは、当時ヨーロッパからインドまで陸路で行くことができたこと。ヨーロッパを出発してゴアに至るルートは、「ヒッピー・トレイル」と呼ばれ、安く長旅をしたいバックパッカーたちに親しまれていた(ヒッピー・トレイルの終着地をネパールのカトマンドゥとする説もある)。ヨーロッパからイランやアフガニスタンを経由して南アジアまで行けたというのは、今と比べてずいぶん平和な時代だったのだ。

 ゴアのビーチに集まったヒッピーたちは、その自由を最大限に謳歌すべく、好きな音楽をかけてパーティーに興じた。当初、彼らはサイケデリック・ロックやジャーマン・ロック、インダストリアル、民族音楽などをかけてパーティーに興じていたという。彼らはドラッグの高揚感や酩酊感を増幅してくれる音楽なら、ジャンルにこだわらずにプレイしていた。

 やがて、イギリスやドイツでアシッド・ハウスやテクノなどの新しいダンスミュージックが台頭すると、その影響はゴアのパーティーにも及ぶようになる。こうして、電子的なビートとサイケデリックな音色に、民族音楽的な音階やサンプリングが融合した「ゴア・トランス」と呼ばれるジャンルが誕生した。シカゴ・ハウスとか、デトロイト・テクノのように、都市の名を冠したダンスミュージックは数多くあるが、インドの街の名がつけられているのはゴア・トランスだけだろう。

 とはいえ、ゴア・トランスは、ゴアの地元の人々によって生み出されたのではなく、はるばるヨーロッパからやってきた旅行者たちによって作られた音楽だという点で、他の地名が付けられたジャンルとは大きく異なっていた。

 

ゴア・トランスの時代

 テクノの本場であるヨーロッパから遠く離れたインドで生まれたゴア・トランスには、独特の様式がある。DJをするために、ヨーロッパからインドまで大量のレコードを持ち運ぶのは大変だ。そのうえ、砂が舞うビーチに熱い日差しが降り注ぐ(レコードが溶けてしまう!)ゴアの環境は、レコードでDJをするにはまったく適していなかった。

 初期のゴアのパーティーで使われたのは、気軽に持ち運べて再生でき、音楽をシェアするのにも適したカセットテープだった。ゴア・トランスに効果音を使った長いイントロが多いのは、カセットテープやDATでDJをしていた時代に、テンポを合わせることなく曲を繋げるようにするためだったという。四つ打ちのビート、サイケデリックに歪み曲がったサウンド、そこにトライバルなパーカッションやヒンドゥーのマントラ(お経みたいなもの)などのエスニックな要素がミックスされたゴア・トランスは、古今東西の「トリップできる音」の融合でもあった。

 こんなふうに書くとなにやらすごい音楽のように聞こえるが、正直なところ、今の耳で当時の曲を聴くと、けっこう単調で退屈に感じられることだろう。スマホのサブスクリプション・アプリで再生したゴア・トランスを、ブルートゥース・イヤホンを通して聴いても、その本質は分からない。ゴア・トランスは、音だけで完結する音楽ではないからだ。

 携帯電話もSNSもない時代に、インドという異文化空間を旅してゴアにたどりつき(陸路でヒッピー・トレイルを越えてきたならなおさらだ)、楽園のように自由なビーチで、何らかのドラッグをキメながら、他のどこにもないダンスミュージックに合わせて踊る。その経験そのものが、ゴア・トランスを最高のトランス・ミュージックたらしめていた大きな要因なのだ。

 ゴアは世界中のパーティーフリークの間で話題になり、DJやアーティストが集まるようになった。ドイツのJörg、オーストラリアのRaja Ram、イギリスのHallucinogen、デンマークのKoxBox、日本のTsuyoshiなど、各国のアーティストたちがゴアのシーンを形成した。Astral ProjectionやOfolia、Space Catのようなイスラエル人アーティストが多いのもゴア・トランスの特徴だった。イスラエルの若者たちは、兵役を終えると自由を味わう旅に出るのが一般的で、ゴアは彼らに人気の旅行先でもあったのだ。

 ゴア・トランスのアーティストたちのなかには、60年代のジョージ・ハリスンのように「インドかぶれ」的な人たちもいた。ヒンドゥーの神話からその名を拝借したRaja Ramや、Shiva Space Technologyというレーベルを立ち上げたDJ Jörgはその代表格だ。2000年頃だったと思うが、Jörgがインタビューで「ハンピ(遺跡で知られる南インド内陸部の村)の山中でパーティーをしていたとき、近くの洞窟で何年間も瞑想していたサドゥー(ヒンドゥー行者)が出てきてDJブースを祝福してくれた」と語っていたのを読んだ記憶がある。ゴア・トランスが、西洋文化のオルタナティブであるインドの伝統と共鳴しているということを――あるいは、そうであってほしいという願望を、語っていたのだろう。

 さまざまな国から集まった人々たちによって、ゴア・トランスは世界中へと拡散した。日本でも90年代前半にはクラブでイベントが行われ、90年代後半にはキャンプ場などでレイヴが開かれるようになった。

 当時のレイヴシーンでは、単に野外で音楽を楽しむだけでなく、パーティーをオルタナティブな体験の場にすることが重視されていたように思う。日本のレイヴ主催者(オーガナイザー)のなかには、環境への配慮にこだわったり、海外の民族音楽のアーティストを出演させたり、南米のシャーマンを招聘してパーティーを開く人たちもいた。そこに集まるレイヴァーたちも自然やカルチャーへの敬意を持っていて、ゴミを拾って持ち帰ったりしていた。レイヴは、まさにヒッピーの理想を体現したような、ピースフルな雰囲気に満ちた場でもあったのだ。

 当時いくつかのレイヴに参加したことがあるが、自然の中で夜明けまで踊ったり、踊り疲れたら森林に反射する幻想的なミラーボールを眺めてチルアウトしたりという経験は、軽く人生観を変えるくらいのインパクトがあった。この文化が広まれば、世の中は今の何倍も素晴らしくなるのにと本気で思ったものだった。

 しかし、そんなピースフルなゴア・トランスの時代は、残念ながら長くは続かなかった。

 

レイヴ・カルチャー栄枯盛衰

 ゴア生まれのトランス・ミュージックが世界中に広がった頃には、「ゴア・トランス」ではなく「サイケデリック・トランス(サイトランス)」という呼び方が一般的になっていた。

 日本でもレイヴの魅力が広まるにつれて、アンダーグラウンドだったパーティーは商業主義に飲み込まれていった。オルタナティブな精神性は失われ、ドラッグやゴミの放置などの問題が報道されるようになると、レイヴはピースフルなイメージとは真逆の、反社会的なイベントという印象を持たれるようになる。こうした風潮はゴアを含めた海外でも同様で、薬物の蔓延や風紀の悪化が問題視されると、レイヴの開催は厳しく規制されるようになった。

 カルチャーとしてだけではなく、音楽的な面でも、トランスは新鮮さを失っていった。日々進化するダンスミュージックのなかで、極めて様式化されたスタイルを持つゴア・トランスは、陳腐化、形骸化してゆくのも早かったのだ。

 商業的になり、大衆化するにつれて、かつて深淵な精神性とサイケデリアを表現していたサウンドは、メッキが剥がれるようにその刺激と輝きを失っていった。民族音楽の導入やヒンドゥーの神々を用いたアートワークは、安っぽいエキゾチシズムだと感じられるようになった。サイケデリックに音を歪ませたアレンジは、手っ取り早く盛り上げるための陳腐で安易な音作りに聴こえるようになった。

 誤解のないように言っておくと、サイトランスは、他のあらゆる音楽ジャンルと同じように、今でも様式化したスタイルのなかで進化を続けている。だが、単なる音楽としての枠を超えたムーブメントとしてのトランスは、’00年代の早い段階で終わりを迎えたと言って良いだろう。今でもゴアにはトランスのシーンが存在しているが、そこは新しい何かが生まれる場所ではなく、60年代のサイケデリック・ロックのように、ヒッピー的なノスタルジーを懐かしむ場になってしまった。

 

ローカルから見たゴア・トランス

 ゴア・トランスが、ゴアの地名を冠していながらも、地元ではなく、外部から来た人たちによって作られたジャンルだということは、すでに書いた。では、地元の人々は、よそ者たちが持ち込んだこのカルチャーを、どのように見ていたのだろうか?

 「小さい頃、ヒッピーには絶対に近づくなって親に言われていたよ。彼らのことは大嫌いだ。臭いし、汚いし、ドラッグをやってめちゃくちゃなことをするし」

 ゴア出身のインド人に、レイヴ目当てにやってきたトラベラーたちの印象を尋ねたところ、こんな答えが返ってきた。彼は敬虔なカトリック信者で、祖父母とはポルトガル語、両親とは英語、地元の友達とはコンカニ語で話していたというエリートだ。

 この意見は、教養ある真面目なゴア人の一般的な感覚と言って良いだろう。欧米文化とは親和性が高いはずのクリスチャンでもこうした意見になるのだから、他のコミュニティの人々がヒッピーやレイヴァーたちをどう見ていたかは、推して知るべしだろう。

 旅人の側から見れば、宿のおじちゃんは優しいし、パーティー会場に行けば地元のおばちゃんがチャイを売っているし、トランスに興味を持ってDJの真似事を始める地元の若者もいる。自分たちは歓迎されている、少なくとも許容されていると感じていた人も多かったはずだ。

 しかし、不品行な旅人たちの流入につれて、ゴアではドラッグの売買が盛んになり、良からぬ連中が幅を利かすようになった。ゴアのドラッグの取引を取り仕切っていたのはロシアのマフィアで、警察とも繋がっていたという話を読んだことがある。まっとうな地元民からしたら、得体の知れない連中が地元の文化も法律も無視した大騒ぎを繰り広げた挙句に、外国のマフィアが違法薬物を売りさばいているとしたら、とても許容できる話ではないだろう。

 レイヴァーたちはドラッグを持ち込み、穏やかだった浜辺で法律もモラルも無視して夜通し騒ぎ、ヒンドゥーのイメージをサイケデリックの文脈に盗用した。レイヴ・カルチャーのルーツには、愛と平和を訴え、物質主義的な西洋文明に抗議を表明していたヒッピー・ムーブメントがあったにもかかわらず、実際のところ、彼らがゴアでしていたのは、自国でできない逸脱行為を発展途上国に求めるという、きわめて植民地主義的なものだった。欧米社会の既存の価値観に疑問を投げかけていたはずの彼らは、地元の人たちから見れば、先進国の経済力を背景に地域の治安を乱す侵略者だったのだ。

 欧米人や日本人の目線でゴア・トランスの歴史を振り返るとき、こうした話題はほとんど語られることがないが、そこに経済格差に基づく植民地主義的な側面があったということは、きちんと覚えておきたい。

 

パーティー・ピープルvs保守派の戦い(インド編)

 ゴアのトランスシーンが衰退していった頃、インドの新興富裕層の若者の目には、地元民たちとは違う光景が映っていた。これまでにも書いてきた通り、インド人は、とにかく踊ることが大好きだ。インターネットの普及とグローバル化の影響で世界中の音楽に触れられるようになった彼らが、メインストリームの映画音楽に飽き足らなくなり、新しいダンスミュージックに惹かれてゆくのは必然だった。

 彼らにとって、ゴアはインドのなかでとりわけ自由な空気があり、なにやら楽しげなパーティーも開かれている最先端のビーチリゾート。むりやり日本にたとえれば、ものすごくオシャレな湘南か沖縄みたいな感じだろうか。相応の可処分所得と、自由な価値観を持つ彼らが、ゴアを放っておくはずがなかった。

 2007年、インド人プロモーターによるダンスミュージックの祭典「サンバーン・フェスティバル」が初めて開催され、5,000人の若者たちがビーチの夜空の下で踊る楽しみを知る。以降、サンバーンは年々その規模を拡大し、今では30万人が集うアジア最大のEDMフェスティバルへと成長した。動画を見ると、巨大なステージ・セットやド派手な特殊効果は欧米の大規模フェス同様の迫力だが、それよりも印象的なのは、心底楽しそうに踊り続けるインドの若者たちの姿だ。酩酊状態でゾンビのように踊るトランスの観客たちとは違い、エネルギーに満ちあふれたインドの観客たちの姿からは、自国に生まれた新しいカルチャーを満喫する喜びが伝わってくる。

 こうしてゴアは、約500年の時を経てインド人たちの手に戻り、彼らはこの自由な街の夜を踊り明かして祝福したのだった。めでたし、めでたし……とならないところが、インドの厄介なところでもあり、面白いところでもある。

 インドの大手メディア「タイムス・オブ・インディア」の電子版は、2019年12月8日、こんなニュースを伝えている。

 「トランスは悪魔の音楽、禁止すべき。ゴアの元大臣が語る」

 記事によると、州議会議員で元大臣のヴィノード・パリエンカル氏は、「トランス・ミュージックは、ヒンドゥー神話における神々と悪魔の戦争で、悪魔が演奏した音楽である」という理由で、サンバーン・フェスティバルの開催禁止を要求したとのこと。サンバーンはトランスよりもEDMがメインのフェスティバルだが、年寄りや政治家が若者のカルチャーに無頓着なのは、どこの国でも同じだ。

 パリエンカル氏は、かつてのレイヴのメッカで、今もトランスが根強い人気を持つアンジュナ・ビーチやバガトール・ビーチを含む選挙区から選出された議員だ。彼によると、神話上の「乳海攪拌」の時代に、神々が悪魔に敗北した際にトランスが演奏されていたと聖典に記されているそうで、「未来の世代を守りたいのであれば、神々が創造した音楽を演奏すべきだ」と主張しているという。

 若者が熱狂する音楽を「悪魔の音楽」と批判するというのは、1950年代のロックンロールの時代から繰り返されたずいぶんと古典的な言いがかりだ。「乳海攪拌」とは、「神と悪魔が戦ったのちに、力を合わせてミルクの海を攪拌すると、そこから天地のあらゆる存在が湧き出してきた」という神話上の物語のこと。単なる若者文化への批判が、神話レベルの壮大な話になってしまうところがなんともインドらしい。あまりにも荒唐無稽な主張に開いた口が塞がらないが、政治家がこういう発言をしたということは、それを支持する人がそれなりに存在するということでもあるはずだ。

 この批判はヒンドゥーの宗教観によるものだが、保守的なヒンドゥー教徒だけでなく、カトリックのコミュニティからも、サンバーン・フェスティバルは批判されている。一年でもっとも大事なクリスマスの時期は教会や家庭で静かに過ごすべきで、酒やドラッグで乱痴気騒ぎをするなどもってのほか、というわけだ。保守的なムスリムたちも、肌を露出した男女がともに踊ることなど認めないだろうから、サンバーンへの批判に関しては、なにかと対立や弾圧が報じられがちな諸宗教の保守派の意見が、珍しく一致しているようだ。

 フェスに集まった若者たちは、宗教やコミュニティに関係なく踊って楽しむ共同体を形成しているわけだが、それに反対する保守派の人々も、それぞれが信仰や伝統に基づいて、同じように彼らを批判しているのだ。彼らが一致団結して、サンバーンに対抗してさまざまな宗教の伝統音楽を奏でるフェスでも開いてくれたら面白いと思うのだけど、そんなことを考えるのは私が無責任で無関係なよそ者だからだろう。

 穏やかに暮らしたい地元の人たちからしてみれば、外国人だろうがインド人だろうが、よそ者たちが自分の街にやってきて、法律やモラルを破ってバカ騒ぎをしているのは我慢がならないというのは理解できる。

 我々の人生を祝福するためにビートの効いた音楽に合わせて野外で踊りまくる、なんてことは有史以来人類が続けてきたことだろうから、大いにやったらいいと思うが、よその土地でやるんだったら、地元の人たちや文化への十分なリスペクトを忘れずにいたいものだ。

 

独自に進化したインドのEDM

 ここで、ゴアから少し離れて、インドのEDM全体を見渡してみたい。

 2010年代以降、きらびやかでキャッチーなEDMは、トランスやテクノに変わって世界のダンスミュージックのメインストリームに躍り出た。インドからも、踊るだけでは飽き足らず、国境を超えて活躍するアーティストが現れている。

 2010年にオランダの人気DJティエストのレーベルBlack Hole Recordingsから「Flight 447」をリリースしたロスト・ストーリーズ(Lost Stories)は、ムンバイ出身の二人組。2015年から数年間にわたって世界最大級のEDMフェスティバルであるベルギーの「Tomorrowland」に出演するなど、海外でも高い評価を得ている。

 デリー近郊の新興都市グルガオン出身のゼーデン(Zaeden)も、オランダの名門レーベルSpinnin Recordsと契約し、Tomorrowlandへの出演を果たした。面白いのは、最初のうちは「ビッグルーム(EDMのなかでもポップで起伏のあるアレンジを特徴とするサブジャンル)」的なアプローチをしていた彼らが、ある時期からインド的なメロディーを取り入れるようになり、活動の場を国内中心に移したということだ。

 ロスト・ストーリーズやゼーデン、「耳で味わうインド料理」の回で紹介したリトヴィズ(Ritviz)が作っているようなインドっぽいテイストのEDMのことを、私は「インド風EDM」を略して「印DM」と勝手に呼んでいる。

 彼らのスタイルの変遷は、インド国内のEDMリスナーが、このジャンルを舶来の音楽ではなく、自分たちのものにしたことを意味している。欧米の真似をするよりも、より自分たちらしいサウンドのほうがいいと思うようになったのだ。リトヴィズは子どもの頃にヒンドゥスターニー音楽を学んでおり、ゼーデンはタブラを習っていたというから、彼らの印DMは決して付け焼き刃ではない。ダンスミュージックにおいても、新しい流行と伝統を分け隔てなく融合できる彼らのセンスは、ようやく民謡をダンスミュージックのいちジャンルとして認め始めた日本人の何十年も先を進んでいるのかもしれない。

 印DMシーンの発展の勢いは凄まじい。ベース・ミュージックやトラップ寄りのスー・リアル(Su Real)や「マラーティー語のハウス」を意味する「Mハウス」というジャンル名を自称するクラテックス(Kratex)、ミニマル・テクノに古典声楽をミックスしたブルー・アティック(Blu Attic)など、インドでは我々が知らないところで、デジタルと伝統を融合した新しいスタイルが次々と生まれている。

 かつてゴア・トランスでは、ヒンドゥーの宗教歌をミステリアスな雰囲気作りの一要素として取り入れていたが、今では「ガチでヒンドゥーの神を讃えるエレクトロニック音楽」を作っているインドのDJ/アーティストも多い。シヴァ神のダンスが宇宙の破壊と創造を表しているように、彼らにとって宗教的な恍惚と踊ることの距離は、さほど遠くないものなのだろう。

 北インドの後進地域には、ハードコア・テクノのような激しく攻撃的なビートに、神々への賛美と排外主義を乗せた「バクティ・バイブレーション」という宗教ナショナリズム的なジャンルまであるという。いっぽうで、同じような激しいビートにスーフィズム(イスラーム神秘主義と訳される神との一体感を求める思想)の歌やAK-47の銃声をミックスした「ミヤ・バイ・エレクトロニカ」というイスラームのダンスミュージックもインドには存在しているらしい。

 どちらもメジャーなジャンルではなく、ごく局地的な流行のようだが、音楽が人々をつなげるのではなく、分断を煽るために使われているという事実に、現代インドの暗い側面を感じさせられる。

 

トランスやEDMだけじゃないゴア

 話をゴアに戻そう。ゴアはトランスやEDMばかりの街ではない。

 2014年と2015年には、日本からも少年ナイフが出演したオルタナティブ・ロック系の「ヴァンズ・ニューウェーブ・ミュージックフェスト」(Vans New Wave Musicfest)が開かれ、今ではジャズ系のゴア・インターナショナル・ジャズ・ライブ・フェスティバル(GIJLF)や、南アジア最大のレゲエ・フェスティバルである「ゴア・サンスプラッシュ」(Goa Sunsplash)など、多様なジャンルのフェスが開催されている。国内観光客が増えてきた近年では、サブカルチャー的なジャンルではなく、ボリウッドなどのメインストリーム音楽で踊れる店も増えてきているようだ。

 ゴアを拠点に活動するミュージシャンも多い。環境活動家でもあるディティ(Ditty)や、ポップな英語ラップで人気を集める新進ラッパーのツムヨキ(Tsumyoki)、ロックやレゲエや電子音楽を融合したメレク(Merak)らがその代表格で、ジャンルはさまざまだが、いずれもどこか自由な雰囲気があるのが、ゴアらしいような気がする。大都市の慌ただしさや大気汚染から逃れて、この街に移り住んでくるアーティストも多いようだ。

 コルカタでタブラを学んで博士号を取得し、DJ/プロデューサーとしても作品をリリースしているNoriko Shaktiも、ゴアを拠点に活動する一人だ。ドラムンベースとタブラを融合した印DMや、和の要素を取り入れた電子音楽を作っている彼女もまた、ジャンルや国境を軽々と飛び越える、ゴアらしさを兼ね備えたアーティストだ。彼女いわく、ゴアには大都市と比べて物理的、心理的スペースが確保されていて、自然が身近にあるのが魅力なのだという。都市部とも観光地ともちがう独特の文化や空気感が、個性と才能があるアーティストを惹きつける理由なのだろう。

 ゴア・トランスや大規模フェスの刺激的なイメージは、この街のごく一面にしか過ぎない。

 この街には、フェニというカシューアップル(カシューナッツのまわりの果肉)から作られる、ここでしか飲めないおいしいお酒もある。リムカ(レモンとライム風味の炭酸飲料)で割ったフェニを飲みながら、ローカルのミュージシャンたちの演奏に耳を傾けるのも、ゴアらしい音楽の楽しみ方と言えそうだ。

 

YouTube再生リスト

本記事に関連する音楽(動画)を著者セレクトでYouTubeの再生リストにまとめました。ぜひ記事と一緒にお楽しみください!

ゴア・トランス〜いろんなタイプの「印DM」」再生リスト

ゴア出身のミュージシャンとゴアゆかりの音楽」再生リスト

 

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著者略歴

  1. 軽刈田凡平

    1978年生まれ、東京都在住。インド音楽ライター。
    学生時代に訪れたインドのバイタリティと面白さに惹かれ、興味を持つ。
    時は流れ2010年代後半、インドでヒップホップ、ロック、電子音楽などのインディペンデント音楽のシーンが急速に発展していることを発見。他のどの国とも違うインドならではの個性的でクールな表現がたくさん生まれていることに衝撃を受け、ブログを通して紹介を始める。
    これまでに、雑誌『TRANSIT』『STUDIO VOICE』『GINZA』などに寄稿、TBSラジオ、J-WAVE、InterFM、福井テレビなどに出演しインドの音楽を紹介している。
    また、インド料理店やライブハウスでインドの音楽に関するトークイベントを行ったり、新聞にインド関連書籍の書評を書いたりするするなどマルチに活躍中。
    国立民族学博物館共同研究員。『季刊民族学』192号(2025年春号)にて、ムンバイのヒップホップシーンを取材して執筆している。
    辛いものが苦手。

    著書(共著)『辺境のラッパーたち 立ち上がる「声の民族誌」』(青土社、島村一平[編])

    ブログ(アッチャー・インディア) https://achhaindia.blog.jp/


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