父は娘を殴ってはいけない、性的存在として見てはならない
単行本になりました
2018年をセクハラ元年と位置付けることができるだろうと前回述べたが、正式にはセクハラ30年と呼ぶべきだというご意見が読者から寄せられた。たしかに1989年の流行語大賞を獲得したのが幕開けだったと思う。それらは女性団体「三多摩の会」などや弁護士や研究者など、いわゆる専門家によって先鞭をつけられた。しかし、30年後の#MeToo運動は、被害当事者からの告発や発言が原動力となったことが決定的に異なる点だ。それに刺激されたのか『現代思想』(2018年7月号、青土社)が「性暴力=セクハラ――フェミニズムとMeToo」特集を組み、『アディクションと家族』(日本嗜癖行動学会誌 第33巻2号)が「性暴力――被害と加害をめぐって」を特集している。
異なると書いたが、正確ではない。あらゆる女性運動は、専門家であろうとなかろうと、女性という当事者性から出発している。弁護士や研究者、公務員である女性たちがどれほど苦労してきたか、それをジェンダー差別と呼べるまでにどれほどの障壁があったか。その共感がフェミニズムの基本を支え、女性団体の運動を牽引してきたのだ。
分断統治
#MeToo運動の特徴は、被害の中でももっとも語りにくかった性被害について、具体的な経験を語り「性暴力被害者」であるとカムアウトしたことにある。これがどれほど勇気の要る行為かは、男性の性被害者のカムアウトが希少であることを考えればよくわかる。あらゆる運動は「数」が大切だ。MeTooという言葉とともに次々名乗りを上げる人たちが増えていくことで、海を越えて日本にもそれが伝わってきた。
ポリティクス(政治学)において、それが如実にあらわれるのが示威行為(デモ)である。多くの人たちが反対運動に集えば、その可視化された巨大さは為政者を恐怖に陥れる。それは原始的な恐怖である。高いところに上ると下界がよく見える。高所に上れるのは少数しかいない。そこから見えるのは下界のはるかに大勢の人々である。それは支配欲の満足をもたらすと同時に、支配対象が牙をむいて反撃することへの潜在的恐怖をもたらす。だから支配者は必ず対象を細分化して互いに競わせる。家族内のいざこざを嫁姑問題として女同士のたたかいに矮小化するのもそのひとつだ。この「分断統治」を見抜き、少数者や支配される側は数でまとまらなければならないのである。
彼らのイノセントな姿
DVもそうだが、防止法が成立したからといって、多くの人々(特に男性)の結婚や夫婦・家族についての常識が大きく変わるわけではない。2001年にDV防止法ができてから毎年、DV防止月間と定められている11月には、全国津々浦々の男女共同参画センターの講演に呼ばれて話をしてきた。その年月をふり返っても、残念ながら男性の妻に対する考え方は大きく変わったわけではない。女性だって、モラハラに敏感になったとはいえ、「経済力がないから別れられません」と語るし、「大きな息子って思えば平気ですよ」と強がる姿は80年代から変わっていない。日本のトップエリートである男性たちが、古色蒼然とした女性差別的な言葉を、「何が悪いの」とばかりに語るイノセントな姿には、怒りというより「またか」という無力感しかない。
しかし法律ができることで、時間はかかるが少しずつ現実が変わっていくことも事実だ。昨年の110年ぶりになる性犯罪に関する法律改正(性犯罪に関する「刑法の一部を改正する法律」の制定)は、不十分ではあるもののレイプや近親姦をめぐる現実を少しずつ変えるだろう。犯罪化されることが最も確実な抑止力になることは、残念ながら事実である。DVは暴力であり犯罪であるというキャンペーンは、身体的DVの減少につながってきた。男性の側に、パートナーを殴ったらヤバイという意識が生まれたからだろう。被害届を出されたら警察に留置されるという事実が、彼らを抑止させたのである。
あらゆる女性はフェミニストである
性的アイデンティティは人の自我意識の中核をなすと言われている。LGBTをはじめとする性的少数者の抱える困難さは、このアイデンティティが世の中に位置づけられていないこととつながっている。このようなジェンダー(社会的につくられた性別)にまつわる困難さを自覚した大先輩が、フェミニストである。女性であることは男性より劣った性であり、男性の性的対象でしかないと気づかされる瞬間は、女性なら誰にでもあるのではないか。それは「当たり前」の世界が崩れるような感覚を伴う。フェミニズムも、さまざまな系譜に分化しつつあるが、シンプルな原点はそこにあると思う。こうしてあらゆる女性はフェミニストになるのだ。
個人的なことを書けば、祖父も父も私に対して性的対象としてのまなざしを感じさせたことはなかった。1979年、90歳で亡くなった祖父は、頭のいい女性(平塚らいてふや柳原白蓮など)を崇拝しており、自己主張的で聡明な女性がタイプだった。教師だった祖父が教え子でピカ一の秀才・美人の祖母を見初めたのは当然だったろう。明治生まれとしては超変わり者だったと思う。
祖母は今でいう優秀なビジネスウーマンタイプで、孫から見ても頭の回転が速かった。教育ママでもあり、二人の息子たちは軍人と医者にすると決めてそれを実現した。長男だった父は、アニメ『この世界の片隅に』にも一瞬だけ姿が登場する航空母艦隼鷹[じゅんよう]に搭乗して、米軍の艦砲射撃で頭部に被弾した海軍将校だった。大日本帝国海軍至上主義だったが、思想的背景は脆弱であり、むしろ成功者たれという資本主義的精神の体現者だった。一時意識不明になる重傷だったが命拾いをし、婚約者だった母と結婚をして私が誕生した。
父は長女である私に、一切女性的役割を期待しなかった。教育パパとしてひたすら成績向上だけを願い、教育投資を惜しまなかった。おまけに「鶏口となるも牛後となるなかれ」と言って聞かせたのだった。1960年代半ばに、娘を東京の女子大学に進学させることは、私の故郷の岐阜では稀なことだった。
女子大学に進学したのも幸いし、ちょっと鈍かっただけかもしれないが、いわゆる女性差別的言動を受けることなく卒業したのだが、実は私が女性であることを初めて突きつけられたのは、同性である母からの一言だった。
卒業後に哲学から専攻を変えたいという要求に、父や祖父は文句なしに賛成した。ところが母は、二人きりになった際にぽつりと「女なんだから」と告げたのである。その瞬間、自分の足元が崩れていくような感覚に襲われた。ガラガラと地面が割れる音さえ聞こえたのである。その瞬間は何も言い返せなかったのだが、同じ女性である母からの言葉ゆえに二重のショックだったと後で気づいた。
研究生の申し込みのために訪れた名古屋大学の構内を歩きながら、私は残る人生を、女性である口惜しさだけをバネにして生きていける! とさえ思った。芽ぶいたばかりのあの日の、銀杏並木の光景を今でも思い出す。母に言われたあのひとことが、私をフェミニストにさせたのだ。
背後で父に守られる
その後カウンセラーとして仕事をするようになり、数えきれないほどの女性たちから、父や夫からの暴力被害を聞かされることになった。同業者の中に、自分の経験を語る人も多いが、これまで私は個人的経験を語ることを禁じてきた。隠すという意識はなかったが、クライエントである人たちから「私たちとは違うんですね」と思われることを避けたかったのかもしれない。父も祖父も酒をたしなむけれど依存症でもなく、酔い方は決して乱れなかった。だから仕事でアルコール依存症の人たちにかかわるようになって、これまで知らなかった世界を知ることができた。
父と祖父はしょっちゅう口論していた。意見の相違は明確だったが、怒鳴ったり殴ったりはなかった。記憶にある家族の光景は、全員が自分の意見を主張し合う騒々しいものである。DVにかかわるようになって、言い合うことや口論と、怒鳴って封殺することは違うのだと学んだ。そして父から一度も暴力を振るわれなかったことが、どれほどありがたいことかと思った。
何より重要だと思ったのは、父と祖父が私という娘(孫)に対して「女のくせに」「女は」といった性差別的態度を一切見せなかったこと、そして「性的存在」として扱わなかったことである。性差別と性虐待は表裏一体となっている。
父や祖父の視線に性的なものを感じたことがなかったことに気づいたのも、カウンセラーとして性虐待被害の経験者に数多く会うようになってからだ。
子どもは、父親(祖父)のまなざしに性的なもの(関心・欲望)を鋭く看取する。おそらくそれは自分という非力な存在を守るために与えられたセンサーだろう。これも私は経験してこなかった。原家族は、子育てにおける「性的」禁忌を共有していたのだと思う。
古稀を過ぎて思い返せば、思春期以降の私は、ずっと父(時には祖父)の期待と評価に支えられてきたのである。優秀で利発な女性こそがすばらしいという価値観においては、父も祖父も一致しており、二人が私の人生を後押ししてくれたのだ。温厚だった文人の祖父も、企業の経営者として成功したかった父も、きわめて現世的な人物だったが、私が男性と対面するときのバックボーンはふたりから守られてきたという感覚だった。性的存在としてでなく、人間として正当に評価された経験は、基本的自信につながったと信じたい。
子どもへの暴力と性的まなざし
だからこそ、娘を父親は絶対に殴ってはいけない、と思う。社会的地位があるのにひどく娘を殴る父親がいる。その娘も高学歴で親と同じエリートコースをたどっているが、まったく自信がなかったりする。
異性の親からの暴力は、娘にとって基本的な自信を根幹からばっさり切り倒されるに等しい。成長してから、殴られた経験について「あんなことなんでもない」と過小評価しようとするのも彼女たちに共通している。親とも思いたくないあんな父親から、決定的影響を受けたことを認めたくないのだ。
また、「性的まなざし」も論外だ。まだゼロ歳の娘に対して、「おっぱいピンピン」と言いながら突っつく父親を、笑い話にしてはいけない。ネット上の「お父さんにどうしても言いたいこと」と題したコラムで、「高校生の娘から『パパからのボディータッチやめてください!』と言われた~笑」と書いている男性がいた。その娘がどれほどいやか、どれほど逡巡して、笑い話に変換しながら抗議しているかを思うと、暗澹たる気分になる。性的傷つきは大まじめに主張してはいけないと思われている。いつも、笑いのネタとしてしか表現できないのだ。
何故いやかを解説しなければならないのだろうか。父親は親愛の情を示すのに、すでに性的成熟を遂げている娘の身体に触らなければならないのか。
娘、時には息子に対して、家族は無性化しなければならない。笑いによって誤魔化されてきたが、それらは子どもにとって一方的に侵入されることである。自分の身体が親によって勝手に侵襲されてしまうという感覚。それでも抵抗できず笑わなければならないのだ。父親は好き放題しているだけなので性的侵襲の自覚などない。自分が使ったコップで娘に水をわざと飲ませてニヤニヤ笑う父に、どう説得したらいいのだろう。
本年2月4日に父が亡くなった。満96歳が目前だった。あまり個人的なことは書かないようにしてきたのだが、父のことを思い出すたび、性と暴力の問題から私を守ってくれたことへの感謝の念が湧いてくる。斎場で棺の中の父を見つめながら、最後の言葉をこう告げた。
「おとうさん、ありがとう」