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疫病論 西谷修

ヒポクラテスとアスクレピオス

巡業医

ヒポクラテスは西洋医学の祖として知られている。そう言われるのは、ギリシア世界でヒポクラテスが初めて〈医〉に関するまとまった書き物を残したからだ。今日に伝わる「ヒポクラテス文典」である。

ヒポクラテスの最も古い伝記はエフェソスの医者ソラノスによるもの(2世紀)で、生れは「第80オリンピア期第1年」(7月始まり、前460-前459年にまたがる)で、90歳ないし104歳まで生きたとされている(この生年を記したのは当時のギリシアおよびその影響圏では、後にローマ皇帝暦やキリスト暦が作られるまで、このオリンピア暦で時が測られていたということに留意しておきたいからだ)。生れたのはエーゲ海東岸(現在のトルコ)のコス島で、ここにはアスクレピオスを始祖とする医師団が神殿を構えて代々医業を継いでいた。隣接するクニドスにも医師団がいた。その医師団を神官医師と見るか医師組合と見るかは見解が分かれるが、ヒポクラテスはその医師団の長の子として生まれた。修行もかねて実地治療を施すために巡業する医師だったようだが、コス島を拠点に医業を教え後進を育てた。それが当時の医業の継承の仕方だったからだ。そして旅先のテッサリアで没したと伝えられる。

 

書かれた知

ヒポクラテスはヘロドトスに少し遅れるが、ソクラテスやトゥキディデスとほぼ同年代である。プラトンの『プロタゴラス』と『パイドロス』にも言及がある。デモクリトスは友人で、この原子論者を「笑う人」と呼んだのはヒポクラテスだという(ディオゲネス・ラエルティウス)。この同時代人たちは、アテネの疫病期に交錯する(前430年- )。ペルシアを撃退して、アテネは繁栄の盛期を迎えたが、やがてスパルタと対立し、ギリシアは内戦期に入る(ペロポネス戦争)。その初期、陸戦に強いスパルタに対し、海戦の機をうかがうアテネは籠城策をとったが、そのアテネを疫病(ペスト)が襲ったのだ。このときアテネの全盛期を支えた指導者ペリクレスも病に倒れている。トゥキディデスはこのことを『戦記』に書き残したが(巻2、35-46)、たまたまアテネに滞在していたヒポクラテスは、街を襲ったこの疫病を収めるのに功があったとして、アテネの名誉市民に列されている(それだけでなく、アクロポリスの脇にアスクレピオス神殿が建てられた)。

このことにふれるのは、単に年代の目安としてではない。むしろ強調したいのは、この医師が生きたのがいわゆるギリシア文化が花開いた時代で、とりわけ、ギリシア世界に〈書く〉ということを通した新しい〈知〉の形成が始まった頃だったということだ。ソクラテスはアゴラで人びとと対話し、いわゆる産婆術で共有される〈知〉を生み出していた。けれども、そのような〈知〉は伝承されるしかない。それをプラトンが書き記すことで、「原典」化し、参照や検証や継承を可能にしたのである。最初に『ヒストリアイ』を書いたのはヘロドトスだが、書かれたものは書いた当人の死を超えて残り、人びとに共有されるべき〈知〉を、永続する次元に導いたのである。それによって他でもない歴史(ヒストリア)の意識も可能になる。そして〈知〉は、記憶・伝承から典拠・蓄積・改良の時代に入ったのである。

つまり、この時代に〈書く〉ことが一般化し一気に広がった。ヒポクラテスはそんな時代のなかで初めて〈医〉について書き、書いたものを教えのなかに生かした。そのことに照らしてみるなら、ヒポクラテスは「医学の祖」なのではなく、長く続く〈医〉の営みにおけるそのような転換期を画した人物だといえる。

 

時空の旅

ギリシアはやがてマケドニアのアレキサンドロスの支配圏に呑み込まれ(前330年代)、その死後、帝国が分裂してエジプトにはプトレマイオス朝が興ると、首都アレキサンドリアが発展してヘレニズム文化の中心地になる。そこに学堂(ムセイオン)と数十万冊を擁するという名高い図書館が作られた。コス島の医師団に引き継がれていたヒポクラテス関連の文書もそこに収蔵された。ヒポクラテスの文書が中心だが、その後に書かれたものや、傾向の違うクニドス派のものと見られる文書も多少混じっている。それが後まで伝えられる『ヒポクラテス文典』である。

だが、その図書館はローマの拡大のもと、カエサルとポンペイウスの戦いの最中に戦火を浴びて痛手を被り、その後は街の衰退とともに役割を失ってゆく。ヒポクラテス文典の行方も定かでなくなり、その後のローマ帝国のキリスト教化を経て、この地域での「典拠」としての地位を失うと、時の砂に吸い込まれるようにしてキリスト教世界からは消えてしまった。2世紀にはペルガモンから、ヒポクラテスの時代から大きく医学を刷新したと評価されるガレノスが出るが、そのガレノスの著作さえ形骸のようにしてしか残らない。それ以後、そこには「医学を必要としない千年」が横たわることになる(これは後述)。

『文典』の運命は哲学などギリシア系の文物と共通しているが、ヘレニズムの開いた経路から後のアラブ・イスラーム世界に引き継がれ、そこで独自の発展をみることになる。それが、千年近くの時を経て、地中海を通して西側に逆輸入されるようになるのである。西洋でアヴィセンナの名で知られたブハラ(現ウズベキスタン)生まれのイブン・スィーナー(980-1037)はイスラーム世界最高の学者で医者だったとされるし、イスラーム王朝下のコルドバ(スペイン)で活躍した哲学者で法学者かつ医者のアヴェロエス(イブン・ルシュド、1126-1198)は、その東西交流を文字どおり体現する人物だった。アリストテレスの文献をアラビア語からラテン語に翻訳してピレネー山脈を越えてヨーロッパにもたらし、中世神学の興隆を引き起こすきっかけとなったのも、主要語に通じたこのイスラーム学者だった。

ヒポクラテスはガレノスの書とともにアラビア医学の典拠となっていたが、こうして里帰りして、イタリアのサレルノに医学校ができる11世紀頃、そこでラテン語に翻訳され、やがて各地に作られる医学校で教科書に使われるようになる(ちなみに、その頃からできはじめる大学の軸は神学・法学・医学だった)。その教説の内容はすぐに時代遅れになってしまうが、とりわけ「ヒポクラテスの誓い」として知られる「誓詞」は、世俗化に向かう西側世界で、医師の職業倫理を示すものとして医学校の門口に掲げられるようになる。「誓詞」はヒポクラテスより後代に書かれたとされているが、それでもその精神を引き継ぐ医師団に共有されていたものだった。

 

ヒポクラテスの教え

さて、一応『文典』に残されたヒポクラテス「医学」の概要を見ておこう。岩波文庫版が選んでいるのは「空気、水、場所について」、「神聖病について」、「古い医術について」、「技術について」、「人間の自然性について」、「流行病(感染症)、一」、「流行病、二」、「医師の心得」、「誓い」の9編だが、その他にも、養生法や予後、頭部のけが、骨折、脱臼治療、その他の疾病、婦人病、生殖・出産関係、食餌療法、等々についての記述がある。

そこから読み取れるヒポクラテスの考えの特徴は次のようなものだ。

・病いを自然現象とみなし、風土等の環境条件が人の体質気質に影響を及ぼしているとみて、その不調から病気が生じると考える。

・病気も識別するが、なにより病人の病状を細かく観察し、既存の知識と照らして容態を把握、その経過を予知しようとする(病気の識別により注力するのはクニドス派)。

・説明体系を立てる。粘液や胆汁などのいわゆる体液によって発病のメカニズムを説明しようとする(四体液説)。

・治療法としては、病人の自然の回復力を重視し、食餌法・養生法などを主にする。

・骨折や脱臼などの負傷に対して包帯のしかたや整復のための補助器具を工夫する。

・医師の職業と特別の立場を自覚し、その心得を強く説く。

もちろん、ヒポクラテスは医の開祖ではなく、それ以前から伝統はあった。比較的知られているのはピタゴラス教団で、ピタゴラス自身も医師だったと伝えられる。また、エーゲ海東岸のイオニア地方からは「自然哲学者」たちが生れている。ソクラテス以前の、自然の原理を究明して世界を説明しようとした知者たちだ。その教説は、後の人びとの言及や引用として書き留められ、後代に伝わっているが、ヒポクラテスの理解はそうした伝統と無縁ではない。とりわけ共通するのは、古代ギリシアの世界観のベースになっていたピュシス(自然)の考え方である。生きとし生けるものはみなそのピュシスの内にある。ただ、ヒポクラテスにとっては、それは物体でもなければ抽象原理でもなく、実際に生きている人びとを包摂し、生かしている環界そのものである。それは人間にとっては気候・風土・環境・生きる力等として現れる。そして人間の内には、体液の配合があり、その調和が崩れると人は病気になるのだが、その病気が治るのは、基本的には病む者の自然治癒力によるといった考えである。その力がなければ、病いを克服することはできない。ということは、医師の務めとはその治癒力を高め回復させることにある。つまり、医術とは、病者を扶助してみずから回復することを助ける術なのだ。

そこには、病者の身体に介入して病原を駆除するといったいわゆる積極医療の発想はない(けがの治療は別だが)。そのため、近代に再発見されてからも、病者よりも、病気の身体を扱い、積極的に治療してゆく近代医学の趨勢のなかで、ヒポクラテスの「医学」そのものはすぐに置き去りにされてゆく。解剖学的知見に乏しかったし(これはガレノスに功があった)、症状の観察と記述に長けてはいたが(カルテはそこから生まれる)、病気の同定にはそれほどこだわっていない(ただし、その詳細な病状記述から何の病気かを今からでもかなり特定できる)。何より、近代から見れば治療の姿勢が消極的だったのだ。

四体液から病気を理解しようとしたのも、身体を分離する発想がなかったからだろう。先走っていえば、ギリシアのピュシスはキリスト教の心身二元論を潜った後で物質や身体に解体される。近代は物理学(フィジックス)や病理学(フィジオロジー)を発展させるが、そこではピュシスはすでに見失われているのである。ヒポクラテスの体液説は、自然哲学者のように四元素を原理化して病気を演繹的に説明するのではなく、あくまで経験的な観察の導く理に従い、憶見を排して経験知の集積につくことと矛盾しなかった。そしてまた、てんかんのような病を神魔のもたらす特異症状とはせず、あくまで脳の支障とみなして、神魔をもちだす者たちを「やぶ医者」と断じていた(「神聖病について」)。そのことは、あくまでピュシスの理に忠実な姿勢だったのだが、近代の眼はそれを客観科学の萌芽と見たのである。

 

時の望遠鏡

ここで確認しておきたいのは、われわれの知るいわゆる「ヒポクラテス医学」の評価というものが、どのような時の望遠鏡によって得られる眺めかということだ。たとえば、日本の岩波文庫版を編纂訳出した小川正恭は「経験科学としての医学の祖」と概括している。これは1963年のものだが、文献考証も堅実で、ヒボクラテスの歴史研究の成果を踏まえた古典的なまとめと言っていいだろう。そして「古い医術について」にふれ、「仮定にもとづいた、実証性の乏しい学説を唱える哲学者たちを批判して経験と検証とを主張し、人類がその経験にもとづいて発達させたところの料理術こそが医術の源泉であると説いている」(p.201)と解説し、その特徴を際立たせる。もちろん小川は、ホメロスの叙事詩に語られた創傷の扱いの合理性や、オリンポスの祭典に出る競技者たちの養生法、あるいは、占いのために行なわれていた犠牲の動物の臓物調べからの司祭たちの知見等が、ヒポクラテス医学の源流になっていることも指摘している。また、アスクレピオスにまつわる神殿医学の伝統にもふれている。

しかしそれは克服すべき呪術の名残りであり、ヒポクラテス医術の特徴のひとつは「この迷信、魔術との闘い」だということを強調する。また、哲学者たちの、原理を立てて医療の方法を演繹的に引き出すやり方にも異を唱え、あくまで経験から出発して経験によって検証することをよしとしている点をあげ、「ギリシアの医学はその目をみはらせるほどの進歩にもかかわらず、超えることのできない制限をもっていた」(p.208)と概括している。その「制限」とは、病人の看護は自然の成り行きを助ける以上のことはできないとする「イデオロギー的な制約」であり、解剖学上の知識の不十分さであり、道具の未発達であり、なにより医者が職人の階級に属していたという「階級的制約」である、という。ここで指摘される「制限」には、当時の日本で科学者の間にもかなり浸透していた「唯物史観」(武谷三男等)の影響が明かに見えるが、それを差し引いても、この判断には「科学的合理性」が「進歩」の方向であり、それが「歴史の歩み」であるとする近代西洋の見方が前提になっている。そしてそれは、医学史というものの一般的な見方であるとも言える。

つまり、現代にあたりまえになっている史的かつ科学的な評価は、ヒポクラテスを再発見した近代西洋の視点から、近代西洋の価値軸を前提になされている。そこでは、医術も医学となり、さらに科学化し、かつ実効性を高めてゆくことが積極的な方向とされる。とくにそこには、「啓蒙」に代表されるような、知の迷妄からの解放、よく言われる「宗教からの脱却」が「歴史の進歩」を画するものだといったドグマがある。そのように方向づけられた足場から、千年の彼方を望遠鏡でのぞくようにして捉えられるのが、一般の医学史で言われる「ヒポクラテス医学の特徴」なのである。

 

昏い「宗教」

では、遠くをはっきり見せる望遠鏡の視野からは何が抜け落ちるのか。それが他でもない「宗教」と括られて排除される部分であり、近代の視野が「暗さ・曖昧さ」として追い払おうとする局面である。

ヒポクラテスが「医神アスクレピオス」の末裔としてコス島の聖所を拠点とする医師団の長であり、コス島には20世紀に入ってそれと確認された広大な神殿付医療施設の遺跡があり、どうやらそこでは、エピダウロスにある最大のアスクレピエイオン(アスクレピオス神殿または聖所)で知られる、より「宗教的」な診断施療が行なわれていた、といったことを近代医学(史)の観点はまったく説明してくれない。その側面は、時代が進むにつれて消えていってしかるべきものだから、こだわる必要はないということだろう。

そして、ヒポクラテスの「医学」も、祖ではあるけれども近代の医学の発達によってたちまち克服され、今でも生きているのは、至るところの病院に掲げられた「誓詞」には意義があるとされる。ところが、その「誓詞」は、じつはアスクレピオスの名にかけて誓われた医師の心得であり、その「宗教的」枠組みを無視すれば、なぜそれが医師の「職業倫理」の範となるのか、わからなくなってしまうだろう。

問題はおそらく「宗教」という括りにある。このタームはまさに「近代」の成立とともに、そこから脱却すべきものとして、キリスト教世界の影を帯びて作られているからだ。そしてその脱却は、宗教と科学とを対立させ、科学によって蒙を解くことをドグマとする「科学史観」によって方向づけられている。神々の神話とともにあったギリシア世界について「宗教」を語ることができるとしても、そこにはキリスト教の信仰世界とはまったく違った様相があったはずであり、それは科学のドグマでは処断することはできない。神々と人びととの関係、あるいは権威・権力・共同体との関係は、キリスト教の影を帯びた世界とはまったく違うものだったと考えなければならない。

そのことを意識すれば、アスクレピオスの徒ヒポクラテスも、当時の医療のあり方も、また別の様相のもとに浮かび上がってくる。そのための手引きをしてくれるのは神話学者カール・ケレーニーである。ただし神話学とは、神話の世界に埋没する学ではない。神話を読み解くことで、そこに表れた共同の言説とそれによって造形される人びとの意識のあり方を研究する学問である。

 

人神アスクレピオス

ここで、アスクレピオスとはいかなる神だったのかを見ておこう。ある時アポロンはテッサリアのとある一族の王の娘コロニスを見初めて交わったが、王は浮気な神をあてにせず、娘を他に嫁がせようとした。それを知ったアポロンはコロニスの不実に怒って、双生妹のアルテミスに矢で射させる。だが、コロニスが身ごもっていたのを知り、アポロンは瀕死のコロニスから胎児を救い出して、その子を人頭馬体という異形をもつケンタウロス族の賢者ケイロンに預けて養育を託した。その子がアスクレピオスである。

アポロンももともと医の神とされていたが、ケイロンも異界を棲みかとして医に長けており、アスクレピオスはその薫陶を受けて育ち、医に熟達する。やがてその技は卓越して死者を生き返らせるまでになり、アテナイ王テセウスの子ヒポリュトスや、ミノスの子グラウコス等を蘇らせたという。ところがそれは冥界の王ハデスの領域を冒すことであり、その怒りを容れて、ゼウスは世界の秩序を乱す所業としてアスクレピオスを罰すべくその雷で打ち倒した。けれどもその功績は認められ、死後天空に引き上げられて蛇つかい座となり、神の列に加えられたという。それに対して、息子を殺されたアポロンは怒って暴れる、といった後日譚もあるが、そんなところがこの人神像のあらましである。

人神というのは、彼が人の娘と神アポロンとの間の子であるからだ。そのために彼は死ぬ。死んで天界に昇って神となった。際立つ点は、アスクレピオスが死者を蘇らせたことで死の罰を受けたということ、医術にそれは許されなかったということだ。そして、彼がなぜ蛇つかい座となるかと言えば、蛇が癒す力の化身だったからであり(その起源はメソポタミアにあるようだ)、後に作られるアスクレピオスの像は、いつもこの蛇がからんだ大きな杖を携えている。

また、アスクレピオスには二男四女がおり、いずれも医術に携わって、息子マカオンとポダレイリオスはトロイ戦争で活躍したことをホメロスが語っている。四人の娘はイアソ(治癒を司る)、アケソ(回復を司る)、ヒュギエイア(衛生)、パナケイア(健康)で、とくに最後の二人は関連する近代語の語源にもなっている。

ヒポクラテス派の「誓詞」は「医神アポロン、アスクレピオス、ヒュギエイア、パナケイア、そしてすべての神と女神たちの前に誓います」と始まっている。

 

法外の生業

近代の観点からすると、ヒポクラテスの「医学的」意義はすでに乗り越えられていたのだが、その「誓詞」だけが意味あるものとして留保された。つまりヒポクラテスは科学としては未熟だが、いまでも有効な「職業倫理」を呈示しているというわけだ。だがそれこそが、像を倒立させる望遠鏡の視野のもたらすものなのである。この望遠鏡は「宗教的なもの」を排除する。だから、ヒポクラテスの教説を「宗教的なもの」から脱皮した経験知として評価する一方で、神に捧げられた「誓詞」は、「宗教的」なその部分を素通りして世俗の職業倫理として留保するのである。

とはいえ、ヒポクラテスの「医術」は「学」ではない。それは彼が医師であったこと、特殊な技を行使する医師という生業に根ざしており、むしろ肝心なのは医業を営み施すことの方にある。「学」はそのための専門知(テクネー)であり、ヒポクラテスの独自性はむしろ医師であったということの方にある。

どういうことか。すでに述べたように、医師とはいずれにせよ「法外」の職である。何らかの特権をもって人の病(災い、苦痛、不幸)に関わり、死にさえ触れて厭われない。むしろそのために畏怖される。そして病人に毒(薬)を処方したり、針やメスのようなものを使ったりしても咎められない。病人はそんな医師に身を委ねなければならない。そして、むしろ求められ、才覚によって崇められたりもする。だから医師には権威(威力)がつきまとうし、あるいは免責の特権が必要になる。人が災いにさらされるのをそのような力で救い助けるのである。ギリシア神話でゼウスの息子アポロンが医神とされているのもそのためだろう。古代中国でも古くから官職であったし、メソポタミアでは神官と区別されなかった。

だが、強大な国でもなく、また権威・権力の秩序がないというのでもないギリシア世界で、どのようなかたちで医業が特殊な専門職として成り立っていたのか。それを支えていたのがアスクレピオス崇拝だったのである。ヒポクラテスは「アスクレピアダイ(神の末裔)」を名乗る医師の家に生まれた(父はヘラクレイデス)。ただし、この一族は単なる血族ではなく、医業を身につけたいと思う者はアスクレピオスの神殿を守って医業を引き継ぐこの一族に入門し、そこで修行を積んで医師に、すなわち「アスクレピアダイ」になる。それは「学びたい者には無料で教える」という「誓詞」の一箇条にも示されている。

「この術をわたしに授けた人を両親同様に思い、生計をともにし(…)、この人の子弟を私自身の兄弟同様とみなします。そしてもし彼らがこの術を学びたいと求めるのなら、報酬も契約書も取らずにこれを教えます。わたしの息子たち、師の息子たち、医師の掟による誓約を行って契約書をしたためた生徒たちには、医師の心得と講義その他すべての学習を受けさせます。しかしその他の者には誰にもこれを許しません。」

このように、無償の医術の相伝によって結ばれた閉じた一家(オイコスと言ってもいいだろう)がアスクレピアダイだったのである。

 

公共性と信

ギリシアはポリス(都市国家)世界だった。ポリスには王制のところもあるが、アテネのように民主制のところもある。それはそれぞれのポリスが選んでいるわけだから、それぞれのポリスはいわば「公共体」だったと言っていい。事実、プラトンの対話篇『国家』は、原題は”Πολιτεία”、ポリテイアだが、英語では”republic”と訳されている。ラテン語の”res publica”だ。つまりポリテイア、ポリスの事柄は、パブリックの事柄だということだ。だからポリス的ということを、近代以降の用語に照らすなら、「政治」という語よりもむしろ「公共」という観念に結びつけることができる(というより、政治とは権力の問題であるよりも、元来公共の事柄なのだ)。

ところで、ラテン語起源の「パブリック・公共」とは、「誰のものでもなく、皆のもの」「誰かひとりに属するのではなく、誰にも属さない、つまりそこにいる万人に開かれたもの」ということである。ポリス(ラテン語ではキウィタス)はそのような共同体だとみなされていた。

現代では、国家と公共とは区別される。近代の国家は宗教的権威から独立する権力を軸に形成されてきたからだ(とりわけ西洋近代国家はそうである)。そして国家があるときに、権力が私物化されると、民衆は抵抗する。「公共性」はむしろそういう抵抗に結びついている。言いかえれば、権力が私物化されても、そうはならないもの、あくまで「万人に開かれた」ものを「公共的」と言う(publica のpubはpulebus(民)のpubと通じている)。ついでにふれておくなら、公共性の「万人に属する」というより「万人に開かれた」性格に気づかせたのは、”Öffentrichkeit”(開かれてあること)の語義を強調したハイデガーである。

そして医業は何かといえば、一定の人間の共同体があるときに、権力のあり方にもかかわらず、人びとの生存を生活レベルでサポートする営みであり、その意味で基本的に「公共の事業」なのである。ヒポクラテスはそのギリシア世界で、どのポリスにも抱えられず、独立の医師団として活躍した。地上のどの権力にも保護されていない。だからこそ、この世界で医師団は、医神の末裔であることを必要としたのである。この世界は、ポリスを超えてオリンポスの神々の神話を共有していた。その神話のうちに座をもつアスクレピオスへの崇敬が、医師という「法外の営み」を正当化していたのである。ときに彼は、頭蓋骨に穴をあけるといった荒業もする。苦しむ人に触診をしたり、糞尿を出させて丹念に調べてもみる。そんなことができるのは、彼が霊験あらたかな医神アスクレピオの眷属たるアスクレピアダイだからだ。しかし、その地位をたんなる騙りや迷信にしないために、人びとのその信頼を実あるものにしなければならず、アスクレピアダイはその信頼に実践的に応える集団でなければならない。なぜなら、公共性という開かれた空間のなかで、その職能をつねに証してゆかねばならないからだ。実践において「信」を獲得し、その「信」に支えられて治療にあたる、そのための医師団の自戒の心得として、「ヒポクラテスの誓い」があったのである。

そしてその「誓詞」は、ヒポクラテスの「医学」が科学的には遅れたものとされても、公共空間を再び開くことで発展してゆく近代西洋の医学にとって、意義のある遺産として引き継がれてゆくのだ。だが、〈医〉の本質はむしろそちらの方にある。

 

神殿医療

「公共的」と言ったのはじつは、ヒポクラテスに先行するピタゴラス教団のシチリア島での医業にふれて、ケレーニーが指摘していることである。シチリア島のあったギリシア植民都市ではカロンダスという立法者が生れ、その律法には、市民の健康を公的に配慮する仕事が含まれていたという。その実質を担ったのが、「独特なアポロン宗教を奉じるピタゴラス派だった。(…)宗教的基盤に支えられ、無私の精神にもとづき、またこの原則に即して"公共化された"医師という職業形式が」がここではごくしぜんなものだった、と(p.80)。その制度性がコス島にも導入され、ヒポクラテスの時代には、市民が医師の治療を無料で受けられる公立病院のようなものが存在した、という。

ところで、エピダウロスの神殿医療については知られている。治療を求める人びとが神殿に集まり、神官医師の導きのもとそこにある宿舎で一夜を過ごすと、夢の中に医神が現れて治療法を指示するという。そして清澄な空気のもと、付設の温泉で安らいだり、スタディオンで体を動かしたり、観劇したりする。その宗教的雰囲気が、人のもっとも深い層から治療の可能性を実現するのに役立つように周囲の環境が整えられた。その際、「医師は、病人の回復という個人的秘儀から原則的に締め出されていた」(ケレーニー)というが、コス島のアスクレピアダイはこの宗教的な雰囲気を司ることに満足せず、医師そのものが信頼されるような技(テクネー)としての医術を追及したとは言えるだろう。それがヒポクラテスの「医術」に結実する。しかしそれは、彼がアスクレピアダイであることを排除しはしないのだ。

コス島には1902年に発見された壮大なアスクレピオス神殿とさまざまな医療・保養施設がある。だがその遺跡は記録によればヒポクラテスの死後に建てられたものだという。この事情をケレーニーは次のように推測している。

「すなわち、まずコス島の医療学校で発展した高水準の医学が達成されたあと、治療はエピダウロスの療養地に由来する宗教的深みへと転回し、その影響力はコス島そのものにさえおよんだが、最後に、医学的なものが初期帝政期のエピダウロスにおいても再び優勢になったという経緯である。もっとも、先行したコス島の時期が宗教心を欠いていたと考える必要はなく、そこにはただ別種の宗教があったのである。その時期は病人の宗教ではなく、医師の宗教と医師の指導的役割とによって特徴づけられる。」(pp. 79-80)

時期としてはこの間にアテネの疫病流行があり、そこでヒポクラテスが功績をあげるという事跡があった。そのとき、アクロポリスにもアスクレピオス神殿が建てられて、アスクレピアダイに対する信は高まって、それが聖地エピダウロスを繁栄させることにもなったのだろう。そしてその輝きがコス島をも照らし出し、コス島の神殿医療施設が改築されたということだ。

 

アスクレピアダイ

このような事情に分け入るのは、通常の医学史では、ヒポクラテスが医療を魔術や憶見を排して自然観察にもとづくものに変えたことが強調される一方で、神殿医療が宗教的なものとしてそれから分離されるからである。だからヒポクラテスがアスクレピアダイであったことはほとんどエピソード的にしか見られず、後の「医学」もその分離を前提に語られることになる。しかしそれでは、ローマにギリシアの医術が伝えられたとき(前2-3世紀)、それがアスクレピオスの化身のヘビの姿で入ってきたという逸話が理解できない(ケレーニーの著書はこの逸話から始まっている)。ヒポクラテスの医学が導入されたというのではないのだ。そして、ここではふれる余裕がないが、ローマ帝政期の名医(といってもペルガモン出身だが)ガレノスが、医師を志したときまずアスクレピオス神殿の医師団に入門したということも理解できない。要するに、当時、医師という職とアスクレピオス信仰とは切っても切れないものだったのだが、それを支える「信」は「宗教」のひとことではすますことができない。

ヒポクラテスの医師団はアスクレピオスに誓いを立てた。では、彼らの頼む医神とはどのようなものだったのか。それは神とはいえ、人神である。そして、あるいはそれゆえに、死ななければならない。なぜ、死ぬのか。それも罰を受けて。それは死者を蘇らせようとしたからである。つまりこの神は、全能性を禁じられ、それゆえ死すべき身に返され、かつその有限性の成就として神に列されたのである。

医が神力のようにみえても、どんな癒しの技も力も、全能であることはできない。その戒めのもとに、医の技を、人を助けるため、生かすために全力で尽すこと。その特権においてあくまで慎ましくあること、それが医神への誓いであり、その誓いに参加し分かち合うことで、ヒポクラテス派は医師の公共的職務を果たしていたのである。

 

 

*参考文献

 ヒポクラテス『古い医術について』小川政恭訳、岩波文庫、1963年

 『ヒポクラテスの西洋医学序説』常石敬一訳・解説、小学館、1996年

 小川政修『西洋医学史』真理社、1947年、形成社、1979年

 トゥキュディデス『戦史』久保正彰訳、中公クラシックス、2013年

 カール・ケレーニイ『医神アスクレピオス』岡田素之訳、白水社、1997年

 Roy Porter, Greatest benefit to Mankind, A medical history of humanity, W.W.Norton & Company, Inc., 1997-99.

 

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著者略歴

  1. 西谷修

    1950年、生まれ。東京大学法学部、東京都立大学大学院、パリ第8大学などで学ぶ。フランス思想、とくにバタイユ、ブランショ、レヴィナス、ルジャンドルらを研究。明治学院大学教授、東京外国語大学大学院教授、立教大学大学院特任教授等を歴任。著書に『不死のワンダーランド』(増補新版、青土社)、『夜の鼓動に触れる 戦争論講義』(ちくま学芸文庫)、『戦争論』(講談社学術新書)など、訳書にブランショ『明かしえぬ共同体』、レヴィナス『実存から実存者へ』(共にちくま学芸文庫)など多数。

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