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鋼鉄の講義室 メタル文化学入門 齋藤桂

「不満の冬」の音楽Ⅰ

  

――俺は悪役になると決めた。それで昨今の呆けた快楽を憎むのだ。
(シェイクスピア『リチャード三世』)

 

「不満の冬」の時代

 1978年から79年にかけての冬のイギリスの風景――墓堀人のストライキによって埋葬されなかった遺体入りの棺がいくつも工場に並べられ、やはりストライキによって、収集されないゴミが通りや公園に溢れている。一部の救急隊や病院は出動や治療を拒み、飼料を運ぶことを拒否したトラック運転手らに抗議するべく畜産農家は組合事務所の前に家畜の死骸を置いていく――

 この、ストライキが頻発した時期は、シェイクスピア『リチャード三世』冒頭の主人公の台詞から「不満の冬 Winter of Discontent」と名付けられた。1973年~74年の第一次オイルショックを経て、既に1976年の時点で、当時の経済の混乱を指して「不満の冬」という言葉は用いられてはいた[1]。そして78~79年の「不満の冬」は、しばしば「英国病」と言われた経済の低迷がいよいよ末期症状を示したと解釈された。国民は、状況を打開できない与党労働党に背を向け、新自由主義を掲げる保守党のマーガレット・サッチャーを首相に据えた。

 比喩は時に予言となる。『リチャード三世』が「今や我々の不満の冬は終わり……」で始まり、それから大波乱が起こるように、1978年~79年の「不満の冬」後のサッチャー政権も社会に様々な混乱をもたらすことになる。

 近年ではこのような、イギリスの70年代を衰退の時期として、新自由主義がその解決を(良きにせよ悪しきにせよ)試みたという定式化した歴史観について、主に新自由主義の再検証という動機から、経済のみならず文化的な視点でも見直しが進んでいる。その中には70年代の「衰退」は、脱工業化という長期的な推移をイデオロギー的に解釈したものであるとの指摘もある[2]。だが、いずれにせよ当時の人々にとっては不安定な時期であり、その不安定さに対して積極的に働きかけるにせよ、あるいはただ不安に駆られるにせよ、先の見えづらい時代だったことは確かだろう。

 そして階級間、あるいは同じ階級内部での分断が深まった時期でもあった。

 1978年「不満の冬」直後にイギリスでスタートした、ダグラス・アダムスによるSFラジオ・ドラマおよびそれに基づく小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』の冒頭はそんな当時の様子をよく示している。ラジオ業界(=中産階級)で働き、郊外に住む主人公の家が、予告なくバイパス建設によって取り壊しになる。主人公が何を言っても、役所の職員(=政府)と工事業者(=労働者)には全く通じず、工事は執行される。そのすぐ後に地球も異星人のバイパス建設によって消滅させられるというストーリーの伏線になっている場面だが、異星人と重ね合わされるほどの断絶からは、当時の階級間で生じた摩擦や苛立ちが伝わってくる。[3]

 この時期、パンクが直接的に社会や権威への反抗を見せたのに対し、ヘヴィー・メタルはその影響を受けつつも、また別のあり方を示した。70年代を通して鍛造されてきたヘヴィー・メタルは最後の焼き入れが施され、一つのジャンルとして自立する。

 

『サウンズ』誌1979年5月号

 サッチャー政権誕生の4日後の1979年5月8日、ロンドンのディスコ/ライヴ会場「ミュージック・マシーン」で行われたライヴが、ヘヴィー・メタル史上最も有名な雑誌記事となる。『サウンズ』誌1979年5月号にジェフ・バートン(記事では大音量を揶揄して「デフdeaf(聾)・バートン」と表記されている)が書いた、エンジェル・ウィッチ、アイアン・メイデン、サムソンという3バンドのライヴ・レポートだ。

 見開きページには、ギターの模型でギタリストの真似に興じるファンの写真。「段ボールギターを演奏する阿呆たちのためのページ!」とのキャプションが付いている。記事を斜めに横切るブラックレター体(ひげ文字)の文字で、AC/DCの1978年のライヴアルバム名を援用して「血(と照明弾とドライアイスと紙吹雪)が欲しいならくれてやる」と書かれている。

 このブラックレター体も、ヘヴィー・メタルの象徴とも言える書体である。メディア研究のヴィトゥス・ヴェスターゴーアは[4]、この書体がヘヴィー・メタルの定番となっていることを指摘し、それを①ジャンルの伝統、②宗教(キリスト教)、③歴史、④地理、⑤形状、の5つの観点から分析している。彼はこのブラックレター体が、宗教的なイメージと共に、ある種の歴史的なオーセンティシティを与えるものだと指摘しており、オカルトやファンタジーと親和性が高い書体だと言える。また、ドイツで長らく使用されていたこともあり、そのイメージも強い。英米のバイカーはナチス的な意匠を用いる伝統があり(第二次世界大戦の「戦利品」による自己の誇示と、一般的な常識に対する反抗とが複雑に混ざった意匠だと考えられる)、アクセサリーやバイク・チームのロゴ等にこの書体を頻繁に使用する。1977年にアルバム・デビューをしたバンド、モーターヘッドは、バイカー風の演出で売り出したことと、さらには中心人物であるレミー・キルミスター自身がナチス期の歴史的遺物のコレクターということもあって(ナチスとこの書体の関わりについては紆余曲折がある)、バンド・ロゴもこの書体を用いている。より初期のヘヴィー・メタルでは、ジェスロ・タル『アクアラング』(1971)、ダスト『ハード・アタック』(1972)、ブラック・サバス『サバス・ブラッディ・サバス』(1974)等で用いられ、この記事の3バンドの中では、最もオカルト的なイメージをもつエンジェル・ウィッチがバンドのロゴやアルバムのアートワークで採用している。

 ページ下部には「イギリスのヘヴィー・メタルの新しい波(THE NEW WAVE OF BRITISH HEAVY METAL)」とある。この言葉は編集長のアラン・ルイスがこの記事のために提案したと言われ、この記事で初めて登場した。現代でもNWOBHMと略され、この時期のイギリスのヘヴィー・メタルのムーヴメントを指す言葉として用いられている。このNWOBHMこそ、今日のヘヴィー・メタルの「型」が作られ、ヘヴィー・メタルの再定義を行ったムーヴメントである。件の『サウンド』誌の記事はNWOBHMの初出記事として多くのジャーナリストや研究者に言及されてはきたが、実は中身が詳しく読まれることは少ない。ここで改めて読み直すことで、当時の様子をうかがってみたい。

 

1~2人のパンクスと、長髪のファンたち

 「ヘヴィー・メタルの聖戦(crusade)へようこそ!」というDJのニール・ケイの言葉で記事は始まる。

 Crusadeの言葉通り、ヘヴィー・メタルは当時、パンクやニュー・ウェーヴの流れに押されて、古いものとして扱われていた。1978年の地方紙『ニュートン&アールズタウン・ガーディアン』には「やたらと熱心なメディアがニュー・ウェーヴについて騒ぎ立てる中、古き良きヘヴィー・メタル・ロックはここ最近ヘッドラインから消えつつある」(1978年3月15日)とある。この日は、それを受けてのCrusade=失地回復なのだ。

 とはいえ、ライヴが始まる前の会場の「ミュージック・マシーン」はがらんとしており(日本の音楽評論家、伊藤政則がこの数カ月後に同会場で同じ趣旨のライヴを見ていて、彼によるとやはり観客数はかなり少なかったようだ[5])、「ダンス・フロアでふらふらしている1~2人のパンクスと、それよりいくらか多い奇抜な服装の長髪の観客たちが、用心深そうに会場の端に寄って、疑いの目で傍観していた」。

 バートンはシニカルな筆致でレポートを書いており、後にNWOBHMは半分冗談のつもりで名付けたとも語っているが[6]、それはともかく、この観客の比率はこの新しいヘヴィー・メタル・シーンをよく表している。

 1970年代半ばに興ったパンクは、同時代のロック――すなわちハード・ロックやヘヴィー・メタル、プログレッシヴ・ロックなど――に対して、1950年代のロックンロールへの回帰を通して反旗を翻すムーヴメントだった。シンプルで直情的なスタイルと露骨な反骨精神は、より複雑で技術的に高度になっていたロック・シーンに、反省と再考を促した。

 特に、パンクの攻撃性やスピード感、あるいはDIY的で反抗的な姿勢などは、以降のヘヴィー・メタルが積極的に受容し、また競おうとした要素だ。また、後のサムソンのところでも述べるが、同じサブカルチャーを共有している部分もある。

 けれど同時に、先行するヘヴィー・メタルの勢いを弱めたパンクに対抗する姿勢があったことも事実で、この不離不則の関係が「1~2人のパンクス」と「いくらか多い(略)長髪」の観客層によく表れている。

 

エンジェル・ウィッチ:オカルト趣味とサブカルチャー

 バートンは、エンジェル・ウィッチのファンのデニム・ジャケットにバンド名が刺繍されているのを見て「通常ならこの世界ではレッド・ツェッペリンに対してだけ許される、ほとんど奴隷並みの献身ぶりを示している」とあり、その熱心さに閉口している。本連載の第一回で、ヘヴィー・メタルが単なる音楽としてではなくライフスタイルとして認識されていると書いたことを思い出しても良いかもしれない。

 この記事ではエンジェル・ウィッチの「エクスターミネイション・デイ」を「ブラック・サバスのファースト・アルバムをセメント・ミキサーで再生したかのよう」と喩えるなど、旧世代のバンドを引き継ぎつつ、新たな次元にいるのだということが強調されている。さらに悪魔主義をテーマにした楽曲がとにかくブラック・サバスを思わせるとして「ひたすらオールド・ファッションだが、それが度を越して、向こう側へと突き抜けてしまっている」と書かれている。

 さらにベーシストのケヴィン・リドルス のベルボトムについて「ここ数年で見た中でもっとも裾の開いたものだった!」とある。オカルト趣味と並んで、かなり懐古的に映ったようだ。

 しかしこの後、オカルト趣味は懐古どころか新たなヘヴィー・メタルの定番の一つとなって定着する。特に1980年代にはアメリカで「サタニック・パニック」と呼ばれる、様々な事件に悪魔主義を見出す陰謀論が流行し、ヘヴィー・メタルも批判の対象になるなど、むしろ新しい時代を象徴するものとなっていく。この件については別の回で述べたい。

 

アイアン・メイデンと「鉄の女」

 アイアン・メイデンについては「バンド名が不運にもマーガレット・サッチャーと結びついてしまっている」と、「鉄の女」との類似を冗談めかして書かれている。

 一般には1976年にソヴィエトがサッチャーの反共的な姿勢を指してжелезная дама/Iron Ladyと評したのが「鉄の女」という愛称の始まりとされるが、イギリスのメディアでは既に1975年頃から彼女のことをIron Maidenと呼んでいたようだ。たとえば1975年2月23日のニューカッスルの地元紙『サンデー・サン』にはダン・オニール(65年に『ガーディアン』紙のボブ・ディランのツアー記事で名を売った)の手による記事があり、そこには「彼女〔サッチャー〕は鉄の蝶、ステンレスの女、あるいは鉄の女(Iron Maiden)だ」という記述がある。また、同年3月6日『デイリー・ミラー』紙には、ポール・キャランの名物コラム「Inside World of Paul Callan」に、ヘンリー・キッシンジャーがロンドンの名門ホテル「クラリッジズ」でかつて「鉄の女(Iron Maiden)サッチャーと朝食で密会をした」と書かれている。

 バンド自身もこのことは気づいていたようで、リーダーのスティーヴ・ハリスの「アイアン・メイデンと名乗っているのはサッチャー氏にちなんでいると言われているけど、それは全く違う。むしろ『鉄仮面』に影響を受けたんだよ!」との発言が『デイリー・エクスプレス』紙に取り上げられている(1980年4月17日)。

 なおアイアン・メイデンのサッチャーへの意見は、後の1980年のシングル「サンクチュアリー」のジャケットに採用された、サッチャーらしき人物が刺殺されているイラストを見れば明らかだろう。ただこのジャケットには続きがあって、同年の次シングル「ウーマン・イン・ユニフォーム」(スカイフックスのカバー)ではサッチャーが路地裏で銃を持って復讐をしようとしているイラストが採用されており、一連のジョークとしても成立している。

 この3バンドの中では、後に最も大きな成功を収めることになるアイアン・メイデンだが、記事を読む限りでは絶賛ではない。エンジェル・ウィッチのベルボトムと対比させて「タイトなレザーに身を包んで輝くアイアン・メイデンは堂々として、かつ静かに自信に満ちている」とあり、「オープニング曲「ロック・チャイルド〔おそらくWrath Childのこと〕」は私が聴く限り、狂ったロック・アンセムだ。」と褒めてはいるが(「Rock Child」と聞き間違えていたこともこの評価の理由かもしれない)「だが、残念ながら同じだけの力量を発揮できたのは、セットの終わりになってからだった」と、冒頭と終盤だけが評価されている。ライヴ終了後は、エンジェル・ウィッチのファンからは冷遇されたようだ。

 

サムソン:レザー・マスクの表象

 最後のサムソンについて筆者のバートンは、音楽的には好みではないが、とにかく照明弾などの演出(見出しの由来はこのバンドだ)が巧みで、かつヒョウ柄のレオタードにレザーのマスク――記事では「ケンブリッジの強姦魔タイプのマスク」と表現されている――をかぶったドラマー、サンダースティックに感銘を受けたと記している。このサンダースティックは1977年にアイアン・メイデンにも在籍しており、両バンドは共通の楽曲もある。

 さて、「ケンブリッジの強姦魔」とは、1974年~75年にかけて犯罪を重ねたピーター・サミュエル・クックのことで、彼は犯行時に頭部全体を覆うレザー・マスクを着用していて悪名を馳せた。

 クックについては、1977年~78年にデザイナーのマルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドがレザー・マスクの写真の上にポップな書体で「Cambridge Rapist」とプリントしたシャツ[7]を発表しており、当時、物議をかもしつつもパンク・シーンで多く着用されていた。現在の同店のサイト[8]には、このシャツは同強姦事件の捜査が進む中で、マクラーレンおよび彼の店と繋がりのあった革製品専門店ロンドン・レザーマンが捜査対象になったことを受けての作品だったと書かれている(プリントされているマスクは同店のもので、クックが着用していたものとは異なる)。同サイトには、レザー製品を多用するゲイ・カルチャーに対する警察の嫌悪感もこの捜査の背景にあったとある。同サイトによると、同店に出入りするパンクスに嫌疑がかけられることも多かったようだ。

 強姦魔に対しては賛否も何もなく、否しかないだろうが、それでもその事件がもたらす影響は道徳や倫理を超える。レザー・マスクはクックの事件の影響で、一種のポップ・アイコンとなっていたと言えるだろう。

 サンダースティックの扮装は、そんな当時のアンダーグラウンド文化の中でパンクやヘヴィー・メタルが同じアンダーグラウンド文化を共有していたことの表れでもある。

 

「新しい波」に対する戸惑い

 ライヴ・レポートの後で、記事は翌日のニール・ケイの電話での言葉を引いている。

はじめはちょっと心配だったんだ。夕方、始まる時は雰囲気が重かったから。パンクスがダンス・フロアを占めてただろ〔略〕でも、夜終わる頃には万事がクールだったよ。例のパンクスたちは俺のところに来て、ヴァン・ヘイレンやブラック・サバス、ジミ・ヘンドリックスまでかけてくれといってくる始末さ。

 このケイの興奮に対して、バートンはしかし、次のように続ける。

この3バンドについて私は評価を留保したい――どころか重大な疑念すらある――が、このヘヴィー・メタルの夕べが成功だったのは間違いない。少なくとも脳が損傷して、気分が悪くなるレベルで。何だかんだ言ってそれがこのジャンルなんだよ、と言う人もいるかもしれない。

 バートンは1981年にヘヴィー・メタル専門誌『ケラング!』を創刊して、シーンを代表するメディアを運営していくことになるが、このレポートからはそこまでこのジャンルに心酔しているようには見えない。NWOBHMという言葉を通して、そこに含まれるヘヴィー・メタルを再定義したムーヴメントを記念する記事とは思えないほどに、シニカルで、賛否というよりは戸惑いが表に出たレポートである。観客も熱狂に渦中にあるというよりは、どこか手探りの感が伝わってくる。

 NWOBHMは漠然と当時のシーンを指す言葉であって、もちろん、このライヴに登場した3バンドだけのものではない。デフ・レパードのようにポップな路線で後に大成功を収めるバンドもいれば、ヴェノムのようにヘヴィー・メタルの先鋭化・過激化で後のスラッシュ・メタル誕生の布石となったバンドもいる。もちろんバンド同士の交流やファン層の一致が見られる時もあるが、一枚岩的な大きなムーヴメントという訳ではない。

 だが、それまでのヘヴィー・メタルと比較した際に、最大公約数的な特徴を挙げることは可能だ。そしてそれはやはり、冒頭に述べたような当時の時代背景と強く結びついてもいる。次回は、そんなNWOBHMがもたらした「型」について考えていきたい。

 (第3回:終)

 

 ***

[1] Sunday Post, 31, October, 1976

[2] Jim Tomlinson, ‘De-industrialization Not Decline: A New Meta-narrative for Post-war British History’, Twentieth British History, Volume 27, Issue 1, March 2016, pp. 76–99.

なお、このような1970年代の再検証については長谷川貴彦【編著】『サッチャリズム前夜の〈民衆的〉個人主義――福祉国家と新自由主義のはざまで』(岩波書店、2025年)が詳しい。

[3] アダムスの政治・経済観の分析については、Vox Day ‘The Subversive Dismal Scientist: Douglas Adams and the Rule of Unreason’, Glenn Yeffeth ed. The Anthology at the End of the Universe: Leading Science Fiction Authors on Douglas Adams 'The Hitchhiker's Guide to the Galaxy, pp. 117-124, BenBella Books, 2005.を参照。なお、このVox Dayという著者はその後、オルト・ライト、白人優越主義者として問題となる人物である。SFの荒唐無稽な世界に対する想像力と現実の政治・社会へのアプローチとが地続きであることが分かる。

[4] Vitus Vestergaard ‘Blackletter Logotypes and Metal Music’, Metal Music Studies, Volume 2, Issue 1, Mar 2016, p. 109 – 124.

[5] 伊藤政則『ヘヴィ・メタルの逆襲』(新潮社、1985年)。

[6] Mick Wall, Run to the Hills: Iron Maiden, the Authorised Biography, Sanctuary, 2000.

[7] このシャツはヴィクトリア&アルバート博物館に収蔵されており、ウェブサイト(https://collections.vam.ac.uk/item/O352566/cambridge-rapist-t-shirt-vivienne-westwood/)で見ることができる。

[8] https://thelondonleatherman.com/talking-about-the-kit/tag/Punk/

 

鋼鉄の音楽室(今回登場したミュージシャン/バンドとその音楽 ※登場順)

① エンジェル・ウィッチ Angel Witch:1976年結成のイギリスのバンド。記事中にもあるようにオカルト風のイメージとスピード感のある音楽を特徴とする。アイアン・メイデンのような継続的な活動と成功を収めたわけではないが、その分当時の記憶と強く結びつき、今なおカルト的な人気を得ている。

♪Angel Witch「Extermination Day (BBC Friday Rock Show 14/3/80)

② アイアン・メイデン Iron Maiden:1980年アルバム・デビューのイギリスのバンド。ヘヴィー・メタルというジャンルで最も成功したバンドの一つ。本文中に言及のあるサンダースティックが一時期在籍したこともあり、また後にサムソンのヴォーカルを務めたブルース・ディッキンソンが加入するなど、他にも人脈的にサムソンと深い関係がある。共有する楽曲もある。

♪Iron Maiden「Wrath Child (Live at The Rainbow)

③ サムソン Samson:1976年結成のイギリスのバンド。上記のようにアイアン・メイデンと関係が深いが、メンバーや楽曲の雰囲気が流動的で、人気はあまり持続しなかった。

♪Samson「It's Not As Easy As It Seems

④ ブラック・サバス Black Sabbath:第1回を参照。

⑤ ヴァン・ヘイレン Van Halen:オランダ生まれのアレックス、エドワードのヴァン・ヘイレン兄弟を中心にアメリカで結成されたバンド。1978年アルバム・デビュー。エドワードのタッピングを効果的に取り込んだギター奏法は、エレキ・ギターの演奏法を革新した。

♪Van Halen「Runnin’ with The Devil

⑥ ジミ・ヘンドリックス Jimi Hendrix:第1回を参照。

⑦ デフ・レパード Def Leppard:1977年結成のイギリスのバンド。アルバムを重ねるごとによりポップなアプローチを取り入れ、ジャンルを超えた高い人気を得て、現在アルバムの総売り上げは一億枚を超えている。

♪Def Leppard「Hello America

⑧ ヴェノム Venom:モーターヘッドに影響を受けた荒々しく疾走する楽曲と、悪魔主義風のコンセプトで他のバンドとは一線を画した。後に興るスラッシュ・メタルの元祖の一つとなる。

♪Venom「Sons of Satan

 

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著者略歴

  1. 齋藤桂

    1980年、大阪府生まれ。博士(文学・大阪大学)。京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター准教授。専門は日本音楽史、ヘヴィー・メタル。著書に『〈裏〉日本音楽史――異形の近代』(春秋社、2015年)、『1933年を聴く――戦前日本の音風景』(NTT出版、2018年)、『ベートーヴェンと大衆文化――受容のプリズム』(春秋社、2024年、共編著)、論文に‘Heavy Metal Scene in Osaka: Localness Now and Then’, Bardine, Bryan A., and Jerome Stueart, eds. Living Metal: Metal Scenes around the World, Intellect, 2022など。

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