生物の遺伝的多様性と進化を考える――中立説の意義
進化と遺伝的多様性
生命科学において、元来生命はどのように進化してきたのかということは根源的な主題であり、それにもっとも合理的な仮説を提唱したのがチャールズ・ダーウィンでした。ダーウィンの自然淘汰説は、自然環境に適する変異をもった個体は競争的に生き残り、そうでないものは淘汰されていくという考えです。これは、本稿でみるように多くの人々に影響を与え、その後さまざまな説が生まれるなかでも、自然淘汰説で進化を説明していこうという人たちによって継承されていきました。
進化の問題は、同時に生物集団における多様性の問題と表裏の関係を成しています。一般に生物の形質、すなわち遺伝的に支配される体のかたちや機能などの特徴は、同じ種であれば個体間で違いではなく、たいてい同一であると考えられてきました。ところが、ときとして個体間にわずかな形質の相違が存在するものがあります。それが、「遺伝的多型(Genetic Polymorphism)」といわれるものです。この多型を分子レベルで見た場合、DNAを構成する塩基が置き換わったり(置換)、失われたり(欠失)、あらたに入り込んだり(挿入)して変化したものが「変異」であり、それは病気などの異常を持つものや表現型に大きな変化を伴うものとして判断されることが少なくなく、これらの変異が生物集団において多様性を形成する要素なのです。
遺伝的多型は、基本的に、生物集団内の個体が有する対立遺伝子(アレル)のDNA配列の差をあらわすものです。ある遺伝子座(ローカス)において、生物集団の全体に対する最大多数の対立遺伝子の頻度が99パーセントあるいは95パーセント以下であるときに、その遺伝子座は遺伝的に多型であるといわれます。つまりこれは、集団内の遺伝子座に、対立遺伝子の変異があまり高くない頻度で数多く存在することを意味し、その遺伝子座に多様な対立遺伝子が存在していることを示しているのです。逆に、生物集団内に多型が存在しない場合には、その集団は「単型(Monomorphism)」であるといい、それが遺伝的なものである場合には「遺伝的単型 (Genetic Monomorphism)」であるといわれるのです。
後述するように1960年においては、この遺伝的多型がどういう機構で維持されているのかを解き明かすことが、生物の進化過程を理解する上できわめて重要でありました。とくに、DNAの塩基配列を知る由もない時代においては、多くの生物集団では、遺伝的単型が一般的であろうと推察されていたため、遺伝的多型現象の維持機構をめぐる論争はなお一層ヒートアップしたことは言うまでもありません。
地味ではあるが衝撃的な2つの論文
大きな論争のきっかけになったのは、1966年に発表された二つの論文でした。一つ目の論文「Harris, H. (1966) "Enzyme polymorphism in man." Proc. R. Soc. Ser. B 164:298-310.」は、人の酵素は同じ機能を有するものであっても、個人間において少々異なり、そのような酵素がたくさん存在するという主旨でした。そして、もう一つの論文「Lewontin, R. C. and J. L. Hubby (1966) "A molecular approach to the study of genic heterozygosity in natural populations of Drosophila pseudoobscura." Genetics 54:595-609.」は、同様のことがウスグロショウジョウバエというミバエの一種においても見られ、同一の機能を持つ酵素において、個体ごとにさまざまな差異が生じていることが発見されたのでした。これらの論文が発表された当時、これら二つの論文がとりわけ重要な内容を持つものであることに気づく研究者はほとんどいなく、集団遺伝学において大論争を引き起こすきっかけになろうなどとは、予想だにされていませんでした。集団遺伝学の専門家から見ても非常に地味な内容であったのです。しかし、のちに、これらは集団遺伝学における重要な論文として位置づけられるようになりました。
二つの論文は、大袈裟に言えば、生命科学の運命を切り拓く大問題を提起した画期的な内容でした。なぜなら一つの生物種から成る集団において、個体間における差異は酵素や遺伝子などの分子レベルではほとんど存在しないだろう、形態レベルの形質と異なり遺伝子やタンパク質などの分子レベルにおいては、きっちりとした一貫したシステムが働いていて、若干の相違も許容されないような機構が存在するのだろうと信じられており、これらはそうした根拠の薄い信念に反証する事実を扱った論文であり、その事実に多くの研究者は衝撃を受けたからです。
これまで個体間において発見された分子レベルの差異は、非常に稀な現象として記述されるものばかりでした。タンパク質にある程度の異形が存在することは以前から知られていたものの、それは例外的な現象とみなされてきただけに、酵素レベルの多型が一般的なものかどうかは大きな関心の的となり、解決すべき課題となっていったのです。機能を持った酵素などのタンパク質において、個体間で少し異なるものが大量に存在するという現象は概して「タンパク質多型 (Protein Polymorphism)」現象といわれ、そのような現象が実際にどうして生じるのか、どのようにしてタンパク質の多型現象が維持されているのか、その機構に注目が高まったのです。
自然淘汰論者の理論モデル
人類集団の個体間において、目の色や皮膚の色あるいは髪の質感などの形状が少しずつ異なるように、遺伝的に決まっているはずの形態形質に差が生じるのは、突然変異によって出現した変異が集団のなかに広がり高い頻度で維持された結果であるということは、すでに60年代の段階で知られていました。
生物集団において遺伝的な多様性がどの程度見られるかを示す指標は「ヘテロザイゴシティ(Heterozygosity)」という量で、日本語で「ヘテロ接合度」とよばれるものです。ある遺伝子座に着目したときに、一つの個体は父親由来の対立遺伝子(アレル)と母親由来の対立遺伝子(アレル)を持ちます。それらの対立遺伝子が全く同じでないとき、その個体はその遺伝子座においてヘテロ接合体であるといわれ、集団におけるその割合をヘテロ接合度として表します。これは、ある遺伝子座に注目した場合、集団内にある対立遺伝子(アレル)をランダムに二つ取り出したときにそれらが異なる確率として計算されます。
先に述べた二つの論文では、集団内のヘテロ接合度が想定していた以上に高く、通常0.01~0.1位の値であるところ、それよりはるかに高い割合であることが発表されたことから、高度なタンパク質多型現象がヒトとショウジョウバエに存在することが分かったのです。これに関して自然淘汰論者の間では、いろいろな自然選択に基づくモデルが提示されました。その一つが「頻度依存型選択(Frequency-dependent selection)」といわれる選択モデルです。端的に言えば、生物集団内で変異体の頻度が下がれば、その頻度を上げる自然選択が働き、その逆もあり得るというモデルです。これは理論としては成り立つものの、実際にそのようなことが自然状態のなかで起こり得るかというのは、なかなか立証の難しいものでした。自然選択のモデルは平衡選択モデルといわれるように、相反する自然選択がうまく働くような機構を生み出すことができれば、それによって多型現象を説明することは可能になっていくでしょう。
ここでいう自然選択とは英語でnatural selectionといい、通常自然淘汰と同じ意味で用いられます。厳しい自然環境のなかで生物に生じた遺伝的変異のうち、生存競争において有利に作用するものは保存され、不利なものは消滅し淘汰されていきます。生物集団内に遺伝的な変異が突然変異として出現すると、その変異は集団内からいずれ消滅していくものであるか、あるいは生き残って集団をその変異で埋め尽くしていくか、そのどちらかの運命を辿ることになるのです。「集団サイズ」といわれる集団を構成する個体数が有限の場合には、必ずそのどちらかが起こることになります。
出現した変異が集団の中に留まる頻度やその頻度の時間的な増減について、1930年代にはイギリスのR. A. フィッシャー(R. A. Fisher)やアメリカのS.ライト(Sewall Wright)らが複雑な数式モデルを駆使して数学的な解析を行っていきました。特にR. A. フィッシャーはネオ・ダーウィニストの一人と呼ばれるように自然淘汰の観点から生物集団の解析に挑み、そこでは数学的な解析を用いてさまざまな統計的な手法を開発していったのです。相関係数や分散分析という手法は、彼によって開発されたものです。このため、彼は「遺伝学は統計学の父」と称されることさえあります。
一方、S.ライトは生物の集団における遺伝子の生き残りは、必ずしも自然淘汰で起こるものではないと説いていきます。とくに生物集団の多くの場合、繁殖の過程で交配が任意に行われるときには、交配によって多数の遺伝的組合せのうちの一組が機会的に選ばれるだけで、特定の遺伝子が偶然に何度も選ばれるケースが生じ得る、と主張します。それによって集団内の対立遺伝子の頻度がランダムに変化して多様性が生み出され、維持される現象が生じるため、この現象は「遺伝的浮動」と呼ばれています。とりわけ生物集団を構成する個体数が小さい場合には、遺伝的浮動の力が強くなり、これは「ライト効果」と名付けられ、彼の名前は現在まで残されています。
中立説論争の勃発
自然淘汰論者の議論が白熱していくなか、自然淘汰を考えなくてもタンパク質の多型現象は遺伝的浮動で解き明かすことができるという中立説が有力な説として浮上しました。これを提唱したのは、木村資生を中心とした中立論者です。ここに世にいう中立説論争,すなわち「中立説vs自然淘汰説」の構図が出来上がったのです。
中立説は、分子レベルでの遺伝子の変化の大部分が、自然淘汰に対して有利でも不利でもないとする考え方です。これによると自然淘汰に関係するパラメータは全く必要としないわけで、理論モデルとしては極めてシンプルで頑強性を有します。とくに中立説から演繹的に導き出されるヘテロ接合度の期待値や、それと関係する他のさまざまな数量などの理論的関係性は、実際のデータと整合性を有するかどうかを見極める適合性テストによって統計的に検証することが可能であるため、そのテストに通れば中立説は強く支持されるものと考えられるのです。そこでは、適合性テスト自体も中立説から論理的に導き出されたものであることから、この中立説の有効性はさらに高まっていったのです。
遺伝的多型現象と進化過程
そもそも中立説は、主な二つの条件を同時に説明するものでした。第一は「生物集団内の遺伝的多型現象の程度を合理的に説明すること」であり、第二は「進化過程を合理的に説明すること」です。第一については、先に述べたように集団内における遺伝的多様性、とくにタンパク質多型現象の維持機構を解明するにあたり、その糸口として、仮定すべきパラメータ数の圧倒的な少なさから、中立説が自然選択説に比べて明確に説明可能であるということです。第二の進化過程については、元来、中立説はDNAやタンパク質などの分子レベルの進化を説明するのに非常にいいモデルを提供してきました。生物の生存に不可欠な分子レベルでの変異は、その大部分が自然淘汰に対して有利でも不利でもなく、突然変異と遺伝子浮動が生物進化の主な要因であることを解明したものであり、その点からもDNA配列の塩基の置換やアミノ酸配列のアミノ酸の置換などによって、分子レベルの進化が起こることを解き明かしてきたのです。これは「集団内の遺伝的多様性を合理的に読み解く」というだけではなく、同時に「分子レベルの進化の過程も合理的に読み解く」という点で、これら二つの重要な生命現象が論理的に首尾よく同時に両立し得ることを意味しています。つまり、この中立説によって、遺伝的多様性と分子レベルの進化は表裏一体の問題であることが解明されたのです。
自然淘汰説の場合、集団内の遺伝的多様性と分子レベルの進化という二つの現象を同時に解明できるかというと、必ずしもそうではありません。これについては、中立説論者は鋭く指摘し批判してきました。頻度依存型の自然淘汰は、少数派になれば正の自然淘汰が働いてその頻度を増し、多数派になれば負の自然淘汰が働いてその頻度を減らすことによって、集団内の遺伝的多様性の維持は説明できるものの、このなんともバランスの取れた自然淘汰モデルでは状況が安定し過ぎていて、分子レベルでの進化という次のステップに遺伝的変異を向かわせるのは内在的に不可能ということが一目瞭然であったのです。したがって、分子レベルの進化を説明するには、別の自然淘汰モデルを考えなければならず、両立的に成り立つ集団内の遺伝多様性と分子レベルの進化という二つの現象を同時に解き明かすことは必ずしもできないということになったのでした。
広い意味での中立説――多型現象と進化の統一的な理解
自然淘汰があろうがなかろうが、自然淘汰と遺伝的浮動との間で対立遺伝子の頻度を左右させる力が大きかろうが小さかろうが、そこに気を取られることなく生物集団内の遺伝的多様性と進化過程は以下のようにまとめて考えられ、非常に合理的に説明することが可能になります。
生物集団内における遺伝的多様性とは、DNAの塩基配列(つまりゲノムですが)上に起こった塩基の置換などの変化、言い換えれば変異が生物集団内でその頻度を増やしたり減らしたりする過程を見ることです。実際に、変異が生物集団内から消滅することを「(対立)遺伝子の消滅」といい、生物集団内でその頻度が100%になることを「(対立)遺伝子の固定」といいます。この遺伝子の固定に至らないまでの過程を見ているのが、生物集団内の遺伝的多様性であり、その典型的な例がタンパク質多型現象であったわけです。一方、遺伝子が固定するところだけをもっと長い期間に亘って追い続けると、対立遺伝子が次々と置き換わり、集団全体に変化が生じてきます。これが、分子レベルで見た進化過程なのです。
遺伝的多型現象は数千年から数十万年という短い時間スケールで生物集団の遺伝的構成の変化を見ており、分子レベルの進化過程は数十万年から何十億年という長い時間スケールで変化を見ていることになります。生物集団内の遺伝的構成の変化を、時間スケールを短くしたり長くしたりできるようないわば「時間ルーペ」があるとすれば、そのルーペを近づけて時間スケールが短いところまで見えるように拡大すれば、生物集団内の遺伝的多様性が見えるようになり、そのルーペを遠ざけて時間スケールの長いところが見えるように縮小すれば進化過程がみえるということになります。つまり、生物集団内の遺伝的多様性と分子レベルの生物進化は、見ている時間スケールが異なるだけで、全く同じ生物現象であることを示しています。先に述べた論争の観点からいえば、自然淘汰も遺伝的浮動もともに働いており、その強弱に関係なく、遺伝的な多様性と進化の過程は統一的に合理的に説明すべきものであることになります。これは、新たな生物進化のドグマと言っても過言ではない画期的な見方であるとも言えます。
このことを最初に明確に指摘した木村資生は、「広い意味での中立説」と言って、淘汰係数がゼロの淘汰が全く起こらない場合での「狭い意味での中立説」と区別をしていました。この新しいドグマである「広い意味での中立説」は、自然淘汰・遺伝・突然変異を合成したドグマ「ネオダーウィニズム」に匹敵するような大きな考え方を提示し、集団遺伝学や分子進化の理論的な骨格を形成しているのです。