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軽刈田凡平の新しいインド音楽の世界 軽刈田凡平

インドにビートルズがやって来た ヤァ!ヤァ!ヤァ!

  

あらためて、インドとビートルズ

 前回でも少し触れたが、世界中で「サブカルチャーとしてのインド」を広めた最大の功労者は、間違いなくビートルズだ。インドの精神文化に惹かれた彼らは、インド古典音楽の要素をロックに導入したパイオニアでもあった。「ノルウェイの森」(Norwegian Wood)といえば、今では世界中で村上春樹の小説のほうが有名になってしまったが、シタールの神秘的な響きを効果的に使ったこの曲を皮切りに、彼らは歌詞やサウンドに、さまざまな形でインドの要素を引用した。20世紀最大のポップグループにここまで大きな影響を与えた国は、ロックンロールの母国であるアメリカを除いては、インドのほかに存在しないだろう。

 また、ビートルズがインドから受けた影響だけではなく、その逆のベクトル、つまり、インド人がビートルズから受けた影響というのも、確実に存在している。

 ビートルズにとって、インドという国とその文化は、いったいどのような存在だったのだろうか。そして、ビートルズはインドの音楽シーンに何をもたらしたのか。今回は、「新しいインド音楽」を巡る旅からちょっと寄り道して、古くて新しい、ビートルズとインドの関係をひもといてみたい。

 

なぜインドだったのか?

 ビートルズがインドにハマった背景にあったのが、当時世界を席巻していたヒッピー・ムーブメントだ。

 ヒッピー・ムーブメントとは、ベトナム戦争や公民権運動をきっかけに、物質的な豊かさや西洋中心の価値観に疑問を持った若者たちが、「愛と平和」の理想を掲げたアメリカ生まれのカウンター・カルチャーのこと。ヒッピーと呼ばれた若者たちは、当時まだ新しくて自由で反権威主義的だったロックを好んで聴いていた。サンフランシスコのグレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレインがシーンを代表するバンドだった。

 古い価値観を否定し、自由を愛するヒッピーたちが精神的な拠り所にしていたのが、インドの伝統的な哲学や瞑想だった。欲望にとらわれて争うのをやめて、理解し合おう。モノやお金のために生きるのではなく、心の内面に目を向けよう。──その理想自体は素晴らしいのだが、ヒッピーたちのほとんどは、奥深いインド哲学を本気で学びたかったわけではなく、その雰囲気に浸りたかっただけだったようだ。彼らにとって、ヨガや瞑想によってたどり着く境地は、ドラッグによるサイケデリック体験と共通したものと考えられていた。

 このアメリカ生まれのムーブメントは、世界的な反戦運動の高まりと同期して、イギリス生まれのビートルズにも大きな影響を与えることになる。

 

 ビートルズが「ノルウェイの森」にシタールを取り入れた1965年は、ロック史における「インド音楽元年」でもあった。

 同じ年に、ヤードバーズが「Heart Full of Soul」でシタール演奏に挑戦し(リリースされたバージョンではシタール風のギターに差し替えられている)、キンクスが「See My Friends」にインド古典音楽を模したドローン音(持続して鳴り響く同じ音程の音)を取り入れている。翌年にはローリング・ストーンズが「黒くぬれ」(Paint It, Black)にシタールを導入し、ビートルズはジョージ・ハリスンがインド人ミュージシャンたちと共演した「なんちゃって古典音楽シリーズ」の第一弾「Love You To」を発表。インドはサウンドの面でも、ロックシーンのトレンドに躍り出ることになった。

 ところで、ここで名前が挙がったのは、すべてイギリス出身のバンドである。彼らのこうしたアプローチは、ヒッピー・ムーブメントの本場アメリカのミュージシャンたちが、ファッションにインドの要素を取り入れるだけだったのとは対照的だ。なぜイギリスのロックバンドばかりが、インドの音を楽曲に取り入れたのだろうか。

 その理由には、イギリスの歴史と社会が関係している。現在のインド、パキスタン、バングラデシュを含む南アジア一帯は、1947年8月まで、イギリスの植民地支配下にあった。こうした歴史的な経緯から、1965年の時点でイギリス国内には、インドをはじめとする南アジア系住民のコミュニティが形成されていた。一方で、当時のアメリカには、南アジア系の住民はまだ少なく、アメリカのロック・ミュージシャンたちのインスピレーションの源は、もっぱらアメリカ最大のマイノリティであり、ロックンロールやR&Bを産んだ黒人たちの音楽にあった。当時のシーンで「インドがクール!」というムードが高まったとき、インドのサウンドに実際に触れ、伝統楽器を手にすることができたのは、圧倒的にイギリスのミュージシャンたちだったのだ。

 アメリカ生まれのロックやカウンター・カルチャーと、イギリスの歴史によって育まれた移民社会。その交差点のど真ん中にいたビートルズは、時代の影響をもろに受けながら、インドというまだ見ぬ理想郷への関心を深めてゆく。

 

インドにビートルズがやって来た

 インドとビートルズの関係をとことん掘り下げた本が、2018年に出版されたインド人著者アジョイ・ボースによる『インドとビートルズ シタール、ドラッグ&メディテーション』(朝日順子訳、青土社、2023年)だ。

 この本には、ジョージ・ハリスンとラヴィ・シャンカルの出会いをきっかけに、彼らがインドの音楽や思想に惹かれていったプロセスが、時代の空気を交えて生々しく描かれている。

 ビートルズを巡る1960年代後半の狂騒は、今読むとバカバカしくも凄まじい。言葉を選ばずに言うと、この本に出てくる人物たちは、ビートルズのメンバーを含めて全員がまともではない。ジョンとジョージはドラッグに心酔していて、ジョンに至っては「ヒンドゥー教や仏教の僧侶が長年の瞑想で到達する境地にLSDによって簡単に到達することができる」というバカなヒッピー丸出しの主張を隠そうともしない(とはいえこのナメきった思想から名曲「Tomorrow Never Knows」を生み出してしまうのだからすごい)。

 ジョージはラヴィ・シャンカルの影響でドラッグを断ち、神についての哲学的な思想を深めるようになるのだが、まともになったというよりも、インドを過剰に礼賛するよくいるタイプの東洋かぶれの欧米人になったという感じだ。

 ビートルズの「インド熱」は、彼らが心酔していたヨガ行者、マハリシ・マヘーシュ・ヨギのリシケーシュにあるアーシュラム(ヨガ道場)を訪問したときに頂点に達し、そして急速にしぼんでゆく。

 インド熱が比較的浅かったポールは、瞑想や修行にはあまり興味がなく、リシケーシュ滞在中、マハリシに「ヘビ使いを呼んでほしい」とアホな要求をしてみたり、アーシュラムで隠れてタバコを吸ったりしている。まるで修学旅行に来たヤンキーのようだが、それでもインド滞在中に「Blackbird」とか「Ob-La-Di, Ob-La-Da」みたいな名曲を書いてしまうのだから、やっぱり天才だ。

 リンゴはというと、お腹が弱くてインド料理が口に合わず、たった2週間でアーシュラムを後にしている。インドとの関わり方にも、四人の個性が表れているようだ。

 ジョージが傾倒したラヴィ・シャンカルも、かなりどうしようもない男だった。この本には、彼が音楽と哲学の真摯な求道者だったというよく知られた話だけでなく、自分よりも音楽的才能が優れていた妻に演奏を禁じたとか、結婚してすぐに10代の別の女性と不倫した(妻とはやがて離婚)といった唖然とするほかない逸話もしっかり収められている。

 稀代のトリックスター、マハリシ・マヘーシュ・ヨギについては言うまでもないだろう。物質的な豊かさや欲望を持ったまま至福に達することができるという、その名も「超越瞑想」の普及のためにありとあらゆる手段を使おうとするマハリシは、精神指導者というよりはうさんくさい実業家で、彼はビートルズを今で言うところのインフルエンサーとして利用しようとしていた。

 高名なグルの秘書から精神指導者として身を起こしたマハリシは、インドではほとんど無名な存在だったが、新しい救いを求める欧米社会に目をつけ、富と影響力を獲得してゆく。マハリシの「成り上がり」っぷりはこの本のなかでもとりわけ興味を惹かれる部分のひとつだが、これまでも多くの批判に晒されてきた彼については、かなり中立的に書かれているという印象だ。アーシュラムに集ったわがままな欧米セレブたちの心が彼から離れてゆく場面にいたっては、憐れみすら感じさせられるほどだ。

 終盤には、マジック・アレックスという極めつけのいかさま師が登場。彼は「夜空にかけるレーザーでできた人工の太陽」や「紙のように薄いステレオスピーカーでできた壁紙」を発明したと主張する人物で、こんなバカな話を信じるやつがいるのかと思っていたら、ジョンをはじめとするビートルズの面々はいともたやすく騙されている。いくら今とは時代背景が違うとはいえ、間抜けすぎるだろう。ここではいちいち挙げないが、脇役としてビートルズと一緒にリシケーシュに滞在していたミュージシャンや俳優たちも、傍若無人でまともでないやつばかりだった。

 ビートルズのメンバーを含めて、この本に登場する欧米人たちは、インドの文化をリスペクトしているようでいながら、インド人への偏見と差別意識が感じられる言動をたびたび見せている。インドとビートルズの両方が好きな私は、読んでいてちょっと切なくなってしまった。当時はインドやフィリピンや日本でも「ビートルズは自国の伝統文化を破壊する」という言説が保守層に信じられていたようだから、偏見を持っていたのはどこも同じだったのかもしれないが。

 登場人物全員がろくでもないと書いたが、念のためにことわっておくと、この本は別に誰かを貶めようとしているわけではない。誰も神格化することなく、彼らを人間としてフェアに描いているだけなのだ。

 リバプールの労働者階級の若者だったビートルズのメンバーが、その才能ゆえにファンやメディアに追われ、自由を奪われてあらゆる諍いに巻き込まれてゆく様子を読めば、彼らが名声によって得たものは幸福ではなく苦痛だったのではないかと思えるし、その結果として彼らが傲慢でシニカルな人間になってしまうのも理解できる。終始懐疑的に(であるがゆえに公正に)描かれているマハリシだって、インドが持つ神秘的な精神性を分かりやすく解釈し、経済的価値に置き換えたパイオニアとして見ることもできる。今日の世界でのヨガの受け入れられ方を見れば、彼がいかに先見の明を持っていたかが分かるはずだ。

 インドという国を過度に神秘化せずに、彼らとインドとの関係を冷静に書くことができたのは、著者のアジョイ・ボースが当のインド人だからだろう。インドにやってきたビートルズに熱狂する現地の若者たちのエピソードも、これまでにあまり語られてこなかった視点で面白い。

 そう。インドにもビートルズに夢中になった若者たちがいたのである。

 

インドロックの誕生──「ビートグループ」の時代

 ビートルズが活躍していた1960年代のインドは、中国やパキスタンとの国境紛争や食糧危機、深刻な貧困などの問題を抱えていた。その一方で、都市部では、1947年の独立を知らない若い世代たちが新しい価値観を持ちはじめていた。

 インターネットもテレビもない時代のインドで、アメリカやイギリスのポピュラー音楽に夢中になった若者たちは、古典音楽ばかりの国営放送に見切りをつけ、海の向こうのラジオ・セイロンやBBCから届く洋楽ヒットに耳を傾けていたという。日本では浜田省吾や鮎川誠が米軍向けラジオのFENを聴いてロックに目覚めたそうだが、インドにも同じような若者たちがいたのである。

 ノイズ混じりのラジオから流れたビートルズに魅せられた彼らは、世界中の若者たちとまったく同じことを考えた。

「俺たちも、バンドがやりたい」

 彼らが結成したバンド――日本で言うところのグループ・サウンズのような――はインドでは「ビート・グループ」と呼ばれていた。

 当時のインドでは、エレキギターやアンプ、ドラムセットなどを入手するのは都市部の富裕層でも難しかった。彼らは、マーチングバンドのドラムや選挙運動用のスピーカーを流用するなど、持ち前の工夫と情熱でバンドを始めた。バンガロール(現ベンガルール)ではトロージャンズ(Trojans)が、ボンベイ(現ムンバイ)ではジェッツ(Jets)が、マドラス(現チェンナイ)ではヘリオンズ(Hellions)が、カルカッタ(現コルカタ)ではキャヴァリアーズ(Cavaliers)が産声を上げ、新しい刺激を求めるミドルクラスの若者たちは、地元のビートグループに熱狂した。

 しかしながら、1960~70年代のインドは、ロックバンドが職業になるような時代ではなかった(今もほとんど変わっていないが)。彼らの多くは、学生時代が終わると髪を切って就職し、バンド活動をやめてしまう。

 タバコ会社が主催したイベントの出演バンドによるコンピレーション盤「Simla Beat 70/71」は、当時の雰囲気を伝える数少ない貴重な音源だ。原始的な機材で録音された楽曲(ほとんどがカバー曲)は、結果的にサイケ/ガレージロックのようなサウンドになってしまったため、意図しなかったところで一部の好事家に評価され、このアルバムはCDでも再発されている。

 ビートグループ出身者の中には、ごくわずかだが、世界的な成功を手にした者たちもいる。トロージャンズの中心メンバーだったビドゥ(Biddu)は、バンド解散後にイギリスに渡ってプロデューサーとして活躍。1974年にはジャマイカ出身のカール・ダグラスを起用し、ディスコ・ソング「Kung Fu Fighting」を大ヒットに導いた。インド人プロデューサーがジャマイカ人シンガーに中国のカンフーをモチーフにした曲を歌わせるというのはなんとも無茶苦茶だが、インド、ジャマイカ、そして当時ブルース・リーのカンフー映画が注目を集めていた香港は、いずれもかつてイギリスの植民地だったという共通点を持っている。この曲は典型的な一発屋ヒットとして知られているが、そこには旧植民地出身の若者たちが、かつての宗主国・イギリスの音楽シーンでチャンスをつかもうとした、その創意と情熱が刻み込まれているのだ。

 ビドゥは日本とも浅からぬ縁がある。渡英から間もない1969年、彼は、沢田研二が在籍していたザ・タイガースがロンドンで録音した「Smile for Me」という曲のプロデュースをしているのだ。ビドゥと日本との縁はこれだけで終わらず、80年代には、中森明菜が英語で歌った「Don’t Tell Me This is Love」(1985年)、「THE LOOK THAT KILLS」(1987年)の作詞・作曲も手掛けている。「LOOKS THAT KILLS」の日本語版「BLONDE」はザ・ベストテンで3週連続1位を記録する大ヒット曲となった。

 ビドゥは90年代には母国に凱旋。彼は第1回の「踊るインド人と映画音楽」で紹介したアリーシャ・チナーイー(Alisha Chinai)の「Made in India」などのヒット曲を手がけ、「インディ・ポップ」ムーブメントの仕掛け人として活躍した。イギリス、日本、インドの3カ国の歌手をプロデュースしてヒットさせたことがあるのは、彼くらいのものだろう。             

 今よりずっと保守的だった当時のインドから、海外に渡って音楽シーンに名を残した女性もいる。ムンバイ出身のアシャ・プトゥリ(Asha Puthli)は、アメリカに渡ってジャズ/ソウルシンガーとして活躍。ジャズ界の名サックス奏者オーネット・コールマンらと共演し、アルバムを発表した。彼女の曲はラッパーのジェイZや50セントにサンプリングされるなど、ジャンルを超えた評価をされている。

 彼女はアンディ・ウォーホルとも交流があったそうで、ウォーホルが手がけたローリング・ストーンズの名盤『スティッキー・フィンガーズ』の挑発的なアートワーク(ジャケットにあしらわれているジーンズ姿の男性の股間部分に開閉可能な本物のジッパーがついている)の発想は、彼女が出したアイディアだったとも言われている。この世代のインド人女性にしては、かなり尖ったセンスの持ち主だったのだろう。

 ビートグループ出身の最大スターは、ボンベイから250キロほど離れた避暑地パンチガニのハイスクール・バンド、ヘクティクス(Hectics)出身のファルーク・バルサラ(Farrokh Bulsara)だ。パールシー(かつてペルシアからインドに渡って来たゾロアスター教徒)の家庭に生まれた彼は、のちに家族とともにイギリスへ移住。類まれな声を持っていた彼は、英語風に改名し、イギリス人たちとバンドを結成して、世界的スターの座へと駆け上がった。みなさんご存じのクイーンのフロントマン、フレディ・マーキュリーのことである。

 世界中をとりこにしたクイーンの派手で劇的なパフォーマンスや大仰なアレンジには、ノリが良くて感情表現豊かな、彼のインド的な気質が影響しているような気がしてならない。

 

インドのロックシーンとフュージョン・ロック

 ビートグループの時代は長く続かなかった。1970年代に入り、アメリカのヒッピー・ムーブメントが落ち着きを見せた頃、今度はインドに学生運動の波がやってくる。いっこうに変わらない社会の不平等や、強権的なインディラ・ガーンディー首相に対する怒りが、若者たちに抗議運動を起こさせた。

 皮肉なことに、インドでは、現在にいたるまで、ロックが「労働者階級の若者たちの反抗心に満ちた音楽」だったことはない。急速な経済発展を遂げた今日でも、たくさんの楽器や機材やスタジオを必要とするロックは、電子音楽やラップと比較して依然として「お金がかかる」ジャンルだ。欧米では反体制の象徴だったロックは、インドでの学生運動の過熱に伴い、ファンの中心だった若者たちから、「搾取する側の音楽」と見なされるようになっていった。その頃、世界的にもロックバンドが音楽シーンの花形だった時代は終わりを告げ、ディスコ・ミュージックの台頭が始まる。ダンス好きなインドの若者たちは、すぐにディスコのビートに夢中になっていった。

 それでも、インドのロックの灯が完全に消えてしまったわけではなかった。キャヴァリアーズ、フリントストーンズ(Flintstones)、カルカッタ16(Calcutta16)といったバンドで活動していたカルカッタのミュージシャンたちは、ハイ(High)というバンドを結成、グレイトフル・デッドやピンク・フロイドらに影響を受けたスタイルのロックを演奏し、1990年まで活動を続けていた。デリー出身のシンガー・ソングライター、ススミット・ボース(Susmit Bose)は、時代の変化の影響を受けずにボブ・ディラン風のフォークソングを歌い続けた。彼が1978年に5,000枚のみプレスしたデビューアルバム「Train to Calcutta」は、のちに高く評価され、一時期は1,000ドルを超える価格で取引されたこともあったという。彼は2000年以降も積極的に活動を続けており、幻とされていた初期の作品を含めた音源は、2020年に「Then & Now」というタイトルで再発売されている。

 90年代に入ると、インドのロックシーンは、インダス・クリード(Indus Creed)やパリクラマ(Parikrama)などのハードロック・バンドの時代を迎えた。依然として一部のファンがシーンを支えている状況は変わらなかったが、2010年代にインディペンデント音楽シーンが飛躍的な成長を遂げると、状況は一変。さまざまなジャンルのロックバンドがインド各地から登場し、耳の肥えた新しい世代のリスナーの注目を集めるようになったのだ。

 ヴィンテージなポップサウンドを奏でるデリーの「ピーターキャット・レコーディング・カンパニー」(Peter Cat Recording Co.)や、コルカタのソフトロック・デュオ「パレク&シン」(Parekh & Singh)のように、インドらしさのまったくない楽曲を海外のレーベルからリリースするバンドも珍しくなくなってきた。彼らやイージー・ワンダリングス(Easy Wanderlings)、ウェン・チャイ・メット・トースト(When Chai Met Toast)の音楽を聴けば、ビートルズの遺伝子がインドのバンドにも確実に受け継がれていることがわかるだろう。

 一方で、ベンガルールのアガム(Agam)やデリーのアナンド・バスカル・コレクティブ(Anand Bhaskar Collective)のように、ロックに古典音楽を取り入れた、インドならではのスタイルで活動しているバンドもいる。彼らのような音楽ジャンルは、インドでは「フュージョン・ロック」と呼ばれている。かつて欧米のバンドがロックに流用したインド音楽を、インドのアーティスト自らロックに融合する時代がやってきたのだ。

 フュージョン・ロックを聴いていると、欧米のロックバンドとの面白い対比に気が付く。欧米のミュージシャンがロックにインド音楽を取り入れるときは、たいていシタールやタブラといった楽器の音色を加えることが多い。ところが、インドのアーティストの場合は、楽器よりも伝統的な歌唱スタイルを中心に据えたアレンジにすることが多いのだ。インドの古典音楽の基礎は声楽だと言われているが、こうした音楽の捉え方の違いが、スタイルの違いにも現れている。

 例えば、デリーのパクシー(Pakshee)というバンドには、北インドの古典であるヒンドゥスターニー音楽をルーツに持つヴォーカリストと、南インドの古典であるカルナーティック音楽をルーツに持つヴォーカリストの二人が在籍している。彼らはジャジーかつファンキーなグルーヴに乗せて、それぞれヒンディー語とマラヤーラム語で個性的な歌声を聴かせてくれる。ときにラップやジャズピアノ的ソロも飛び出すフュージョン感覚がインド的かつ現代的だ。

 バンガロールのパイナップル・エクスプレス(Pineapple Express)はさらにジャンルの混合が進んだカテゴライズ不能なバンドで、プログレッシブ・ロック、古典音楽、ヘヴィメタル、ジャズ、EDMが渾然一体となった彼らの音楽性は、インド以外の国では絶対に存在し得ない雑食スタイル。プログレッシブ・ロック的な複雑なリズムに古典音楽の影響が感じられるのも面白い。

 インドの要素を巧みに取り入れて、世界的な成功を収めたバンドも登場している。デリーのヘヴィメタルバンド、ブラッディウッド(Bloodywood)は、インド声楽やパンジャーブ地方の打楽器「ドール」をメタルサウンドと融合させたユニークなスタイルが特徴だ。2022年にフジロック・フェスティバルに出演したときのライブ配信では、日本でX(旧Twitter)のトレンド1位を記録するほどの反響を呼び、今では世界各地を回る大規模なツアーを成功させるほどの人気バンドになった。

 もともと国内外のヒット曲をメタル風にカバーするユーチューバーとして活動を始めた彼らは、世界の注目を集める方法を良く分かっていたのだ。自国のカルチャーをキャッチーな形でヘヴィメタルと融合する方法論は、日本のBabymetalとも近いものがあるが、彼らの新作「Nu Delhi」では、そのBabymetalとのコラボレーションも実現させている。

 

インドからビートルズへ 53年越しの回答

 話をビートルズに戻そう。

 彼らのリシケーシュ滞在から半世紀以上が経過した2021年、インド国内のミュージシャンと在英インド系ミュージシャンによるトリビュート・アルバム「Songs Inspired by the Film: the Beatles and India」がリリースされた。タイトルにある「The Beatles and India」というのは、『インドとビートルズ』の著者であるアジョイ・ボースによるドキュメンタリー映画である。収録曲は、ビートルズがリシケーシュ滞在時に書いたホワイト・アルバム(1968年発売の2枚組「ザ・ビートルズ」)の曲を中心に、ジョージによるインド古典風ソングやジョンのソロ作品など、多岐にわたる19曲。

 このアルバムで、インドのアーティストたちは、他の国のミュージシャンには成し得ない独自のアプローチで、ビートルズの楽曲を再解釈し、リスペクトを込めて表現している。この作品は、いわば、インドからビートルズへの53年越しの回答とも言えるアルバムなのだ。最大の聴きどころは、ビートルズがしようとしていたロックとインド音楽の融合を、本場ならではのセンスと技術力で、見事に成し遂げていることだろう。

 ポールがマハリシに触発されて書いた「Mother Nature’s Son」をカバーしているのは、クラブミュージックから映画音楽まで幅広く活躍しているタブラ奏者兼電子音楽家のカーシュ・カーレイ(Karsh Kale)と、インド古典音楽とR&Bの両方が歌えるシンガーのベニー・ダヤル(Benny Dayal)。比較的シンプルな原曲に対して、彼らのバージョンでは、古典声楽風のヴォーカルやパーカッションが大胆に取り入れられ、インドの要素とビートルズの要素がドラマティックに融合している。

 バーンスリー(フルートのようなインド楽器)とタブラの響きが華を添えた「I will」や、ニューエイジ的なサウンドを取り入れた「Across the Universe」では、原曲の美しいメロディーを、インド風のアレンジでより美しく際立たせている。名料理人がスパイスを巧みに使って、定番の料理の雰囲気をがらっと変えてしまったような趣きだ。

 原曲の「インド化」の中でもっともグッと来るのが、ジョージのシタールの師匠ラヴィ・シャンカルの娘であるアヌーシュカ・シャンカルとカーシュ・カーレイによる「The Inner Light」だ。原曲は、ジョージがインドのミュージシャンたちとインドの楽器のみで演奏した曲で、おそらく多くのファンにとって、過剰なインド趣味がちょっとやりすぎに思える曲だろう。このインド風ビートルズ・ソングに、アヌーシュカとカーシュは、本物の伝統楽器奏者としての演奏と神秘的なコーラスで彩りを加え、「本当はこういうことがやりたかったんでしょ? まかせといて」と言わんばかりの感動的なバージョンに仕上げている。かつての師の娘によるこの素晴らしいカバーを、ぜひジョージにも聴いてもらいたかったと思うのは、私だけではないだろう。

 このアルバムのもうひとつの聴きどころは、もともとインド的なサウンドが入っていた曲の「脱インド化」だ。

 コルカタのパレク&シンは「Norwegian Wood」を美しいドリーム・ポップに再アレンジし、デリーの電子音楽アーティスト、キス・ヌーカ(Kiss Nuka)は、ジョンが「数千人ものチベット僧が経典を唱えている」というイメージで作った「Tommorow Never Knows」をエレクトロ・ポップとしてカバーしている。90年代のケミカル・ブラザーズを30年近く先取りしていたこの曲を、そのさらに30年後に、インドのアーティストがまた別の解釈でカバーしているというわけだ。

 このアルバムの最後を飾るのはジョン・レノンの「India, India」という曲。ジョンが亡くなる直前の1980年に書いた未発表曲で、2010年にボックスセットに初めてデモ音源が収録された、ほとんど無名の曲である。私もこのアルバムでカバー・バージョンを聴くまでこの曲の存在を知らず、ジョンが晩年にインドへの思いを綴った曲を書いていたことに驚いた。

 ジョンはリシケーシュ滞在中にマハリシの俗物的なふるまいに嫌気がさして訣別し、その後「Sexy Sadie」(このアルバムでもカバーされている)で痛烈に批判している。ソロ転向後にも、「God」という曲で「マントラ(神への賛歌)もギーター(聖典)もヨガも信じない」とインドの影響を明確に否定しており、私は70年代以降のジョンは、すっかりインドに興味がなくなったものと思っていた。だが、この曲を聴けば、ジョンが、その後もインドという国に、ナイーヴなほどの愛情を持ち続けていたことがよく分かる。

 ラフなデモ音源しか残されていなかったこの曲をカバーしたのは、ムンバイのシンガーソングライターのニキル・デソウザ(Nikhil D'Souza)。彼は、未完成のままとなっていた曲を、ジョンらしい雰囲気を残しつつも、インドの音色を加えた美しいアレンジで完成させてみせた。時代と国境を超えたコラボレーションに、思わず胸が熱くなる。

 

 音楽は輪廻する。

 60年近く前に結ばれたインドとビートルズとの関係は、まるで波紋のように、世界中の文化や音楽に広がり、その余韻を響かせている。かつてビートルズがインドからインスピレーションを得たように、インドのアーティストたちもまた、ビートルズから影響を受け、それを新しい音楽として表現してきた。ビートルズが20世紀の音楽にもたらしたレボリューションは、まるでバタフライ・エフェクトのように、今もなお、時代と場所を超えて、連鎖し続けている。

 

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著者略歴

  1. 軽刈田凡平

    1978年生まれ、東京都在住。インド音楽ライター。
    学生時代に訪れたインドのバイタリティと面白さに惹かれ、興味を持つ。
    時は流れ2010年代後半、インドでヒップホップ、ロック、電子音楽などのインディペンデント音楽のシーンが急速に発展していることを発見。他のどの国とも違うインドならではの個性的でクールな表現がたくさん生まれていることに衝撃を受け、ブログを通して紹介を始める。
    これまでに、雑誌『TRANSIT』『STUDIO VOICE』『GINZA』などに寄稿、TBSラジオ、J-WAVE、InterFM、福井テレビなどに出演しインドの音楽を紹介している。
    また、インド料理店やライブハウスでインドの音楽に関するトークイベントを行ったり、新聞にインド関連書籍の書評を書いたりするするなどマルチに活躍中。
    国立民族学博物館共同研究員。『季刊民族学』192号(2025年春号)にて、ムンバイのヒップホップシーンを取材して執筆している。
    辛いものが苦手。

    著書(共著)『辺境のラッパーたち 立ち上がる「声の民族誌」』(青土社、島村一平[編])

    ブログ(アッチャー・インディア) https://achhaindia.blog.jp/


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