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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

父と母(1)――学者のような職人と超絶社交家

 

「ケンちゃんのお父ちゃんは学者みたいなひとだったが、お母ちゃんはすごかった。ガラガラ、こんちわって玄関の戸を開けたかと思うと、もう茶の間に座ってた」。

 

小学校のクラスメート野本(現遠藤)敏明君は、同窓会で出会うと、こう話しかけてきた。この描写力にわたしは驚き、感服した。父と母の姿が彷彿とする。わたしは不意打ちをくらった態だった。肖像としては、この一筆書きに尽きる、とさえ言える。わたしにできること、これからわたしの書くことは、この野本発言の肉付けにすぎない。

 

 

まずは父から。父は明治25年の生まれだ。明治は、令和のひとにとって、わたしにとっての江戸時代のようなものだろう。子供のころ父の回顧談を聞いて、「むかしのことだなあ」と思ってはいたが、その「むかし」は、同じ舞台装置のなかで起こったすこし前の出来事とその情景のことだった。その連続的な距離感は、いまや断絶に変わっているかもしれない。そう思って、次の話は聞いていただこう。

 

父の回顧談と言ったが、父は、いくつかのエピソードを除けば*、好んで自らの昔を語るひとではなかった。小学校のとき、家のむかしのことを訊いて来なさい、というような課題が出された。いまなら個人情報への配慮からありえない宿題だが、担任の先生は何を考えてらしたのだろう。とにかくそういう機会があって、父にインタビューした。父の来歴を訊ねたのは、このときだけだ。話のなかでもっとも強い印象を受けたのは、戸籍のことである。父は養吉という名だが、子供のころは孝太郎と呼ばれていたそうだ(コウタロウに充てた漢字はわたしのもので、実は違う表記だったのかもしれない)。幼少期に一緒に育った高橋徳蔵さんやその周辺の人たちは、あとになっても父を「コウタロウさん」と呼んでいた。なぜ二つの名前があるのか。父の説明はこうだった。孝太郎という長男風の名を与えられた父だが、少し上に養吉という男子がいた。その養吉は幼くして亡くなったのだが、その死亡届が記録されず、一方、孝太郎の出生届も記録されなかったので、父は戸籍上、養吉となった。――こんなことがあるだろうか。明治20年代の地方の役所の理解では、戸籍は江戸時代の人別帳の延長だったであろう。統治者の状況把握の道具であって、現在のように、当人の存在証明の基盤となる記録という厳密さの意識はなかったかもしれない。

 

      *夕餉の席で、上機嫌だと、例えばこんな話をした。10代のころだろう。あとで言及する山崎に住んでいたとき、(細部は忘れてしまったが)、どこかの家の蔵に破れ目ができ、そこから見えた樽から、麦藁をストロー遣いにして酒を飲んだこと(その後、父は全くの下戸になった)。家で飼っていたブルドックが父に懐き、その座布団に誰かが座るとうなって威嚇し、自分でそこを占領して、父の座を守ったこと。以下に出てくる自身の父が無類の蕎麦好きで、或る建てまえのとき、ざるそばを10枚くらい平らげたあとで、残っていた天ぷらそばを3杯食べたこと、などだ。これはすごい、これには参ったというときには、右手で額を軽くポンと打った。

 

聞かされたこの事実には、子供のわたしでも得心がいかなかった。しかし、宿題のリポートには(やや後ろめたさを感じつつ)そのように記した。「(届を無視するという)同じことが繰り返された」と書いたそのフレーズが、はっきりと記憶にある。いま、孝太郎が養吉になったという事実を、もう少しもっともらしく考え直してみると、次のようなことではなかったか。もとの養吉が、孝太郎(すなわちわたしの父)より年長だったのか、年下だったのかは分からない。ともあれ二人はともに生存している期間があった。そしてあるとき、養吉が亡くなり、届が出されたのだが(おそらく口頭の届を窓口のひとが書きとる方式)、それを受け付けた担当者が、誤って孝太郎の方を死亡したと記載した。――ことの真相は、父の父(わたしの祖父)の除籍戸籍を見れば突き止められそうに思うが、この請求手続きが煩瑣でかつ難しく、取得できていない。事実が判明すれば、父の実年齢は戸籍上のそれよりも、若いか歳とっているかという可能性がある(父の享年は81歳ということになっているが、それが変わってくる)。

 

父が函館生まれであることは戸籍に記されている。父の父(わたしの祖父)は「渡波(わたのは)の船大工」だった(家の居間の長押にかかっていた肖像画では、立派なカイゼル髭を蓄えていて、とても力仕事のひととは見えなかった)。渡波(今は石巻市)に生まれたひとが、どうして函館に行ったのかは分からない。北洋漁業の基地函館には、船大工としての仕事があったのだろう。その函館に生まれた父は、なぜか、宮城県飯野川町郊外の山崎(現在の地名で言えば、石巻市相野谷)の母の実家で育った。かつて一度、その高橋家に連れて行ってもらったことがあるが、庄屋クラスと見える大きな農家だった*。そこは上記の高橋徳蔵さんの実家で、徳蔵さんの母と父の母は姉妹だった(徳蔵さんの長女志げさん〔現狩野姓〕の証言)。そこで高等小学校まで学ぶことができたのは、時代と父の境遇から見れば、恵まれていたと言うべきだろう。同じく志げさんの証言では、当時の父を知る人は、父が頭のいいひとだった、と記憶していた、という。事実、父は知力に秀でていたと思う。長兄の受験勉強のとき、算数の解らないところを教えた。そろばんで鶴亀算のような(わたしは和算の問題、あるいは解法の名をほかに知らない)無用に込み入った問題を解いてみせ、「答はこうなる。どうしてそうなるかは説明できないので、自分で考えなさい」と言ったそうだ。

 

      *これも志げさんによれば、戦中、父は山崎への疎開を考えたらしい。母と姉、それに乳児(あるいは幼児)のわたしを連れて行き、山崎の家に1週間から10日ぐらい滞在した、と言う。これはわたしには初耳の事実だ。この家で暮らしてから30年以上経っていた計算だが、わが家と思う意識があったのだろう。わたしが訪ねたのは学生のときで、父は70代になっていた。山崎の家をわたしに見せてやってくれ、と徳蔵さんに頼んだのは父だった。

 

おそらく召集されたのを機に、父は山崎を離れ、旭川の連隊に陸軍二等兵として入隊した*。そして除隊後、函館に戻り、そこで起業していた兄のもとに弟子入りし**、菓子職人になった。ケーキや和菓子ではない。駄菓子だ。血縁地縁に頼ることの多かった風土のなかでは、ほかの選択肢を考えることなどなかったのだろう。母と知り合ったのも函館だった。一定の技能を身につけた父は、おそらく母と一緒に、大正年間のあるとき上京し、開業した。父へのインタビューで記憶に残っているひとつの観察された事実がある。関東大震災のときのことだ。隣同士の家の軒がぶつかり合うのを見て、それを父は鮮明に覚えていた。戦災で焼け残った下町の家は、隣同士が非常に近い距離にあるのが、いまでも見られる。そういう家同士の話だ。

 

      *わたしの知人のなかに、旭川生まれのひとが3人もいる。これは予想される数を超えている。それぞれの方の事情は知らないが、土地の性質上、先祖代々ということはあるまい。なかのおひとりが国文学者の多田一臣さんだが、旭川は軍都だったと教えてくれた。わたしのまったく知らなかった事実だ。一度だけ、旭川を訪ねたことがある。心の片隅には、父の足跡を訪ねたいという気持ちがあったと思う。主目的は美術館で、ここのコレクションは立派だった(また公道に多くの彫刻作品が置かれ、パブリック・アートの政策という点でも注目に値する)。その近くにかつて陸軍の将校クラブだった建物があるのを知り、そこにも行ってみた。二等兵の近寄れなかった西洋風の瀟洒な社交空間で、そのような場所のあることさえ、父は知らなかったかもしれない。

      **そのひとが兄であったことは間違いあるまい。父より先に一家をなしていたのだから。わたしが小学3年生くらいのときだったと思う。そのひとは冬に亡くなり、父は葬儀に参列するため、函館に行った(帰宅したのが雪の早朝だったことを覚えている)。数年後、その息子、つまりわたしの従兄が東大受験でわが家に寄宿し、さらにその夏再訪してきた。そのかれが帰るのにくっついて、わたしは函館を訪ねた(初めての大旅行だった)。養吉-孝太郎の関係を別にしても、この兄の存在は、父が長男でないにも拘らず孝太郎という名だったという不思議さを更に鮮明にする。祖父の墓を立派に造ったのも父だった。なぜ、函館の伯父ではなかったのだろう。

 

インタビューのなかで最新の事件は、次女千江の死だった。千江は野球のボールを背中にぶつけられたのがもとで、肋膜炎を患い15歳で亡くなった(いまなら、間違いなく助かる病気だ)。居間の長押には、やはり写真から制作された肖像画がかかっていたが、端正な面差しの美少女だった。しかも千江は、父の血を引いて非常に聡明な(よくできる)少女だった。学校の成績は1科目を除いてオール甲で、その1科目は毎年替わった。1科目を乙にするのは、男子生徒をクラス1番にするためだ、と父は承知していた。あるとき、書道に乙がつけられた。これに落胆した娘を見て、父は抗議した。家には千江の書が残っていた。楷書だが、子供の字ではない。悪筆のわたしは飽かず見とれた。母や姉は千江をチコちゃんと呼んでいた。80歳を過ぎた姉が、老い先の長くないことを認識し、わたしに依頼してきたのは、チコちゃんの供養をしたいのでお寺に連れて行ってくれ、ということだった。チコちゃんは家じゅうでもっとも優秀な子供で、アイドルだった。わたしが生まれたのは千江の死から2年余りのちのことだが、家の喪失感を埋める意識がはたらいたのだろう、わたしはその生まれ変わりと言われていた。その愛娘を喪ったときの思いを訊いた(課題のなかに、そのような示唆が含まれていたのだと思う)。父の答えは「何もする気がなくなった」という通り一遍のものだった。いまは、それが想像を絶する痛恨事であったろうということが分かる。想像上のことにすぎないのだが、身を焦がすように分かる。

 

父は子煩悩なひとだった(外出すると、チョコレートか何か、小さなものでも子供らに買って帰った、と言う)。入営した次兄のため、饅頭と赤飯を蒸かし、満員の長距離列車に揺られて、加古川に見舞ったことや、帰った兄のためにどぶろくを造ってやったことは、既に書いた(⇒『とりどりの肖像』15「姉の青春、兄の青春」)。わたしの幼少期について言えば、たまの休みには、新宿のデパートか浅草に連れて行ってくれた(浅草はわたしが生まれる前、一家が長く暮らした土地だ)。デパートも見て歩くだけ(しかし、焼け野原とは異なる輝く近未来空間だった)、浅草まで遠出しても、わたしの好きな五目そばを食べて帰ってくるだけだった。野球にも連れて行ってくれた。最初は、昭和25年オフシーズンにやって来たアメリカの選抜チームの試合だった。その同じ神宮球場で早慶戦を見たこともある。当時は人気のイヴェントで、満員だった(入場券を入手するのも容易ではなかった)。その後はもちろんプロ野球。父はジャイアンツ・ファンだったが、後楽園球場へ観に行くのは、決まってわたしのひいきのオリオンズの試合だった。

 

記憶に焼きついた父の姿が二つある。ひとつは白井村名内の疎開先で(⇒「姉の青春、兄の青春」)、座って火床に向かい、孜々として瓦せんべいを焼くすがただ。《砂糖なしでも甘いせんべい》を考案し、それを造って独り家計を支えた。50代前半で気力がみなぎっていた。源兵衛さんとともに、サトウキビから砂糖を作ろうとしたのもこの疎開中のことだ(⇒『スヴニール』27「源兵衛さん」)。仮寓していた寺の離れで、幼児のわたしが椅子に乗って電蓄(電気蓄音機)にもたれ、1日中レコードを聴いては、そのまま寝入ったりするのをみて、あるとき頭に血がのぼった父は、一抱えのレコードを庭に叩きつけた。脆いSPレコードは砕けて、風呂のたきぎになった(わたしは身も世もあらぬほど泣き叫んだ)。

 

柏木にもどってから、60歳前後になった父は、病床に伏すことが多くなった。胃潰瘍だった。上を向いた姿勢で微動だにせず寝ている静かで端正な姿が、わたしの瞼にやきついた。父が最期を迎えたのは、結核にかかって入院した専門病院の一室でのことだったが、そこにも同じ姿勢の父がいた。その姿、その姿勢に感情移入したわたしは、いまも、上向きに寝床に入ると、父の静かな諦念を身に覚えることがある。胃潰瘍について言えば、ひと夏、万座温泉に湯治に出かけたこともあり、わたしも連れて行ってもらった(草軽電鉄が走っていたころの山奥の秘湯だ)。当然、即効性はなく、手術を受けるほかはなかった。難しい手術だったらしい(国立第一病院)。終わらないうちに麻酔が切れた。戻りかけた意識のなかで、父は「痛えな」とつぶやいた。縫合中だった。お医者さんは、「痛えか。もうちょっとがまんしてくれ」と言った。父は何も言わず、麻酔の切れたまま、縫合の針を受けた。父は我慢強いひとで、耐えることを美徳とする心性が、わたしのこころにもどこか刷り込まれている。

 

遅くなったが、相貌について一言しておこう。身長は170センチくらいあり、その世代としては長身だった。痩身ではあったが、力仕事もこなした。おしゃれだったと思う。和装はもとより、洋装でも中折れ帽や(夏なら)パナマ帽がよく似合った。しかし、おしゃれにお金を使うことはなかった。何ごとにつけても質素が身についていた。食べ物では、うなぎは別格として、ヤナギがれいと奈良漬けが好きで、酒はおちょこ1杯で顔が赤くなった。好物があっても特にそれを求めるではなく、粗食に甘んじた。

 

わたしは父さん子だったが、姉はそれ以上で、父を神格化していた。90歳に近くなったあるとき、「父さんはすごかったね、何でもできたね」と言って、顔を輝かせた。エレクトラ・コンプレックスだと思った。何でもできたわけではなかろう(たとえば、スポーツは、やらせてみてもだめだったと思う)。しかし、例えば記憶力はすごかった。本業の菓子作りについて言えば、一度身につけた技術は、忘れずそのレシピを記憶していて、しかもそれをアレンジすることができた。子供のころ、端午の節句には蒸籠いっぱいの柏餅をつくってくれたが、これは本業の駄菓子のレパートリーにはなかったものだ。また、ある時、わたしは五月飾りのなかの兜をかぶりたくて、顎ひもを解いてしまった。これは独特の結び方をしている飾り紐だ。わたしはもちろん叱られたが、問題はそれをどうやって元通りにするかだ。呻吟しつつ父は、10分くらいでこれを復元した。わたしはほっとするだけでなく、子供心に驚嘆した。父は、かつてそれを結んだことがあったわけではない。ちらっと目にしただけの複雑な編み方を再現するのは、異例の能力だ。

 

父は手仕事が好きだった。わたしの机の上に二つの書架が置いてあり、ノートや書類を収めてある。そのうちのひとつは、後の補修が加わっているが、小学校のときに作ったものだ。焼き板が課題で、杉板の表面を焦がし、炭化したところを縄やたわしなどでこすり落とすと、腐食しなくなるだけでなく、木目が浮き上がって美しくなる、という技法だ*。こういう宿題の常として、父が手伝ってくれた。と言うより、父がやってくれた、という方が正しい。わたしは、燃やして大丈夫なのか、とただ心配していた。父は手慣れた風で作業をこなした。どこかで習得したもののようだ。美しく仕上がっているのを見れば、父の手になるものだとわかる。「仕事を見れば作者が判る」(ラ・フォンテーヌ)。

 

      *これは多分図工の課題だったのだと思うが、家庭科の課題を思い起こすと感動を覚える。調理実習では、質素ながら、油揚げと人参の炊き込みご飯に、ホウレンソウのおひたしと卵とじの吸い物を作った。裁縫ではくけることを教えられたし、運動会のパンツを製作した(言われるままに、当日、わたしはそれを着用したが、お尻の部分の縫い目が破れて恥ずかしい思いをした。級友たちは制作品を下着にし、上に市販のパンツを穿いていた)。すごいと思うのは染色で、絞り染めとろうけつ染めを実習した。これらは英語を習わせたり、コンピューターのプログラミングを教えたりするのとは、明らかに違う世界観によるものだが、わたしは豊かさを感じる。いまの子供たちもろうけつ染めを習っているだろうか。

 

父の手仕事ではもうひとつ、忘れられないことがある。これも名内でのことだ。CD世代のひとには、SPレコードについての説明が必要だろう。それが割れやすいものであることは上に書いた。SP盤の主原料は、カイガラムシの分泌物由来の樹脂シェラックである(と、ものの本に書いてある)。戦争で物資が乏しくなると、これも入手が難しくなったのだろう。盤の芯にボール紙を入れた粗悪品になった。これは純正のシェラック盤よりさらに弱い。ただ、よい面もあり、割れても細分化することなく、ひびの入った状態で盤面が残った。そのようなレコードを父は修復してくれた。完全に欠けてしまわないように、キリの先を焼いて盤の欠けそうな部分の外周部に二つ穴をあけ、針金を通して固定する、という工夫だ。しかし、わたしがすごいと思っているのはそれではない。この粗悪な盤は、中心のスピンドル・ホールの部分も弱い。その穴がくずれて広がってゆくものがあった。「お国の紀元二千六百年……」と始まる童謡のレコードで、愛聴した結果だ。好きだったからさらに聴きたかった。しかし、スピンドル・ホールのえぐれた状態の盤は、ターンテーブルに載せて回すと、ゆらゆらとぶれてしまって、音楽にはならない。そこで父は、木の板を削り、眼のようなかたちに広がったその穴にピッタリはまるように仕上げ、さらに、正確に盤の中央となる位置にスピンドル・ホールを空けた(これがずれると、始めから終わりまで音の揺れを起こす)。このようにして補正されたこのレコードを聴いたはずだが、残念ながら、手元に残っていない。「父さんはすごかった。なんでもできた」。

 

これもインタビューできいたことだったろう。歳をとったら何をしたいのか、と訊ねた。答えは意外なことに、「下駄屋をしたい」だった。不思議とは思ったが、何故なのかと問い返すことをしなかった。下駄は当時まだ日用の履物で、家の近くにも下駄屋さんが一軒あった。そこの主人がやっているのは、客に合わせて下駄のサイズを選び、それに鼻緒を通して、緩み加減を見ながら長さを調整することだけだ。これが面白い仕事なのか。あるいは、父は下駄の本体を作ることを考えていたのだろうか。父としても、日ごろ考えていなかったことを尋ねられ、とっさに出した答えに過ぎなかったのかもしれない。手仕事が好きだったことは、確かだ。父の小さな世界のなかで探せば、その職業は下駄屋だった、ということだろう。

 

何が原因だったのか、もう分からないが、金槌をもって追いかけられたことが一度ある。そのときは怖くて必死で逃げた。しかし、思い出すのはその件だけで、あとはわたしのすることや進路について、何も言わなかった。その父が、一度だけアドヴァイスをくれたことがある。いや、二度だ。その二度は相関している。大学卒業後の、つまり人生の選択のときのことである。いまの学生たちの意識には比べるべくもない、牧歌的な時代ではあった。それでも多くの学生たちは、4年になる頃には、就職試験に備えて、新聞の1面を読むというような準備をしていた。そのことを知ったのは後のことで、わたしは、愚かにも、学生生活の延長くらいにしか考えていなかった。志望していた会社の試験に軒並み落ち、唯一補欠合格を出してくれた会社(それはあまり志望度の高くない分野の会社だった)だけが可能な選択肢、という状況に追い込まれた。そのとき、父は、押しつけがましい言い方ではなく、「大学院へ行ったらどうか」と勧めてくれた(父が「大学院」を知っていたことに、いま、小さな驚きを覚える)。「勉強」が好きではなかったわたしは、即座に拒否した。だが、そのころ既に婚約していたヒロコからも、同じことを言われた。反省してみると、大学の学問には勉強とは異なる面白さがある、ということに気づいた。結局わたしは、この二人の忠告に従って、今日まで生きてきたことになる。いま、自身の性格を多少は客観的に見ることができるようになって思うに、これ以外の仕事に従事していたなら、間違いなく挫折していただろう。父は息子の適性を見抜いていたらしい。この示唆は、同時に、自身では夢見ることもできなかった生き方を、窺わせるものでもある、と思う。

 

わたしが研究者になろうと決意した少し後で、二度目のアドヴァイスがあった。この分野で職を得ることが容易でないことを覚悟し、次善の策として、中高の教員免許を取ろうと考えた。一般社会に出たひとを含め、多くの仲間たちがしていることだった。しかし父は、今度はやや強く、それをやめるように言った。理由は、安全策を講じておくと、それに頼りがちになる、ということだった。すなわち、退路を断って志望した道を進め、ということだ。これは父の人生訓だったと思う。父は住む家、仕事場となる工場の敷地を買うことをせず、必ず借地した。それは自身に課したこの禁欲的な道徳律によるもの、とわたしは確信した。

 

柏木に戻ってから、いっとき家業は繫栄した。しかし、知らぬ間に、その経営が苦しくなっていることを、子供のわたしも肌で感じていた。あとで姉に教えられたのは、大口の詐欺にあったためだ、ということだった。取引高を上げて行って信用させ、売掛金が多額に積み上ったところで偽装倒産する、という手口だった。その後も、父は新商品を考案する努力を怠らなかったが、病に苦しんでもいた。傾いた家運を盛り返すことは容易ではない。自身の病や衰えてゆく体力と闘いながら、新商品の開発に勉めた。結局、工場をたたむことになったとき、この新商品の生産を継承してくれるひとをさがした。完成まで試行錯誤を重ねた末の自信作で、自らの生きたあかしを世に残したい、と思ってのことだったろう。受け継ぎたいというひとが見つかり、そのひとに製法を教えに通うとき、父は生きいきとしていた。そのあとは、忍従と諦念の哲学が老後の杖となった。最後の数年を過ごした結核の病院も、世の煩いから離れて、居心地のよいところだったのかもしれない。二つの新聞(ひとつはスポーツ紙)を購読し、それを丹念に読む、というより学習する日々だった。

 

父の生涯は幸せなものだったろうか。わたしが懐かしく思うのは、名内の頃、さらに柏木に戻ったころの父で、気力が充実していた。そのような言わば絶頂期にあっても、父は自身の生き方に満足していただろうか。仕事を嫌っていたわけではない。菓子作りにも創造的な意欲を懐いていた。しかし、境遇が許すなら、「頭のいい孝太郎さん」には別の人生があったのではなかろうか。自身ではそれを不幸と思うまでもなく、おそらく、考えることさえなかった。そんな父に、わが身の幸せを済まなく思う気持ちが、わたしのなかにはある。

 

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、『とりどりの肖像』(春秋社)、ほか。

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