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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

ヴィットリオ・ウーゴ(Vittorio UGO)――シチリアの哲人

 

ヴィットリオに初めて会ったのは1983年、猪苗代湖畔で開催された福島国際セミナーの会場でのことだ。それは非常にユニークなイヴェントだった。県が主催したものだが(調べたところ、知事は松平勇雄というひとで、「文化の知事」と呼ばれたらしい)、「コンピューター時代の藝術:藝術と技術の共生をめざして」というテーマを掲げていた。県の産業政策としてコンピューターや半導体の分野に力を入れようという方針があった。その上で、この先端的な汎用ツールを藝術との関係において注目したところが稀な構想だった、と評することができるだろう(藝術家にアトリエを提供するというプランもあったように記憶する)。そのスピーカーたちがすごい。企画のリーダーだった丹下健三を筆頭に、作曲家のI・クセナキス、H・プッスール、間もなくメディアラボを立ち上げるN・ネグロポンテ、画家の宇佐美圭司、哲学者の大森荘蔵らで、これだけの人びとが一堂に会することは稀なことだろう。参会者のなかに福島出身の作曲家湯浅譲二氏もいらして(当時わたしは面識がなく、そのお仕事も知らなかった)、これが福島で開催されるのがうれしい、と発言されたことが記憶に残っている。丹下氏と交流のあった今道先生はこれに関与され(大森先生とプッスールは今道人脈だ)、助教授だったわたしはお供した(ただ、当時このテーマにわたしは関心がなかった)。

 

その会場で、思いがけず、ひとりの西洋人が話しかけてきた。小柄で少しはにかみ屋と見えるその男性がヴィットリオ・ウーゴだった(厳密に言えば、声をかけてきたのは日本人の女性で、通訳のひとかと思ったが、夫人の桐島敬子さんだった)。このときヴィットリオは、国際交流基金の招きで東大の丹下研究室に滞在していた。夫妻は1969年に東京カテドラルで挙式したということだから、建築家丹下への傾倒ぶりがうかがわれる。このときかれは、パレルモの大学に在籍する建築家・建築理論家だった。シチリア人のステレオタイプ化された戯画像とは無縁の、知的で物静かな、しかしにこやかなひとだった。付言すれば、イタリア人の話すフランス語は往々にして訛りが強いが、かれはきれいなフランス語を話した。

 

わたしはずっと、ヴィットリオを理論家だと思っていた。始めは建築家としてそのキャリアをスタートした、ということを知ったのも最近のことだ。なぜ理論に転向したのか、わたしは知らない。転向ではなく、設計の仕事を単に開店休業状態においていただけだったのかもしれない。実作家の目がかれの理論に或る個性を与えているように思われる。出来上がった建築物を論ずるのではなく、特定の環境のなかに生き、その環境に働きかける活動として建築を見る能動的な構えが、かれの思想にはある(これについてはあとで話すことにしたい)。シャイな印象にも拘らず、関心を覚えた思想家、著者には、積極的に機会を求め、逢って会話することを重視し好んでいたらしい。パレルモでかれは建築家のヴィットリオ・グレゴッティ(Vittorio Gregotti)の助手をしていたが、そのグレゴッティに連れられてU・エーコを訪ね、ながく親交を結んだ。また、『言葉ともの』に感銘を受けたかれは、伝手を頼ってフーコーの自宅を訪ねている。更に、パレルモの家には、ルイ・マラン、H・ダミッシュ、R・アルンハイムらを迎えたという(敬子夫人の証言)。これらの人びとの肉声がかれの思考にどのような残響を残しているのかは、分からない。エーコの「開いた作品」(これにかれは深く共鳴したそうだ)と「アルケオロジー」については、あとで少し考えることにしたい。

 

話題を福島に戻すと、この出会いの接点は、「軽みの詩学」というわたしの論文だった。これは、Ph.マンゲさん(ベルギーの美学者でレトリックの研究集団グループμの中心人物)が与えてくれた機会で、かれがゲスト・エディターとして編集したフランスの美学雑誌に寄稿したものだった。その主題を一言で言えば、藝術の藝術性は、その質料(物質素材)の特性を乗り越えるところに実現される、ということだった。すなわち、文学や音楽の素材は音という重さのないものであるから重厚であることが美質であるのに対して、石という重い素材を扱う建築は軽みにおいてその藝術性を示す、という考えである。これについて、ヴィットリオがどのようなコメントをしてくれたのかは、覚えがない。コメントなしに、互いの関心を披露しあっただけだったのかもしれない。歓談したことは確かだ。そして、互いに親近感を覚えたことも。

 

翌年、モントリオールでの国際美学会議で再会した。ヴィットリオが参加した国際美学会議は、多分、このときだけだった。その研究報告「類型・規則・性格」は、圧倒的な学習量を示すものだったが、構造主義的な図式性が気になった。そもそも、その表題に掲げた三つの概念がどのように相関しているのかが、容易に推測できない(ただし、本文中に、それぞれについては説明がある)。その数年後、研究室で出している欧文雑誌(JTLA)の編集を担当するとき(第14号、1989年)、建築をテーマとし、ヴィットリオにも寄稿を依頼した。このテーマを選んだのは2つの理由による。ひとつは、個々の藝術ジャンルのなかで、美学の研究が希薄なのは建築と舞踊だと、当時わたしは考えていて、その希薄な地帯への挑戦の意味があった。より直接的な理由は、ルイ・マランさんとの打ち合わせである。このときマランさんはJTLAへの2度目の寄稿で、その論考を巻頭に置いて1巻を編集したいと思い、主題を相談した。すでに腹案があったのだろう、マランさんは建築というテーマを提案してきた。これは上に述べたわたしの思いと符合していたから、直ちに意見がまとまった。「王と建築――権力の場所ヴェルサイユ」というマランさんの論考は、王が宮殿を建築すると、その建築が王を宇宙の中心として architecturer する(築き上げる)という趣旨のものだった。ヴィットリオをはじめ他の寄稿者は、マランさんの論考をあらかじめ読んでいたわけではなく、建築についてそれぞれが思うところを書いてもらった。すでに触れたように、ヴィットリオはマランさんと親交があったというが、この時点で既に近しい間柄だったとは思っていなかった。ひょっとすると、これが機縁となって2人の学問的関係ができたのかもしれない。そう空想することは、わたしには愉しい。

 

そのヴィットリオの寄稿だが、内容は18世紀フランスの建築論を概説したもので、バトゥーをはさんでボフランとロジエを論じ、ロジエの批判者としてのデュランでまとめている。ボフランとロジエは建築論の古典的論者だ(とくにロジエは評価が高く、邦訳もある)。それに対してバトゥーは、諸藝術を「自然模倣」という共通原理でまとめる考えによって、近代的な藝術概念の成立に貢献したとされる論者である(これも山縣煕訳がある)。そのバトゥーが取り上げられるのは、建築の藝術性を論の主題としているので、建築に適用された「自然模倣」という藝術の原理が問題となるからである。ロジエにおいて、模倣されるべき「自然」の概念は大きく変更され、バトゥーの「美しい自然」(理想化された自然の相貌)から、自然の procédés (仕事の運び方)へと変わり、それに伴って実現されるべき「美」の様相も変化した。ヴィットリオはこれが、建築独自の美のあり方を捉えた理論的革新だった、と見たに相違ない。終わりから2番目のパラグラフには、次のように書かれている。

 

概論(traités)からマニュアル(と歴史記述)へのこの移行がより明瞭になるのは、まさに18世紀を通してのことである。基礎を合理的に捉える過程はこれ以降、すでに確立したものとなり、規範は十分にピント合わせが済み、いまや、理論は必要だが暗黙の条件として扱うことができ、明示的に示す必要がなくなる。以後、真に建築概論と呼べるようなものは現われなくなり、マニュアルの数が増えてゆく。それは実践知、個々の解決法の整序された組み立てであり、新たな工業都市(それは新たな職工としての仕事を求めて田園を去る農民大衆を受け入れるべきものだ)の実現のためにすぐに使えるようになった書目である。

 

これに続く最後のパラグラフでは、近代の建築美学が文明の変化に応じて変貌してゆくが(モダニズムの諸形態)、啓蒙の理念(合理性、明晰さ、秩序、思惟と空間それぞれのかたちの間の調和などの追究)は生き続ける、ということを指摘して、論を閉じている。18世紀が建築論の歴史における屈折点をなす、という見解は、モントリオールの研究報告でも示されていたから、ヴィットリオはここでその点を詳細に展開したわけである。美学史の論考としてはわたしの求めていたものに応えており、貴重な貢献と思った。だが、それをヴィットリオ自身の建築観、世界観という角度から見る、という捉え方が、当時のわたしにはできなかった。「ことばと場所」という難解なタイトルも、自身の建築論を模索する背伸びの現われのような気がしていた。

 

いまわたしは、初めて、ヴィットリオの生きた思想を捉えたいと思っている。「捉える」は言い過ぎで、その個性が感じられれば十分だ。流行の思想への関心も、かれ自身の問題意識や欲求に根差したものだったはずだ。例えば「開いた作品」。エーコのこの概念は、作品全体を作り上げようとする近代的な流儀に対して、作品の実現のために必要なプロセスの一部を観賞者にゆだねる前衛的な運動を指すものだった。これに対してヴィットリオが熱い関心を寄せたのはなぜだろう。それは、建築がそもそも開いた作品だったからなのではなかろうか。建築が開いているといっても、典型的な「開いた作品」である偶然性の藝術のようなことを考えているわけではない。建築において、開いた場所を補完すべき役割の観賞者に相当するのは居住者である。居住者を含めてこその建築作品、と考えるなら、建築は本質的に開いた作品である。エーコの著作は、ヴィットリオが潜在的に思っていたことに着火したのではなかろうか。事実、居住することの重要性は、かれがハイデガー(「建てる・住まう・考える」)を借りつつ強調したところでもある。住む必要、欲求がなければ、建てることもないだろう。

 

「アルケオロジー」の「アルケー」(大元、原型)は、歴史感覚、特にギリシア語の語源への強い思い入れ、建築をその原型的な機能やかたちから考えようとする志向において、ヴィットリオの最も顕著な傾向を表している。これを理解するには、シチリアにおいてヴィットリオを考えることが必要だ。パレルモに生まれ、上記のようにパレルモ大学で助手を務めた。その後バーリ(イタリア半島のかかと、と言うよりアキレス腱相当の場所に位置する古来の都市)の大学で教授職を得る。さらにミラノ工科大学でも教えるようになり、数年後にはそこの教授となった。そのころミラノに居住地を移すが、それまではパレルモから通っていた。何年くらい続けたのかは知らないが、イタリア半島を縦断する大移動だ。それだけパレルモが好きだった。パレルモの郊外には、かれが親友のために建てた別荘があり、やがてその居住スペースを拡張した。そこにヴィットリオのための部屋があり、ミラノに移ってからも、頻繁にそこを訪れ滞在した。あるとき、夫妻のひとつぶだねのミズコちゃん(学習院女子大学教授)が父親に電話すると、かれはそのシチリアの家の庭にいて、電話口の向こうでイチジクを枝からとって賞味していた。それはプラトンを体感する経験だった、と言う。プラトンのどこにイチジクが出てくるのかわたしは知らないが、イチジクは、古来、オリーヴやレモンとならぶ地中海地方の特産品だ。その植物分布(フローラ)はいまにつづき、古代ギリシアの文化はシチリアの風土のなかの古層としてそこにあり、ヴィットリオはそれを呼吸して育った。日本人が行えば衒学的とも見える語源考や神話への言及は、かれの頭脳と五感に染み付いたものだった。残念なのは、ヒロコとわたしがこの島を訪ねたのが、かれの亡くなったあとだったことだ。

 

ヴィットリオは多作だったが、わたしはほんのわずかしか読んでいない。その時どきの関心に応じての会話を愉んで。それで充分だった。いま、かれの肖像を書こうとして、ウェブサイトで『ダイダロスの場所 I luoghi di Dedalo – Elementi teorici dell’architettura』(Bari, 1991)という著書の紹介記事を見つけた。相当に詳細で、ヴィットリオの建築思想の全体像を窺うことができる(ただし、体系的に整っているとは言えない)。執筆時期はJTLA論文と近く、あるいは重なっており、表題の「場所」は同じ意味に相違ない。「ダイダロス」は工人、発明家の祖とされる神話上の人物で、クレタのミノス王に仕えて、怪物ミノタウロスを閉じ込めるための迷宮を作ったことで知られる。この本の紹介記事になかにこの表題についての説明はないが、建築をその原初的な発生の場面において捉えて、原型的な要素を特定しようとしていることが分かる。「場所」に相当する語は、JTLA論文では単数であるのに対し、ここでは「ダイダロスの」と限定され、複数で使われている。空想を巡らせるなら、「場所」とは建築の原型的な空間を指すとともに、作り手であるダイダロスの職能の意味を掛け合わせているのかもしれない。

 

ヴィットリオにとって最も根底的な考えは、〈空間として経験されうる場所は、建築の切断面 sfaccettaturaだ〉ということである。その上で自然と建築のそれぞれの「アルケー」に相当する要素が3つずつ挙げられている。自然の原型は〈森―庭―林間草地 radura〉、建築の原型は〈迷宮―小屋―橋〉である。森と庭の意味合いは明らかで、秩序化以前の野生と秩序化の極致を表している(庭の典型はエデンの園だ)。しかし、第三項の概念が何であるのかは、謎めいている。言い換えれば常識を外れた個性的な思想が込められているようにも思われる。「林間草地」(英語なら clearing)はわれわれにはなじみのない概念だ。そこは光を取り入れるために森のなかに作られた空き地で、この空間的関係は、都市のなかでのパティオ、中庭、広場などのあり方と相似している。むしろ、このアナロジーゆえに「林間草地」に注目したものだろう。そこでわたしは、この概念形成の背後に、シチリアでのヴィットリオの生活経験を想定する。概論的な知識ではなく、自身の生きた自然空間と都市空間を結びつける直観だったと思う。ただし、これら自然の原型と建築の原型のそれぞれの概念は照応しているわけではないらしい。すくなくとも、説明文から読み取ることはできない。建築の側のアルケーの説明によれば、「迷宮」は構築意思の表現であり、「小屋」は原初的な建築物を表し、「橋」は自然の障害への超克の試みであり、それゆえ神々への不敬に当たるとされたこともある、という。だが、これら三者の相互の関係はどのようなものなのか。ここでは「構造化」がほしいところだ。ちなみに、日本で「迷宮」のような構造が現れるのは、多分、戦国時代のことで、まったく原型ではない。また、「林間草地」のような空間が日本の森林にあると聞いた記憶はない。

 

 

最後にヴィットリオに会ったのはいつだったのだろうか。多分ミラノの中央駅まで車で迎えに来てくれたときのことだ。フィアットのハンドルを握りつつ、少し前に車で衝突事故に遭い、「あやうく死にかけた、腕に後遺症が残っている」と言っていた。かれが連れて行ってくれたのは、かれの新居である「アルド・ロッシの(設計した)家」だった、とわたしは思ってきたが、そのインテリアの記憶が希薄なのに困惑する。まったく間違えようがないのは、かれの室内が神社の境内のように清潔に整えられていることで、整理整頓の苦手なわたしには驚くべき空間だった。2005年の暮れ、クリスマスシーズンを過ごすべく、かれはその「ロッシの家」からシチリアの(上述の)友人の家に里帰りしていた。数日後には敬子夫人も合流することになっていた。2階のサロンで、友人と夕食を摂っているとき、何かを取りに下の自室に降りていった。その途中で、かれは脳卒中の発作を起こし、階段を転がり落ちた。唐突な死だった。享年67歳。早すぎるが、かれは自身の「アルケー」に還った、と考えることもできる。

 

わたしがヴィットリオを哲人と思うのは、その建築論の思弁的な性格を指してのことではない。非常に単純な出来事の与えてくれた強烈な印象のゆえである。かれが以前に住んでいたアパート(日本風に言えばマンション)を訪ねたときのことだ。多分電話でメトロの乗り換え順などを教えてもらった。今のように携帯電話はなかったから、公衆電話から通話したはずだ。教えてはもらったが、途中の乗り換え駅で、逆方向の電車に乗ってしまったために、わたしは大幅に遅刻した。かれの家の最寄り駅を地上に出たところは、小さな円形の公園になっていた。そこのベンチで、ヴィットリオはわたしを待っていてくれた。あわてず騒がす、パイプをくゆらし、何か本を読んでいた。わたしの方は気が動転していたから、その平然としたすがたは、ストア派の知恵を体現したひとのように思われた。わたしには読み解くことができないが、この知恵がかれの建築論の根底をなしているに違いない。

 

 

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、『とりどりの肖像』(春秋社)、ほか。

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