佐藤信夫さん――レトリックのうしろ姿
佐藤さんの知遇を得たのも、竹田篤司さんの場合と同じく、日仏哲学会のシンポジウムのときだった。場所は、当時お茶ノ水にあった日仏会館会議室だ。その少しあと、千鳥ヶ淵のホテルのティールームで、初めて歓談した。桜の季節だった。
このとき、佐藤さんが名著にしてベストセラーとなった『レトリック感覚』を、既に出されていたかどうか、またわたしが何を書いていたかは、すでに記憶が混然としている。いずれにせよ、レトリックが佐藤さんとわたしをつなぐ共通の関心事だった。それから、かれの「未完のライフワーク」となった『レトリック事典』をかたちにする仕事に到るまで、ずっと、佐藤さんは、わたしが最も身近に感ずるひとのひとりだった。
佐藤さんが刊行した単著の多くは、講談社学術文庫に収められ、現役として新しい読者を獲得している。そのなかの2冊に、わたしは解説を書かせてもらった。打ち合わせでお会いした編集者の方は、全集のようなかたちにしたい、との意向をお持ちだった(あくまで全集の「ような」である)。佐藤さんの唯一といってよい理論書である『意味の弾性』まで収録されている。しかし、何故かそのレパートリーから漏れている名著がある。処女作『記号人間――伝達の技術』(大修館書店、1977年)だ。ひょっとするとこの本は、わたしがこれまでに読んだあらゆる本のなかで、最も面白いと思ったものかもしれない。電車のなかで読んでいて、思わず吹き出してしまい、周りの乗客の視線を浴びたこともある。だが、「面白い」というのは、もちろんそれだけのことではない。『意味の弾性』のように理論構築を企図したものではないが、《なぜレトリックか》を語っている点では変わらない。どちらかを選べと言われれば、文句なく『記号人間』をとり、ひとにも薦めるだろう。この本の欠点は、ぶきっちょなタイトルと、悪趣味な装幀だけである(タイトルについて言えば、この本のなかで、「なぜ宇宙人は〈=人〉で、透明人間は〈=人間〉なのだろう?」と書かれていることを、著者に返したくなる)。逆にその長所は、未来を拓こうとするはつらつとした知的意欲である。そして、長所と分けて魅力を挙げるなら、それは佐藤信夫そのひとの魅力だ。しなやかでありながらゆるぎない芯のあることば、あるいは論理的に語りつつ柔軟であるところ、と言うべきか。それは佐藤さん自身だ(魅力的な著者はみなそうなのだろうか)。佐藤信夫は人後に落ちぬひとたらしだった。『記号人間』には、その佐藤さんが語り手として紙背に現前している。
この本のなかで佐藤さんは、われわれの生きる世界の根幹がレトリックである、ということを語っている。その洞察のすじみちは単純で明晰だ。タイトルにある「記号」とは「意味」にほかならない。記号をあらわす sign を動詞にすれば「意味する」となることから、それは納得がいく。生きた世界、すなわちわれわれの生きている世界は、意味に満ちている。生きるひとがいなくなれば、世界は意味を喪い、ものの集積にすぎなくなるだろう。「人生の意味」も「ことばの意味」も「本質的にちがってはいない」と佐藤さんは言う。「人生が意味を失うとき、すべてのものは私の関心をそそらなくなる。……美女も私の欲望をそそらぬ、単なるぶよぶよの動く物体にすぎなくなる。……人間らしく生きている人間にとっては、ほとんどすべてのものが記号だといっていい」。逆に言えば、関心の的となるものは強烈な記号性を帯びてくる。デズデモーナのハンカチがよい例だ(佐藤さんの取り上げる例が抜群に的を射たものでかつ印象的であることは、読者の誰もが認めることだろう。ただ、それは選択の巧みの問題ではない。作例を読んだときにその意味を深く捉えていたから、しかるべきところで使える、ということだ)。このハンカチは、もともと、オセローがデズデモーナに与えた愛のしるしという記号であった。その対象にイアーゴーは正反対の意味(記号性)を与えようと、巧みに仕組んでゆく。その術策の次第は説明の必要もあるまい。つまり記号は固定したものではなく、ひとがそれについて懐く関心や、それの置かれるコンテクストによって変化してゆく。デズデモーナのハンカチが示すように、嘘と誤解が記号現象の根柢をなしている、と言うことができる。たしかに、すべてが嘘だ、というのはレトリックとしてしか通用しないかもしれない。しかし、すべてが小さな誤解をはらんでコミュニケーションが運ばれる、ということなら、誰もが納得するのではなかろうか。ことばを正確に伝えるというルールで始められながら、ひとからひとへと運ばれるたびに、ことばは小さな変容を受けてゆく、という「伝言ゲーム」のなかで、誰もがそれを実感する。このような自然で不可避の誤解は、佐藤さんによれば発信量と受信量のズレによることである。かんの悪いひとは相手の言いたいことを十分に理解しない、つまり受信量が小さい。それに対して、気をまわしすぎるひともいて、発信された以上のことを読みとる(あるいはかんぐる、あるいはさらに忖度する)。このズレがコノテーションと呼ばれるものであり、付加されたり読みこまれたりしたコノテーションがレトリックにほかならない。世の中はレトリックに満ちている。略述すればこのような筋書きで、『記号人間』はレトリック原論、もしくはその入門になっている。この議論のなかで、わたしが注目したのは、論の筋道ではない。わかりすぎるひとと打っても響かないひとという対比が面白い。このふたつの人物類型に関して、佐藤さんは次のように言っている。
私は、平均的に、受信される意味は発信される意味より多い(発信量<受信量)と思う。あたりまえといえばあたりまえで、人間は、記号という呼称にあてはまらないような事物や指標からさえ、発信されてもいない意味を読み取る。ましてや、発信された記号については、当然である。
「あたりまえ」だろうか。ひとは知性や(homo sapiens)やものづくり(homo faber)を本質とするというより、記号をあやつる(homo significans)存在だ、という主張からすれば、こうでなければならない。しかし、鈍感とまではいわないまでも、自分はひとの言うことに理解が行き届かないことが多い、と思っているひともいる。こういうひとは、佐藤さんとは逆に、「平均的には発信量>受信量だ」と主張するのではなかろうか――更に言えば、実態は、受信量過多の部分と過少の部分がひとそれぞれにおいてまだら模様をなして混在している、と見るべきだろう。そう思いはするが、ここは佐藤さんの考えを追うことにしよう――。このような異論と並べて相対化してみるなら、佐藤さんの主張は、ご自身の性格に由来するものではないか、と思われてくる(それこそ受信量過多だ、と佐藤さんは言うかもしれない)。レトリックを飾りと見るのは間違いだ、というのが一貫した佐藤さんの主張で、説として十分な説得力がある。飾りではなく、ひとが生きているなかで、その生きることと不可分に(「人生の意味」)営んでいる記号生活がレトリックだ、ということである。学説的な主張はこのように一般化されているが、もとは佐藤さんの人柄にある、とわたしは思う。佐藤さんは受信量過多の、気をまわすひとだった。
つづけて、佐藤さんの受信量過多の次第を語るべきところだが、飾りと記号性について思い出すことがある。ちょっと脱線させていただこう。――学生時代か、そのあとのことかは分からない(学界に入る以前の佐藤さんの生活について、わたしは多くを知らない)。佐藤さんはラジオやアンプの実体配線図を画くアルバイトをしていたそうだ。実体配線図とは、抽象的、記号的な回路図ではなく、実作にあたり、真空管やトランスのどの端子とどこを何色の線でつなぐのかを図解したものである。新橋にあった或る雑誌社は、毎号新作ラジオの記事を掲載したうえに、それを作るための組み立てキットを発売し、この実体配線図をつけていた。電気的な知識がなくとも、これによってラジオの自作ができた。一時期熱中し、キットの発売日にその雑誌社に通ったことのあるわたしは、佐藤さんの昔話を聞かされ、驚くとともに、一挙にかれが身近になった。個性的なオーディオ評論家だった江川三郎氏が親友だったというのも、このような関係によるのかもしれない。実体配線図は飾りの性格が希薄で、幾何学的だ。その造形性は佐藤さんの書く文字を思わせないでもない。その文字は、いかにも丁寧に書かれた端正な楷書で、かれの文章のスピード感とは異質だった。かれが事典のために残した膨大な資料(ひとつひとつのレトリック技法について諸家の与えた定義と、主として日本文学から集めた作例)には、電子コピーを貼り付けたものもわずかに混じっていたが、大半はその文字で1字々々筆写されていた。それは「きれいな」字ではあったが、美的というのとは少し違う。もちろん装飾性はなかった。「いつか君の本の装幀をしてあげるよ」と言ってくださった。実体配線図風の装幀は困るな、と思ったが、結局、実現しなかった。ちょっと残念な気がする。かれ自身の単行本はどれも装幀がよくない。佐藤さんは一切口を出さなかったに相違ない(その装幀にも拘らず、かれの本は多くの読者を獲得した)。しかし、ご自身が装幀に関心をもっていたことは間違いない。実現していたら、どんなものになっていただろうか。
本題に戻ろう。佐藤さんのひととなりである。受信量過多ということは、相手の言葉をあり余るほどに斟酌することだ。向かい合って話しているとき、わたしが何か思いついたこと、たとえば、《スマッシュを決めたりするほど攻撃的なのに、テニスやバレーの最初の一打は、何故サーヴィスというのでしょうね》というようなことを持ち出すとしよう。すると、佐藤さんはほとんどの場合それに反応して話がふくらんでゆく。遊びの空間に発せられたかのように、言葉がさまざまに展開し、発言の主導権は完全に佐藤さんの手に渡る。佐藤さんの文章はこのようにして編まれたもの、と思われた。そこには生来の言語能力がはたらいていたに相違ないが、社会生活のなかで培われた面があったのではなかろうか。佐藤さんは大学院に学んで教職に就くという標準的な研究者の道を歩んだわけではない。学問上の最初の仕事は、クセジュ文庫のなかのピエール・ギローによる『意味論』や『文体論』で、わたしも愛読した。この文庫のなかではきわだってすぐれた(読みやすく信頼感のもてる)訳だった。最初のものが26歳のときの仕事だというのは、驚きだ。大学院にも行っていない若者がどのようにしてこの仕事を得たのか、とも思う。
多分その後のことだろう、かれは或るフランスの化粧品会社の日本支社に勤めるようになり、最後は宣伝部長になった。これはダンディだったかれに似合いの仕事、と思われた。その履歴を聞いたとき、なぜか、香水の香りを思った。しかし勤めはつとめだ。『記号人間』のなかには、次のような1節がある。出勤前に大急ぎで朝食をかきこむのは、実践行為である。しかし、「昼、契約成立のあいさつを兼ねて取引き先の専務と東京会館でめしをくうのは、食欲よりはにこやかにほほえむためのことがらであろう」。かりにわたしがこのような例を挙げるとすれば、それは、自分の知らない世界だが、世の人びとの多くにとって普通の経験であろうものを想像してのことである。しかし、佐藤さんの場合、これは宣伝部長の経験を想起しているのではなかろうか(「東京会館」と具体的な固有名詞が出てくるところが、なまなましい)。接待側の部長さんとしては、心を込めて相づちを打つことが誠意の見せどころである。相手のことばを展開して返さなければならない。それが相手を喜ばせる。しかし、それだけではなかろう。嘘とは言わないまでも相手のことばのズレを察知することも重要だ。こんな1節もある。「いやなやつのいやな口ぐせなどというものがあって、そういう相手がその口ぐせの単語をひとつ口にするのを聞いただけで、私たちはその単語の意味と同時に、嫌悪を感受してしまうのだ。いつも厭味なへりくつばかり並べ、ふたことめには〈しかし……〉と言う大嫌いな相手が……」。観察は仔細にわたり、実感がこもっている。わたしなどは、佐藤さんにも「いやなやつ」がいたんだ、と素直に驚いてしまう。それでも、そんな相手に対しても、佐藤さんは笑顔を絶やさなかった、あるいは少なくとも嫌な顔を見せなかったに違いない。勤め人としての仕事は、佐藤さんにとって、このような反応を含めてレトリックの実習の場であり、その成果を語るために学問に身を転じたのではなかったか、とさえ思われる。最初にお会いした千鳥ヶ淵のフェアモント・ホテルも、かれが宣伝部長時代によく使っていたところらしい。世界の記号性の実践という点ではもうひとつ。ズレの読み取りを本領とするのが探偵小説である。佐藤さんは、アルセーヌ・リュパンの全訳をこころに秘め、晩年の愉しみにとってあった。悲運に倒れて実現しなかったが、興味の焦点は生涯を通して一貫していた。
雑誌『言語』の編集者(のちに編集長になった)だった藤田侊一郎君の教えてくれたことがある。同僚だった女性の編集者が、佐藤さんとの会話を苦手としていた、とのことだ。わたしにとっては意外なことで、これは個人的な相性の問題と、長い間思っていた。そのひとによれば、ことばに対する佐藤さんの反応が女性的で、話題の展開してゆく先が見えてしまうので疲れる、とのことらしい(女性同士の会話は疲れるのだろうか)。この場合「女性的」とは、相手に合わせること、相手のことばを受け取って相手の望む(と思われる)方へと展開してゆくことを指しているらしい。『言語』の寄稿者のほとんどは、初めから学問の環境で生きてきたひとたちだから、その人びとと佐藤さんが会話において異質であっても不思議はない。もしその会話術(単なる話術ではない)が女性的だとすれば、佐藤さんのひとたらしぶりは、この女性的な気の使い方によるものだったのだろうか。
女性的というのとは少し違うが、佐藤さんはあふれるばかりに優しいひとだった。あの受信量過多の受け答えも、わたしには優しさと見えた。ありふれた一例を挙げよう(ただし、その優しさ、あるいは親切心は並外れている)。これも藤田君の話だが、かれがお宅を訪ねたとき、帰りはかれの乗る地下鉄の駅まで車で送ってくれる、ということになった。最も近い駅でも相当の距離がある。だが、その駅に近づくと、どうせなら、と藤田君の行く方角に向って、1駅また1駅とドライブして、5つ以上の区間を更に送ってくれた、という。
佐藤さんが宿痾の病に倒れ、再起不能となったとき、自らライフワークと位置づけていた『レトリック小事典』を完成させる仕事を打診された。大修館の企画会議で決定されたあと、なかなか刊行されず、わたしはそれを待つ読者の1人だった。かれが執筆を断念せざるを得なくなったとき、上に挙げたような膨大な資料が整えられていた。その資料の準備に長い時間を要したものだろう。かれは病床から動けず、鼻から管を入れているため、話すこともできなかったが、眼のひかりは変わらず、意識は明晰で、話しかけたことについて、イエスかノーかの返事ができた。見るからに痛ましい闘病生活が、そのときすでに1年以上続いていた。託されようとしていたのは大仕事だったが、どれほどの大きさかがわたしには分かっていなかったのだろう。佐藤さんをまえにして、お断りすることはできなかった(その場には藤田君も呼ばれていた)。共著者となるべき人びとをあてにしていたところもある(最後までつきあってくれたのは、松尾大君[現東京藝大名誉教授]だけだった)。自分でも同じような未完の課題を抱えていながら引きうけてしまったのは、身の程知らずと言うほかはない(わたし自身のその課題は、結局、未完に終わりそうだ)。その後、どのようにしてゴールにたどり着いたかは、完成本の「あとがき」に書いたし、佐藤さんの肖像にとっては無用の後日談に過ぎまい。
ただ、取り上げなければ佐藤さんの全体像を歪めそうな一事がある。かれの残した資料のことである。上記のように佐藤さんは、執筆するのに必要な材料をたっぷりと取り揃え、準備していた。特に作例は貴重だ。マイナーなフィギュール(レトリック技法)になると、思い当たるような使用例はほとんどない。多くの小説類を読みつつこれらの技法を拾い集めたのが、佐藤さんの資料集だ。そもそも、このように周到な準備をするひとのことを、ほかにきいたことがない。事典ゆえのことかもしれない、とは思う。しかし、それを収めた箱には、既にかれが書いた論考のための資料も含まれていた。それらを見ると、なんと、完成稿と素材ファイルが完全に対応していた。即興性の強い佐藤さんの著作が、あらかじめ整えられた筋道に沿って書かれていった、と見られるこの事実は驚くべきことだった。現に、わたし自身がこの短いエッセイを書く際にも、取り上げるべきトピックを並べて用意はする。しかし、それらをどのように関係づけるかという順序に腐心するのは、おもに書きながらのことである。概して佐藤ファイルは、一見して、使い切ることが難しいほど多くの作例を集めていた。そして、その順序にしたがってそれらを使ってゆくような書き方は、不可能と思われた。素材の選択は、論の運びと方向を左右する。その意味で、即興性は必然である。佐藤さんはどういう頭脳をしていたのか。そう思っていると、あるとき閃いた。あの整ったファイルは、もとの素材ではない。論文を仕上げたあとで、その論に即してもとの素材を整理したものだ。こういうことをするひとは類を見ないが、そうに違いない。こう考えてなぞは解けた。しかし、なぜこのような事後の整理をして、もとの素材を保存したのだろう。それをさらに活用できるような用途は思い当たらない。わたしの想像を絶してはいる。かれのメンタル・ヘルスがそのような整序された記憶の空間を欲した、としか考えられない。だが、そのような性癖はあの文字や実体配線図と似ていないことはない。そのような幾何学的精神が、背景あるいは「地」として、佐藤さんの文章にみなぎるあの発想の豊かさを支えていたのかもしれない。
800ページを超える大冊として『レトリック事典』が完成したとき(もとのタイトルから「小」をとった)、依頼を受けてから18年もの歳月が流れ、編集の藤田君は定年目前となり、佐藤さんが亡くなってから13年が経過していた。かれと喜びをともにできなかったのは痛恨のきわみだった。この悲しい安堵の報告を仏前に捧げるべく、佐藤家を訪ねた。フェアモント・ホテル以来、佐藤さんとは桜の季節にお会いしていたが、このときは晩秋になっていた。その住区は建て替えのため、空き家となった家が多く、静かだった。そして、一面の紅葉があたりを包んでいた。