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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

掘越弘毅さん――先端的科学者の「いい顔」

 

掘越弘毅、わたしの交際範囲のなかで、この名を知っているひとがいるだろうか。いるとしてもごくわずかだろう。しかし、世間的には相当な有名人であり、「極限微生物学者」として国際的に知られたひとである。わたしにとっては、ヒロコを介しての親戚関係にある(幸子(さちこ)夫人がヒロコの従姉、より詳しく言えば、幸子夫人の父親がヒロコの母の兄にあたる)。われわれの結婚式にも来ていただいたから、見知ってからは長い。その頃、ヒロコの母から「理研のひと」と紹介された。その義母が「リケン」の何たるかを知っていたとすれば立派だが、わたしがとっさに思ったのは「理研のわかめちゃん」というテレビコマーシャルだった。だから、わたしは掘越さんをわかめ会社のひとだと思っていた。のちに、親しく言葉を交わすようになってから、わかめのことを訊ねると、苦笑しながら、理研が利益を挙げたのはあれだけだ、と言われた(言うまでもあるまいが、理研とは「スタップ細胞」事件で脚光を浴びた理化学研究所のことである)。科学は経済活動には無縁、実用性を追求するものではない、という考えが透けて見えた。しかし、後にかれの最大の功績とされるようになる「極限微生物学」について掘越さんは、「基礎科学は人類の共通語」としつつ、自らの発見(あとで詳述する)が30以上の新しい酵母の発見へとつながり、そのいくつかは工業化されていることを特筆している。特に身近な酵素入り洗剤は、長年にわたり、理研の唯一の特許料収入になったそうだ。研究そのものは利害を超えていても、そこで得られる科学的発見の価値は、やはりひとの生活に及ぼす影響にある、ということに相違ない。だから、ことは単純ではない。わたしのような文系の研究者にとっても、社会との関係は重要事項だ。先端的な極限微生物学者は存外身近な存在だった、と言えるところがある。

 

その次に法事か何かでお会いしたとき、義母はかれを「ノーベル賞の候補者」として一座に紹介した(義母はどうしてそれを知ったのだろう)。のちに、一緒に昼食をとるときに、居合わせたひとにわたしもそのように紹介したが、掘越さんは否定されなかった。だから、それは事実だ。毎年、候補者が話題になり、受賞者が発表される時期になると、穏やかならぬ気持でいらしたに相違ない。かれの最後の仕事のひとつは、Extremophiles Handbook(極限微生物学ハンドブック)という大冊の編集・執筆で、かれはその筆頭編者だった。大手出版社の Springer から2011年に刊行されたが、それはわれわれ双方の夫婦同士が最も親密に交際した時期にかかっている。会話のなかで、かれが共同編者のひとりに企画を持ち掛けた際の言葉を聞いた。「まもなく、われわれがどういう仕事をしたか、忘れられてしまうだろう。だから、それを書き残そう」。次にあげるかれ自身の著書のなかでも、この出版にふれ、「科学では、よい仕事ほど、それを考えた人が忘れ去られてしまう運命にある」と書いている。その心中の焦燥感をうかがわせるとともに、重いインパクトを残す言葉だ。

 

掘越さんがどういう仕事をしたのか、すなわち極限微生物学とは何かということを、わたしは分かっているわけではない。それでも、かれがどのような生き方をして、この分野の開発者となったか、ということは、それなりに理解している。今しがたすでに言及したが、掘越さんには『極限微生物学と技術革新』という一般書があり(白日社、2012年)、一本を頂いた。そこに挟まれた短冊には「学部学生向き」のもの、とある。科学指南の意味があるのだろうが、実質は自叙伝と見るのが分かりやすい。思うに、著作意図は上記のハンドブックと同じで、想定される読者が専門家ではなく一般人、というところが違うだけだ。「プロローグ」の1ページ目からセレンディピティが持ち出される。2006年に学士院賞を受賞したことを引き合いに、自身の仕事の核心を、「強アルカリ性培地に生える微生物が普通の土のなかにも広く分布していることを世界に先駆けて発見し、そこから洗剤用酵素を生み出すなど、独創性の高い研究を進めてきたことが評価され」た、と要約し、その発見がセレンディピティであることを語っている。一般にはさほど馴染みがないかもしれないこのカタカナ語は、《偶然に、もともと探していたものではないが価値のある何かを、発見すること、或いはその能力》を意味する。この最初のページで掘越さんは、簡単な説明とともに、この語を最初に聞いたのが、1956年のことだったと思うと書いている。この語が広く流布するようになるずっと前のことだ(この件は本文に出てこないし、この記述は巻末の年譜とも符合しないが、そのことはいま問題ではない)。

 

掘越さんがその将来を拓いた最初の業績も、セレンディピティだ。「成り行きまかせ」で大学の専攻を決め、教授から与えられたコウジカビの研究をいやいや行っていたなかで、偶然、カビを殺す細菌(バクテリア)を発見する。当時は全く知られていなかった事実の発見だ。その次第は、フレミングがペニシリンを発見したストーリーとそっくりだが、両者の違いはわたしには分からない。その成果を書いた『ネイチャー』への投稿論文は、世界的な注目を集め、フルブライトの奨学金を得て、アメリカに留学することになった。東京大学大学院の修士課程に在籍していたときのことだ。

 

こういうことは文系の学問では、まず起こらない。というよりおそらくあり得ない。だが、なぜあり得ないのかを突き詰めることは容易ではない。藝術の場合なら、早熟の天才というものがある(もちろん、例えばモーツァルト)。同じく数学にもその現象は顕著であるらしい。藤井聡太を始めとする棋士の世界にも天才と見なされる年少者が続出している。棋士の仕事は、理詰めである点で、数学に似ているのかもしれない。これらの天才たちに共通しているのは、同じ分野の大人たちを打ち負かしていることで、この分かりやすい事実がセンセーションを呼ぶ。しかし、このことは、かれらの仕事の性質や、達成すべき目標が既定のものであることをも意味している。逆に言えば、そのような分野においてこそ、早熟の天才という現象が見られるのではなかろうか。厳密には、かれらは早熟なのではなく、早咲きと言うべきであろう。仕事の意味を明らかにしたり、価値の判断を下したりするには成熟が必要だが、その煩いのないところで、年少の天才が開花する。文系の学問には、この成熟が求められるように思う。――この素描はあまりに粗書きだが、創造論は、今から数えて3つ目にわたしの取り組むべき主題で、いまのところはこの程度の見通しで大目に見ていただこう。ただ、かれらが何ゆえの「天才」であるのかについては、一言しておく必要があろう。そこにセレンディピティが関係する。セレンディピティとは、偶然の発見を必然の、言い換えれば意味(あるいは価値)のあるものとして捉える直観力であり、この直観力もしくは判断力が天才である。カビを殺す細菌がある、という「非」常識な命題を可能なものと認め、「再現実験」によってそれをひとつの発見に仕上げた、修士課程の学生掘越弘毅にも、それがあった。

 

この異例の成功によってアメリカ留学の機会をつかみ取り、研究の先端的環境のなかで知見を広めていった掘越さんの研究人生は、順風満帆だった(1958年、外貨の持ち出し制限が厳しく、私費留学など考えられない時代である)。2年して帰国、数年後、幸子さんと結婚された(この本には、何と、若き幸子さんの1ページ大の写真が掲載されている。ヒロコに劣らぬ美人だ)。そして、幸子さんの提案を受けて、今度は学会賞で得た賞金によって、再度アメリカに留学した。その留学先のドイ教授から、「コーキ、お前は日本にいる時は日本的なのに、なぜアメリカに来るとアメリカ人的発想に切り変わるのか」と訊かれたという話が出てくる。これについて掘越さんは、「文化の違い」を認め、考えを言い表すときの「表現の順番」の違いとして、それを捉えている。最初の留学で学んだこととしても、日本人の「隣百姓」精神(農民が、隣のひとのやっていることを見て、それに倣おうとすること)に対して、欧米人の独創性への意識の強さを指摘している。つまり、当たり前のようだが、留学によって、東西の文化的差異の意識が、掘越さんのこころに刷り込まれたわけである。のちにかれは、「文化や考え方の多様性は、科学の進歩を促す」と言っている。

 

麹が日本特有のローカルな素材に過ぎないことを指摘されたのが、この2度目のアメリカ行きを促したものだが、そこで新しいテーマと取り組んで一定の成果を上げたものの、その先に進むための次のテーマが見つからない。掘越さんはスランプに陥った。最初のセレンディピティの効力は尽きようとしていた。そこでかれは、何か・・を求めてヨーロッパへ「放浪旅行」に出かけた。そして、大好きなティツィアーノのフィレンツェで、2度目のセレンディピティを得る。その「発見」がモノの現象ではなく、思想的な思いから始まったところがユニークだ。そこの丘の上から(ピッティ宮の裏山らしい)、夕闇の落ちかかるこのルネッサンスの街を見やっていた。その盛期が日本では室町時代にあたり、両者の文明が全く異質であることを思った。そのときかれの脳裏に、閃きが走った。

 

人の世界にはこのような環境に強く支配された異なる文明があるのだから、微生物の世界にも、きっとわれわれがまったく知らない世界、知られていない世界があるのではないか。文明のことを英語でカルチャー(culture)という。このときの私の心に浮んだのは東西文明の違いであり、まさしくこの言葉なのであった。実は、微生物学の世界でカルチャーといえば、それは、培養とか培養器を意味するのである。/ルイ・パスツールはブイヨンを、ロベルト・コッホはジャガイモを、それぞれ微生物の餌つまりカルチャーとして使い、微生物学を確立していた。これまでの膨大な微生物の研究も、実はすべて、培養条件に縛られたものにすぎないことに、このときはっきりと気がついたのだった。既存の微生物学とは何なのか、それはカルチャーに縛られた世界である、と喝破することができた。

 

この洞見は、培養条件(カルチャー)を変えれば別の微生物の世界が見えるのではないか、という構想に直結した。というより、その洞見とこの構想はひとつのものだったろう。その構想は、それまで誰も考えなかったアルカリ性の環境のなかに微生物を捜す、というプランへと具体化された(これも実は最初の直観に含まれていたのかもしれない)。直ちに帰国した掘越さんは、理研の庭の土を材料として、好アルカリ性の微生物の存在を、世界で初めて捉えることに成功した。

 

この閃きの素地として、上記のアメリカでの異文化性の経験とその認識があったことは、明らかだ。このセレンディピティにおいて、フィレンツェの景観と微生物の新世界とを結んだのは「カルチャー」という単語だが、この語は「文明」と「培養条件」のほかに、もうひとつの重要な含意を以て機能していた。それは、生存の環境として誰もが慣れ親しみ、当たり前だと思っている常識のことである。この「カルチャー」との関連で言えば、セレンディピティとは、濃密な常識の atmosphere に風穴を開ける閃きである。

 

あるとき、思いがけず、掘越さんから電話があり、わたしの授業を聴講したい、と言ってこられた。理由を言われたのかもしれないが覚えていない。或いはまた、問うのは野暮と思ってお訊ねしなかったのかもしれない。慶應の大学院で行っていた講義にお誘いした(異例のことに相違ないが、美学の教授だった大石昌史君の配慮で、70歳まで非常勤で講義を担当させてもらっていた)。これは『美学辞典』を増補するために、新たな概念を取り上げて話すことを課題とするものだった。数年間、3回に2回くらいは出席され、ノートをとってらした。講義の後、昼食を共にしたが、そこで科学の話をうかがうのがわたしの愉しみだった。この授業には、ときどき東大の後輩が現れることもあり、昼食にはかれらを誘った。「ノーベル賞候補者だ」と紹介したというのは、このときのことである。このよもやま話のなかで、掘越さんは、「授業を聴いて帰った日は、家内に〈とてもいい顔をしてるわね〉と言われる」ということを、二三度おっしゃった。何故、美学の講義にこころを鎮静する効果があるのかは、分からないまま、何らかの意義をみとめて、謝意を伝えられたものとして、有難くうかがった。

 

この講義を休んだ年がある。半年の海外研修の機会をもらった年のことで、最初の3か月をロンドンで過ごした。市内にセカンドハウスをお持ちの掘越夫妻は、そこにやって来て半月ほど滞在された。その間、3回、夫婦同士でお会いし、歓談した。1度目はお宅に招いて頂いた。ロンドンの地下鉄はチューブと呼ばれるが、その「筒」が終わって線路が地上に出たあたりの駅を降り、歩くと数分というところだった。掘越さんご自身が駅まで迎えに来てくださった。雨のあがった晩秋の夕暮れ時で、街燈に照らされた街路樹の紅葉が、いまも鮮やかに目に浮かぶ(残念なのは、日本では見かけないその木の名が分からないことだ)。いかにも高級住宅街だ。お宅は、ロンドンの個人住宅としては普通の、連棟式の2階建てのなかにあり(ヒロコが「かわいい絵本のような建物」と形容した)、入口の扉を開けてなかに入ると、2階に上がる階段があり、掘越家はその1階を占めていた。日本風に言えばワンルームで、思ったより狭い空間だった。狭くとも調度はヴィクトリア朝様式で統一し、バスルームの改修には半年をかけたそうで、しゃれた空間だ。この日、幸子さんは、まるで外国人をもてなすような本格的な日本料理を用意してくださった。とりわけ、コースの食器をすべて日本から運んでらしたというのには、驚きとともにお心遣いのほどを感じずにはいられなかった。このときの会話のなかから窺われたところでは、少なくとも弘毅さんは、かなり頻繁に行き来しておいでで、ほとんどロンドン市民だった。市民に配布される地下鉄とバスの無料乗車券を、区役所でもらってきた、というほどだ。そのことを含めて、あれこれ話がはずみ、何と2時から9時までお邪魔してしまった。帰りには、お2人して駅まで見送ってくださった。

 

われわれはウィークリー・マンションの1室に滞在していた。2度目は掘越さんご夫妻をそこにお招きして、できる範囲のおもてなしをした。このときは、クリスマス・プディングというイギリスのクリスマス・ケーキをお土産に頂いた。さらに、名残惜しくて、3回目の約束をして、市内の飲茶の店に行き、そのあと、ハーゲンダッツのティールームで歓談した。ヒロコも、幸子さんとこんなに打ち解けておしゃべりをするのは初めてで、すっかりもり上がった。余談だが、幸子さんのちょっと鼻にかかった声、そしてその話し方が兼高かおる似であることに、今になって思い至った。幸子さんの父君(つまりヒロコの伯父上)は、かつて、あの掘越さんのおとぎの家とは線路を挟んで反対側のあたりに住んでらしたということだし(商社マンだった)、弘毅さんはケント公からゴールドメダルを授与され、カンタベリーのケント大学から名誉博士の称号を受けるなど、特別な絆があった。おふたりは土地に完全になじんでいた。幸子さんが、大学教授だとここは住みやすいでしょう、と言って披露してくれた話がある。おふたりがどこかのレストランで席を求めると、しばらく待て、と言われた。ウェイティング・リストに名前を記載するとき、「プロフェッサー・ホリコシだ」と名乗ると、ボーイさんの態度が変わり、直ぐに席を用意してくれた、ということだ。それだけ、大学教授は社会的エリートなのだろう。日本とは大違いだ。もちろんわたしには、そんな名のり方をする度胸はなかったが。

 

このときのヒロコの日記がある。この3回目の歓談のおりの様子を、ヒロコは次のように書いている。

 

またいろいろお話し、家のこととか、お互いに話す。外国に居ることで、こせこせしなくなるんだろう。健一はそのことを、胸襟を開くとはこういうことかとわかった、という。なるほど、こちらが話したから、あちらも話すということで、段々込み入ったことも話すようになることをそう言うのかも。
健一の講義を聞いたことで、顔つきが違ったほど感激していただいたことなど、
率直におっしゃるところも面白い。学者同士相通じるところもあるようだし。来年度も講義に出たいとか。こんなことでもないと、東京ではなかなか。それにしても、掘越さんは健一に会うためにわざわざロンドンまでいらしたのじゃないかしら(^‐^)。

 

われわれと会うことを念頭において旅行を計画されたのではないかとは、わたしも思ったところだ。あの本格的な手作りの日本料理、長時間にわたる3回の歓談など、そう思うべき理由はあった。もうひとつ付け加えよう。われわれの部屋に来てくださったとき、(クリスマス・プディングのほかに)弘毅さんは、日本から持ってきたあんぱんをプレゼントして下さった。幸子さんは笑いながら、「賞味期限も切れているのだからやめなさいと言ったのに」とおっしゃっていたが、わたしはもちろん、ありがたく頂いた。弘毅さんはこの好物を大事にとっておかれたが、帰国が近づいたということで、おすそ分けくださったものに相違なかった。これをふくめて、おふたりの見せて下さった格別の親密なご厚意は、確かに受け止めていた。しかし、われわれのためにわざわざロンドンに来てくださったと確信するほどのうぬぼれはない。

 

掘越さんが謝意を表したいと思っていらしたとすれば、それは授業の聴講のことしかない。この日もまた、上記のように、授業の日の「いい顔」のことを話してくださった。実は、ヒロコの日記を読むまで、この日のこの話題のことは忘れていた。すでに聞いていた話をヒロコに向って話されただけのこととして、また、そのこと自体は社交辞令に類するものとして受けとめていたためだろう。しかしいま、このようにして、この間の交際の次第を書き出してみると、その言葉は額面通りに受け取るべきものではないか、と思われてくる。あるいは、わたしの生半可な反応に対して、暖簾に腕押しの苛立ちを感じていらしたのかもしれない。美学の世界に触れたあと、掘越さんは、幸子さんがそうと認めるほどに「いい顔」になった。そして、そこに映し出された心境を、かれは貴重なものと考えていた。では、それは何故なのだろう。そもそもかれは何故、縁者に美学者がいるからその講義を聴いてみようと思い立ったのだろうか。

 

科学者にとって人文知はひとつの異文化(カルチャー)に相違ない。掘越さんは次のセレンディピティを捜してらしたのだろうか。しかし、この頃掘越さんは、ひとつの新分野を拓いた大家であり、大きな船を任されて深い海底の微生物の探索をする国家的プロジェクト(JAMSTEC)のリーダーで、内幸町のビルのなかに研究事務所を構えるほどだった。研究に行き詰っていたわけではない。人文学への関心はおそらく、かれの人生観に関わっている。絵画がお好きなことは右にも書いた。ロンドンでも、展覧会の情報を差し上げると喜ばれた。友人の科学者とアートについて話したことを、歓談のなかでも語られた。ただ、残念ながら当時、わたしの方にこのような問題意識でその話題を受け止める用意がなかったので、突っ込んだ話を伺わなかった。それでも、藝術や人文知に関するかれの考えの根底は、その著書のなかに語られている。

 

――高校生のころまで、掘越さんはラジオ少年だった。戦災で焼け出され、父の実家のある埼玉県の羽生に疎開した。そこで通った高校の1年先輩に、現役で東大に合格したひとがいた。「そのとき初めて、羽生のような田舎からでも東大に入れるのだとわかった」と書いている(脱線するが、教育環境が違うので、「田舎」から東大に入るひとは本当の秀才だと、思う。また、羽生やかれの高校のあった加須は、久喜の隣町だ。かつて留学から帰った直後、久喜の団地に住んだことのあるわたしは、この地縁によって、一層掘越さんに親近感を覚えたものだった)。疎開組の秀才たちがみな現役で東大に入学してゆくなかで、掘越さんは1人浪人の身となった。一念発起したかれは、先陣を切った1年上の先輩のところへ勉強のしかたを訊きにいった。そのひとが掘越さんにアドヴァイスしたのが、受験対策のようなものではないことには驚く。そのようなアドヴァイスをしたひとも、それを正面から受け止めたひともすごい。その先輩の導きを得て、掘越さんはクラシックのレコードを聴くようになり、また、貸してくれた本を読んだ。そのなかに寺田寅彦全集があり、読んで引き込まれ、「やがて憧れに替わった」という(かれが自著を「学部学生向き」と形容したのは、このときの経験が念頭にあってのことだったかもしれない)。『科学者とあたま』の一節が引用してある。「頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が、科学者としては立派な科学者でも、時として陥る一つの錯覚がある。それは、科学が人間の知恵のすべてであるもののように考えることである。科学は孔子のいわゆる〈格物〉の学であって〈致知〉の一部に過ぎない。しかるに現在の科学の国土はまだウパニシャドや老子やソクラテスの世界との通路を一筋でももっていない。芭蕉や広重の世界にも手を出す手がかりをもっていない」。この言葉を誤解したと掘越さんは書いているが、老境に入り、自著にそっくり引用するくらいの、座右の銘だったと見える。かれのこの著書の中に、書物からの長い引用はこれしかない。さらに続けて、次のように言っている。「私の場合、浪人しなければ、リベラルアーツも知らないいわゆる無感性の理科的考え方だけの人間になっていたと思っている。英語、国語、歴史などにも目を向けるようになった。これらがなかったら、後にアメリカでフーベルトにあったとき彼の言うことが理解できなかったろうと思う。また妻・濱田幸子と会ったときもリベラルアーツという共通言語がなくて結婚出来なかったのでは、とも思う」。この最後の1行には、幸子さんへの弘毅さんの深い敬愛の情が映し出されている。ここでかれの言う「リベラルアーツ」とは特に人文学のことだ。また、「フーベルト」とは、「終生の友」となったドイツ人フーベルト・ゴチュリンクという、微生物学者から後に画家に転身したひとのことである。「科学者はリベラルアーツを勉強しなければ一人前にはなれない」というのがそのひとの持論だった。かれとの出会いは、「理系と文系を分けていた自分の考えが大きく変わるきっかけ」となり、美術館巡りをするようになった、と言う。フィレンツェでのあの閃きを可能にしたのが「異文化」についての思考だったことを振り返ってみると、その思想は「リベラルアーツ」的なものだったことが分かる。掘越さんはこの点を語っておられないが、このように考えれば「リベラルアーツ」は科学者のセレンディピティの風土をなしていた、と言うことができる。文系の学問に対するこのような世界観の実践として、かれはわたしの講義に参加し、その世界観の結晶としての「いい顔」に到達した。

 

科学は藝術のようなものであって、ロマンと直感の世界であります。

 

これが、科学者掘越弘毅の人生を総括する言葉だ。無用かもしれない注釈を敢えて加えるなら、「ロマン」とは行き先が決まっていない世界のことだ(JAMSTECの創立時を回顧して、かれは工学的な学問と「基礎科学」の違いを語り、基礎科学は始めから目的が決まっているものではない、ということを力説している)。「直感」についてはもはや多言を要すまい。セレンディピティとして紹介してきたことである。掘越さんの「いい顔」は、藝術の域に達した科学者のものだった。こうしてかれの肖像を書くことによってはじめて、わたしもまた、そのことの認識にたどり着くことができた。

 

授業でお会いしなくなった後は、幸子さんのペン画の個展に伺ったのがお会いした唯一の機会になった(何故、ロンドンのときのように行き来しなかったのだろう。それが悔やまれる)。新聞で訃報に接し、ヒロコが電話した。電話口にはご子息の敏明さんが出られた。かれはわれわれのつきあいをご存じなかった。葬儀は学界や政界のひとが大勢いらっしゃるようなものなので、おいでにならない方がよい、と言われ、お別れの機会を失してしまった。盛大な葬儀だったに相違ない。ひつぎのなかの弘毅さんは、ひめごとのように「いい顔」をしてらしたはずだ。そのことを知るひとが、参列者のなかに、はたしてどれだけいただろうか。 

 

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、ほか。

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