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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

ハインツ・ペッツォルト――やさしきさすらいびと

 

わたしの親友たちはだれもみな、やさしい、やさしかった。ハインツのやさしさはやはり独特で、例えばこうだ。かれは緩やかなヴェジタリアンだった。しかし、小田部胤久君(かれはハインツのもとに留学した)に指摘されるまで、そのことにわたしは気づかなかった。菜食文化が特に知的な人びとのあいだでトレンドとなっていることを、それとして認識していなかったからだし、そしてもちろんハインツの好みについてわたしが鈍感だったせいだ。少しだけ言い訳をすれば、かれはそのポリシーが周囲に波風をたてないようにしていた。肉は食べないものの魚やチーズは好んでいた。そしてわたしがすき焼きをご馳走しても、嫌がるそぶりは見せず、喜んで(と見えた)賞味してくれる、という風だった。自己流を騒ぎ立てないそのさりげなさが、ハインツそのひとであり、それがわたしは大好きだった。

 

かれの肖像を書こうとして、はたしてわたしは、ハインツをよく理解していたのだろうか、という不安を覚え始めた。その履歴を見ると、かれが決して恵まれた境遇を生きたわけではなかったのではないか、と思われるからだ。たとえば、著書や寄稿論文に付けられた著者紹介の内容が、殆ど毎回異なっている。安定した居場所がなく、アイデンティティが捉えられないかのようだ。やさしい笑顔のかげに、見えない苦悩があったのではないか。

 

ハインツを初めて「見た」のは、1984年夏、モントリオールで開かれた国際美学会議でのことだ。これはいろいろな意味で記憶に残る会議だったが、ハインツに関係することに限るなら、その臨時総会での議決を経て「国際美学会」は改組され、それまでの大家たちの委員会から、各国の美学会を束ねる連合組織へと大きく変貌した。この改革された新組織において、やがてわたしも、そして次いでハインツもその会長職を担うという名誉を得たが、どちらの組織形態がよかったのかは速断できない。総会ではこの新組織を立ち上げるために当面の委員を選ぶ選挙が行われた。モントリオールの会議でわたしの記憶にあるハインツは、総会の会場で椅子に座ったその横顔だけだ。かれと言葉を交わした記憶はない。それにも拘らずその姿を鮮明に覚えているのは、この選挙において、ハインツを委員候補として推薦したからである。椅子にすわったハインツとは、その選挙結果を待っているときのかれだ。

 

なぜ、かれを推薦しようと考えたのか。かれの研究発表が「すぐれて」いる、と思ったからに相違ない。このときかれは、バウムガルテンが、美、藝術、感性を束ねる「美学」という学問を提唱したことを以て、近代美学の創始者に相当するという主題の、アカデミックな論考を発表した。それが当時のわたしの美学観に適合していた(このように「学問的」な発表は決して多くない。このスタンスを含めてハインツは「すぐれて」いた)。このモントリオールの会議には、坂部恵さんも参加してらして、悟性と理性の序列がカントにおいて逆転し、そのことが「生産的(あるいは創造的)想像力」の思想を可能にした、という発表をされた(これはたとえば『ヨーロッパ精神史入門』の第18講~第19講に相当する)。おふたりは宿舎(国際会議では学生寮が宿舎として使われることが多い)の部屋が隣同士で、研究テーマが重なり合うこともあり、親しく語り合われたらしい。だから、ハインツと最初に言葉を交わした日本人は、おそらく坂部さんだった。おふたりはそれぞれの論考を高く評価した。坂部さんのことばが総会でのわたしの推薦行動を後押ししたのかもしれない。ただ、総会でハインツは十分な支持を集めるに至らなかった。

 

ハインツと最初に言葉を交わしたときのことも鮮明に覚えている。それは4年後の、次の国際美学会議のときだった。ノティンガムで開かれたこの会議はユニークで、わたしはいまも理想的な会議と思っている。町からはなれた大学の寮に全参加者が宿泊して議論する、というスタイルだった。多くの参加者は、会期前日に到着していた。何故かはもう分からないが、わたしはハインツを待っていた。そして到着していないことにじりじりしていた。会えたのは翌日のことだ。当時アムステルダムに住んでいたかれは、船を使ってイギリスに来た。おそらくロッテルダムとドーヴァーを結ぶフェリーだ。ドーヴァーからノティンガムへは鉄道に乗る、というおそらく最も安価なルートだった(かれはあまり裕福ではなさそうだという印象が残ったが、実はわたしのほうがずっと貧しかった)。ところがドーヴァーの税関(あるいは国境を管理する事務所)に止められ、その日の鉄道便に乗れなかった。テロリストではないか、という嫌疑によるものだった(念のため付記すれば、EU発足前のことで、ヨーロッパでもそれぞれの国に入るときにはパスポート・コントロールがあった)。その話を聞いて、ぶしつけなことだが、大笑いしてしまった。かれは、痩せているわけではないがスリムで、180センチを超える長身。ジャケットとパンツは多分コーデュロイの黒、紫色のYシャツ、首にはスカーフ、それに度つきのサングラスをかけていた。テロリストのファッションというものがあるのか、あるとすればどのようなものなのかを承知しているわけではない。しかし、怪しいと思えばそう見えないこともない、といういで立ちだ(これは、ほとんどユニフォームのようなかれのスタイルだった)。わたしの失礼な大笑いにも拘らず、この会議を通してわれわれは打ち解けた。

 

次のマドリード会議(1992年)の会期中に、東京藝大の美学の教授だった武藤三千夫さんがわたしに、ペッツォルトさんを招聘したいと思うがいいか、と了承を求めてこられた。わたしも同じ計画をもっているかもしれない、と思われたらしい。わたしは喜んで賛成した。これは集中講義をしてもらうための招聘という趣旨のものだったと思う。申請は採択され、ハインツは3か月ほど滞在し、藝大での講義のほか、他の大学や美学会などでいくつかの講演を行った。あとで少し詳しく書くが、都市の美学(あるいは哲学)はかれの美学の核心をなしていて、数年後、これについての国際シンポジウムを主宰した(その次第は後述する)。そこで自身の研究報告につけた図版は、ニューヨークのショットが半分、このときの東京滞在時に撮った写真が残りの半分を占めている。しかもそのほとんどは、下町のさびれた民家や廃業したか廃業寸前と見える喫茶店などのショットである。論文そのものがアカデミックなスタイルで書かれているのにひきかえ、ここにはかれの関心が奈辺にあったのかをより雄弁に語るものがある。

 

このとき初めて、かれの連れ合いであるヴィオラに会った。ハンブルクの造形大学におけるハインツの教え子で、その同窓生であるラインハルト君によれば「極楽鳥」のような華やかな美女だった。ハインツは所謂バツイチで、その失敗に懲りて、結婚というかたちの共同生活を絶対的に拒否していた。それは無神論的なかれの思想とも符合する態度ではある。ヴィオラは結婚を望んでいたと思い、わたしもヒロコもちょっと気をもんだが、われわれの立ち入ることのできるようなことではない(ヴィオラはいまどうしているだろうか)。

 

かれらの滞在期間のおわりごろ、ヒロコとわたしは新宿西口にあるレストランに招かれた。高層ビル群の谷間のようなところにある独立した建物の店で、かれらは街歩きの途中で見つけたのだろう。六角形をしたその建物はよく覚えているが、その料理は覚えていない(特徴的な料理の専門店だった。かれは食後にカプチーノを好んで飲んだが、カップのなかをかき回したスプーンを舐めるくせのあることに、このとき気づいた)。これは、拙宅にお呼びした返礼だったが、同時にかれから講師としてのお招きを受けた。このときかれは、オランダのマストリヒトにあるヤン・ファン・エイク・アカデミー(JVE)という、小さな、造形美術を専門とする大学院大学の「理論科」の主任教授となっていた。わたしの招聘とならんで、ハインツは藝大の学生だった小川真人君(現東京工藝大学教授)をスカウトして、マストリヒトに留学させたりした(ほかに、カッシーラー研究の点で喜屋武盛也君〔現沖縄県立藝大教授〕にも目をかけていた)。招聘をうけてマストリヒトに行ったときには、小川君にも世話になり、心強い思いをした。わたしはここに3か年続けて招かれた。1回目はベルギー側から入ったが、2回目3回目にはアムステルダム着のルートにした。するとハインツは、ヴィオラと一緒にスキポール空港に迎えにきてくれて、ヒロコにブーケをプレゼントしてくれた。ちょっとはにかんだ笑顔のイメージとともに、「ヒロコ、これを君に」と言った暖かいバリトンの声音がいまも耳に残っている。

 

ハインツがわたしを呼んでくれたのは、日本という異文化の美学を語らせるためだった。新宿で話を切り出したときにその意図をはっきり言ってくれなかったので(それは対人的な場面でのかれの気の弱さのせいだ)、JVEに着いてから大慌てをする羽目になった。しかし、結果として、この経験がその後のわたしの研究生活の展望を大きく変えることになったから、ハインツは大恩人だ。異文化への関心はハインツの美学、あるいは哲学における中心的なモチーフだった(上記の図版にもそれは表れている。そのニューヨークのショットのなかにはチャイナタウンの1枚もある。多分ニューヨークもかれには異文化、あるいは多文化の町だ)。モントリオール会議の際のバウムガルテン研究のような美学史的問題意識を喪ったわけではないが、背景へと後退していた。かれは哲学、美学そのものについても、文化哲学へと変容させることの必要を主張していた。この姿勢は、おそらく博士論文『ネオ・マルクス主義の美学』において既に見られるものだ。「ネオ・マルクス主義」としてかれが取り上げたのは、ブロッホとベンヤミン、アドルノとマルクーゼで、藝術の社会への思想的影響力を重視するテーマと、特にベンヤミンからは街歩きのアイディアを受け継いだ。街を散策することで、そこに現れた新しい文化の萌芽を読み取るという構想である。かれの60歳を祝って、ハンブルク大学における3人の教え子が編んだ記念論集がある。タイトルは『象徴的街歩き――文化哲学的探索(パトロール) Symbolisches Flanieren, Kulturphilosophische Streifzüge 』となっていて、ハインツが到達した哲学的立場をよく表している(「街歩き」はもちろんベンヤミンから、象徴、文化哲学はさらにジンメルとカッシーラーから、ハインツが学び取ったものである)。この思想傾向が前面に現れてくるのはマストリヒトに在職したころのことで、JVEにおけるかれの最後の仕事として都市の美学を主題とする国際的なシンポジウムを主宰したことは、そのことをよく示している。上記の下町の写真は、このときの研究報告書に収録された論文に使われたものだ。

 

成熟期のハインツの哲学がどのようなものだったかを示すために、この論文、すなわちシンポジウムの基調講演に相当するかれの研究報告「都市の哲学的概念」を紹介したいと思う。これを紹介することは、難しいとも言えるし、容易とも言える。ハインツには百科全書風の学識へのこだわりがあり、それはかれのアカデミズムの立脚点に由来するものだろう。だからここでも、多くの学説、固有名詞が次々と引き出されてくる。とくにこの論文の場合、その必要性もあった。「都市の哲学的概念」というタイトルが示唆するのは、哲学者が思索した「都市」だが、ハインツが論じているのは微妙に異なり、都市が「哲学」をどのように変貌させるか、というテーマである。言い換えれば、それは都市を媒介とする哲学史だ。根底には歴史的変化がある。モダンがポストモダンに移り、形而上学的な(すなわち一義的な「真理」を旨とする)哲学が失効し、多元性への意識が強まった。その多元性の哲学は文化哲学において既に着手されており、ジンメルからカッシーラーへ、さらにその2人を聴講したベンヤミンへと継承され、展開されてきた。従って、街歩きによって実践されるこの新しい哲学を正当化しようとすれば、これらの哲学説を取り上げて歴史を展望することが不可欠になる。だから、その大量の固有名詞は知識のための知識ではないのだが、その議論の筋をたどるのは、煩瑣であるだけでなく難しくもある。いくつかの筋がもつれ合っていて、解きほぐし、関係づけるのは必ずしも容易ではないからだ。さらに、魅力的な細部の観察を論旨全体のなかで紹介するのは至難のわざである。しかし、以上の説明で、論の基本構想は明らかになったと思う。そこで、行を追ってのレジュメに替えて、個人的なコメントを加えることにしたい。ひとつにはそのスタイル、そのスタンスをハインツらしいと思うからであり、またひとつにはかれとの想い出につながるところもあって、それを紹介したいからだ(その主題は上記の「学識」に関係している)。このようなわけで、回り道になるが、かれの住まいの描写から始めよう。

 

マストリヒトはオランダ最南端の都市で、アムステルダムとは各駅停車のみのローカル線が結んでおり、この鉄路は国境を越えてベルギーのリエージュへとつながっている。ハインツはアムステルダムに住み、この鈍行列車で数時間かけてやってきた。JVEには数室の宿舎があり、マストリヒトに来たときにはそこに泊まるのを常としていた。かれのアムステルダムのアパートはなつかしい。中央駅から歩いて5分くらいのところで、広い運河沿いにあった。目の前の運河にはボートハウスが係留してあった(ボートには住所が割り当てられ、郵便が届くようになっていたし、電気や水道などの都市インフラの利便にも与っていた)。アムステルダムのアパートは、京都の町家以上に間口が狭く、奥行きが長い。ハインツの部屋は、日本風の数え方でいう1階を占め、右に出入り口の扉、左にはガラス張りのショー・ウィンドーのような空間があった。これはオランダではごく普通の造りで「飾り窓」そのものだ。ハインツの部屋の窓は紙で目隠しされ、「スキポール空港拡張反対」のポスターが貼られていた。出入り口の方は、下に一見雑巾のような丸めた布が置かれていた。隙間風防止、ということだった。かれの家は、入って靴を脱ぐようになっていた。最初の空間がメインの居間で、高い天井まで届く書棚には本がぎっしり詰め込まれていた。ペイパーバックが目についた。その奥には、明り取りらしき中庭の空間があり(そこは何もない空間だった)、居間の右側から廊下で奥に通じている。奥は二層になっていて、下はダイニングキッチン、上はロフトで寝室に使っていた。そこには半畳分の畳が1枚か2枚(記憶は定かでない、2枚かと思うのはヴィオラ用を考えてのことだ。ヴィオラは別に自宅があり、2人は交互に行き来していた)置かれていたのが印象的だった。和室のように敷き詰めるのではなく、寝殿造りに住んだ貴族のように、座布団風に使うものだった。これは日本滞在で畳を知ったために相違なかった。ヨーロッパでも、こういう風変わりなひとの求めに応じて、畳が手に入るとのことだった。

 

ひとには分かち難く結ばれた居住空間があるのかもしれない。わたしにとってハインツの相貌は、このアムステルダムのアパートのたたずまいと切り離せない。簡素で、書籍以外にほとんど何もない空間。その大量の書籍は、先端的な哲学を渉猟するかれの研究生活を絵にしたもののように見えた。ドイツ語圏はもとより、特に英米の注目すべき美学者たちをJVEに招いていたが、その人脈地図は、この書斎でトレースされたものだった。現代の哲学的思潮を反映したその地図は、時代の大きな曲がり角と、哲学が変貌すべき必然性をかれに確信させたものだったろう。あまり生活臭はなく、あたかも哲学者ハインツ・ペッツォルトの肖像画を描くために設えられたセットのようでもあった。

 

もうひとつ、「飾り窓」について、忘れられないことがある。ハインツは自宅のこのスペースを紙で目隠しをしていたが、一般的には八の字形にレースのカーテンが掛けられ、飾り物が置かれ、猫のいることが多い。ただ、部屋のなかは丸見えだ。マナーに疎い異邦人であるわたしやヒロコは、どうしてもそこを覗き見てしまう。あるとき、湯上りらしき老境の男性が上半身裸でそこに座って外をにらんでいる、その視線に威圧され、驚いたこともある。ハインツが教えてくれたのは、この窓はプロテスタントの教えに則したもので、神の目に対して何も隠すものがない、ということを示すための装置ということだった。このことは、プロテスタントの意識をよく示すもので、文献的な裏付けがほしいと思ったが、いまだにそれは果たされていない。ただ、上記の「都市の哲学的概念」のなかに同じ思想が紹介されている。それは小さな都市をよしとするJ.=J.ルソーの『ダランベールへの手紙』に論及した文脈でのことである。ヴォルテールの意をうけてダランベールの書いた『百科全書』項目「ジュネーヴ」のなかに、劇場をつくるべしとの主張があり、それにルソーが反論した文書である。そこに、小さな共和制の都市がよいのは、人びとの生活が「他人に対して透明で、それゆえ道徳性が日常生活と調和しているからだ」という1節がある。ルソーの思想、あるいはカルヴァン派の思想がオランダの窓の慣習を形成したのかどうかは分からないが、ハインツの頭の中ではおそらくルソーと窓が連合していた。テクストは現実と無縁ではない。あるいは、あの窓についての説明は、ハインツ自身の解釈だったのかもしれない。

 

もうひとつ、「ナールデン」には個人的な思い出がある。この小さなほぼ無名の都市を、ハインツはバロック都市(幾何学的に区画された都市)のひとつとして挙げているが、これはわたしが教えたようなものだ。整形都市をデカルトは、自身の哲学的改革の企てに照らして、ひとが独りで行った事業の統一性を示す好例として挙げている(そこからデカルト的都市と呼ばれたりする)。デカルトの研究者はその具体例をフランスのなかで懸命に探しているが、わたしは若いデカルトが放浪したり住み着いたりした南ドイツやオランダで探すべきだと考えていた。どこでナールデンのことを知ったのかは忘れてしまったが、ここに行ってみたいと思い、ハインツに相談したところ、場所をさがして連れて行ってくれた。あとで、この町について書かれた資料のコピーも送ってくれたが、オランダ語の文献なのでそのまま今日に至っている。ハインツはそれを、論文の飾りのような1行として活用したわけである。これも、街歩きのかたちかもしれない。

 

しかし、そもそもハインツは何故、アムステルダムに住み、マストリヒトで教えていたのか。モントリオール以来、わたしにとってかれはハンブルクのひとで、ハンブルクのひとということはハンブルク大学のひとというに等しい。だから、かれがアムステルダムに住んでいると聞いて何故なのだろうと思ったし、新宿でJVEへ招かれたときにも、小さな驚きがあった。ドイツ留学に際して、ハインツ・ペッツォルト氏を受入れ教授に選んだ小田部君も、同じ認識だったと思う。わたしがハインツの生涯のなかでよく分かっていないのはこのことだ。マストリヒトでのシンポジウムから約10年後、雑誌『ディオゲネス』の特集号として「新美学」を主題とする1巻を編集することになったとき、わたしはかれに都市の美学についての寄稿を求めた。この号が印刷されたとき、著者としてのかれの名には、故人であることを示すダガーが付されていた。この「都市デザインの美学」は、その内容に立ち入ることはしないが、そこで取り上げている文献が「都市の哲学的概念」とは全くと言ってよいほど異なっていることが印象的だった(かれは死ぬまで研究の虫だったし、また2つの論考を較べると「哲学」と「美学」を区別して論じていることが分かる)。その末尾に、やや唐突にH・ルフェーヴルが持ち出され、その思想として「住まう」ことの重要性が紹介されている。しかし、ハインツ自身の生涯を見ると、あたかも定住を嫌い、芭蕉さながらの旅人であったかのような印象を受ける。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず……

 

まずハンブルク。自らの哲学の主題を都市へと集約していったことをふくめ、JVEにおけるハインツの活動の素地は、ハンブルクで培われたものに相違ない。学位を取得して数年後の1977年、ハインツはハンブルク造形大学(今の略称でHAW。ハンブルクにはもう一つ、HFBKという美術大学がある)のデザイン科でコミュニケーション理論や文化哲学などを担当する教授に就任し、2006年に年金を得て退職するまで在職した。並行してかれは、『ドイツ観念論の美学』によって university の教授資格を獲得し、ハンブルク大学哲学科の私講師を務めるようになった(教授資格を得たひとに無給で講義の機会を与えるドイツの制度)。 university における教授職は、ハインツが終生望んで得られなかったものだが、教授資格を得るために哲学史研究のテーマを選んだのは、アカデミックな世界の風土に合わせてのことだったろう。若い研究者にとっては当然のことでもあった。この「私講師」としての「ハンブルク大学哲学科教授」という顔こそが、わたしにとって、また小田部君にとっても、ハインツだった(国際美学会の仲間たちも漠然とそう思っていたのではなかろうか)。しかし、ハインツの思想形成という点でみると、大学よりもHAWにおける教育活動が決定的に重要だったように思われる。

 

HAWとハンブルクにおけるハインツの活動を教えてくれたのは、上記「極楽鳥」発言のラインハルト君とその連れ合いのビルギットさんだ(わたし自身は、残念ながらハンブルクを知らない)。このふたりはハインツの古い教え子で、ハインツがマストリヒトで教えることになったとき、南ドイツに移住してJVEに学んだほどの、ほとんど信者だ(わたしもJVEでかれらと親交を結んだ)。かれらの心酔ぶりが、自分たちの将来の活動の指針となるハインツの美学説だけでなく、その人間性によるところが大きかったことは、かれらが特筆している。そんなかれらのつづってくれたハインツとの思い出の記が伝えているのは、デザイナーになろうとしている学生たちに向かってハインツが、藝術家の社会的責任について熱をこめて語ったこと、学生との一対一(あるいは一対二)の会話がキャンパスを出て街中の散策に及ぶこともあったということである。わたしが注目するのはGalerie vor Ort という組織あるいはイヴェントだ。的外れになる恐れはあるが、敢えて訳せば「ギャラリー現場」とでもなろうか。HAWで学んだ前衛藝術家たちが、ハンブルクの旧市街に居を構えて立ち上げたもので、藝術家たちの制作の場であるとともに、哲学者や批評家、さらには少数のコレクターを交えての理論的な討論の場でもあったらしい(ウェブサイトで調べると、同じ名前の組織がウィーンその他の町にもあることが分かるが、連帯した運動だったのかどうかは分からない)。ここでハインツはHFBKの藝術家や理論家たちとも交わり、造形美術と視覚的認識、美術における空間、現代美学の主題などについて講演し、討論を行った。つまり、ハンブルクでハインツは、社会参加する美学者となった。このときハインツは前衛的活動にコミットしたモダニストだった(このグループの内部、周囲では「コンセプチュアル・アート」が頻繁に語られた)。マストリヒトではその社会参加のかたちは「日常性」にシフトし(『ディオゲネス』論文ではそれがさらに鮮明になる)、この社会参加を指してかれが頻繁に口にする「政治」は68年型とは大きく異なるものになってゆく(ハナ・アーレント由来であることは、「アヴァンギャルドを再考する」という論文に示されている)。しかし、その変貌も、世界の変化に敏感に反応する藝術家たちとの交流に促されたともいえる。ビルギット/ラインハルトは、ハインツが「きみたちから学びたい」と言っていたことを証言している。

 

何が不足だったのだろう。そこに定職と言える職場がありながら、また小田部君の留学を受入れておきながら、かれが到着するまえに、アムステルダムに移住した。ハンブルクには10年ほどしか住んでいなかったことになる。ヴィオラとオランダ語の会話を習いに通ったということだから、少し前から計画していたことだった。HAWのモダニスト的な環境と、日常性へと傾斜してゆく自身の思想的変化との間に、齟齬を感じていたのかもしれない。同時に、哲学の教授職を得られる可能性があったのかもしれない。しかし、オランダでも哲学教授のポストは得られず、別の美術大学や或る university で教えたあと、マストリヒトの美術大学に席を得た。そのJVEでも、かれの教育方針はハンブルクと変わらなかった。ただ、小さくとも学科の責任者として、年に2回雑誌(Issues in Contemporary Culture and Aesthetics)を刊行し、諸外国から講師あるいは講演者を招いてシンポジウムを組織することができた。ただし、この雑誌の名称が示唆するように、藝術よりも文化一般へと関心をシフトさせていたことが目につく。5年ほどでJVEを辞めたあと、ハインツはデフェンターという町にテラスハウスのなかの1軒を購入して転居した。家賃分を払っていれば自分のものになる、と言っていた。安住の地として選んだのだろう。しかし、天井の低いその空間はハインツにまったく似合わなかった。アムステルダムのあの「ハインツの家」を喪って流された、そんな印象を覚えた。

 

ハインツは〈歩くの大好き人間〉だった(わたしの交友関係のなかでは高取秀彰さんと好一対だ)。アムステルダム中央駅から国立美術館までくらいの距離(5キロほどか)なら、喜んで歩く。これは文化哲学の実践としての街歩きでもあったに相違ない。市内に限らず長距離の移動も頻繁だった。そのためかれは、ドイツ国鉄の割引パスをもっていた。これはヨーロッパ各国にあるようだが、このパスを購入すると、その額に応じた割引が受けられる、という制度である。頻繁に鉄道を使うひとが利用するものだ。わたしがマストリヒトに滞在しているとき、ハインツはハンブルクに出かけたことがある。鉄道では片道5時間半ほどの旅だ。アムステルダムに移住した1987年から、HAWを退職する2006年まで、約20年間、ハインツはこの移動を繰り返す旅人だった。HAWの教授ポストを維持するためだったのではなかろうか。しかし、かつてビルギットさんやラインハルト君をとりこにした、学生たちとのあの親密な交流は、ハンブルクでは困難になっていたのではなかろうか。旅人のハインツはそこで文字通り、席の温まるいとまもなかったはずだ。ちなみにかれが自宅を購入したデフェンターは、この路線にあって、アムステルダムを出た長距離列車が最初に止まる駅だった。

 

その歩行症も鉄道パスも、その論考の博覧強記と似て、定点をもたない流動する人生を象徴しているかのようだ。ドイツ語版のウィキペディアを見てみると、かれは占領中の南ポーランドで生まれた(わたしより1年4か月ほど年長だ)。後年、かれはヴィオラと連れ立って生まれ故郷を訪ねたことがあり、その次第を聞かされた。一家が引き上げて北ドイツに住んだのがハインツ5歳のとき。かれは大学をケルン、ハイデルベルク、ハンブルク、キールと転々としている。これはドイツでは珍しくないことなのだろうか。そしてそのあとの職業環境。それにはまだ、重要な続きがある。マストリヒトを辞したあと、ハインツは私講師として教える university を、ハンブルクからカッセルに移籍している(1999年)。小田部君が教えてくれたところによれば、ハンブルク大学の哲学科で教授の公募があり、カッシーラー全集の編集を担当することがその資格として求められていた。これはハインツのためのポストのようなものだった。ハインツ自身、そう思っただろう。すでに紹介したように、カッシーラーはかれの文化哲学的思考のうえで極めて親しい哲学者で、少なくとも2冊の研究書を公刊していた。しかし、採用されたのはカッシーラーについて全く実績のないひとだった。あちこちで聞かれる類の話だが、ハインツの失意は察してあまりある。この一件でハンブルク大学での居場所を失い、カッセルに移ったものとみられる。そしてデフェンターに引っ越したのも、その境遇を受入れてのことだったに相違ない。カッセルは、ハンブルクへ行く鉄道路線の途中にある。

 

2004年、かれの国際美学会会長としての任期がスタートしたが、その就任式にあたるリオ・デ・ジャネイロの会議に、来ることができなかった。循環器の病気のせいだった。その任期の終わりのアンカラでの会議には、元気な姿を見せた。病気は克服されたように見えた。会議の数日後、全く偶然だが、イスタンブールのトプカピ宮殿のなかでヴィオラと連れ立ったかれと出遭った。われわれのホテルに招いて(わたしの方にはヒロコのほかにマイコもいた)、非常に愉快な時間を過ごした。ブルーモスクが指呼の間にあるホテルの屋上からは、エーゲ海を見晴るかすことができた。雲一つない陽光の下の日焼けした笑顔が、わたしの記憶に残るかれのラスト・ショットとなった。次の2010年の会議でも会ったはずだが、特別の記憶はない(このときわたしは妙に忙しかった)。そしてハインツは、2012年6月、シンポジウムに招待されて訪れていた中国の徐州で客死した。出血か梗塞かは分からないが、循環器の病気だった。こうしてかれは、そのさすらいの人生を閉じた。古人も多く旅に死せるあり……

 

 

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、ほか。

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