文化堂の丸山さん――街のなかの藝術家
中野区打越町35番地。そこに文化堂という中古レコード店があった。その店主が丸山さんだ。下のお名前は知らない。
店は中野駅から歩いて数分の至近距離にあった。北口商店街のアーケードに入り、10メートルほど進み、建ち並ぶ商店の間の狭い路地をぬけて100メートルくらい行ったところだ。そこは既に住宅街で、すぐそばなのに商店や飲み屋の喧騒のそとにあった。どのようにしてこの店を見つけたのか、記憶にない。見つけたのは母か姉だったろう。レコードの専門誌『ディスク』に文化堂は、毎号、数センチ角の広告を載せていた。住所と簡単な地図が書かれ、買取と交換がうたわれていた。これは他のレコード店の広告も同様で、LPレコードが非常に高価だったころのやりくりが窺われる(12インチLPが2300円で、物価は今の10分の1以下だったろう)。中高生のころよく通った。ガラスをはめた引き戸2枚の入口で、薄い布のカーテンが開いていれば営業中だ。ガラス戸の開く音で客の気配を感ずると、奥から丸山さんが出てきた。かれの通路は、茶室の躙り口のように、腰をかがめて行き来するようになっていた。背丈の低いその通路の上のスペースも、何かに活用されていたと思う。
店舗は狭く、記憶のなかでは三畳に満たない。二三人の客でいっぱいになった。展示してあるのはSPレコードで、クラシックのLPについては写真用のアルバムに書き込まれたリストが置いてあった(反対側から始まるページには、ジャズや「洋楽」のポップスのリストがあったようなうっすらした記憶がある)。作曲家に曲名、演奏者、多分レーベル名とレコード番号、そして価格。更に店独自の整理番号が書いてあった。これはと思うものを伝えると、丸山さんが背後の棚から取り出して、試聴させてくれた。当時としては普通のことだが、プレイヤーはご自分で組んだと思われるもので、驚くようなものではないが、ほどほどの音がした。丸山さんはおしゃべりでも、無口でもなく、レコード店の店主にふさわしいほどほどの笑みをたたえていた。どちらかといえば小柄で、声はそれ相応のハイトーンだった。ときには客の選んだ盤について、短いコメントのつくことがあったし、リストのなかのおすすめを訊ねると、ややマニアックな返答がかえってきた。
あるとき、姉と一緒に訪ねると、カーテンが閉まっていて、「御用の方は隣にお越しください」というような貼り紙がしてあった。文化堂はひとつの家屋の右半分を占めていて、左半分は扉があるだけでのっぺらぼうな造りになっていた。なかはどうなっているのか、ささやかな好奇心を覚えないわけではなかった。おそるおそるその秘密の扉を開けると、なかは奥までつづく広い空間で、丸山さんが作業をしていた。喫茶店を開業するつもりだという。そこで、壁面に漆喰を塗っているところだった。終戦直後は、仕方なしに住まいを自分で造るひともいた。少なくなかったかもしれない。丸山さんの場合、こだわりを感じた。粗塗りの白い漆喰壁はモダンだ。それに、そもそも、ベレー帽をかぶったその姿には、どこか藝術家を思わせるものがあったからだ。
入口に近く、大きなコンソール型の蓄音機が置いてあった。見たこともないものだった。見惚れて訊ねると、売り物とのことだった。ぜんまいを巻いて、そばにあった春日八郎を聞かせてくれた。驚くようによい音だったわけではないが、その姿に魅了された。値段を訊かなかったのは、とうてい手の届かないものという風格を漂わせていたからだ。いま思えば、あれは銘機クレデンザだったに相違ない。置いておけばインテリアとして喫茶店の格が上がるように思われ、売ってしまうことがちょっと惜しい感じがした。同時に、その銘機を商品扱いすることと、ベレー帽とのあいだに、やや不協和なものを感じた。
このとき、姉が求めて、開業前ながら、コーヒーをいただいた。しかし、その後その喫茶店がどうなったのかは知らない。大学生になり生活環境が変わると、文化堂にも足が遠のいていった。後日談は半世紀近くあとのことになる。と言ってもドラマチックなものがあるわけではない。小学校のクラス会が中野サンプラザで開かれた。その機会に、早めに出かけ、文化堂の場所を訪ねてみた。丸山さんは姉と同世代と見えたから、ご健在としても店があるかどうかは分からない、と思ってはいた。期待半分でかつて通いなれた道をたどると、文化堂のあった場所をふくめて、一帯はスーパーの敷地になっていた。
そうだろう。仕方ない。時間もあるので、アーケード街を散策することにした。なじみだった古書店もなくなっていた。この商店街は突き当りが中野ブロードウェイという店舗と住居の複合ビルになっている。そのあたりまで行くと、道はそのビルを迂回するように右手にそれてゆく。その角になんと「文化堂」という中古レコード店が店を構えているではないか。昔の文化堂とは比べ物にならないくらい、立派な店構えだ。素通しのガラスのドアで、なかが見える。展示されている箱やジャケットは、クラシック専門のようだ。引き戸をあけて中に入り、店番をしている初老の女性に、あちらにあった文化堂が移転した店なのかと訊ねた。
丸山さんはすでに亡くなっていて、女性は丸山さんの未亡人だった。年齢差を思うと後妻さんかとも見えたが分からない。わたしは丸山さんが何者であるのかを確かめたいと思っていた。実は藝術家で、レコード店は身過ぎ世過ぎの手立てではないか、という思いがずっとあった。夫人は、丸山さんが立派なひとで、一家のなかでいかに頼りにされていたか、ということを延々と語った。つまり商才にも長けていた、ということなのか。その志を継いで、無理をしてここに店を作った、と言われたように思う。藝術家というのは、若いわたしの勝手な想像にすぎなかったらしい。それでは、なぜレコード屋だったのか、あの喫茶店は繁盛したのかなど、訊きたいと思ったが、亡夫への敬慕の想いだけが彼女を捉えていた。
中学生のわたしが、ベレー帽をかぶった音楽通の丸山さんを藝術家と思ったのには、おそらくそれなりのわけがある。藝術家はどこか隔絶した世界の住人ではなく、市井にまぎれてわれわれと日常生活を共にしている、と理解していたように思う。
小学1年生のとき、わたしは図画と音楽の成績が2だった。音楽の方は分かっている。試験のとき、人前で歌うのを断固拒否したせいだった。他方、図画は生来の不器用さによるところが大きかったろう。母はそれを案じて、近所で絵かきさんを探し出し、手習いの指導をおねがいした。何曜日の何時と決まっているわけではない。子供にとってはそれがかえって心の負担となり、そのストレスがたまったとき、仕方なしにそのお宅を訪ねた。ほんの二三回だったと思う。忘れたころに子供が訪ねてくるのは、画家にとって非常に迷惑だったと思う。その家は三角屋根で、見たところもあたりに異彩を放っていた。中はさらに不思議なオーラに満ちていた。光を取り入れるために南側(前の通りからは見えない)の急勾配の屋根はガラス張りで、室内は非常に明るい。床にも段差があって、立体的なつくりだった。主である絵の先生が友人との会話に没頭していて待たされたことがあり、家の中を観察したときの記憶だ。
数回お訪ねすると、次からはここへ行きなさい、とお弟子さんらしき女性の家を指定された。彼女はたぶん美術大学の学生だったのではなかろうか。師匠のアトリエの近くの小さな借家に住んでいた。記憶では六畳一間の独立家屋のような小さな家だった。こちらには一度訪ねただけだったと思う。この師弟のお二人にはご面倒をおかけしたが、どこか風変りなところがあっても(三角屋根)、藝術家は近辺にふつうに暮らしている人びとだった。だから、ベレー帽の丸山さんが本当は藝術家で、レコード屋の店主であることは世を忍ぶ姿であったとしても、不思議はなかった。夫人の身の上話を聞いたあとになっても、記憶のそのいろどりは、不思議と消えていない。丸山さん(とお名前さえ忘れた画家の先生)から、この世の「藝術の香気」を教えられていたからだと思う。