補注 アートワールドのなかの木村忠太
木村忠太さんの肖像を公表したとき、世間でこの画家がどのように評価されているかについての説明が必要かもしれない、と思わないわけではなかった。フランスで活躍するこの日本人画家をご存じない方もおられよう。その作品への一般的な評価次第では、かれの自負の言葉は単なる大言壮語と受け取られることもありうる。たしかにジャン・グルニエの批評が木村さんのパリ画壇でのプロモーションに大いに貢献したことが知られているが、そのグルニエは日本において美術評論の権威として知られている、とは言い難い。そこで、この画家をまったくご存じない方のために、簡単な補足説明を加えるべきか、という考えに傾いてきた。この思いは当初からのものだったから、その未達の意識が心の片隅にくすぶっていた。簡単にできそうなこの課題に手をつけなかったのは、「一般的な評価」なるものがきわめてあいまいな性質もので、どのようにしたらそれを捉えたと言えるのか分からない、という難しさがあったからである。
今回、数行の付言ではなく、かなり長い補注を書こうと決めたのは、アメリカの哲学者で美術評論家でもあったアーサー・ダントー(1924-2013)が、木村忠太の絵画に対して、異例と言えるほどの賛辞をささげていることを知ったからである。これは衝撃的な事実だ。なぜそれが衝撃であるのかを説明することから始めよう。それは、美術の世界的な動向のなかでの、木村さんの生涯に光を当てることにもなるはずだ。
まず、この分野のことにあまり関心のない方々のために、ダントーが何者であるかの紹介から始めよう。ダントーは、私見では、20世紀後半におけるもっとも重要な美学者(ここでは主として藝術哲学者の意)だった。この重要性は、学説の充実度だけでなく、その学説を構成する現在進行形の歴史認識にも由来している。この顕著な現代性こそがダントーの存在を大きなものにした。かれの描き出した大きな歴史的変化は、モダンに対するポストモダンと呼んでもよいし、日本語で言うなら「藝術」に対する「アート」でもよい(もちろん英語ではこういう区別はできない)。また、「エコール・ド・パリ」に対する「ニューヨーク・スクール」を指標としてもよい。修練を通して身につけたわざを旨とする「藝術」を破壊したのは、ダダイストでフランスの藝術家だったマルセル・デュシャンだが、その変革への意志はアメリカに根を張った。また、ニューヨーク・スクールの出発点は抽象表現主義だが、その原型としての抽象絵画も表現主義もヨーロッパ由来のものだった(特に戦中、多くの藝術家がヨーロッパからアメリカに亡命した)。歴史をふり返ってみれば、おおづかみに、世紀の中葉に美術の中心はパリからニューヨークへと移った、と判断することができる。しかし、その変化の只中において、アメリカの新美術はヨーロッパ美術の単なる派生形態と見られていたはずだ。アメリカを新たな中心地としたのは、その後の創作活動の隆盛の成果であり、それを哲学的に価値づけ、理論的にバックアップした中心人物がダントーだった。わたしが木村さんにお会いしたのは1974年だが、このとき日本人にとって美術の「本場」はパリを措いて他になく、特に木村さんにとって世界のアートワールドがパリを中心として動いていることは自明のことだった、と思う。木村さんは旧世界の「藝術」家であり、その世界の藝術概念のほかに、それを否定するようなアートがありうることなど、かれにとっては笑い話にもならなかったことだろう。木村さんがわたしに語ってくれたのは、そのような藝術概念であり、それは画面の調和、統一に集約されるものだった。このような基本構図のうえに置いて見るなら、新時代の旗手ダントーが木村忠太を並外れたことばで絶賛した、ということが、どれほど衝撃的なことだったかを、理解していただけるだろう。
ダントーのキムラ論は、かれの時評といくつかの論考を集めた『出会いと思索――歴史的現在における art』(Encounters & Reflections, Art in the Historical Present, Farrar Straus Giroux, 1990)という著書に収録されている。目次では「キムラ/ベルリンアート」という表題をつけられているが、1987年に開催された2つの展覧会を並べて論じたその時評のあとに、タイトルのない1989年の別のテクストが併載されている(これは時評ではなく、作家論、あるいは複製やイメージの力についての哲学的議論である)。2篇を隔てる2年のあいだに、ダントーの論点は変化している。そこでまず、ダントーとキムラの出会いの次第を、記述に即して整理しておこう(これは明記されているわけではない)。それがかれのキムラ論の変化を裏付けてくれるところがあるからだ。
年代順では、最初の時評の2年前、1985年のワシントンDCにおける木村さんの大規模な回顧展が最初に来る(存命の作家の展覧会を回顧展と呼ぶのは、やや違和感を覚えるが、多分ほかに言いようはないのだろう)。この催しをダントーは知らなかった。それを教えたのは、意外にも、哲学者の石黒ひでさんだった。日本では名著『ライプニッツの哲学――論理と言語を中心に』(岩波書店、増補改訂版2003年)で知られるが、英語圏では一層令名が高い。石黒さんはダントーにこの画家夫妻に会ってみないか、と持ちかけた。といっても、石黒さん自身は木村さんと面識があったわけではない。木村夫妻に同行しているアキ・ナンジョウ氏(南條彰宏氏のことだろうか。このひとはワシントン展のカタログに寄稿している。あるいは南條夫人だろうか。ダントーはアキが「キムラに献身しているようだった」と書いている)が、大学での同窓生だった関係で、木村さんに会うことになった。想像するに、石黒さんは木村夫妻に会うことになり、この会談をより実り豊かなものにすべく、この分野の泰斗たるダントーを誘ったものだろう。しかしダントーは、「英語もフランス語も話さない」この未知の画家に会ってみたいとまでは思わなかった。そこで石黒さんは、ダントーの机上にワシントン展のカタログを置いて行った。――このカタログが封筒に入れられていたことを、わたしは確信する。その表紙に取られた画像に対するダントーの熱狂ぶりを知れば、かれがワシントンDCまでこの展覧会を観に行かなかったことは不可解だ。それを説明するためには、カタログをすぐに見なかった、と考えるほかあるまい。新人の売り込みに類することは、かれのような有名批評家にとっては、ありふれたことだったろう。ただし、木村さん個人に言及したその断片的記述は、《木村さんに会った、会ったがその人物に大した関心を覚えなかった》、と読めないわけではない。しかし、実際に会ったのなら、そのひとの印象について何がしかを記すのではなかろうか。そして作品とその人物の印象とをどこかで結びつけようとするのではなかろうか。そういう記述が一切ない。
ダントーが夫人同伴で木村さんの作品を最初に見たのは、ニューヨークのルース・シーゲル画廊(Ruth Siegel Gallery)における展覧会でのことだが、それが何年のことかは記されていない。1985年(上記ワシントン展)と1987年(ベルリンアート展と同期)のあいだのいつかであることは間違いない。ただし、この出会いについてかれが語ったのは1989年の評論文においてのことであり、この錯綜した時間関係が、かれの経験の成熟を映し出している。
この時間座標を確かめたうえで、ダントーがキムラに捧げた評言を3つ紹介したい。どれも手放しの礼讃と言ってよい。まず、「キムラはわたしが熱烈に愛するもの(great enthusiasm)のひとつ」ということば。これを最初に読んだわたしは、そこに強い意外の感を覚えた。ダントーと言えばウォーホルだが、そのウォーホルにかれはこのような感情を懐いただろうか。2番目は、「いつかクロ・サン=ピエールに聖地巡礼をしたいと思うが、それはキムラがそれについて描いた見事な (marvelous) 風景画が、何度見ても見飽きない、そして見たなら眼を離せなくなる、それほどにわたしの目を魅了する(enchant my vision)からにほかならない」。「ル・クロ・サン=ピエール」とは、わたしが木村さんにお目にかかったカンヌの丘の中腹にあるヴィラの地名である(ダントーは絵のタイトルからこれを知ったのだろう)。聖地巡礼を口にするところは、まさにファンだ。しかし、それには理由がある。それを説明することは3つ目の評言につながる。だがそれを紹介する前に、ベルリンアートと対比された1987年のキムラ展の時評の趣旨に触れておこう。その主題は土地、もしくは風土であり、最後にダントーが描いた1989年の作家論では抜け落ちている。いわば止揚された論点だが、作家論の主題をなすイメージ論につながってもいる。その風土論によれば、最近まで、「美術もワインのようなものだった」。ベルリンアート展の1982年以前の作品には、ベルリン子でしか画けないなにかがあったが、その後は完全に国際的な様式になり、その様式の画家なら誰でもどこでも画けるような作品になっている。それに対してキムラの絵画は、「フランスで制作する日本人にしか画けない」性格のものだ、と言う。かれは日本で見たボナールを通してフランスに憧れた。そしてフランスに住むようになっても、フランス語を覚えず、「沈黙の風船」のなかに籠ることによって、「画像を通して現実を遠くから憧れをもって知覚していたひとの、その知覚の初々しさ」を保ち続けることができた。加えて、制作するかれの身体運動は日本的なもので、刀鍛冶や書道家のスタイルを継承している。「(フランス的な)知覚と(日本的な)身体運動という二つの様態」の緊張をはらんだ融合がキムラの個性を構成している。そのサインにもこの緊張感がみなぎり、何度もそれをなぞってしまう。なぜか。西洋の画家にはリアリズムか表現主義かの選択しかない(対象に帰依するか、自己を解放するか、という二元論)。しかし、キムラは「動作の攻撃性と絵具の物質性のゆえに」第3の道を拓くことができた。かれの絵は、風景が自らの力で自らを表現することを望んだかの如くである。その原点には、北斎の「神奈川沖浪裏」にみられるように、「沸き立つ自然の力」を捉えてきた日本美術の伝統があるのではないか、という考えが閃いた、とダントーは結んでいる。
この批評文は興味深い。サインへの注目は、グルニエの着眼点と符合する。またその画面にダントーの感じた魅惑は、グルニエの幸福感と比べることができる。「沈黙の風船」はグルニエの言う「世間知らず」と通じている。このように2人は共鳴しており、ダントーもまた、グルニエと同じく「絵の見える」ひとだったことがわかる。とくに「絵具の物質性」とかれが呼んだものは、木村さん自身が「質」と呼んだものに相違ない。面白いのは、木村さんが、日本の油絵画家はこの質の重要性を知らず、日本画と同じように画いている、と言っているのに対し、ダントーはそこに日本美術の(あるいは日本文化の)特質を見ていることだ。ただ、付言しておきたいことがある。風景の自己表現としてのキムラの風景画、という考えは、わたしが「自動詞性」と呼ぶものを捉えているようで、思想類型としては共感する。しかし、そもそも木村さんの絵画を風景画と見るような見方が、わたしにはない。だから、作品のタイトルに注目したこともない。風景は確かに出発点にあったに相違ない。しかし、木村さんの制作は、もとの風景からは独立した、調和と統一性を実現するべき創造活動だったと思う。
ここで、第3の評言に戻ろう。これをとっておいたのは、激動する歴史のなかでの、国際的アートワールドにおける木村忠太の位置を考えるうえでの、重要な契機となるからだ。それは1989年の作家論のものだが、時評ではない。すなわち、新たな展覧会があって、それを機縁としてつづった文章ではない。展覧会ではなく、刺戟はカタログの表紙を飾る画像から与えられた。ダントーは、机上のタイプライターの傍らに石黒ひでさんの置いていったカタログを立てて置き、飽かずながめては、それに魅了されていた。そして、複製というものの不思議な力に問題意識を膨らませていった。かれは自らのキムラ体験をキムラ自身のボナールとの出会いと重ねる。いずれもオリジナルへの関心、憧れを惹起し、ダントーは聖地巡礼を思うほどに木村忠太に魅了され、木村さん自身は、フランスへ渡って故郷に帰らなかった。それは「愛の力のような何か」だ。この愛に似た力を生み出すものを語るとき、かれは複製ではなく「イメージ」を主題とする(わたしの読んだ範囲では、かれの複製論は完結していない)。プラトンにおいて、愛(エロース)を掻き立てるのが美の特性であったことを、思い出してもよい。ダントーはつぎのように言っている。
その複製のみから、すなわちカタログ本を開いて複製された他の作品を見ることさえせずに、キムラが世界の偉大な藝術家のひとりであるということを、直ちに、そして絶対的に認めるということなど決して考えられないことだった。そこに示されている絵画は、明らかに風景画だった。しかし現実の風景がこの並外れたイメージがなしたほど熱情的にわたしの注意を引いたことはない。キムラがどのようなひとであるかが分かったにもせよ〔本人に会うまでもなく、の意であろう〕、かれはすさまじい(ferocious)美をもって、思い出しただけでもわたしをよろこびで包むほどの濃密なイメージを作っていた。わたしは美に対する幻滅の感を強めていたことを、承知している。あまりに長い間、絵画をそれが提起する哲学的な問題の面から考えてきていた、あたかも、藝術は哲学そのものの転位した形態であるかのように。キムラは絵画がその最高の使命において示す縮約不能、分析不能の力への意識をよみがえらせてくれた。
いまわたしが注目するのは、この後半部分である。「絵画がその最高の使命において示す縮約不能、分析不能の力」とは美のことである。絵画の「最高の使命」が美を実現することである、というのは、ダントーの言葉としては驚くべきものだ。ここで自ら認めているように、かれが展開してきた藝術哲学の基調は『ありふれたものの変容』(松尾大訳、慶応義塾大学出版会)という主著のタイトルが示す通りである。この著作は、アンディ・ウォーホルの『ブリロ・ボックス』の提起する哲学的意味の解明を主題としている。すなわち、ウォーホルはブリロという金属磨きを入れる搬送用の段ボール箱をそっくりに再現した。モデルとなった段ボール箱と、ウォーホルの『ブリロ・ボックス』は、外見において変わらない。しかし、一方は単なる実用的消耗品であるのに対し、他方はアート作品である(オークションに出品されれば非常な高額をつけることは間違いない)。この存在論的な違いの説明にダントーは熱中してきた。その問題意識は、当然、藝術のあり方の歴史的変化の問題意識と不可分である(「ありふれたもの」をアート作品に「変容」させることなど、デュシャン以前にはありえなかった)。ダントーが議論をリードした「藝術の終焉」とは、歴史的必然として、美しい藝術が過去のものとなり、藝術活動は方向性のないアートの段階に入った、という意味である。木村忠太の絵画においてダントーが認めたのは、アヴァンギャルドが破壊したはずの美しい藝術の圧倒的な現存だった。「藝術」は死んでいなかったのではないか。ダントーの歴史認識は修正されるべきものだったのではないか。
事実、美しい藝術の復活を主張する議論も現れた。ダントーもまたこうした議論に応戦する必要をみとめ、2003年に『美への悪態』(The Abuse of Beauty)という一書を公刊している(タイトルはランボーの詩句による)。私見では、これはダントーの美学のなかでもっとも重要な、あるいは少なくとも最も魅力的な著作であり、『美学への招待 増補版』(中公新書)のなかで、やや詳しく内容を紹介してある(第10章)。かれの主張を一言で要約すれば、《美は人生には不可欠だが、藝術にとってはそうではない》ということである。美の復活を標榜した展覧会に展示された作品が、決して美を旨とするものではないことを指摘している。それどころか、美しい藝術には、しかるべき理由が必要と考えたふしがある。そこで取り上げている代表的な美しい藝術は、ニース時代のマチスである。木村忠太に対して見せた熱狂は、そこにはない。キムラはどこへ行ってしまったのか。
ダントーはキムラの美しさを、自身の藝術哲学にとりこむことができなかったのだと思う。かれが「人生に不可欠」と言ったのは、悲惨な現実の慰めとなるようなエレジーの美とか、より身近には墓にそなえる花のようなもので、いわば役に立つ美である。それに対してキムラの美は、はるかに無償のものだ。グルニエを幸福感でつつみ、ダントーを魅惑したが、その役に立つように作られた、とは言えないだろう。ダントーがその美の哲学のなかにキムラを組み込むことができなかったのは、それほどの美しい藝術を歴史的に正当化することができなかったからである。キムラは歴史を超えた、いわば永遠の藝術である。そしてそのことは、国際的なアートワールドにおける木村忠太の位置を示している。現代は永遠の藝術にとって居心地のよい場所ではない。木村さんの意識とは異なり、かれの周りの世界では、永遠の藝術のほうが、傍流となっている。美しい藝術に対して歴史的な正統性を認める哲学が現れたとき、キムラは本来の輝きを取り戻すのではなかろうか。
*
付言しておくべきことがある。英語のサイトには、おびただしい数のキムラの画像をアップしたものがある。それらを通覧しても、1982年にパリでわたしが見た不気味な自画像は見当たらない。どう考えたらよいのか、困惑している。ひょっとしてあれは、別の画家が木村さんを描いたものだったのだろうか。