錦糸町の巫女さん
わたしが成長期を過ごした柏木の家には、三つの神棚があった。一番立派な神棚に祀られているのは大神宮さまと呼ばれていた。二番目が、多分、弁天さま、そしてごく質素なのは荒神さまである。説明のしやすいのは荒神さま。火あるいは竈の神様で、台所に祀られていた。壁に何かが書かれたお札が貼られていた。棚板があったかどうか、記憶は定かでないが、小さなしめ縄が飾られていたような気がするから、相応の小さな棚が設えられていたのだろう。
神棚はいくつかの理由で、子供のわたしの関心を引いた。何よりも、お社だ。大神宮さまと弁天さまは別々の部屋の、それぞれ隅の長押に載せて、棚が置かれていた。大神宮さまの棚板は厚さが七~八センチはある重そうな檜の板で、幅も一メートル以上あった。弁天様の板はさほど厚くなく、この厚さの違いの分だけ弁天さまは大神宮さまより低い位置にあり、それがこの神様たちの位の違いによるものと、聞かされた。これらの板は、天井から二本の桟木で吊られ、その二本の桟に渡すかたちで、曲線で切り抜かれた横板がつけられていた。その板が雲板という名であることは、当時は知らなかった。大神宮さまと弁天さまにはそれぞれお社が飾られていた。ここでも位の差が示されていて、弁天様のお社は間口が狭く、簡素な造りだった。これでも既に、わたしにとっては精巧で魅力的なミニチュアだが、大神宮さまの造りにはほれぼれした。間口が広く(全体のバランスで言えば横広で)、入口には階が数段あり、建物のまわりに欄干のついた回廊が巡らされていた(とは言え、多分裏面にはなかったろう)。観音開きの扉が開いていて、そこに円形の飾り物が置かれていた。これは鏡だよ、と教えられたが、覗いても顔が映らないので、変な鏡だと思った。
素晴らしいミニチュアなので、大掃除は進んで引き受けた。鏡がちゃちだと思ったのも、拭き掃除をしている最中のことだったろう。毎朝、父が示している崇敬の態度の生み出す聖なる距離感は、ミニチュアを磨く少年の手の中にはなかった。許された自由な詮索のなかで、内部が不思議にがらんどうであることに気付いたりもした。年末の大掃除のときには、雲板にとりつけてあるしめ縄も新しくされた。もちろん、大神宮さまと弁天さまではしめ縄の大きさも違った。しめ縄には独特の折り方をした細長い紙が四枚差し込まれ、前面に垂れていた。これを紙垂ということは、この文章を書きながら調べて知ったことだ。この紙垂は、半紙を折り、切り目を入れて、父が作っていた(父は器用なひとだった)。
毎週、駅前の花屋さんが、花を満載したリヤカーを引き、カチカチと花ばさみを鳴らして御用聞きに回って来た。父は仏さまのためのお花とともに、二柱の神さまのために二対のお榊を買って供えていた。そのほかには、塩と水と米が、小さな白いかわらけに入れて供えられていた。お神酒の記憶はない。
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「出たんだよ」。そう言った父の声が今も耳に残っている。学校で、家の歴史を聞いて来なさい、という宿題を出されたときのことだったかもしれない。父のその声は、弾んでいるはずはないが、参りましたというようなさっぱりした響きがあった。
話は、戦前に遡る。下町で工場を営んでいたとき、若い衆たちが白い蛇を捕まえて、多分、何か悪さをしていた。かわいそうなことをするな、と言った父は(まるで浦島太郎のよう)、その蛇を鳥かごに入れ、冬だったので、竈の上に下げておいた、という。「出た」というのは、その蛇がお告げに出た、ということだ。「熱い、熱い、どうして熱いのが分からないのか」と身もだえする巫女に、父は直ちにその正体を悟った、と言う。
その蛇の霊が、父に、あるいはわが家に、どのような災難をもたらしたのかは分からない。それでも、神棚を祀るようになったのは、それがきっかけだったに相違ない。三つの神棚のなかで一番大事だったのは、だから実は弁天さまで、銀で造った蛇がやはり銀の皿に載せて、そこに祀られていた。それが弁天さまだったというのは、記憶にあることではない。大神宮さまと荒神さまの名は覚えているのに、この二番目の神棚の主を何と呼んでいたか、どうしても思い出せなかった。そこで、蛇を祀ってあったことを手掛かりに、逆算して調べたところ、弁天さまを蛇の神とする伝承があることを知り、わたしの遠い、微かな記憶と協和するように思った。だから、今は弁天さまと思っている。父が、毎朝、この二つの神棚に敬虔な祈りを欠かさなかったのは、蛇の霊の祟りを鎮めるためだけでなく、その慰霊の気持もあったに相違ないが、これはわたしの推察である。
ここで話したいと思っているのは、蛇の霊が憑依したその巫女さんのことである。そもそも何故、その巫女さんのもとを尋ねたのか、あるいは招いたのかは知らない。自分では忘れていた蛇が、目の前でこの巫女さんに憑依したのを見て、父は一も二もなく心服し、神棚を飾り、わたしの名付け親になってもらった。より厳密に言えば、わたしの名付け親になった巫女さんこそ、その蛇の憑依した巫女さんだったとわたしは思っている。そのような機縁がなければ、新たに授かった子供の名付け親になることを依頼するとは考えにくい。わたしは、歳の大きく離れた二人の兄が出征したために、危機感から生み出された子供だった。巫女さんがどう考えたのかは分からないが、兄たちの死を予想してか、長男のような名前を頂いた。そのことは両親から何度か聞かされたように思う。
その巫女さんと、記憶の限りでは一度だけ、お会いしたことがある。小学校の低学年のころだが、両親が自宅にお招きしたときのことである。お顔は全く記憶にないが、母と同じような体形の小太りな中年女性で、印象としては、歌手の二葉百合子に似ている。床の間を背に、おもてなしの粗餐と、お神酒も召し上がって上機嫌だったのだろう。手を口にあてておホホと笑われるのが上品に思えた。わたしは、多分、これがあの子です、と紹介され、その膝に抱かれた。
ほどなく憑依のときがやってきた。お召しになっていた服が紫だったという記憶はあるが、どのような形状のものだったかは分からない。普通の和服ではなく、神職の着る特別の服だったに相違ない。憑依とともに、彼女は胡坐をかき、男言葉で話し始めた。取り憑いた霊が何だったのかは分からないが、上品なおばさまのまさかの変身に、そして、そのお告げを前に平身低頭している父に、わたしは呆然としていた。
やがて霊の去る瞬間がきた。その微妙な瞬間が、記憶のなかにある(ような気がする)。そのとき、巫女さんは何とおっしゃったのだろう。まさか、「お粗末さまでした」ではあるまいが、そんな呼吸だった。だから、一呼吸されただけだったのかもしれない。そして、膝を正座に戻し、上品なおばさまに戻った、何事もなかったように。余計な詮索のようには思うが、この憑依とうつつのあわいのとき、彼女の意識はどのようなものだったのだろう。ぷつんと霊が去るのだろうか、それとも明け染める空のようにうつつが帰ってくるのだろうか。また正気に戻ったとき、憑依のことを覚えているものなのだろうか。いずれにしても、心身に大きな負担のかかる仕事に相違ない。
もうひとつ、錦糸町の巫女さんにまつわる記憶がある。記憶と言っても、古びたセピア色の写真のような、一コマの静止画像だ。そこに写っているのは、緑の「背広」を着せられ、一六歳年長の次兄に手を引かれてどこかを訪れた自分の姿である。純正の記憶ならば、自分の姿が映っているのはおかしい。夢の記憶のようにも思えるし、あるいはそういう写真があって、それを記憶に止めたのかもしれない。ともあれ、これをわたしは次のように解釈する。緑の背広は事実で、覚えてもいる。物資の乏しい時代にありえないような、飛び切り贅沢なオーダーメイドだった。しかし、他に着た機会があったようには思わない。まさに晴れ着だった。また、兄との外出も事実だ。よそのひとに、わたしの父親と間違われた、ということを兄は何度か語っていた。では、なぜ晴れ着で外出したのか。小さな男の子が晴れ着を着るとすれば、七五三しかない。そして、七五三で参拝する神社としては、わたしの場合、名付け親の巫女さんの神社を措いてほかにあるまい。そうなると、その一コマ記憶の情景は、巫女さんの錦糸町の神社ということになる。このふたつを七五三でつないだのは近頃のことだが、その情景を巫女さんの神社だという考えは以前からのもので古い。それは、だだっ広い、何もない空間で、その奥に神社とおぼしき建物がある。これもおかしいと言えばおかしい。神社は、ふつう、緑豊かな空間だ。空襲で焼かれたのかもしれない。
ヒロコには昔ゆかりの場所を訪ねたいという欲望がないが、わたしはそれに執心する。それに齢の効果もあるだろう。錦糸町の神社を訪ねてみたいと思うようになった。その場所は簡単に見つかるはずだ。錦糸町駅を出た左手に江東楽天地という映画館や劇場の集まった一角があり、そこを越したところにその神社はある。七五三の記憶に照らして大きな神社に相違ない。すぐに見つかるだろう。だが、念のためということもあるから(いまでは、あてもなく歩き回る体力はない)、地図を開いてみた。なんと、驚いたことに、神社はない。見つからない。見当をつけていた辺りにあるのは、都立墨東病院だ。あるいは、ひょっとして、移転したのかもしれない。都市の再開発で場所を変えた、ということもありえないわけではない。そこで大学の図書館で昭和二〇年代の地図を見てみたが、やはりない。病院は昔からずっとそこにある。索引で「神社」を捜してみても、それらしき神社は見当たらない。あの巫女さんが錦糸町の神社のひとだというのは、わたしの記憶違いだったのか。地図という科学を前に、そう認めざるをえないが、どこか残念な気持ちが残る。兄に訊いておけばよかった、とも思う。わたしの年齢からして、「錦糸町の巫女さん」がご存命とは思われないが(あのように霊が憑依する神女にも死があるとは、割り切れないようにも思うが)、そのゆかりの場所に行ってみたいという気持ちは消えない。フレイザーが分析して見せたような、物に執する原始的な心性だ。
この顛末は、わたしのなかに、本籍地を喪ったようなうつろな気分を残した。