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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

キム・チスー(金治洙)――憂国の文人

 

チスーについては既に2回書いている。最初は「ムッシュー・キム」(『ミモザ幻想』所収)、2度目は「隣国の親友」(『中央公論』2016年6月号)だ。これまでに書かなかったことなど残っているだろうか。チスーはわたしの肖像集に是非とも加えるべき親友である。留学先で出会い、ほぼ1年間、毎日のように時間を分かち合った仲だ。望んでもそうそう得られるような間柄ではない。そんな人物でありながら、肖像を書き始めて約2年、かれを取り上げなかったのは、やり尽くし感のようなものがあったからである。「ムッシュー・キム」は留学から20年後、たまたま同じ時期にどちらもパリで研修する機会を得たときの交友記であり、「隣国の親友」は日本と韓国というそれぞれの国同士の関係に照らして、チスーの日本に対する、そしてわたしを含む日本人(東京外国語大学名誉教授の言語学者敦賀陽一郎君は、チスーが博士号を得て帰国するまでの3年間、エックスでともに暮らした。付言すれば、敦賀君も大作の論文を書いて学位を取得した)に対する考え方、感じ方、その態度を書いたものだ。当然のことだが、どちらもチスーの像を含んでいる。重複なしの新しい稿を起こすことは不可能だ。しかし拘るまい。これらの旧稿をお読みくださったかたがおられるかもしれない。その方がたには、部分的な重複を大目に見ていただこう。今回は、その人となりに焦点を合わせ、チスーの姿を立ち上がらせることに努めよう。

 

まずはかれが何者かについて、通り一遍の紹介が必要だろう。(キム)治洙(チスー)は韓国のフランス文学者で韓国文学の批評家。留学時には、当時ニュー・ファッションだったヌーヴォー・ロマンを研究主題とし、ミシェル・ビュトールについて博士論文を書いた(後で紹介するように、後年かれはそのビュトールと親交を結んだ)。国立釜山大学の准教授だったが、その後、ソウルの名門梨花女子大学に移籍し、たしか大学院の外国語文学部門の責任者となり、定年後も何かの役割を託されていた。文学や文学研究の新傾向への関心は、韓国の記号学会の創立にも表れている。坂本百代さんや藤本隆志さんがチスーのことを親しげに話されるのに驚いたことがある(お2人にとっても、チスーとわたしの関係は驚きだったらしい)。お2人は日本記号学会の中核を担っておられて、日韓の記号学会同士の交流活動を通しての関係だった。

 

かれとわたしが出会った次第は、次の如くである。われわれは、1973年、フランス政府の給費留学生となり、7月に始まるボルドー大学でのフランス語研修に招集された。日本からのほかの仲間たちは、フランス政府のチャーター便に乗ったが、国家公務員だったわたしは(東京大学の助手だった)、政府間の協定により、往路の旅費は日本政府が負担することになっていて、独り遅れて渡仏した。なにぶん初めての海外渡航で、言葉もおぼつかない、しかも記録的な酷暑の夏で、たどり着くまでが珍道中だった。悪いことは重なる。着いたのは土曜日で、留学生の事務所は閉まっていた。ボルドー大学は郊外の松林を切り拓いて造った広大な新キャンパスにある。学生寮はいくつもの大きな建物に分かれていた。タクシーの運転手さんたちのあやふやな情報に基づいて連れていかれた建物には、幸運にも残業をしている事務のひとがいた。そこでなんとか部屋を確保することはできた。しかし、西も東も分からない。いくつもある寮の建物のどこかに、仲間の日本人たちがいるはずだが、見つけられなかった。事務所の開く月曜日をただひたすら待って、週末をなんとかやり過ごすほかはなかった。そして、その月曜になった。大学から市の中心部へはバスが結んでいる。ようやくの思いでそのバスに乗った。

 

3日目になり、こころに多少の余裕ができていたが、わたしは頼りになるはずの日本人に飢えていた。そのバスの車内に、数人の東洋人の姿があった。留学生だろう。歳のいった3人がいて、若い女性が2人いた。そのなかの若い女性は、ひょっとすると日本人かもしれないと思われた。そこで思い切って、日本人かと訊ねてみたら、韓国人だった。このとき、わたしの視界の隅の方に、苦々しい表情を浮かべた(やがてチスーと分かる)人物の顔が映っていた。のちに打ち明けてくれたところによれば、ボルドーへ来るまで、かれは日本人が大嫌いだった。

 

授業は、ペイパーテストの成績でクラス分けがされ、チスーと同じクラスになった。人文系の留学生は、読み書きのテストでは比較的高得点を出す。そのクラスの授業はいわば文学的だった。これは、聴いたり話したりが苦手なわれわれの要望に副うものではなかったが、ストレスは少なかった。敦賀君のように強い意志の持ち主で、志しのあるひとは、日本人を避けて、他国からきた留学生たちと付き合っていたが、わたしなどは日本人たちのグループのなかにどっぷりつかっていた(そのおかげで、貴重な友人たちを得た)。だから、チスーとは普通のクラスメイトの関係を出ることはなかった。

 

本稿を書くために、このときの日記を読み直してみた。書かれているほとんどは日常の些事で、しかも無内容なので(誰さんとおしゃべりをした、と書いてあっても、何を語り合ったかは書いていない)大して参考にならない。それでも忘れていた重要な事実が見つかった。クラスメイトになって1月ほどが経ったとき、チスーともうひとりのキムさんの来訪を受けたという件だ。夜の10時ごろのことだった。2人目のキムさんを、われわれは「メガネのキムさん」と呼んで区別していた。チスーより年長かもしれないと思われる年恰好の、たしか高校の先生で(韓国の高校では、外国語の選択肢が豊かで、フランス語を取ることもできる、とのことだった)、微笑みを絶やさぬ温厚なひとだった。このような場合に備えて空港の免税店で買って行ったサントリーのウィスキーで応接した(多分、つまみの用意はなかった)。おそらく話が弾んだのだろう、2人に招かれてかれらの部屋に行き、2時ごろまで話し込んだ。葡萄酒に干し魚、のりをいただいた(ちなみにチスーはのりの目利き〔と言うのも変だが〕を自認していて、においを嗅いだり、色合いを透かし見たりした。かれが高評価を与えた名品が、襤褸(ぼろ)のように穴だらけのものだったことには、驚かされた)。

 

この最初の歓談のことを覚えていなかったのは、その後のチスーとの親しい交際が当たり前のものになったからだろう。しかし、チスーの側から見ると、そこにはドラマがあったはずだ。バスのなかでのかれの仏頂面との落差は小さくない。たった1月の間の変化だ。自身の日本人観を革新するには、或る決断が必要だった、と考えなければなるまい。1年ほど後のことだが、エックスでかれはわたしをさそって或る中国人の部屋を訪ねたことがある。文革期のことで、エックスに長期滞在している中国人は見かけなかった。訪ねたのは短期滞在のひとで、われわれに向かって孔子批判を滔々と語った。その驚きの批判のなかに、精神の自由を見たわれわれは大いに感銘を受けたが、翌日、中国共産党による公式の孔子批判が報じられた。チスーがこの中国人とどのようにしてコンタクトを取ったのかは分からない。冷戦期のことだから、韓国と中国のあいだには政治的な壁があった。チスーは、長期的な展望に立って中国と理解しあうことが祖国にとって不可欠であることを確信していたに相違ない。同じような考え方で、かれはメガネのキムさんを誘って、わたしと歓談することを思い立ったのではなかろうか。中国人との会談にくらべれば政治的な意味合いは薄い。しかし心理的な負担はずっと大きい決断だった、いまにしてそう思う。そのこころのなかにあったはずの葛藤を、わたしは思ってもみなかった。原点にあった「日本人は嫌い」の重みを考えなかったからだ。

 

この最初の歓談には続きがあった。さらに1月後、留学生事務所が企画してくれた遠足でのことだ。ボルドーから大西洋岸を北上してラ・ロッシェルに到るバス旅行である(これについては、小宮正弘篇で触れている)。宗教戦争のときにプロテスタントの牙城となったこの歴史的な港町で、わたしはチスーから “Je vous aime” (=I love you) という愛の告白を受けた。忘れていたが、日記に記されている。「困惑した」とも書いてある。これを忘れたのは、額面通りには受け取っていなかったからだろう(このとき、チスーへのわたしの傾斜度はさほど高くなっていなかった)。外国語による会話だから、適切なニュアンスを以て表現することは難しい。異国での、おまけに旅先のことだ。空には銀の月がかかり、土地の若者たちがバイクの爆音を響かせて海岸沿いを走り回る、ちょっと狂気の気配を帯びた夜だった。チスーをはじめとするわれわれ学生たちも、愉快に酩酊していた。酔った勢いもあったろう。「お前はいい奴だな」くらいの意味の、つかの間の戯言として受け止めていたものと思う。

 

このようにして交際が始まり、エックスでの1年につながった。だから、わたしがチスーの知遇を得たのは、根深い嫌悪感を超えることのできるかれの大度によるものだった。かれにはリーダーの資質があり、その自覚もあったと思う。そのためさまざまな知識や情報をいちはやく手に入れる習性が身についていた。例えばフランスのたべもの。ラ・ロッシェルの沖にはレ島という平たい島があり、そこの見学も行程に含まれていた。帰りの集合時間に韓国勢は遅刻した。レストランで牡蠣を食していた、とのことだった。生牡蠣にレモン汁をかけ、ちょっと塩をつけて食べるのは、ポピュラーな慣習で、しかもそれは牡蠣のシーズンが始まったばかりのときだった。この会食をリードしたのはチスーだったと、わたしはにらんでいる。昔の日本では、生牡蠣は酢牡蠣にして食べる習わしだった。韓国でも独特の食べ方があるに相違ない。フランス文化を学ぶなら、フランス流の生牡蠣を知らなければならない、と考えていたと思う。牡蠣以上にローカルな食べ物の思い出もある。エックスに落ち着いて少し経ったある日、街での夕食に誘われた(普段は学生食堂だ)。もちろんついて行った。かれは情報を集め、すでに目星をつけていたらしく、迷わず目当てのカフェ/レストランに向かった。ラ・ロトンドの大きな噴水に面した店だった。かれが注文したのは「魚のスープ」だ。わたしは驚き、いささかひるんだが、付き合うことにした。わたしの選択に、チスーは満足したようだった。わたしは鯛のおすましのようなものを想像して、少々冷めた気分でいた。ところが、運ばれてきたのは、どんよりした濃厚なポタージュだった。おそるおそるスプーンを口に運ぶと、なんという美味だったろう。生臭さはまったくなく、あらかじめ知っていなければ、魚から作られているとは分からなかったろう。1年後、帰国する時、チスーをはじめとする友人たちを招いてマルセイユでブイヤベースを食べた。そのスープがまさに「魚のスープ」だった(日本でその名で供せられているものとはまったく違う)。チスーはどのようにしてこの料理のことを知ったのだろう。かれは当然、ワインにも関心があった。貧乏学生ゆえ選択の幅は狭いが、産地を学習していた。後年、富裕な友人たちを率いてフランスにわたり、ロマネ・コンティを味わったそうだ。人脈はもとより、それを支える文化資本も重要だ。

 

チスーは祖国の中での文化的リーダーとしての自らの役割を強く自覚していた(真の意味でのエリート意識だ)。まず思い出されるのは、ボルドーで目にした或る情景だ。韓国勢は5人だったが、年長者3人と若い2人という構成である。年長者の他の2人は高校の先生だったので、自然とチスーはこのグループのリーダーだった。若い女性2人は学生の年頃で、チスーとは先生と学生のような関係だった。そこでチスーは2人にウォーターマンの万年筆をプレゼントした。万年筆はパーカーやシェーファーだけじゃないよ、フランス語の教師ならウォーターマンを使わなければいけない、そんな意味合いがあったのだろう。ちょっと無理をしているな、と思った。若手の大学教師の給料などたかが知れている。しかしそれは年長者たるものには当然のこと、という自覚が窺われた。

 

チスーの生真面目な教育意思が「有難迷惑」の風を呈することもあった。当時(70年代の初め)、学生寮には1階にテレビ室があり、今からすると小型の白黒テレビがおいてあり、決まった時間にスイッチが入れられ、見ることができるようになっていた。アフリカ系の学生たちが大勢押しかけて、暗闇の空間を占領していた。見ることのできたのは、古い名画のような教養番組だったと思う(わたしは一度もそこに足を踏み入れたことはなかった)。チスーはこれにいたく感銘を受けたらしい。「テレビはこうあるべきだ」と言っていた。思うに、その頃、韓国のテレビはすでにフランスの先をゆき、娯楽化していたのだと思う(フランスのテレビの後進性は、映画は映画館で観る、というような国民性、文化的伝統に由来するところが大きかったろう)。チスーはフランスのテレビ番組の高尚さに、あるべき未来を見ていた。しかし、多くのひとがそれを喜ぶか、という観点に立てば、判断は違ってくるだろう。チスーはまだ若かった。

 

わたしは、韓国の女子学生とともに、かれのそんなリーダーシップの恩恵にあずかった(かれは2歳ほど年長で、そのことを心得ていた)。どうして入手したのか不思議な情報をいろいろ持っていた。ボルドーでの研修の終わりに近いころだった。街には専門書を扱う大きめの本屋があった。チスーは、そこで勘定のときに “faire G”(直訳すれば「Gする」)と言え、そうすれば半額にディスカウントしてくれる、と教えてくれた。すごい情報だが、わたしはオウム返しに聞き返した(「する」に相当する faire は原形で、変化させなくてよいのかという、つまらない文法的な心配をしていた)。かれは確信を以て「そうだ、faire G だ」と言った。試してみると、魔法の呪文のように、このフレーズは効き目をあらわし、レジの女性は「はい、わかったわ」と半額にしてくれた。そこでわたしは辞書を2冊買った。

 

こんなことはいくらもあった。それらはすべて、知識人としての役割についてのかれなりの自覚に基づいていた、と思う。飛躍が過ぎる、と言われるかもしれない。それでも、かれが年長者の役割を考え、それに従って生きたこと、また国のありかたを考えていたことは確かで、以上のような些事はその生き方の一端に属することとわたしには思われる。だから、そのような自覚的な生き方について触れよう。留学中の年末のパリ旅行(これの情報もかれが得て、わたしの分の予約も取ってくれたものだった)の際、大学都市のレストランで夕食をとった。かれは年長の同国人と出会って軽く目礼を交わしたが、目立って機嫌が悪くなった。訊ねると、その人物は留学(あるいは出張)の期間を過ぎたのに帰国しないでフランスにとどまっているフランス文学者だった。「年長者としてはよくない」とかれは短く言った。ひとにはそれぞれの年齢に応じた役割がある、という信念だった。後年、母校であるソウル大学から招聘されたとき、より若い人にとそのポストを譲ったのも、その信念によることだった、と思う。

 

社会全体のなかで自身の立つべき位置を考え、それに従って身を律することは、それほど容易いことではないだろう。どうしても大小さまざまな欲望が誘惑の声を上げる。例えば脱俗の隠棲は高貴な生き方に相違ない。しかし、それは「俗世」を捨てることであって、世間のなかでの生き方ではない。チスーの姿勢はどこまでも「世界内」的だ。世間のなかに生きて欲望を制することは、ずっとむずかしい。わたしはそこに、儒教的な両班(ヤンバン)の伝統の反映を見る。とは言うものの、実はこの制度について大したことを知っているわけではない。国の指導者を科挙によって選抜する仕組みで、文武の2部門があったが文の地位が高かった、というぐらいしか知らない。しかし、この制度に基づく社会のイメージは、われわれの知っているものとは非常に異なる。文科的教養が国を導く理念を形成し、文班の、ひいては文人の役割は国の運営にある、という考え方だ。両班は朝鮮王朝の制度だったということだから、19世紀末まで続いていた。いまも人びとのものの考え方に濃厚な色彩をとどめていても不思議はない。チスーのふるまいや考えのなかで、ちょっと独特と見えるものは、これに由来することではないか、わたしはそう思っている。だから、文学の研究はかれにとって、かつての文班にとっての儒学のようなものであり、ヌーヴォー・ロマンの研究も記号学の学習も韓国の文化を現代化するための課題だった。

 

すでに触れたように、中国との関係についてのかれの意識は、わたしを驚かせた。われわれが留学していたとき、半島の南北関係は今よりずっと拮抗していた。社会党のミッテランが大統領になれば、自分たちは帰国させられるのではないか、とチスーたちは本気で心配していた。そのような状況のなかで、中国人との会見を求めるというのは、わたしにはない懐の深さだ。そのときから四半世紀のちのことだ。初めて訪れた中国の済南で、2人の韓国の女子学生に出会った。彼女たちは(たしか木浦(モッポ)と天津をつなぐ)フェリーを使い、中国語を習いに来た、ということだった。中国語を身に着けると、就職に際して有利にはたらく、とのことだった。わたしがぼんやりしているうちに、東アジアの政治地図は大きく変化していた。チスーは四半世紀前に、その進んでゆく変化を見通していたのではなかろうか。われわれが最後に会ったのは2010年8月、世界哲学会議がソウルで開催され、そこにわたしが招かれたときのことだった。立派に組織された大イヴェントで、日本で実現することはそう容易なことではない、と思われた。チスーはその組織委員会の名誉委員だった。文班(ムンバン)のほまれだ。

 

最後にあの愛の告白に戻りたい。この肖像を書くために、チスーに捧げられた還暦記念論集を取り出してみた。そこにはわたしの「ムッシュー・キム」が、(ミン)周植(ジュウシク)君の訳で収録されている(閔君は嶺南大学教授。東京大学で、わたしを指導教授として博士号を得た。その機縁でいろいろ世話になっている。済南で出会った女子学生たちは閔君の教え子だった)。この論集にはチスーの履歴があるはずと思ったのだが、全ページハングルで書かれていて、1行も読むことができない。そのなかで、“Je vous aime” というフランス語が目に入った。チスーの愛の告白のフレーズをタイトルにしたエッセイだ。即座に、わたしの頭のなかでひらめきが走った。これは韓国人の言語生活のなかで、普通に使われる常套句なのではないか。だとすれば、この「われ汝を愛する」という韓国語の常套句の意味を知りたい(ここでいう「意味」とは、どんな状況で、どんなひとが、どのような相手に向かって使うフレーズか、ということである)。そこで、閔君を煩わせて、その文章の内容、このフレーズの含意を教えてもらった。わたしのひらめきはやや的外れだったが、そのエッセイには驚くべき事実が語られていた。

 

この論集は3部に分かれていて、第3部は友人たちがチスーに捧げたオマージュを集めているらしい(タイトルがついているが読めない)。その冒頭に置かれているのは、ミシェル・ビュトールがチスーに捧げた詩だ。これについても一言しておこう(韓国語訳に続けて原文が掲載されている。あちこちに誤植と見えるところがあり判然としないが、ここで紹介するのはそのごく一部にすぎない)。上記のように、チスーの博士論文はビュトールに関するものだった。そのビュトールをチスーは韓国に招いたらしい(この詩の出典は、1992年のフランス大使館会報と記されている)。2人の会食の写真が巻頭の写真集のなかに収められている。詩は脚韻なしの4行を1聯とし、全10聯で構成されている。真心のこもったものと言えそうだが、ヌーヴォー・ロマンの作家らしくはない(このときにはもう小説を書かなくなっていたかもしれない)。韓国という異文化に対する新鮮な、言い換えれば素朴な印象と、チスーの人柄がつづられている。「米の酒(マッコリか)の杯を挙げよう」という最後の聯は、つぎのように結ばれている。「世界中の人びとに、きみがこれほどの騒がしさのなかでも保ってくることのできた静かさ(du calme)を少しだけ分かつように」。チスーの確然とした大らかさを静かさととらえたのは異文化の目だ。

 

さて、“Je vous aime” である(以下、閔君の教示による)。第3部の末尾に8篇の短文が並べられ、その最後が “Je vous aime” だ。このセクションは全体が「愛しているよ先生」と題され、かつての教え子たち(もちろん全員女性)がキム・チスー先生への思慕の想いを吐露している(韓国の女生徒、女学生は、男女を問わず先生に向かって「愛しているよ先生」と言うそうだ)。“Je vous aime” の筆者()潤玉(ユンオク)氏(文藝評論家)は、チスーの生涯のなかの或る大事件のことを、想い出として語っている。1980年、光州事件。その民主化要求に対する弾圧に抗議した「時局宣言文」に署名したチスーは、総勢86人の教授たちのひとりとして解職された。そのとき筆者は4年生だった。「私たちの恩師が抵抗の英雄だったと思うほど、当時は胸がいっぱいになり、なかでも勇敢な子は、校庭を歩く先生のうしろで “Je vous aime” と傍白したりもした」。つまり、タイトルはこの傍白の引用であり、その傍白はそのまま言葉にできない思いを、敢えて外国語でつぶやいたもので、外国語でさえ発言するのに勇気を要するものだった。だから、ラ・ロッシェルでの「愛の告白」とは関係がない。しかし、字面のつながりに目を止めたおかげで、はるかに重要な事実に導かれた。

 

4年後、全斗煥大統領の宥和政策によって、チスーは大学に復職した。李さんは研究室でチスーの講義を聴いた。時には街に降りてビールをたのしんだ。「ロマンチックな魂」の主であるチスー先生は、ときに歌をうたった。愛唱歌のひとつ「ティーカップ」は、テーブルのうえにじっとしているティーカップに語りかけるもので、《きみは黙しているが、触ると暖かい情が、指先からわたしの全身に広がってゆく》というような内容だ。つまり、ティーカップはチスー自身の分身で、ビュトールが認めた「静かさ」に通じる。だが、かれは寡黙ではない。そのことばと存在そのものによって、暖かさを人びとに伝えた。「先生は、やせ細ったわたしたちの人生に、深い自負心とともに、他人に対する熱い愛を植えつけてくださった」。

 

大学を追われたチスーは、何をしていたのだろう。復職が約束されていたわけではない。それどころか、祖国は激動のなかにいた。韓国文学の批評活動に入っていったのは、この時期だったのではないか、とわたしは想像する。出会いから20年後、パリで再会したとき、かれは韓国文学に関するシンポジウムのスピーカーだったし、そのほか各国に招かれて、この主題での講演を行っているようだった(東京大学では朝鮮文化研究室の主催で講演してもらった)。国内でも文藝批評家としての令名が高かったようだ。しかし、わたしは何も知らなかった、その動機も、そこに込めた思いも、そしてこの重い決断による解職と復職のことも。最後までかれはこの大きな出来事について何も言わなかった。仮にわたしがそれを知ってかれに問いただしたとしても、フランス人のように両手を広げ肩をすくめて、「大したことじゃないさ」と言っただろう。

 

いま、この事実を知り、特にチスーのこの沈黙、真の「静かさ」に圧倒される。チスー、きみはすごいひとだった。

 

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、『とりどりの肖像』(春秋社)、ほか。

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