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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

玉城徹さん(2)――歌人にして歌人

 

前回、この歌人の肖像を書く上で、記憶に残る2つの事実を糸口として挙げた。1つは出会いとなった座談会の席上、林安一さん(うた短歌会の会員)が言葉遣いをとがめられて見せたおびえの表情であり、もうひとつは、前衛歌人岡井隆氏がスピーチでもらした「どうせかないっこないと思っていましたが」という意外な一言である。前回はおびえにまつわることを書いた。そろそろ「どうせかなわない」に焦点を移そうと思う。玉城さんのすごさの話だ。わたしが関心を寄せるのは、作者としてのすごさよりもむしろ、人間としてのすごさである。『左岸だより*』のなかで、私的な来歴の一端を披露してくれたおかげで、思いがけない人間像に触れることができた。それはいくら秀句を読んでも読み取ることのできない性格のものだ(作品から「作者像」など読み取れない)。今回は少年時代についての述懐から3点を紹介しよう。「かなう」かどうかなど考えるにも到らない。ただ茫然と見つめるほかないようなひとが、そこにいる。

 

    *『左岸だより』は美しく製作された印刷物だが、それを「親しい」ひとにのみ送付する、というかたちにしたのは、この私的な述懐が念頭にあったからではなかろうか。第7回の「後記」に言い訳めいた言葉が書かれている。「自分を語ろうなどと、殊更考えたことは一度もありません。語るに価するほどの自分でなく、語ることに意味があるなどとも思えないのです。/それでもやはり自分の一歩一歩はたしかめながら進んでゆかなければならないのが、節度というものでしょう。/具体的な一つの場合として、わたしは、自分を観察し、検討してみるだけです」(左岸131)。誰にも己を語りたい気持ちがあるだろう。わたしは、玉城さんのこの自制につよく共感する(自画像でないにも拘らず、知己の肖像を書くことによって自分をも画いてしまうことに、わたしは困惑している)。しかし、玉城さんの場合は、語るに価するどころではない。語られていなかったなら、わたしなどは、この世にそのようなひとがあるということを、思いもしなかっただろう。以下に見る通りである。

 

まず、玉城さんのアウラについて。初対面となった座談会の折、わたしは玉城さんに特別なアウラを感じなかった。しかし、玉城少年は周囲の仲間に対して、強烈な存在感を示していた。「子供の時分から、熱狂とは縁のない性質です」(67)と言う。祭に関心がなく(282)、寡黙で、なにごとにつけ群れることが苦手だった。この孤独癖のせいだったのだろうか、「子供仲間は、わたしの姿を見ると、何か奇妙な感じを抱くらしかった。小学校に入る直前だろうか、わたしが家を出て少し行くと、同い年くらいの男の子が、五,六人、パラパラと走ってわたしの前に立ち塞がった。何か言いながら、中には石を投げるのもある。何だかいっこうに分からないが、仕方なく逃げて、物かげで泣いて、それから帰った。/わたしは、告げ口をする子供ではない。このことは、誰にも言わずにしまった」。その後、引っ越し先でも、同じように石を投げられることがあった。「わたしと集団との間は、何となくしっくりゆかないところがある。/わたしが入ってゆくと、集まりの中に一種の緊張が走る。わたしが何も言わないのに、空気が変わる。そういうことが、何べんもある」(433)。石を投げた子供らは、玉城少年の存在感に恐怖を感じていたのだろう。わたしの記憶のなかにある怖い子供とは、暴力的に怖い連中だった。玉城少年の場合はちがう。《うた短歌の会》の会員をはじめ、歌人玉城徹の周辺にいたひとたちのなかには、このマイナスのアウラを感じていたひともあったろう。少なくなかったはずだ(「わたしと集団の間云々」のことばは、すでに大人になってからのことを語っているようにひびく)。あとで見るように、確信に貫かれたその存在は、怖いものだったと思う。

 

次は、世の中を見る少年の話である。昭和10年はじめ、天皇機関説事件と呼ばれる出来事が起こった。天皇を機能として捉える学説が不敬であるとの非難が、国会で持ち上がった。標的とされたのが憲法学者で貴族院議員だった美濃部達吉である。この事件をわたしはよく分かっていない。ときの世論と国会の極端な右傾化は明らかだが、どうしてこのような理不尽な攻撃が可能だったのかが分からない。天皇機関説は大正期以来、当時の憲法学の標準的な学説で、美濃部の創見ではなかったらしい。取り立ててかれが非難されるべき理由は見当たらない。ともあれ、この事件の報道を玉城少年が新聞で読んだ。小学校の5年生ではないかと思われる。そして、こうつぶやいた。「それでも偉くなってから言えば、これくらいで済む」。このつぶやきが父肇を驚かせた(当然だろう)。「お前、そんなことが分かるのかい」(左岸313-4)。事実は、偉かったので大目に見られたのではなく、多分、偉かったので目をつけられた、ということのように思われるが、それはさて措こう。まず、小学生が新聞を、それも社会面や政治面を読むということが珍しいのではなかろうか。それでも、他に見られない、というわけではない。ところが、つぶやきの方はほとんどありえないような感想だ。玉城少年の読んだ記事がどのように書かれていたかは分からない。どのように書かれていたにせよ、このつぶやきは、この世の中、ふつうのひととは異なり、「偉い人」は大概のことを大目に見てもらえる、と理解していたことを意味している。世の習いについてのこの洞察は、大人たちの生きざま、社会の現実についての観察のたまものだが、観察は既に関心を前提とする。世の理不尽、不条理に泣いた子供なら、似たようなことを口走るかもしれない。ただし、それは観察というより怨念に近い。玉城さんの少年期が、格別辛い境遇にあったようには見えない。玉城さんの関心は奈辺にあったのだろう。同級生のなかに貧しい弁当を恥じ、ひとに見せないようにして食べる子供らがいた。玉城少年は、かれらのことを、感傷的な同情を寄せることもなく、冷静に観察し、しかも、かれらが知的感情的に「萎靡沈滞した」存在であることも見ていた(345-6)。玉城さんは並外れて鋭い「見るひと」だった。

 

世間或いは現実に対するこの関心は、次回に大きな紙幅を割くはずの玉城詩学の中で言及する機会はなさそうだから、ここで少し取り上げておきたい。『うた』誌創刊号(1978年1月)の「創刊のことば」には、「表現」ではなく「現実についての発言」という抱負が述べられており、一読してわたしは驚かされた(「現実の中に生きるわたしたちが、現実を解明し、現実に関して発言する、そういう解明と発言の藝術としての短歌を目ざして探究をすすめたい」)。

 

会員たちがこれをどのように受け止めたのかは分からない。わたしの驚きは多分珍しいものではないと思う。「現実の解明」ときくと、美濃部事件に関する玉城少年の洞察のようなことを考え、それが玉城さんの作風とそぐわない、と思うからだ。おそらく「現実」の意味が異なる。玉城さんが言うのは、社会問題と呼ばれるようなものを主題とする、ということではないだろう。「表現」(すなわち主観的表出)を批判し、客観の方に主眼を置くべし、という趣旨かと思われる。この先ですこし詳述するが、「わたし」を消去することが玉城詩学の要諦である。

 

戦時中の体験(動員されることへの不安、職業軍人の低劣な心性、命を落とした友人たちへの思いなど)を詠ったうたは相当数ある。「皇軍ととなふれど彼らああ遂に陰謀団にすぎざりしかも」(石榴29)や「侵略と言へど模倣に過ぎざりしこの真実を()ぢてか告げむ」(香貫105)などは、玉城さんのうたの世界の一角を確かに占めている。それでも、一般に社会問題といえるような題のうたは多くない。「手続き」という作品(固有名詞は出て来ないが、その後半、「古き大臣」として後藤田正晴を悼んでいる)について、玉城さんはつぎのように言っている。「事は政治に関係していますけども、しかし、政治上の議論をしているわけでは決してない」(左岸378)。歌っているのは「感情だけ」であるとし、その「感情」についても、「私情」ではなく「人間の感情」だと断っている(このくだりについては、あとでもう一度とりあげる)。「私情」と社会問題のあわいに、玉城さんの「現実」はあるらしい。

 

しかしこの問題意識は、古典を読むときに力強く押し出される。『万葉を溯る』に示された「寓意性」の主張がそれである(万葉116-123)。「山河の瀬」と題された節の最初に挙げられるのは、人麻呂の「あしひきの山河の瀬の響るなべに弓月が嶽に雲立ちわたる」(1088)(ただし人麻呂作とは言わず、人麻呂歌集のうたとしつつ、「第一等の秀歌」と評している)だ。このうたは「近代的鑑賞法」が叙景歌の傑作と見なし、そのようなものとして人口に膾炙した。茂吉はこのうたに寓意性のひびきのあることを感じながら、それに注視することを回避した。玉城さんはそれが「寓意的に受用されるような性格をもった歌で、また、じっさい久しきにわたってそうされて来たこと」を主張する。そこで、『古事記』のイスケヨリヒメに帰せられた二首を引き合いにだす。「狭井河よ雲立ちわたり畝傍山木の葉騒ぎぬ風動かんとす」と「畝傍山昼は雲とゐ夕されば風吹かんとぞ木の葉騒げる」である。これらは、神武天皇の没後、その皇子たちを殺そうとする動きのあることを察知した母イスキヨリヒメが、危険を子供らに教えるべく伝えたとして作中に挿入されたものである。それぞれの表現の(あるいは「言語構造」のと言うべきか)違いから、古事記歌謡の方が古いと見られはするが、「その年代的差違はさほど大きなものではあるまい」と言う。わたしなどは、これを読むまで、この両者の相似に気づいていなかった。あるいはむしろ、『古事記』の語る時代と『万葉集』の制作年代との違いにだまされて、その相似を見ようとしなかった、と言うべきであろう。たしかに、他の歌謡とくらべ、これら二首は神武期のものとは思えないほど新しい感じがする。

 

玉城さんの「寓意性」の説明を聴こう。これらは「単なる〈叙景歌〉ではない。それは〈雲霧雨風と河波〉の〈関係〉、もしくは〈雲〉と〈風〉(木の葉)との〈関係〉をうたった、いわば〈関係歌〉なのである。すなわち、これらは、自然における〈関係〉をうたうことによって、人間的〈関係〉を思わしめる作用をはじめからそなえていたのだ。この〈関係〉と〈関係〉との関係こそ寓意性とよばれるものなのである」。自然のなかに関係を捉え、その自然をモデルとして人間社会を見る、このようなスタンスが玉城さんの世界対応だった。それは「朱子学」への共鳴にも表れてくる。ちなみに、この二層の関係はアリストテレスの「比喩(メタポラ)」と、その展開としての寓意(アレゴリー)の定義にぴったりと符合し、この洞見の普遍性を思わしめる。玉城さんは人麻呂の「山河の瀬」の言わば構造化されていることを強調している。その観点からの理解の見事な一例を有間皇子の「自傷歌」(万葉集142)の解釈に見ることができるが、立ち入らない(万葉188-90)。

 

このような寓意性への洞察は、玉城さん自身の現実意識にしてはじめて可能なものだった、と考えなければならないだろう。玉城さん自身の詠歌のなかにも、自ら寓意性を認めたうたがある(ただし「象徴」と言っている。左岸206)。「風やみて白さるすべりかげふかく舗装の面に花の一ふさ」(香貫90)だが、わたしはその象徴性を感じなかった。「一般読者の力には余る」ということだから仕方ない。玉城さんには関係の相において自然を見、世の中を見る見方が身についていた。

 

名著『近世歌人の思想』に「和歌における人間回復の問題」という副題がつけられていることを、この人間に対する関心の延長上に理解することができる。そして、少年期に見せたこの洞察の捉えた世事が、玉城さんの歌風から非常に遠く見えることもまた、「和歌における人間回復」という問題意識において考え直す必要があろう。例えば少し先で紹介する枇杷の花のようなうたを詠んだ精神は、人の世にこのような関心を懐いていた。そこでもうひとつ、世間への関心の例をあげよう。『芭蕉の狂』の末尾、「古い語感」を響かせて「根本的な幻想」の探索に極まったあと、旅について、次のような驚くべき考察が示される。「ごく大づかみに言うと、江戸時代の〈旅〉の総体が、その時代の社会経済的の矛盾の象徴だともいえるだろう。芭蕉の旅を、そこから切り離して観察してみても致し方がなかろうと思われるのである。/その矛盾は、まず、公的旅行と私的旅行とのそれとしてあらわれる。公的旅行の制度を維持するために幕府諸藩は、旅の施設機関を整備運用しなければならない。ところが、そのための費用は、私的旅行の払う犠牲によって支持されてゆくのである。私的旅行は、封建体制を下から徐々に侵触するものとして意識されていたにもかかわらず、それは公的旅行の保障制度として公認されなければならない。その意味で〈旅〉は、江戸封建体制の矛盾の、最も鋭い表現を、人々に突き出していたのである」(204)。この認識にたって『おくのほそ道』の冒頭の不思議なことばが読み解かれてゆく。すこし先にゆくと、この洞見が徂徠に由来することが語られているが、読書で得た知識を利用したというようなものではない。徂徠を読んでそこに注目するには、すでにしかるべき関心、問題意識の磁場がなければならない。美濃部事件への感想と芭蕉の旅の問題はつながっている。ちなみに「矛盾」は、玉城さんにとって親しい論理的な契機で、父の肇氏が小学校卒業期の少年に弁証法の何たるかを教えてくれたということが、『左岸』の美濃部事件の話の直前に書かれている。(また「静かなる理解はいつか炎なす矛盾の渦に巻き込まれてゆく」〔香貫84〕といううたも考え合わせることができる)。

 

世間を見る目の話はここまでとして、玉城少年の三つ目の注目すべき言動に移ろう。そこにはさらなる驚きがある。それは、世に対するこのような関心の延長上にあったものだということが、いま分かる。――孤独な玉城少年に親友ができた。中学2年のときのことだ。その親友が、退役海軍中将だった父親を亡くし、その衝撃に耐えず、「どうして人間は死ぬのだろうか」と問いかけてきた。その真摯な思いに応えて玉城少年が言ったのは、「死ぬということがなければ、人間の生はきたならしいものになってしまうよ」ということだった(左岸195)。なんという洞見であろう。ストア派の哲人のなかにも、この深みに達したひとはいないのではなかろうか。われわれはこれを読んで、少年であるにも拘らず、と言おうとする。その通りでもあろう。しかし、実は、少年ゆえの純潔さが言わせたことばかもしれない。だが、玉城さんがこの見方を懐いて一生を生きたことも、おそらく疑う余地がない。驚くべきひとだ。

 

この異例の少年の姿は、「頑迷固陋のマイスター」を含んでいる。熱狂とは縁がない、と言ったあとで、玉城さんは続ける。「感情は、烈しいんです。ことに好き嫌いは、はなはだしい。自分でも困るくらいでした」(67)。熱狂を知らず、感情は烈しいというこの擬似両義性は、玉城さんの用いる評言について見たものと通じる。区別が微妙で、好きなものに接して嫌いなものがある、という風である。だから間違えるおそれは十分だが、敢えて、気づいた範囲で、好き嫌いを挙げてみよう(固有名詞は抜きにする)。好きなものとして特記されるものは少ない。何より「音楽」「調べ」、「無償の親切」、「美しい」、「ただの観察」、「普通」、「即座性」、「正直」。「アマチュア」「ディレッタント」。嫌いなものは無数と言ってもよいほどだが、例えば、「表現」という言葉、「わざとらしさ」、「媚び」、「気取り」、「カースト化」、「学問・批評」(「冷たい行為」として)、「文学論」、「熱狂」、「物知り歌」、「同好会」、「構える」、「深読み」、「個性」、「自我」、「イメージ」、「目立つこと」、「〈感じる〉の妨げ」、「解釈」、「観念」、「理屈」、「名文」、「雄弁」、「私意」、「生活者・勤労者のうた」、「感情移入美学」、「刺戟の強いもの」「脅迫的なもの」「異常なもの」等々。

 

「個性」や「自我」が嫌いなのは、作歌の文脈においてのことである。これらを通覧すれば、詠歌の活動とモラルが重なり合っていることがわかる。うたを詠むことは生きることと不可分だ。「いったい、好みとモラルとは、暗い地中で根のもつれあったもので、容易に解きほぐすことのできない関係にあると言えよう」(子規118)。例えば花の好み。「わたしなど、自分では、花の好き嫌いはあまりない方だと思う」と玉城さんは言う。それをわざわざ断るのは、「花の好き嫌いは、やはり、人間の問題だと言えよう。けっきょくは、人間的な意味をつけて花を見るのである」という洞察があるからだ(230-1)。中学生のころ流行り始めたというフリージアについて、「貧弱で頼りない花だが、一輪挿しに差しておくと、清らかで甘い香りを放つ。……その風情に心がひかれた」。戦後、花が改良され、大振りになり色も黄や紫などが与えられて派手になると、玉城さんは興味を喪った(358)。モラルな含意をみとめて、それによって好きになったり、嫌いになったりすることが分かる。花に好き嫌いがない、とはとても言えない。歌集のタイトルになっている枇杷の花、この名のひびきはとてもよい。しかし、そのものは白く、見映えのする花ではない。その巻頭歌、「ちかぢかと見てわが立ちぬ真清水の流るるうへの枇杷の花むら」は、えも言えず美しい。玉城さんが好んでうたうのは、名を言われても知らないような、あるいは玉城さんも名を知らないような、ひっそりと咲く花が多い。

 

    (島崎ふみさんより、前回の記述の誤りを指摘された。玉城さんは仙台の出身だが、その家が宮司を務めていたのは岩出山であり、最後の宮司は父の祖父だった。謝して訂正する。また、高校教師としての玉城さんの担当科目だが、採用時には「現代社会」を割り当てられたという〔左岸820〕。国語ではないのか、との意外の感にうたれるが、「現代国語」を教えていたという記述もある〔1189〕。実態はわからない。)

 

(つづく)

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、『とりどりの肖像』(春秋社)、ほか。

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