小宮正弘君――決断する文人
小宮君とは、駒場(東京大学教養学部)の同級生だった。長くつきあった級友はかれしかいない(演出家になった吉岩正晴君とは交流があるが、それは演劇サークルの仲間としての付き合いだ)。かれには初めからおとなの雰囲気があった。はしゃいで自己主張することがない。巌谷國士君(シュルレアリスムの研究者)のような快活な自己主張派に対して、一歩下がって寡黙に耳を傾けている風だった。フランス文学を専攻し、筑摩書房に就職した。推薦状を依頼された井上究一郎先生は、「文学的センスが抜群」と書いた、とおっしゃっていた。わたしは就職試験に失敗したので、小宮君はすごい、と思った。少なくとも当時、出版界は文系の学生の憧れの職場だった。しかも求人数が少なく、非常な高倍率となる職種で、わけても筑摩書房は、その「文化のかおり」を誰もがみとめるハイブローな出版社だった。
卒業してしばらくは、付き合いがなかった。助手をしていたときのことだ。講師をしてらした皆川達夫先生を訪ねて、1人の筑摩の編集者が研究室にやってきた。そのころ、どの出版社もレコード主体の音楽「全集」のような企画を競っていた。皆川先生は筑摩の『ルネッサンス・バロックの音楽』の監修者のおひとりだった。その編集者に小宮君の近況を訊いてみた。すると、「かれは和服姿で出社しています」との驚くべき返答だった。これが機縁となり、小宮君との付き合いが再開した。正確には、付き合いが始まった、と言うべきだろう。学生時代は教室のなかでの接触にすぎなかった。会ってみると、もちろん、和服などではなく、小宮君は普通の背広姿で、ネクタイもしていた。ホラにしても、小宮君の雰囲気をよく捉えていたのではなかろうか。もっともらしい顔をしてこのようなホラを吹ける編集者に、わたしはいたく感心した。
このようにして始まった付き合いの流れで、雑誌『展望』に2回、試論を書かせてもらったし、わたしの処女作『せりふの構造』も、小宮君が本にしてくれた(付言すれば、この「スヴニール」を含めてわたしのエッセイを愛読してくれた)。当時、会社は小川町にあったので、お茶の水界隈で会ってアフターファイヴをともにした。かれの好みは、場末のと形容したくなるような飲み屋で、好物はぎんなん。最後にトリスバーに寄って水割りを1杯、という具合だった。いちど中野で飲んだことがある。酔いがまわったころ、突然、「森本さんのところへ行こう」と言いだし、電話した。森本和夫先生はわれわれの駒場のクラス担任で、小宮君は先生に私淑している風だった。突然押しかけられて迷惑に相違ないと思ったが、こちらは本物の和服姿で応対してくださった。小宮君は一人前の口をきいていて、編集者とはこういうものか、と思った。森本先生がチラチラとわたしの方を見られたのは、記憶にない昔の学生だったからだろう。先生はフランスで始めた座禅の体験のことを話された。
1970年、小宮君はフランスに渡った。わたしの留学に3年も先立っていた。それも、社命による出張で、1年ほど滞在した。これは羨望すべき快挙だった。かれの渡仏は、パリ国立図書館(BN)の監修による『世界版画大系』全10巻を刊行するための実務、という重責を担ってのものだった。この地味だが有意義で大きな企画は小宮君自身の発案だったらしいが、それを採用した出版社の度量と、そのために社員を長期間出張させるその実力に驚かされる。当時はまだ、海外への観光旅行が普及していたわけではないから、困難なところが多々あったことだろう。フランス文学を専攻したとはいえ、小宮君がフランス語の会話に長けていた、という記憶はない。当然、かれ自身の実務は難しく、精神的な負担も重かったことと推測できる。
3年後、わたしは留学の機会を得た。初めの3か月はボルドー大学でフランス語の研修を受けた。そのプログラムのなかに2度のバス旅行が組み込まれていて、家族や友人を同伴してもよい、とのことだった。このとき、小宮君もまたパリに来ていた。仔細は忘れたが、たぶん残務があって再度の出張だったのだろう。わたしの誘いをかれは喜び、ボルドーへやってきて、ラ・ロシェルへのバス旅行に参加した。ほんの数日だが、かれには経験したことのない学生生活だった。わたしの親しくしていた2~3の友人の名前を、相当後になっても覚えていて、かれらの消息を知りたがった。泊められた安ホテルでは同室だったし、帰途はわたしもかれと一緒にパリに出たので、語り合う時間がたっぷりあった。そこで訊いたかれの生活ぶりは、こんな風だった。――パリでかれはヴァヴァンに宿をとった。70年に長期滞在したその同じホテルに、73年のときも泊まっていた。ヴァヴァンは、ボヘミアン全盛のベルエポックに拓かれた新しい盛り場だ。かれがどうしてこの場所を選んだのかは分からないが、偶然の選択ではなさそうだ。その宿は夜の姫君たちが出入りするホテルで、かれは彼女たちの生態を垣間見るのを愉しんでいた。同行したカメラマンたちとのBNでの画像撮影のほか、週に1度、監修責任者で美術史家のジャン・アデマール氏を訪ねて打ち合わせをする必要があった。しかし、その日が近づくと、決まって腹痛を起こし、お腹をこわした、と独特の笑い声で打ち明けてくれた(その笑いは含み声で、哄笑するわけではない。敢えて擬音表記するなら「ケッケッケッ」とでもなろうが、読者にイメージしてもらうのは難しいかもしれない)。そして週末にはパリを離れ、決まってブリュッセルへ行っていた。ストレスから逃れるためだ。この町が気に入っていたのだろうが、いろいろな都市を探索すればよいのに、と思わないでもない。
会社のなかで、かれの仕事ぶりが認められたのだろう、やがて編集部長に昇進した。しかし、少しすると、自ら降格人事を発議して、ヒラの編集者に戻った。管理職の仕事より編集の方が性に合っていると思ったのだろう。しかし、編集業以上に小宮君の意欲を誘うものがあった。自分の本を作ることだ。1981年、最初の翻訳書、コレンクール著『ナポレオン―ロシア大遠征軍潰走の記』を刊行した。かれの最初の書籍なので、わたしは念入りに読んだ。見事な達意の訳で、誤訳を疑うようなところは皆無だった。大学卒業時に、かれのフランス語の能力がとくにすぐれていた、とは思っていなかった。だから、この翻訳の出来ばえには驚かされた。推測するに、もともとの知性に加え、編集者として培った批判意識が、この成果を生んだのだろう。専門の研究者たちでも、このレベルに達しているひとは一握りにすぎない。わたしは審らかにしないが、この原書は、歴史学の資料としても重要なものらしい。小宮君がこれを選んだについては、ある思惑があった。かれは出版物を眺め渡して、ある事実に気づいた。その主題の本がほぼ例外なく売れる、という対象が2つ(或いは2人と言うべきか)ある。ひとつは太宰治、もうひとつはナポレオンだ。そこでかれはナポレオンを選んだわけである。このことはすなわち、かれはやがて仕事の主軸を編集ではなく、翻訳に、あるいはさらに執筆に移そうと思っていた、ということでもある。「仕事で疲れていても、自分の本の校正となると、ほいほいと(かれの言葉のまま)出かけてゆくさ」という言葉が、それを物語っている。
小宮君はナポレオン関連の数点の翻訳を出し、その分野の権威となった。エルバ島を脱出してパリに駆け上がったときの「ナポレオン・ルート」を歩いてみたし、たぶん最後のフランス旅行は、ナポレオンの生地コルシカ島を訪ねるものだった。ナポレオンを主人公とするテレビ番組の監修者ともなった。翻訳者としては、ナポレオン以外のものも手掛けるようになり、相当数の仕事を残したが、著者となることも目論んでいた。これも編集者としてのかんによる選択だったのだろう、写真史を書くことを企画し、部分的には書き始めていた。1993年、筑摩書房を退社した。その後の見通しが立っていたのだろうか。小心者のわたしなどにはできないような思い切った決断だ。その3か月後、フランスに渡り、1年間、東洋語学校の講師として日本の近代文学を講じた。これは二宮正之氏の推挙によるものと思われるが、適任だったろう(かれは日本文学全集の編集にも関わっていたはずだ。また後に二宮氏はかれをジュネーヴ大学での講義にも招いている)。このときは奥さんとお嬢さんが同行された。講師の仕事が終わっても、滞在は続き、2年の余に及んだ。財政的にも大変だったと思われる。その費用の一部を補うべく、雑誌『潮』に連載の場を確保し、写真史について書いた。写真史は、当然、書籍にする構想だったが、完成しなかった。何故かは分からない。近代文学の講義の内容も知らないが、毎回の準備は自転車操業だったに相違ない。お嬢さんは音楽学校でピアノを学び、奥さんもパリ滞在を愉しまれた。「パリは面白い、まっすぐ行っても面白いし、右に行っても左に曲がっても面白い」という節子夫人の名言を紹介してくれて、かれは例の含み笑いで喜んでいた。
帰国しても浪人生活は続いた。経済的な逼迫にもかれは泰然としていたらしい(それ以前に筑摩書房倒産という難局をも経験している)。やがて、新設された静岡産業大学の教授になり、毎週新幹線で静岡に行き、3泊するという生活を送った。この人事の関連で、学問的業績として論文を公表する必要に迫られた。論文の書き方を教えてくれ、と言われて、わたしは2点を挙げた。「である調」で書くこと、注は多ければ多いほどよい、という2点である。かれはすぐに「分かった」と言い、少しすると抜き刷りを送ってきた。「P・ヴァレリーにおける装飾観念の生成」という論文で、立派なものだった。ヴァレリーの「装飾」観念とは、感覚が刺戟を受け、それに対する無償の反応として、何かを生み出すことであり、その生産物である。これを読んで思い出したことがある。駒場の教室でのことだ。先に席に就いていたかれの隣に座ると、丸めた白紙を延ばし、しわの跡を鉛筆でなぞっていた。そして一言、「偶然のあとをたどるのは難しい」。当人は忘れていたかもしれないが、かれのヴァレリー論は、このときの遊びを理論化したものだ。
わたしが日大に勤めるようになってから、年に1度、新宿で会い、酒杯を傾けつつ歓談した。といっても、かれは小声で話すので、聞き取れないこともあった。大体は他愛のないおしゃべりだったから、覚えていない。あるとき、別れ際に「唐木順三って、どんなひとだった?」と訊ねてみた。唐木は筑摩書房創立時からの顧問で、小宮君にとって身近なひとのはずだった。そしてわたしは、このひとの書いたものに感銘を覚え始めていた。いつものくせで、かれは口をへの字に曲げ、すこし目を閉じた。いっときの沈黙のあとにかれが言ったのは、「唐木さんは若いわたしを、一人前の、責任あるおとなとして扱ってくれた」ということだった。このことばは、小宮君のなかの何か特定の出来事にまつわる思い出を示唆するようであり、かつ唐木順三のひととなりにも触れる、そんな含蓄に富んでいた。いずれくわしい話を聴きたいと思ったものだが、ついにその機会は得られなかった。
小宮君は最後にひとつの謎を残した。亡くなるまえの数年、かれは行政書士の資格試験にチャレンジしていた。文士的なそのイメージから見ると、驚くべき選択だった。「もともと法律の勉強は好きだった」との告白には、さらに驚かされた。行政書士の仕事がどのようなものなのか、わたしはよく分かっているわけではない。法にかかわる実務としては、法の解釈と記憶、そして適用が実態であろう。解釈には文学作品の理解や鑑賞と通じるものがある。しかし、自由な解釈は法学でも理論家のもので、実務家に許されるものではあるまい。文学とは違う。かれはこの仕事の何に惹かれていたのだろう。文士的風貌が小宮正弘なら、この実務家志望もかれだ。ふたつの像は容易に重ならない。もっとも、無謀とも見えるあの決断力はこの実務指向とつながっているのかもしれない。少なくとも、かれ自身のなかでは葛藤を伴うようなことではなく、自然に同居していたものと見える。この重なりを解く鍵は、ひょっとするとまた、偶然を必然に変えることの面白味だったのではなかろうか。一見した印象とは異なり、かれの存在の核心にあったのは果断な冒険心だったのかもしれない。