姉の青春、兄の青春 (1) ――戦中を生きた若者たち
姉すみは大正12(1923)年、兄の隆は昭和2(1927)年生まれで、昭和20年の終戦時にはそれぞれ22歳と18歳だった。ふたりとも、戦時下に青春の盛りを生きた。
兄は陸軍二等兵、あるいはそれ以下の階級があるならそれだった。わたしが生まれたとき、兄は16歳、そのとき家にいたのだろうか。その次第を訊ねたことはなかったし、当時の兵役の制度がどのようなものだったのかについて、正確な知識があるわけではない。簡単な調べもので得た情報によれば、徴兵適齢とされたのは20歳。兄はこれには当てはまらない。しかし、状況が逼迫するとともに、昭和20(1945)年6月に「義勇兵役法」なる法律が施行され、男子は15歳以上60歳までの国民を徴兵することができるようになった(女子も対象に含まれた)。敗戦のわずか2か月まえのことである。この制度が実際にどのように機能したのかは分からないが、これによって徴兵され戦死された方もおられたに相違ない。この法律では、父でさえ招集の対象に入っていた。
兄の場合は、この義勇兵としての徴兵でもなかったような気がする。あくまで気がする、ということに過ぎないのだが、その兵役にはどこか牧歌的な印象が残っているからだ。兄は、幸い前線に送られることなく、「加古川の連隊」に配属されていた。ゲートルを巻いた軍服姿で、野原に座った小さな写真があり、そこには状況の切迫感はまったくなかった。写真を撮るということ自体、それなりの余裕があったことを示している。父は、赤飯と饅頭をつくり(材料をどうやって入手したのだろう)、満員の汽車に揺られて加古川に赴き、兄を見舞ったという(その昔語りのなかで、「酒保」という不思議な単語を知った。軍隊のなかのコンビニのようなものだったようだが、面会所にも充てられたらしい)。ちなみに父は、のちに、帰還した兄のために、こたつに甕を入れ、その柔らかい熱でどぶろくをつくったりした。写真といい、この見舞いといい、とても敗戦間近の状況とは思えない。
すると兄は志願して兵隊になったのではなかろうか。兵役を志願することができたのは17歳以上ということだから、兄の場合は、早くても昭和19年秋ということになる。志願する動機は推測できる。あくまで推測の話だ。兄は東京植民貿易語学校という学校に学んだ。これは現在の保善高校の前身にあたるものだが、わたしの通った新宿区立西戸山中学校とは、山手線の線路を挟んで向かい側にあった。焼け残って古びたコンクリートの校舎の壁には、同じくすすけた文字でこの校名が書かれていた(多分、消した跡だ)。「植民」という言葉の時代的な意味は分かっていなかったが、校舎の印象とともに過ぎてしまった昔の学校という感じを覚えた。何しろ、わたしの学んだ西戸山中学はモデル校とされ、ひときわ目立つモダンな造りの学校だったから、その古びた印象は増幅されていたかもしれない。
兄が進んでこの東京植民貿易語学校を選んだのかどうかは分からない。しかし、そこの教育を受け、この学校が焦点を当てている世界の相貌に目を向けるようになったことは、おそらく確かだ。商業学校なら商業、工業学校なら工業というような、いわば専門分野のことである。つまり、いまのわれわれは全く認識していないが、「植民貿易」という活動の分野があった。この学校は大正6(1917)年に安田財閥が創立したもので、当初のものと思われる学生募集の画像(おそらく新聞の広告欄)をインターネットで読むことができる。それには、「海外に渡航する男女及貿易其他に従事するに適する教育を施す」と書かれている。「植民」は言及されていない。「渡航」に含意されていたのかもしれない。安田財閥の関心は「貿易」だったろう。その貿易は国策としての「植民」と結びついていた。「帝国主義」の典型のような思想がそこには透けて見える。兄に「海外渡航」の野心があったわけではない。しかしこのような世界のあり方、世界とのかかわり方に馴染んだことは間違いない。子供だった頃、マレー語では散歩のことを「プラプーラ」と言うんだよ、という嘘のような話を兄から聞いたことがある。これが正しいのかどうかは、わからない。兄も嘘のような話だから覚えていたのだろう。その程度には学業を怠らずにいた、というしるしだ。
このような世界の見方に馴染むことと、兵役を志願することはつながっている(その頃の男子としては普通のことだったかもしれないが、兄は剣道に打ち込んでもいた)。両者は底辺で結びあっている。それは日本人の心性の一面であり、兄の場合、その人柄と、社会に底流してきた『古事記』以来の常識的な生き方とを掛け合わせたものだと思う。兄は快活な「善い人」だった。ひとの不幸には同情を惜しまず、特に家族の中では喜びをともにしてくれた。直ぐに思い出したのは、わたしの大学入試の発表のときのことだ。兄が一緒に結果を見にきてくれた。いまとは、その場所も時間も異なる。暗くなりかかっていた掲示板にわたしの番号を見つけたとき、兄はわたし以上に喜んだ(わたし自身はむしろ安堵の気持が強かった)。ひととしての善性は、周囲の人びととのかかわりのなかに現れる。この対人的な場面でのふるまい方については、上に触れたように、古来の伝統的なものの考え方が連綿として続いていて、それが戦時下において若者だった兄の行為をも規制していたものと、いまのわたしは確信する。『古事記』以来と言えば、牽強付会と思われるかもしれない。しかし、例えば丸山眞男は、日本人の歴史意識、倫理観、政治意識について、その原型が上古において現れ、多様な歴史的変化を貫いて、「執拗低音」として、言い換えれば基本的なパターンとして機能し続けてきたと考えている(「原型・古層・執拗低音」)。ここは、その議論に立ち入るべき機会ではないが、ふたつの原則に注目し、それが戦時下における若者としての兄の心理を読み解くうえで、ときの隔たりを忘れさせるほどのリアリティをもつことに、驚かされる。ひとつは政策決定や世論形成のかたちとしての「安の河原」の集会である。そこで議論するのは「八百万の神」という無人称の人びとである。誰か責任をもつリーダーがいるわけではない。その人びとはいわば隣を見て、強い議論の趨勢に従うだろう。「空気を読む」ことが重視される風土が、すでにそこにある。更に、その「空気」の基調をなしているのは、『古事記』の世界の唯一の倫理的理念である「きよき心」である。この語句を一見しての印象のままに、美的に解することはできない。美化は結果として起こって来るものの、その意味そのものは、朝廷に対する忠誠心以外の何ものでもない。これに関する和辻哲郎の言葉を聞いてみよう。
生命への執着を捨てることとしての「きよさ」とは「いさぎよさ」のことであり、あって当然の執着を「穢く卑しい」と決めつける思想は、生理的な威嚇をともなって迫ってくる。植民の道に導かれ、ハイティーンにして兵役を志願した兄の思いの動機を、この和辻の文章(それは日本の最も古い古典の解釈である)は、浮き彫りに描き出しているようにさえ思える。兄が志願兵だったとすれば、両親もまたそれを許したということになろう。父も母もこの倫理的風土のなかにいた。
その兄が帰還したのは、昭和20年の秋だったと思われる。そのとき、一家は「千葉縣印旛郡白井村名内」に疎開していた。おそらく兄は、出征前に、父とともに疎開の引っ越しを担い、この地を知っていた。だから、「帰った」という感覚があったはずだ。満二歳だったわたしには断片的な記憶しかなく、その日のことも覚えていない。生還は何より祝うべきものだが、敗戦による帰還を祝う家はなかったろう。兄はどういう思いだったのだろう。上記のような暗黙の思想が染みついていた身には、複雑な思いがあったに相違ない。それでも立ち止まっていられる余裕はなかった。否も応もなく新しい境遇を受入れ、そのなかに生きる喜びを見つけていったのだと思う。幼児だったわたしは、隆兄を「タッタ」と呼んで懐いた。その頃のタッタについて覚えていることが三つある。まず、兄は農村の若い衆たちと打ち解けなじんだ。塔を組んで、その上からスイカ泥棒を見張る輪番の青年が、ハロウィンのかぼちゃのようにいたずら書きをした小さなスイカを、夜中に来て軒下に置いていってくれたことがある。朝になってそれを見つけたものの、食べられるものでないことにがっかりしたものだった。これも兄が土地の青年たちと昵懇だったことのあかしだ。
しかし、遊んでいられたわけではない。菓子職人だった父は、手に入らなくなった砂糖に替えて、サツマイモをすりおろし、甘味をつけてかわらせんべいを焼いた(菓子を提供できたことが、村に受け入れられた一因だったらしい)。兄は、そのせんべいを荷台に載せ、自転車をこいで、東京に売りに行く仕事を担った。名内から白井の中心部まで1里。そこからは木下街道で総武線の下総中山駅までバスが通っていたが、その道をおそらく千葉街道と交わるところまで行ったものと思われる。それが4里。そこで千葉街道に入って、例えば亀戸までが3里。これだけで片道30キロを超える。例えばとしたが、行き先がどこだったのか、わたしは知らない。亀戸よりずっと遠くに行っていたに相違ない。つまり、往復で70キロくらいの行程だ。しかも乗っていたのは、車体ががっしりした造りの古く重い自転車だった。兵役の訓練よりきつかったかもしれない。
タッタはこの運搬をどれくらいの頻度で行っていたのだろう。昭和23年に柏木に家を建て、一家は東京に戻った。考えてみたこともなかったが、その建設資金は、父の手仕事と兄のこの労働によって賄われたはずだ(戦前の蓄えはすべて紙くずになった、と言われている)。少なくとも1日おきくらいには往復していたのではなかろうか。しかもそれは平和な行商ではなかった。経済活動は統制下におかれ、県境で検問が行われることもあった(千葉と東京の境は江戸川で、橋を渡らなければならなかったから、取り締まりは容易だった)。ある日、タッタは青い顔をして帰って来た(幼時の記憶なのか、それとも後に昔語りを聴いて、それを記憶に再構成したのかは、分からない)。統制品の砂糖を使っていると難癖をつけられ、荷のかわらせんべいを没収されてしまった、ということだった。それは父の工夫のわざの卓越を示すものではあった。しかし、いま思えば、担当官が私しようとしたのかもしれない。
若者らしい解放の喜びもあった。タッタは、どこで習っていたのか、社交ダンスを覚えた。家にはわたしの馴染めない「洋楽」のレコードが何枚かあった。母は、隆のダンスのせいで畳が擦り切れる、とこぼしていた。ダンスは、もちろん、女性との出会いを求めてのものだったはずだ。その甲斐があったのかどうか、幼児のわたしには思い至ることのない世界のことではあった。
望んだような富裕な境遇はついに得られなかった。それでも、家族に恵まれ、善人で、酒と美味しいものが大好きという、つつましい快楽の人生をタッタは送った(ごきげんに酔ったときに歌うのは、何故か、白頭山節だった)。そんな兄の人生とは異質な思い出もある。わたしが留学中に受け取った一通の手紙だ。それはわたしが何か頼み事をしたことに対する返信だったと思う(わずか40年ほどまえのことなのだが、当時は、往来はもとより、電話もいまの便利さとは全く異次元で、フランスはなおも遠かった)。いささか他人行儀で、タッタとは別人の書いたような立派な文面に驚かされた。思うにそれは、兵舎から両親に送ったに相違ない軍事郵便以来、初めて書いたものだったのではなかろうか。昔のひとは、いざとなれば立派な文章をつづることができた。