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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

内池興一郎君――やさしさの極み

 

内池君は、学生時代の芝居仲間である。やや屈折した関係だから、その説明から始めよう。

 

当時、東大には4つの学生劇団があった(わたしが意識していたものだけのことで、実はさらにいくつかの集団があったらしい)。安保の季節のあとで、政治色の強いグループが2つ、藝術派が2つという分布だ。内池君もわたしも、ともに「藝術派」だったが違うグループで、交際はなかった(一度だけ、かれの舞台を見たことがあった。翻訳ものの喜劇だが、何という作品だったかは覚えていない)。大学を卒業するとき、有志が集まってアヌイの『ベケット』を上演することになった。わたしのかつて属していた戯曲研究会は一度取り上げており、この傑作には強い愛着があった。わたしは翻訳と演出を担当させてもらうことになった。翻訳は劇団四季が上演した際の宮島春彦訳に散見する誤訳を直したぐらいのものだったし、演出も一度目の大町玄さんの名演出をなぞったほどのものにすぎなかった。東大の戯研は女性がいなかったので東京女子大の戯研といっしょに活動していた。わたしは3年になって退部したが、そのころ、女子大の戯研は内池君のグループ(劇団駒場)と合同公演をもった。その縁があって、遠藤知子さんと久郷南枝さんが内池君をつれてきた。明るくおだやかで、おっとりしていて、人見知りをしない、という印象を受けた。歓迎して演出助手を務めてもらった。

 

テレビのAD(演出助手に相当)は制作上の雑用係のように見えるが、内池君の場合は、文字通りの補佐役だ。『ベケット』は男の友情とその破綻の物語で、女性の登場人物は少ない。そのなかでグウェンドリンという女性は、登場する場面こそ少ないものの、強い印象を残す役柄だった。これを演じたのは、共立女子大の佐藤麗子さんである。舞台映えする美女だが、ガ行を鼻濁音で発音できないという欠点があった。いま、一般的な傾向として、ガ行の鼻濁音は退潮ぎみで、それをとがめる意識の方が少数派かもしれない。ガ行の発音に、硬い濁音と柔らかな鼻濁音がある、と言われても、何のことか分からない、というひともいるだろう。このころはちがった。それはわたし独りの好みではなかったと思う。劇場空間のように響く場所では、鼻濁音で発音しなければならない、というのはほとんど常識だった。内池君は経験があるらしく、ガと言うまえに小さくンと発音してからガと言えば鼻濁音になる、という方法に通じていた。そこで、内池君の重要な仕事として、佐藤さんの鼻濁音特訓を引き受けてもらった(このほか、記憶にあるのは、「たっぷりした」せりふ回しという形容で、これはわれわれ戯研のヴォキャブラリーにはなかった。いま思えば、かれはわたし以上に演出に通じていた)。

 

その鼻濁音の特訓だが、簡単なものではなかった。個々の語音をどのように発音するかは、既に身についてしまっていて、意志によって変えるのは難しい。訛りの修正以上だ。地方出身の初心者の俳優は、アクセント辞典を携行し、絶えずアクセントを矯正する。呪文のようにそれを口の中で繰り返し、からだに沁み込ませようとする。これが可能であることは、逆に方言の芝居を演ずる役者のケースでも確かめられる。しばらくするとそれが身について、ある程度、その方言で会話することができるようになる。方言は近しい外国語のようなもの、と見ることができる。しかし、語音の発音はさらに底辺にあり、そこは不随意性の領域で手が届きにくい。「ンガ」はうまく言えても、文として、例えば「わたしガ、ガイコクへゆくときには」になると、元に戻ってしまう。内池君は、いらだつこともなく、不機嫌になることもなく、この特訓を続けた。

 

あるとき、かれはギターを抱えて稽古場に現われた。歩いてぐるりと輪を描きながら、弾き語りでウェスタンを歌った。カーボーイハットも用意してあった。かれは脚が長く、カッコよかった。股下は身長の半分を超えるという話だった(それを聞き、夜中に起きだして自分の股下を測ってみて、ちょっとがっかりした仲間もいた)。その明るくこだわりのない性格ゆえ、内池君はこの集団に完全に溶け込んでいた。とくに加藤みどりさんはかれがごひいきだった。加藤さんはテレビアニメの『サザエさん』で主人公の声を担当し、主題歌も歌って、その声は全国に浸透したが、われわれの公演はそのブレーク前夜のことだった(スカウトしてきたのは、仕事のうえでつながりのあった高取さん〔『とりどりの肖像』第7章〕だった)。彼女が稽古場にくるのは、内池君に会う愉しみがあってのことではないか、と(ちょっと嫉妬まじりに)思ったものだった。

 

公演は3回行われ、その最終回には誰もが手ごたえを感ずる出来栄えだった。打ち上げは大いにもりあがり、終電の時刻を越した。誘われて、かれの家に泊めてもらった。新宿からタクシーで20~30分ほど、私鉄の駅に近い住宅街にある、大きな家だった。内池君の金ピカではない富裕感、頭の回転は速いにも拘らず、激することのない穏やかさ、一言で言えばやさしさが、この家のたたずまいと調和した。いまでは東大に入学する学生たちの家庭環境は、苦学生の時代とは激変し、富裕層が多数派となっている。しかし、わたしの経験の範囲でのことだが、内池君のような東大生に会ったことはない。

 

このときに聞いたのだろうか。かれは芝居よりも映画が好きで、サドゥールの『世界映画史』(のちの浩瀚な全史ではなく、このタイトルの第2版でもなく、1巻本だが、当時としては最も情報量の多い本だった)を座右の書として、テレビの深夜番組で昔の映画を見ては、この本の当該箇所に赤鉛筆で線を入れていた。何故、映画を作るのではなく、芝居のサークルに入ったのか、と訊いたように思う。8ミリで映画を製作する学生たちがいなかったわけではない。内池君のこたえは、多分、お金がかかるから、というものだったように思うが、もはや記憶は漠としている。

 

かれは手堅い考えに立って生きていた。学部は経済で、卒業すると朝日生命に就職した。ちなみに、その卒業は、『ベケット』の公演の直後で、わたしの2度目の卒業(美学専修課程へ学士入学して1年で卒業した)と同時だった。だから、『ベケット』のとき、すでにこの就職先は決まっていた。わたしなどは、新宿西口の「朝日生命ホール」(今はなくなってしまったらしいが、その頃、最新の設備を備えた劇場だった)を思ったが、内池君がなぜ生保を選んだのかは知らない。伝聞によって知ったところでは、生命保険会社の新入社員は、研修のひとつとして、保険契約をとってくるというノルマを課された。このとき、身内や知己を頼って契約数をそろえるひとと、飛び込みの営業にチャレンジするひとがいて、身内型には将来性がない、といわれていた。無職のわたしとしては、保険への加入を頼まれたら困るな、と思っていたが、杞憂にすぎなかった。わたしの境遇を思って誘わなかったのか、それとも飛び込み営業をしたのかは、分からない。

 

内池君にとって『ベケット』は、青春と言って言い過ぎならば学生生活にけりをつけるものだった。かれは堅実な勤め人になった(ただ、その仕事ぶりはなにも知らない)。われわれはふたりとも間もなく結婚した。大学院の学生となったわたしは、よくてそれまで程度の経済状態だから、かれとの格差は歴然としたものになった。一度、新宿の飲み屋に誘ってくれたことがある。佐藤さんの親友だった女性が開いた店だ。行ってみると、板場にいたのは彼女の連れ合いだが、内池君の劇団駒場における後輩でもあり、かれを慕っているように感じられた。内池君がこの店の常連となったのは、共立ルートよりも、駒場つながりの方が強かったのかもしれない。しかもその板場のかれは、わたしの高校の後輩で、わたしの学年で人気を競った女子高生たちの話などを持ち出して、わたしを驚かせた。ちなみに、高取さんも常連となったそうだが、こちらは共立つながりに相違ない。ふたりはときどき、そこに来合わせたそうだ。

 

この飲み屋で交わした会話は、互いの近況報告だったと思う。覚えているのはトマトの笑顔だ。かれは、結婚後も、ご両親とともにあの大きな家で暮らしていた。かれにはお姉さんがあり、結婚して北習志野に住んでらしたが、転勤で一時的にその家を空けることになった。この間かれは、そこに移り住んだ。新妻とふたりだけの生活を愉しんだのだろう。しかし、通勤には相当時間がかかるから、週末だけの別荘だったのかもしれない。今は東葉高速線も通って発展の著しい住宅地だが、当時は、これからの発展が見込まれるベッドタウンだった。その家でかれは、庭の芝生をはがし、トマトを栽培した。いまは確かに甘いトマトがある。しかし70年ごろのトマトが甘いと思ったことは、わたしにはない。家庭菜園のトマトはプロの農夫の作るものより甘いのだろうか。内池君は、穏やかな、しかし満面の笑みを浮かべて言った、「売っているものとは違う、甘いトマトだよ」。丸くて赤く、甘い笑顔だった。

 

しばらく会わずにいたところ、遠藤さんから電話がかかってきて、内池君の母上が亡くなられた、と言う。母親の訃報を伝えてくるのは、ちょっと変っているな、とは思った。しかし、内池興一郎君宛てに、「ご母堂のご逝去を悼み……」という弔電を打った。かれからは何の応答もなかった。

 

少しすると、再び遠藤さんから電話で、あれは間違いで、亡くなったのは内池君当人だ、と言ってきた。内池君はまだ若く亡くなることなど念頭になかったために、テレフォンゲームのような、コミュニケーションの歪みによる誤報だった。こともあろうにというこの知らせには愕然とした。とんでもない間違いの羞恥はもとよりのことだが(お母上には不快で辛い思いをさせてしまった)、内池君の死という信じがたい現実を、どう受け止めたらよいのか。かれは30歳代の半ばくらいだった。大慌てで、遠藤さんとお悔やみにうかがった。あの大きな家で迎えてくれたのは奥さんだった。結婚の披露宴でお会いして以来だが、その時には言葉を交わしていないから、初対面も同然だった。

 

内池君を突然に奪ったのは、スキルス性胃がんだった。その後、がんの治療法は飛躍的に進歩したらしいが、これは今も難しい病気とされる。亡くなって既に1月ほどが経っていた。奥さんも悲しみのなかに平静さを取り戻しているようだった。そのお話しのなかで、覚えているのは1点のみ。かれのがんが激痛を伴うもので、「朝、目が覚めると地獄だ」というかれがもらした言葉だ。地獄としか形容できない痛みは、あらゆる想像を絶する。トマトの笑顔に重なって、そのような死は限りなく残酷に見える。かれの人生は未完だった。何を以て完成と言えるのかはわからないが、たっぷりした味わいの時間を奪われたことは間違いない。もう一度繰り返すが、それは限りなく残酷だ。しかし、悲しいことに、あの少しシャイで、おだやかなやさしさを際立たせる。

 

思い出したことがある。かれはイタロ・カルヴィーノの『木のぼり男爵』を愛読し、わたしにも薦めてくれた。その訳書は刊行されたばかりの、ぴかぴかのヨーロッパ文化だった。ものぐさのわたしは、およそ薦められた本を読んだという記憶がない。内池君の説明も、〈木の上で生活をすることを決断し、そこで一生を生きた男のはなし〉というような通り一遍のものだったと思う。多分、気のない返事でやり過ごした。いま、かれの肖像を書こうとして、これを読んでみようという考えが閃いた。愛読書をひもといたからといって、その人となりの何が判るというのか。心もとない。かれがこの小説のどこに感銘を受けたのかも聞いていない。しかし、それは読んでみてのはなしだ。――ちなみに、映画ではフェリーニを愛し、これについては影響を受けた。

 

そうときめて、これを読んでみた(米川良夫訳、白水社)。驚いたのは、出版者の書いた紹介文(「奇想天外にして痛快無比なファンタジー」)とはまったく別のところに、作者の創作意図がある、ということだ。これは、文字通りの意味でヌーヴォー・ロマンの一種で、18世紀の小説のパロディーとして書かれている。ヌーヴォー・ロマンの一種というのは、小説の可能性を開拓しようとする藝術的な意思に基づいている、というほどの意味である。作者は、18世紀の小説のパロディーという新技法にチャレンジした。18世紀は小説という散文ジャンルの黎明期で、書き手たちの問題意識の入口を占めていたのが、語りをどのように根拠づけるか、ということだった。「むかしむかし、あるところに……」と語ることができるのは、その話が言い伝えられてきたからである。しかし、新しい物語の場合はどうしたらよいのか。「わたしが考え出したものだ」とあからさまに告白する作者はいなかった。作者の姿が見えると邪魔になる。作り話ではなく、本当にあったことを伝えているというふれこみでこそ、物語は世に流布した。もっともポピュラーなのは書簡体で、テクストは主人公たちの書いたものとされるから、作り手である作者はうまく姿を隠すことができる。『木のぼり男爵』は、語り手による語りである。語るのは主人公(すなわち木のうえで生涯をすごした男爵)の弟で、その兄が些細なことから強情を張って、地上を捨てて木の上に上った日から語り起している。途中で、自分が直接見聞できなかったことについては、兄との会話で教えられたことだ、という補足を加えて、物語のいわれという18世紀的な難題に応えている。ことは技法の特異性だけではない。この物語は1767年6月15日から始まる。つまり、18世紀の話を18世紀的に語る小説である。これにも当然、意味がある。

 

作者がこの形式に込めた意欲の深さを、わたしはとくに2つの点で確信した(そのほか、かなりマイナーな実在の人物が登場するところにも、「ほんものらしさ」が見られる。18世紀文学の専門的な研究者に蘊蓄を披歴してほしいところだ)。1つ目は、スイスに近いフェルネーに隠棲していたヴォルテールが、自作の戯曲の上演を見にパリに「凱旋」したとき(1778年)、商用でパリに行っていた「わたし」がかれの祝賀レセプションに招かれ、そこでこの老詩人かつ哲学者と会話を交わした、というエピソードである。パリでも「オンブローザの野生人」(すなわち木のぼり男爵。オンブローザはジェノヴァに近い地名で、男爵らの本拠)は評判になっていて、兄の考えを披歴するとヴォルテールは感心した、とされている(なお、野生人も18世紀的なモチーフである)。このヴォルテールの凱旋は、専門家のあいだでこそ知られてはいても、それを取り上げて語るには、相当の知識を必要とするのではなかろうか。これは、実景のなかにフィクションを埋め込んで、18世紀の小説という装いに生気を与えている。

 

わたしが感心したもうひとつの事実はさらにマニアックだ。コジモ(すなわち木のぼり男爵)は非常な読書家で、ディドロ=ダランベールの『百科全書』を予約購読していた。その分冊は「リヴォルノの書店」から届けられてきたとされている。これは他でもない、イタリアで刊行されたリプリント版(脚注つき)『百科全書』2点のうちの1点を指している(鷲見洋一『編集者ディドロ――仲間と歩く《百科全書》の森』、平凡社、202~3ページ)。現代小説の読者のなかに、このイタリア版『百科全書』を知るひとはほとんどあるまい。コジモが愛読した項目として「蜜蜂」「森」「庭園」が挙げられているが、それらは小説の記述に活用されている、と思う(わたしはこれらの項目を読んではいない)。このほか、旧貴族の生態、イエズス会とジャンセニストの対立、フリーメイソンの誕生など、革命とナポレオン戦争に至る時代の空気を蘇らせるのに役立っている。

 

これは、たんに小説の技法的曲藝を見せるためだけの飾りではない。一度として地上に降りずに木の上で暮らすというフィクションは、話の展開のうえで相当に無理をきたす。なぜ、このような設定を選んだのか(民話に原型があるに相違ないが)。これは、この木の上の世界が、地上とは別の世界を構成するというアレゴリーとして捉えなければ、理解できない。一度も地上に降りないというやせ我慢は、地上世界に対する徹底的な批判意識の表現である。これは多くの18世紀小説の基調だ。『ガリヴァー旅行記』や『ロビンソン・クルーソー』は明らかにこの世とは異なる架空の世界を描いているし、『新エロイーズ』の舞台となっているクラランは、スイスの小村だが、パリを典型とする都市の生活と対比された別世界である。これらの水平的な〈どこかべつのところ〉に対して、木の上の生活は、垂直的な差異を示すもので、価値的な含意がある。そして、その別世界は18世紀の啓蒙主義者たちが夢見た世界でなければなるまい。「あらゆるものが、高みから見ると、違っていた」。ヴォルテールを感心させた「オンブローザの野生人」のことばは、「この地上のことをよく見ようとする者は、必要な距離をおいていなければならない」というものだった。つまり、木の上の生活は、この世を異化し、理想をはぐくんだ。男爵は18世紀なかばにうまれ、革命とその変質、ナポレオンの凋落という変化の時代を生きた。男爵の死はこの大きな挫折の歴史と重なる。弟である語り手は言う、「わたしたちの青春の理想、わたしたちの18世紀の光明や希望はいっさい、葬られた」。『木のぼり男爵』は、ヨーロッパ人にとって「啓蒙主義」がいまなお生きた課題であることを、教えてくれる。

 

つい、『木のぼり男爵』に入り込んでしまった。内池君に戻ろう。かれはこの小説の何に魅せられたのだろう。好きな小説の好きな理由は、多分、特定できない。好きなひとの好きなところを言えないのと同じことだ。だが、問われれば何か答えるかもしれない。かれは、この小説の技法的な仕掛けを理解していたわけではなかったろう。だから、かれの感じた魅力は作品にみなぎる何か、一言で言えば青春の息吹であり、大らかな自由の気であったのだと思う。もちろんこれはわたしが勝手に、小説の世界をかれの姿に投影したものにすぎない。堅実な生き方に納得しながら、「木のうえ」への憧れを懐き続けていたのではなかろうか。かれがこの小説を薦めてくれたときの表情を、実は覚えていない。いつものように、押しつけがましさのないものだったからだと思う。しかしいま、そのときの内池君が、かれのあのトマトの笑みと重なってみえてくる。

 

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、『とりどりの肖像』(春秋社)、ほか。

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