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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

玉城徹さん(3)――歌人にして歌人

 

 

前回は玉城さんが子供時代に見せた顕著な、驚くべき性質や言動に注目し、それらが成熟期を予告するものであることを語った。最後に言及したのは激しい好き嫌いだが、好みは美感(あるいは「美意識」)につながり、詠歌のかたちを支配する。ここからは玉城さんの文学観(そこにはひととしてのあり方が関わる)、その詠法、詠むことと読むことの重なり、うたの価値の標識となる調べ、古歌や秀歌の変奏などを紹介したい。玉城さんにおいて、うたを詠むことは生きることの純化されたかたちだった。

 

まずは核心をなす「心の純潔」について。「文藝小感」という一文のなかで玉城さんは、ジェーン・オースティンの『説き伏せられて』を読み、ヒロインの「心の〈純潔〉に深く心を撃たれた」と言う。ただしその〈純潔〉は道徳的なものではなく、「穢れがないとか、純粋だとかいう消極的な頼りないものではない」と断っている。そしてそのエッセイの末尾で、自著『子規』の始めに「信仰的な心」という一章を置いたことの意味が、この純潔にあるとしている。晩年の子規は「草花の写生をしながら、《造化の秘密》が分かってきた」と言った。「神の前にひとり立つという心もちがそこにある。子規の文学の純潔さが、そこにある」(左岸20-21)と玉城さんは結んでいる。このやや過大なことばには、玉城さんの隠れた感激症が窺われる。子規について語ってはいるが、世界に、そして作歌活動に向かう自身の基本的な態度を語るものでもある。「こころ」が問題なのは、そのためだ。「媚び」を嫌い、「個性」を斥け「目立つ」ことを否定するのは、この根幹に由来する。第一回の『左岸』に、静岡県内合同歌会で行なった「うたの心」という講話が掲載されていて、そこにつぎのような一節がある。

 

ロダンもレオナルド・ダ・ヴィンチも、真似をしてはいかんと教えています。「古代のものには少し良い処があるけれども、本当の師は自然である」と。「自然に学ばなくていけない」と。だから人の言葉を取ってきたということは、非常に恥ずべきことである。しかも間違った言葉を取ってくる人がいる。そういうことをやっていると、その人は、文学をやる資格がないんです。これは具合が悪いんですね。歌っているものは、本当に純粋に自分の心から出てこなければならない。その心は別に特殊な心ではありません。私だって別に、個性的なんていうことを考えていない。あるいは、独創的と、そういうことを言っているんじゃあない」(14)。

 

趣旨は「心から純粋に出てくる」ということに集約されよう。その「出てくる」ときに、不純な思いが邪魔をすることがある。個性を強調しようとか、目立ちたい、よく見せたいなど、玉城さんの嫌いなことの多くはこれに関わっている。さきに見た小林サダ子さんとのやりとりを想起しよう。そこでもレオナルドを詠んだうたが参照されていた。「心がわるい」というきつい言葉の意味も、いま、よりあきらかに理解することができる。うたのことばとしてそこにあるものの向こう側に、作者の個性というような分かりようのないものを考えるのは、玉城さんにとってすでに邪心なのである。わたしにとって出会いとなったあの座談会の「自然」という主題も、歌人としての根幹に関わる問題意識によるものだった。「こころ」の発動は感覚であり、感情である。ことは「文学」の本質にかかわる。

 

「感情」に関して面白い記事がある。玉城さんが『短歌現代』に掲載した「手続き」という作品について、歌人の大島史洋氏を招き、5人の歌人(元会員の女性たち)と座談会を開いた(この作品は『左岸』395に転載されたのち、『石榴』123-32に収録されている)。冒頭で玉城さんはこれが政治に関係してはいるが、議論として読んでくれるな、「感情だけなんで」と言っている。それを承けた大島氏のことばに注目しよう。「今の玉城さんのお話、感情をうたっているに過ぎない、議論ではないと言うのは僕にも分かりますけれど、その感情って言うのはちょっと意外な感じがしました。僕は玉城さんの歌は感情を出さないと言うか、殺している歌だとおもっていましたから。様式と言うか、短歌の形を意識している方なので、僕は玉城さんは感情を歌にうたうことは、最も少ない人じゃあないかと思っていたのです」(左岸378)。とても面白い。もちろん、大島氏の言う通りだ。しかし、〈感情のみ〉という玉城さんの意識もまた、その文学活動の根幹に根差している。文学は感覚感情の問題であり、理屈ではない、という子規の主張を玉城さんは自身の立脚点としている。「文学の問題っていうのは大体感じ方の問題であります。どう感ずるかという感じ方の問題であります。そのことを子規は、逆の方から、理屈は文学にあらずと言ったんです」(左岸285)。感情といっても、喜怒哀楽を表出する、というようなことではない。そこには強い自制が働いている。大島氏はそのことを捉えている。先ほど挙げた枇杷の花のうたを例にとれば、普通に感情と見られるものはない。しかし、枇杷の花を見つけ、そこになにか感じるものがあった(その意味でなら、感動といってもよい)。その感覚を「深く思い」、うたに形成してゆく、それが玉城さんにとっての詠歌だったと見ることができる。だから、感情ですべてが決まるわけではなく、それを言語化するプロセスが重視される。「詩人の体験とは、それがある言語的体験と結びつくときにのみ詩的なエネルギーに転化し得るもので」ある(白秋65)。

 

短歌は、刹那に心におこった感じを書きとめておくのに便利だと、啄木は考えたようである。これは、もっともな話である。……わたしはその刹那の感じを、しばらく、手元に引きとめておいて、その客観的根拠を観察したいのである。根拠の薄弱なものを、わたしは捨て去るだろう。根拠のしっかりしたものは、面白い。/それがまるごと短歌の言葉になって、ひとつの〈物〉として出現するのを、わたしはゆっくり待たなければならない(左岸39-40)。

 

玉城詩学の精髄である。わたしはこの〈ものの出現〉という理念に強く共感する。若いとき、小宮正弘君(⇒第18回)の与えてくれた機会に、「ことばともの」というエッセイを書いた。文学とは、ことばを記号としてではなく、ものとして形成することだ、という趣旨だ。「もの」とは内部からの力によって、言い換えればそれ自身の力によって、ガンとしてそこに存在するようなあり方のことである。わたしはこの直観を体系的に展開することがなかったが、玉城さんはこれを原理としてうたを詠いつづけた。その言語的形成を指導するのが、「調べ」である。最初の座談会のおりに、玉城さんにとって重要なのが音楽性であることに気づいた。この座談会の記事を評した詩人の飯島耕一氏は*、わたしのその発言を褒めて下さったが(『短歌朝日』第3号43)、玉城さんが話されていたことだから、手柄にはならない。わたしは音楽性と言ったが、玉城さんが言うのは「調べ」である。これが難しい。あるとき、俳句にも調べがある、と教えてくださった(これは、玉城さんが芥川の「芭蕉雑記」から学んだものだと知ったのは、あとになってのことだ)。しかし、これはわたしの頭のなかにあった「調べ」という語の語義と著しく不調和だった。

 

    *飯島耕一氏にお会いしたことはないものの、まったく片思いの親近感がある。氏は旧制六高(現岡山大学)に学び、若きフランス語教師だった松田穣先生に私淑した。松田先生はわたしを埼玉大学に採用してくださった方がたのおひとりで、その松田先生のお話のなかに、度々飯島耕一という名前があった。氏もまた詩的言語の特質を音楽性に認めていたことは、詩集『猫と桃』に明らかだ(その一本は、玉城さんとの関係でお会いしたことのある不識書院の中静勇氏から送っていただいた)。ことばの躍動感がみずみずしい。

 

しらべの詩学は、上記の「もの」という作品の質感と深く連動している。字面のうえでは、動と静として、矛盾しているように見えるかもしれない。しかし、「もの」とは表現が完全の域に達し、推敲の余地がなくなった状態の謂であり、短歌あるいは詩の場合、その状態は「しらべ」によって知られる、という相関性がそこにある。「美しい短歌」という講演録を参照しよう(山形県歌人協会の大会での講演)。そこではまず、西行の「雲かかる遠山ばたの秋されば思ひやるだにかなしきものを」(新古今1562)が取り上げられる。中学生のときにこれを読み、十分に理解する以前に、「これはよい歌だなあというふうに痛感した」と言い、そこに自身の出発点があると告白している。そして、「先ず解釈をしておいて、その結果から一首の魅力を引き出そうという方法」とは逆に、「先ず良い歌だ、どこか魅力があると感じてそこから出発する」姿勢が大切だ、と説いている。この講演に「しらべ」の概念は出てこないが、この〈理解するより早く感ずる魅力〉がしらべによることは、論を俟つまい。しらべは直感的だ。また、玉城さん自身が注意を促しているように、この感じられた魅力がそこで演題に掲げた「美しい」ということに他ならない。「物」性を語った上記のことばの直後に、「美しいか、美しくないかだ」の一行がある。それは「物」であることを目指す創造的格闘の言葉である。「一たび、人間の手で美しいものが作られれば、それは、いつまでも美しいのである」(左岸216)という強い言葉も、古典の普遍性への確信を語っている。それぞれの文化には異なる美があり、時代が移ろうとともに美のあり方も変化してゆく、という考え方とは全く異なる思想である。

 

〈理解に先立って先ずはしらべ〉とは言っても、いかほどかの理解がなければ魅惑されることもあるまい。解釈学の言う先行理解と通じる構造がそこにあるが、解釈学は魅惑を語ったりしない。この魅惑は美しいものに固有の不思議の念をともなう。その不思議がより深い理解への探求を促す。「その美しさは、何故西行はこんな歌を作ったんだろうかという最初の感情体験の復元を要求する力として迫って」くる、と玉城さんは言う。あの女性の歌人たちに対して、「この歌の作者はどのような作者か」という問いかけをしたのは、このような鑑賞体験の構造によるものであったことが、いま分かる。

 

一首の真の魅惑はしらべである。その「しらべ」とはなにか。直感的なものを説明することは難しい。不可能と言うべきであろう。それを覚悟したうえで、玉城さんの説明を聴こう。玉城さんは「しらべ」についてたびたび語っているが、平明と見えるのは、最晩年の次の言葉である。短歌の「音節が五・七・五・七・七の中で作るリズム、そして、音と音、音と内容の調をふつう〈しらべ〉と言います。香川景樹が、うたは〈しらべ〉だと言ったのは、この意味かと思います」(左岸676)。この「リズム」はそれぞれのうたに固有のものであるはずだが、それがどのようにして生まれるかの説明はない。いずれにせよ、リズム、音、内容というこれら3点は、融合しあってひとつのしらべとなる。そこが霊妙なところである。だから、「〈しらべ〉は秘法である。理論によって言うことができない。芭蕉が〈舌頭に千転せよ〉と言ったのは、もっともである。悟るより仕方がない」(うた138号30)と言われる。芥川もこの『去来抄』のことばに即して「しらべ」を捉えている。すなわち、語音のひびきと音調の美感である。しかし、しらべの詩学の祖と見られる香川景樹について玉城さんは、「景樹の〈調〉は、むしろ内容と不可分なものです」(近世41)と言っている。景樹の詠「夜半の風麦の穂立におとづれて蛍飛ぶべく野はなりにけり」の特質を説くなかに、第三としてそのしらべへの言及がある。

 

調べが、機敏で鋭いこと。「夜半の風」といきなりはじめから、夜ふけの風を持ち出しています。何でもないようですが、じつは、あまり例のないことです。たいがい結句の方へもってきて「夜半の風かな」とか、「夜のふけの風」とかいう。「夜半の風麦の穂立ちに」には運びが、異常にはやいのです。「調べ」というものを、意味と無関係な、抽象的な音調と思うのは誤っています。言語においては、そういうことはない。だから、ある母音が、いくつ重なっているなどという観察は、いつでも、少々ばかげた、中学生のレポートのように、人には見えるのです(近世29)。

 

このうたのしらべがプレストだ、というのだが、それを感じ取る仕方が、研鑽を積んだ歌人ならではのものだ。「詩人の心というものは古い語感の宝庫である」(芭蕉192)とは芭蕉に関する言葉だが、玉城さん自身にそのまま妥当する。「夜半の風」が結句に使われる語句で、思いを閉じ、切り上げる含意があることは、辞書には書かれていない。自ら作歌する心構えで多くのうたを読んできた歌人の心に、「おのずからの薫染」(近世75)として残された語感であり、それがうたのしらべを浮き上がらせる。この引用文でいう「意味」とは、辞書に書かれた意味を前提にしてはいても、そこから文化的伝統的に形成されてきたものを指している。このプレストは玉城さんが現在化して見せたものだが、もとより詠者である景樹が感じていたものに他ならない。だが、藝術的な効果はしらべの一面にすぎない。歌が「調ぶるもの」であるとは、「或は月をみて誠に月をおもはんには、月と云ふを待たずして、其うたふ詞に、おのずから月の調あるがごときをいふ」という景樹のことばに注して、玉城さんは次のように言う。

 

つまり、調とは内在的なものだ。それは、人間の心に内在すると同時に、対象世界の方にも内在するのです。歌が歌であるのは、この「調」によってであると、景樹はかんがえるのです。換言すれば、対象のもつ様式性が、主観にはたらきかけて、そこにうまれてくる詩的様式、それが「調」とよばれるものです。……それでは「調」(景樹のいう)とは、何でしょうか。それは、心が対象に向かい、その対象が心に受容れられるときに、おのずから生じてくる「かたち」なのです。したがって、それは歌の歌たるべき内容をなすものだと言って差支えないでしょう(近世41-42)。

 

「景樹のいう」と断り書きを入れているのは、全面的に同意しているわけではない、と言うのであろうか。しかしそれは、むしろ、通説あるいは俗な理解とは異なるが、との含意として読むべきだ。たしかに対象世界に調べがあると考えるひとは稀であろう(だからこの一文は理解が難しい)。特に「対象の様式性」という概念は類をみない(「様式」とは藝術や文化の個性的偏差のことである)。玉城さんが学生時代に聴いた講義のなかで強い関心を示したのは、リーグルやヴェルフリンの様式論だった(左岸709, 732, 952)。しかし、ドイツ語圏の美術史家たちに、対象世界の様式という考えはない。この主客照応の世界観を玉城さんは朱子学とむすびつけている(近世343, 芭蕉99)。このあとで言及するが、世界と詠歌のこの関係が、玉城さんの普遍性の主張とつながっていることを予め注記しておこう。「かたち」という言い方にも注意したい。それは、或るものをそのものたらしめているものとしての形相(ただし、個体形相 haecceity)に相当する(あるいはゲーテの形態学が念頭にあったかもしれない。玉城さんはこのゲーテの科学書を読んでいた)。俊成の「すがた」と同様、一首ごとの全体的たたずまいを指し、時間的展開である音楽性としての「しらべ」とは相を異にする。ほかに、芭蕉の言う「匂ひ」「ひびき」(近世327)に言及しているところもあれば、「肌ざわり」を語るときもある(163)。これらもおそらく「しらべ」を別角度から捉えたものであろう。「音楽とは、その幽微な流れによって、それ自体の音楽としての存在を明示するもの」という至言の指しているのは、良寛のうたにうたわれた庭の林(やすらぎを与える)、「枕上の夜雨」、秋風のわたってゆく稲葉など自然の空間、情景だ(同268)。つまり、玉城さんにとって「しらべ」とは、自然のなかに出会い、感動をおぼえて歌に結晶してゆく、その「感情」のまとった「かたち」としてまとめることができるのではなかろうか。

 

当然、語りつくせないものが残っているが、きりがない。「しらべ」の詩学の原点に戻ろう。最初に参照した『うた』のことばには先があった。次のごとくである。

 

ただ一つ、これだけは言っておこうと思う。「しらべ」は個人に属するものではなく、万人の共有物だという一点に、よくよく肚を据えてかからねばならないのである。それには、共に欣ぶ心というものが、どれほど大切か測り知れない。むろん、悲しみの歌もあるが、それは、歌になることによって、人の心に欣びを創るのである。共に学び、共に作歌する生活を、共同の欣びとする精神に立つことができるかどうか、まず、自分の胸に問うてみることである。

 

これは「結社」の会員に向けての言葉だが、通り一遍に読み過ごすべきではあるまい。「共同の欣びとする精神」には、玉城さんの藝術家としての基本思想が込められている。さきほどから繰り返しとりあげている美の普遍性への確信である。小澤蘆庵のことばから「万国同情」を学んで(近世484)、玉城さんはそれを自身の思想として生きた(「ぽりてぃいく世界の善に向かうべし国ひとつのみを思ふは卑しき」〔石榴131〕)。針生さんの「古典主義」がこの「共同」なるものに当るが、玉城さんはその言い方を受け容れなかった。ひょっとすると「伝統主義」なら許容したかもしれない。いずれにしても、おそらく針生さんが批判したような字面の問題ではない。『左岸だより』のほとんど巻末に(全70回のうちの第65回)、「美について」という述懐のエッセイがある。そこには、美学への関心が中学生のときに萌していたこと、「英語の清水先生」から『いきの構造』を与えられて読んだこと(これを「名著」と評した箇所もあるが、「いき」が特殊な世界のものであることをきちんと指摘している)、大学で学んだ美術史が「〈美学〉の特殊研究である」と知ったこと、大西克礼の美学概論の講義がまったく理解できず、美を抽象的に考えるのは苦手であることなどが語られている。この長くはないエッセイの末尾にエリオットへの深い共感が語られている。

 

エリオットによれば、一人一人の作者は、伝統の生きた新しい一部をなすのである。この『荒地』の詩人は、多分珊瑚のように、その根もとは骨化しながら、その先端に新しく芽を吹く大きな全体を形成していく。〔……〕エリオットからわたしは、多くのヒントを得た。いや、そればかりではない。彼の思想に、まったく同化されてしまったのである。自己表現という日本近代の藝術思想―おそらく、漱石などが唱え出したものであるが―は、もう、どうでもいいものになってしまった。わたしは、もともと、自己表現という考え方が好きではない。「美」は一個人の創造ではない。何代にもわたる努力と洗練の結果である(左岸1216)。

 

「伝統と個人の才能」という有名なエッセイにおいてエリオットが主張しているのは、《詩人やおよそ藝術家のなすことは、個性の表現というようなものではなく、自国とヨーロッパ全体の過去の文学、藝術を知悉し(これは大変な努力を要する仕事だ)、自らの新しい作品によって、その歴史を少しなりと更新してゆくことだ》と要約することができる。この脱個人性を説明するために、エリオットは二つの元素をスパークさせる役割の触媒の比喩を用いている。やがて玉城さんはこの「巧みな比喩」を「愉快に感じない」ようになった。「創作の過程は、何ら神秘的なものではない。それは長い複雑な過程の束である。それが最後に一篇の作品としての形をとるのは、あたかも、突然の結晶化、化学変化のように錯覚される。作者自身にとってすら、そう見えるのだが、それは仮象にすぎない」(芭蕉166)。だから、上記の最晩年のエリオット讃のなかに、この印象的な語句はない。それを差し引いても、伝統の更新と脱個性の思想は玉城さんの生涯を貫く立脚点となった。あの「作者像」や「個性」「表現」という考えへの嫌悪がここに由来することは、いまやあきらかだろう。この姿勢は第一歌集『馬の首』のあとがきに宣言されていた。

 

わたしは、自己の刻印を示そうとしたのではなかった。抽象的思考――言葉をかえていえば、一の「美」への祈願――は、つねに、自己の抹消の企図をふくむものである(阿木津英「〈伝統〉という藝術思想」ノートVより)。

 

作品が「もの」として立ち上がること、それが美の実現である。作者の個性を表現しようとすることは、作品のこの自立を妨げる不純な要素となる。先ほど見た「子規の文学の純潔さ」、すなわち晩年の子規が「草花の写生をしながら、《造化の秘密》が分かってくると言った」言葉のなかに込められたかれの文学の純潔さという考え、また歌ううえでは「自分の心がちゃんと人間らしい心持ちにならないといけない」ということば、これが玉城さんの純潔さであり、あの少年の、父の死を受けとめかねている友人に向けた玉城少年の驚くべきことばと、同じ精神がそこに息づいている。

 

では、「人間らしい心持ち」とはどのような「こころ」を言うのか。作品から作者を読むという課題をめぐるやりとりのなかで「心が悪い」と言われたのは、作品を個性の表現と読むような態度だった。常識的な理解では、作品に個性を見るこころを悪いとは言わない。しかし、玉城さんの心中では、自己を抹消することこそが人間的な課題であり、個性を主張することはその純潔さを汚すものと考えられていたものと思われる。このこころの持ちようは日常のさまざまな感じ方のなかに現われてくるもので、特別の感じ方を要求するものではない。名著『近世歌人の思想』には「和歌における人間回復の課題」という不思議な副題がついている。一例を引こう。冒頭で取り上げられているのは、景樹の飼い犬を悼むうたである。詞書があり、長歌と反歌よりなっている。その短歌だけを記せば、「ほか人はけふも門にはたたずめど咎むる声ぞ聞こえざりける」とある。見知らぬひとがやってくると吠えかかる習性の犬だった(「しきりと物とがめするわろくせ」という表現が新鮮だ。いま、このような犬の習性を言い表すことばをわれわれはもっていないのではなかろうか)。そのために殺されたらしく帰ってこない。そこで詠まれたうたである。長歌では、古代の挽歌のように、亡くなった犬の生前の生活ぶりを語り、いまわのきわに感じたはずの「ことのかなしさ」を思いやって、そこで上記の反歌がくる。門口に来客はあるのに、吠えかかる犬の声は聞こえない、という歌意である。玉城さんは言う、「わが文学史において、こういう作品が、これまで取り上げられなかったということは、非常に残念なことと言わなければなりません。きわめて珍しい歌だ。こういう生活体験をうたうということ自体、きわめて新しいことのように思います。単に素材が斬新というのでなく、態度がまったく新鮮なのです」(近世14)。さらに進んで、玉城さんはこのうたのなかに、景樹のこの「わろくせ」をもった犬への愛着の気持を読み取る。「〈咎むる声ぞ聞えざりける〉という詠嘆は、その当時の和歌的情趣など無視した率直ぶりですが、そこには、〈ほか人〉と見れば吠えたてる、この犬の正直さに対する愛着の情が読みとれます。景樹は、自分の内にある一途な攻撃性を、この犬の姿に投影しているらしく思えてきます。このような自己投影を欠いたならば、おそらく、犬に対する同情も、熱意のない、薄ぼんやりしたものにおわってしまったでしょう。〈物とがめ〉をしては、周囲から袋叩きにあうというような経験は、景樹自身、身におぼえのあることではなかったかとすら思われるのです。単なる同情でなく、そういう同一化が、同情に生命を与えているのです」(15-16)。さらにもう一層の背景があるに相違ない。この共感的理解を成り立たせたのは、周囲の人びとのあいだに緊張を生み、ときに石を投げられるという玉城さん自身の経験があったはずだ(「誰彼と浮かびくる顔。――世にわれを(にく)むものあれば孤独にあらず」〔香貫316〕という一首も思い起こされる)。

 

伝統を更新するためには、過去の文学を己がものにしなければならない。それだけではない。そもそも「〈美〉は一個人の創造ではなく、何代にもわたる努力と洗練の結果」だからである。「短歌というものは、自分でも作るから、何とか人の歌にも感ずるのである」(左岸245)。わたしのように作らないが優れたうたには感ずる(と思っている)者は、拒まれているようだが、それには立ち入るまい(この少しあとで「心に触れて読むから、その歌の力が、いささかでも、自分のものになってくるのである」とも言っている)。「歌を作る力がないより先に、歌を読む力がない」(36)という言葉もある。つまり、読むと詠うは、一が他を前提としつつ、それを更新するという相互的な弁証法的関係にある。「作るから感じられる」と言うとき、そのふたつの藝術的行為をつなげているのは、作品を「言語構造」あるいは「言語組織体」と見る考えである(白秋13、254)。これはバルトの「テクスト」に相同する概念で、玉城さんにおいては「表現」の批判のうえにある。表現としてのうたは作者のものだが、言語構造として見るとき、それは伝統との弁証法的関係に入り、「間テクスト性」のダイナミズムを担うようになる。過去のうたという伝統を継承するだけではない。「あるテクストは、その過去によってある程度決定されているということは疑いようがない。しかし、どうもそれだけではなさそうである。テクストがテクストでありうるのは、それが、その未来とも交信するからではないのか」(芭蕉57)。今書かれたテクストは、未来にとっての過去となる。その未来を規定するだけではない。その未来が伝統を更新するということは、過去となった今がその未来によっていかほどか規定されることである。バルトにはおそらくエリオット的な伝統の概念はなかった。実作者だったからこそ、玉城さんはそこに啓示を見た。

 

この間テクスト性は、詩学的評論的な概念として持ち出されたものではなく、それ自体、伝統のなかにあったものである。「文学においては、一歩を踏み出すに、必ず、先行の文学から何らかのエネルギーを汲み上げる必要がある」(子規55。Cf.近世90-91)。この「汲み上げ」方の大きなものが、「パロディー(もじり)」である。一般には本歌取りと呼ばれるものだが、ここでも玉城さんはこの用語を忌避する(「〈本歌取り〉などということを、今どき、持ち出して、安直に思いつきの感想を述べたてるのは、まことに詰まらぬことである」。この頃の歌壇の言論に通じたひとなら、玉城さんが嫌悪したたぐいの言説がすぐにわかるのだろう)。その「パロディー」について、玉城さんは、「そうした技法も、何も、珍しいものではなく、中世から近世へかけて、高度に洗練化されて来たのである」(子規53-54)と言っている。『近世歌人の思想』には、そのような作例がいくつも参照されていて、例に困ることはない。しかし、子規を論じて、玉城さんはこの技法が「袋小路」に入り込むことになる、と指摘している。パロディー(もしくは本歌取り)が語句の明示的な借用を核としているのに対して、玉城さんが伝統の更新と見なしているものはずっと広範囲にわたり、先行作品の変奏全般をふくむらしい。今しがた紹介したことばは子規に関するものなので、子規のその作例を紹介するのがよいのだが、わたしの理解が行き届かないところもあり説明は長くなる。より分かりやすい例をあげよう。

 

ことは熱田での芭蕉の吟に関わる。白魚を取り上げた芭蕉の幾つかの句にあいだに「一脈の暗黙の線」をみとめた玉城さんは、才麿の「笹折て白魚のたえだえ青し」に至る。そして同じとき、おなじ熱田で芭蕉が「海くれて鴨のこゑほのかに白し」と詠んだことを見て、次のように言う。

 

わたしなどは、はっと息を呑む。句の形が、才麿の白魚のものと同じではないか。見事なパロディというよりほかない。才麿の「たえだえ青し」の感覚は、当時としては、抜群に尖鋭である。芭蕉が、「鴨の声」という聴覚的なものを、「ほのかに白し」と視覚に転じ来たったのは、ボードレールなどの考えた象徴の域を思わすものと言えよう。それは才麿の新感覚派を、はるかに凌駕したものである。そうだとは言っても、この場合、先行する才麿の句が存在しなかったなら、芭蕉の句は生まれえなかったであろう(芭蕉144-5)。

 

この「パロディ」には語句の借用、繰り返しはない。まさに言語構造の相似形として、それは創出されている。この先に子規の場合が来る。『近世歌人の思想』のなかで「風土」を持ち出したものの(377-)、それを展開することはなかった。あるいは、「伝統」を空間的な広がりとして捉えていたのかもしれない。玉城さんのうたのなかにも、この広義のパロディによったと見られる作があるに相違ない。教養の乏しさゆえに、それらを指摘することがわたしにはできないが、ただひとつ、そのような作が目についた。「妻ありし去年のごとくに一月の半ば紅梅の一輪ひらく」(枇杷60)。このうたには人麻呂の「去年見てし秋の月夜は渡れども相見し妹はいや年離る」(万葉214)が響きあっている、とわたしは感ずる(ただし、この作を玉城さんは人麻呂の真作とは見ない。左岸620)。

 

志しに反して、随分長くなってしまった。しかし、核心は単純でひとつだ。要約すれば、美への純潔なる献身ということに尽きる。作品が作者から自立して、もののように屹立したとき、それは美しい。その美はしらべという直感的な質において捉えられる。美は普遍的であり、国境を越え、時代を超える。そこに伝統の蓄積と練磨があり、それがあって美が生まれる。この美に到る原点はこころの純潔にある。純潔とは己れの主観を滅することである。多くの哲学者たちが、認識の普遍妥当性を立証しようとやっきになってきた。しかし、玉城さんは、思いの普遍性を生きた。稀なひとだ。

 

(つづく)

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、『とりどりの肖像』(春秋社)、ほか。

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