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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

源兵衛さん――男気のあるお大尽

 

「お大尽」はもと廓ことばだったかもしれない。だが、子供のころ、それは富裕なひとを指す常用語で、憧れの気持がこめられていた。敗戦で国中が貧困のなかにあったときのことだ。わたしはさらに、その「ダイジン」を「大臣」と思ってもいた(この類義性は含蓄が深い)。お大尽源兵衛さんとの出会いは戦中のことだ(もちろん、わたしにその瞬間の記憶はない)。生まれて1年ほど経ったころ、縁あってわが家は千葉縣印旛郡白井村名内に疎開した。源兵衛さんはその地の富農で、とてもお世話になった。疎開と言えば、多くのひとが土地に容れられず、困窮生活を送ったと聞くが、わが家は例外的に恵まれていた。源兵衛さんのおかげだ。本名は秋谷博昌さん。村会議員を務めたえらいひとだった。地域で名望を得ていたものと思う。何故「源兵衛さん」と呼ばれていたのかは分からない。秋谷姓は千葉のこの辺りで多い。同姓が多いために必要となった一種の屋号で、この家の当主が代々そう呼ばれたのかもしれない。

 

この地に寓居を得たものの、源兵衛さんとどのようにして親交を得たのか、定かではない。母の社交によるものだったことは間違いなかろう。あとで話すように、父ともうまが合ったらしい。互いの親密さのほどは、1本の小径に示されている。わが家は寺の庫裏に寄寓したのだが、その南側は秋谷邸の広大な敷地に接していた。母屋までは200メートルほどの距離だったろうか。秋谷家の敷地に沿って細い道があり、これでわが家は秋谷家とつながっていた。竹林のなかの、木漏れ日の美しい、気持ちよい道だった。ここを通って両家は頻繁に行き来した。あとでやや詳しく話すが、帰京して16~17年くらい経ったとき再訪してみると、この道は閉じられていた。つまりこの通路は、源兵衛さんが自邸の境界をセットバックして竹垣を設け、邪魔な竹を伐って通してくれたものだった。ほどなく都会に戻ってゆくだろう疎開の一家との交流のため、と思えば、そこに源兵衛さんの決断力と実行力が窺われる。

 

幼児のわたしの目に、源兵衛さんは父と同じくらいの年恰好と見えた。50歳前後だったかと思う。時を隔てて折々のすがたが何度か、記憶に刻まれている。まず、3~4歳ごろのこと、すなわち戦争が終わって少し経ったころのことだ。源兵衛さんはわたしを伴い、手にモリを持って小川に連れて行ってくれた。源兵衛さんは寝起きのようなどてら姿だった。日頃、野良仕事をしてはいなかったのではなかろうか。それでも、恰幅はよく、顔は赤銅色に日焼けしていた。小川というのは、田んぼの間をながれる灌漑用水だ。流れを注視しつつ畦道を進み、獲物を見つけると、素早くモリを刺した。アカガエルだと教えられた。その脚の部分を塩焼きにして食べさせてもらった。とても美味だった。食用ガエルはフランスでは高級食材らしい。そう言われても、いま、それを食べようという勇気はない。しかし、幼児のわたしにカエルに関する先入見はなかったから、供されるままにおいしくいただいた。貴重なたんぱく源になったと思う。

 

たんぱく源と言えば、エビガニ(ザリガニ)もあった。こちらはおばさん、すなわち源兵衛さんのおかみさんが獲ってくれた。同じ小川に、幅いっぱいの大きさの竹籠を持っていってセットする。そして、上流から水中を歩いて獲物をかごに追い込む漁法だった。大漁で、ごはんを炊く釜いっぱい、真っ赤にゆであがったエビガニは、これもごちそうだった。名内のごちそうとして記憶にあるものがもうひとつある。ジャガイモを蒸かして塩をつけて食べるものだ。変わった食材ではない。これを特に覚えているのは、アカガエルやエビガニと同じように、庭で調理されたからだと思う。そのことが、非日常の特別感を与えていた。当時、世の中が食糧難に喘いでいたことなど、幼児には知る由もなかった。思えば、いまこうして老齢を享受できているのも、源兵衛さんのおかげかもしれない。

 

2つ目の思い出。父は菓子職人だったが、戦中戦後と砂糖は統制品で、容易に手に入らなかった。そこでサツマイモを活用した瓦せんべいを焼いたことは、「兄の青春」の章に書いた。それだけではない。入手できないなら自分で作ろう、と父は考えた。いかにも父らしいこの構想は、源兵衛さんとのコラボで実現した。サトウキビを源兵衛さんに栽培してもらい、そこから砂糖を抽出しようとする戦略だ。サトウキビがもともと白井で作られていたのかどうか、多分そうではあるまい。そうでないとしたら源兵衛さんはどのようにしてその苗を手に入れたのだろうか。しかも、地下茎を植えて、収穫まで1年以上かかるそうだ。ちょっとした思いつきでできるようなものではない。一介の職人の構想としては大仕事だ。日本では沖縄で生産されていることがよく知られている。熱帯性の植物だ。だから、栽培そのものが難しかったに相違ない。それでも、わたしはサトウキビの茎を折り曲げ、その汁をすすった記憶がある。それは、源兵衛さんが収穫したものだったのだろうか。記憶にあるのは、ただ、大釜でその汁を煮詰めている情景だけだ。だから栽培には成功した。しかしプロジェクトそのものは成果に到らなかった。多分、焦げ付いてしまったのだと思うが、詳細を覚えているわけではない。いまわたしが思うのは、父の創造的な意欲と、その意気に感じて難題にチャレンジした源兵衛さんの男気だ。

 

3つ目の源兵衛像。わが家は昭和23年の初めに帰京した。終戦から2年以上名内にとどまったのは、居心地がよかったからだ。疎開は都会に戻ることを当然のこととして想定している。帰京に際して、なぜ元の場所に戻らなかったのか、それを訊ねたことはなく、分からない。中央線の線路を隔てた反対側の柏木5丁目に家を建てた。その建築のための木材は、東京では入手が難しく、名内から送った。しかし、苦労して準備したその荷は、県境での検問に止められて、没収されてしまった。2回目のチャレンジは、検問のなさそうな道を選んで成功したそうだ。1軒分だけでも木材の入手は難しかったろう。それを2度まで調達してくれたのは、源兵衛さんを措いてほかにいない。

 

そのようにしてできた家に、多分いちどだけ、源兵衛さんは来てくれた。当時の交通事情では半日以上かかる行程で、ちょっとした旅行だったと思う。一家をあげての歓待で、(たぶんささやかな)酒宴が用意された。赤銅色の源兵衛さんの顔は、機嫌よく上気し、わが家は笑い声に包まれた。膳が進み、食後にカステラが出された。それを口にした源兵衛さんは「こそっぱい」と言った。製法を知っているわけではないが、カステラは底にザラメが沈んでいて、その下に丈夫な和紙が敷かれている。源兵衛さんはその紙ごと口にした。その触感が「こそっぱい」だった。それが分かると姉は涙を流すほど笑いこけた。「こそっぱい」は、このときに聞いただけの言葉だ。方言かと思ってきたが、念のために辞書を引いてみた。なんと大辞典には立項されていた。方言としての「舌ざわりや手ざわりがあらい」という語義が、源兵衛さんの発言にぴったりだ(ただし、方言の地域として千葉はカウントされていない)。「こそばゆい」の変化形と言われると得心がゆく。くすぐったいという意味でのこの語なら知らないわけではない(自分で使ったことはないが)。

 

この来訪に応えて、母はわたしと遊び友達の野本君を連れて、名内を訪れた。故郷に帰ったような気分だった。このとき初めて、秋谷家に泊まった。漆喰の白壁、黒く磨き上げられた太い角柱に藁葺屋根を頂いた大きな屋敷で、広間は、それまでも、その後も見たことのないほどの広さだった。夜になると、部屋の電灯の明かりが庭先に伸びたが、その先はまさに漆黒の闇が押し寄せてくるように感じた(寺の庫裏に寄寓していたときも同様だったはずだが、覚えがない)。このときだと思う。源兵衛さんの父にあたるご老人がいらした。小柄なひとで、竹細工の名手ということだったが、見せられたのは、細身の竹を数か所えぐって歯ブラシを掛けるように作ったもので、繊細な細工品ではなかった。野本(現遠藤敏明)君は、数年前クラス会で会ったときに、突然「源兵衛さん」の思い出を語り出し、わたしを驚ろかせた。農村の空間が珍しく、また秋谷家での滞在が心地よかったのだと思う。

 

このように親密な交流も、間遠になっていった。最後に訪ねたときのことは鮮明に覚えている。わたしは大学生になっていた。そのころ、わが家には合気道を習いに日本に来たイギリス人が寄宿していた。母は、この奇特な外国人に日本の農村を見せてやりたい、と考えた。車を借りる算段もし、わたしに(危なっかしい)運転をさせて、3人で源兵衛さんのもとを訪ねた。源兵衛さんの境遇の変化には衝撃を受けた。秋谷邸はコの字形に建物が建てられていた。大きな母屋はコの字の縦辺を占め、底辺に相当するところ(そこに門があり、表の通りにつながっている)には、牛小屋や農機具の小屋などが作られていた。そしてコの字の天辺に相当するところには小ぶりの蔵があった。背後は竹林だが急斜面になっていて、降りてゆくと田んぼが広がる、そのような地勢だった。年を経て訪れたこのとき、その蔵のさらに先(母屋から遠いところ)に、小さな家屋が作られ、いまや隠居の身となった源兵衛さんはそこに暮らしていた。奥さんのすがたは見えなかった。

 

落魄というのは大げさにすぎるだろう。しかし、源兵衛さんはいまの境遇を恥ずかしく思っているように見えた。母はそのことを理解したと思うが、何もなかったかのように、持ち前の社交性を発揮して、にぎやかに近況を語り合った。わたしはイギリス人を連れて近所を見せてまわった。このとき、かつてわが家が暮らした寺の庫裏はまだあって、見知らぬ一家が住んでいた。しかし、秋谷邸の縁を巡ってそこに通じていたあの小径は閉じられていて、このとき初めて知った、それが公共の道ではなく、源兵衛さんが拓いてくれたものだったことを。連れのイギリス人は、もともと口数が多いひとではなかった。加えてわたしの下手な英語では、思いを語る気にならなかったのかもしれない。かれがこの農村にどのような感想を懐いたのか、それを聞いた記憶はない。

 

源兵衛さんの隠居生活は、強いられたもののような印象だったが、実は自身の決断によることだったのかもしれない。アカガエルを獲ってくれたときどてら姿だったように、源兵衛さんは野良仕事をしていた風ではなかった。だから閑暇があり、新宿までの小旅行に来ることもできた。また、息子さんがゲートルを巻いた姿だったことを鮮明に記憶している(それは隆兄と同じように除隊されたときのままの服装だったかもしれない)。だから、野良仕事はきっと息子さんの担当だった。しかし、源兵衛さんの赤銅色に日焼けした肌は、かつて野良仕事に従事していたことのあかしだ。すると、そこには世代交代のルールがあり、それに従って、源兵衛さんは家督を譲ったのではなかろうか、かつてあの竹細工の名人が、源兵衛さんにそうしてくれたように。ひょっとすると、この世代間のリレーの慣習は、日本の社会で非常に古い来歴のものなのかもしれない。源兵衛さんが小さな隠居小屋を建てたのは、隠居をより完全にするためだったのかもしれない。その小屋は屋根を瓦で葺いた本格的な建物だったが、一部屋のみの簡素なつくりだった。食事は母屋で家族とともにしていたのだろうか。それともお膳が運ばれたのだろうか。そこで暮らした晩年の時間はとても長かったに相違ない。長閑と書いて「のどか」と読む。晩年の源兵衛さんの日々はのどかなものだったろうか。生来のその活力、行動力を持て余したのではなかろうか。そう思うと、ちょっと切ない気持ちにおそわれる。

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、『とりどりの肖像』(春秋社)、ほか。

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