フィリップ・マンゲ――国際的檜舞台とアルデンヌの森
フィリップ・マンゲ(Philippe Minguet)はベルギーの美学者で、リエージュ大学の教授だった。とりわけ、近接異分野の同僚たちと結成したレトリックの研究集団ブループ μ の中心メンバーとして知られた。数えてみると、マンゲさんとわたしの交際期間は15年ほどにすぎない。その間、非常に親密だった時期もあるが、かれが国際美学会議に来なくなり、交際の機会、動機が薄れるとともに、疎遠になっていった。対面しているときにはフィリップと呼んでいたが、ひとさまに話すときには「マンゲさん」だ。この距離感はペルネさん(『とりどりの肖像』第10章)と同じで、ハインツ(ペッツォルト)(同第6章)やミケーレ(マッラ)(『スヴニール』26)とは違う。かれが国際会議から消えたことは、わたしのこころにずっと疑問符を残していたものの、そのわけを問いただすことははばかられた。胸中深くに根差した世界観に関わるように思われたからだ。言い換えれば、それを推量することなしに、マンゲさんの肖像は書くことができない。手探りで進むので、いきおい、以下の描写は年を追っての回想記的スタイルをとることになる。
マンゲさんの知遇を得たのは、1976年、ダルムシュタットで開かれ第8回国際美学会議でのことだった。その情景を覚えてはいないが、今道友信先生が引き合わせてくださったのだと思う。わたしより一回りくらい年長で、40歳代なかば、美学という小さな世界では、すでに国際的な新しいスターと見られていた。ウンベルト・エーコやジャンニ・ヴァッティモと同じ世代で、かれらは親しかった。身分証明書風にその風貌を記すなら、中肉中背というよりはやや小柄。頭髪は栗色だが、すでに薄く、かわりに白さの混じった豊かな顎髭を蓄えている。ブルーの目はきつくないが輝いていた。自信の表れだ。国際的に一世を風靡したグループμの代表作『一般修辞学』は既に刊行され、数年を経ていた。
このときマンゲさんは、美学の国際委員会の事務局長の任にあった。あとで記すように、やがてこの組織は現在の国際美学連盟(各国の美学会の集合)へと改組されるのだが、それまで国際会議を定期的に運営する母体となっていた。選ばれた国際的な代表的美学者の集団である(日本人では、竹内敏雄先生が委員でいらした)。その委員会の事務局長(実務担当の責任者)であるということは、マンゲさんが次代を担うホープとして認知されていた、ということだ。ちなみに、レトリックあるいは記号論以前のマンゲさんの代表的な著作は『ロココの美学』(1960年)で、かれのもうひとつの主要研究テーマとなっている(のちに、その延長上にある『フランス・バロック論』を公刊している)。手元にこの本がないので怪しげな記憶をもとに一言すれば、かれが新婚旅行で訪れた南ドイツのロココを作例としつつ(だから、この国際会議の舞台となったダルムシュタットという美術の都市は、かれにとって親しい土地だったはずだ)、ロココとは何かという哲学的問いにも答えている。より新しい研究があるに相違ないが、わたしにとっては、いまも基本図書のひとつだ。
その2年後だったと思う。今道先生がマンゲさんを日本に招かれた。かれはレトリックに関する講演原稿を2篇携えて来た(そのうちのひとつ、「レトリック研究の現状」の訳稿は雑誌『言語』に掲載してもらった)。われわれにとって、当時欧米で最先端の思潮にふれる機会だった。個人的には、暗黙裡に接待係のような役目を与えられ、いろいろなところに案内した。明治神宮内苑や日光では、鼻先で手のひらを揺らし杉の香りを嗅ぐ様子が印象に残った。その日光でお昼に鰻を供すると、ベルギーには全く異なるウナギ料理がある、と言う。たしか、すりつぶした豆で味付けした緑色の料理で、いつかこれを君に供しようと言ってくれたが、実現しなかった。余計なことを付け加えると、フランスのウナギ料理は、輪切りにしたうなぎをバターとにんにくで味付けしたもので(エスカルゴと同じ調理で、実に大雑把だ)、留学中にこれを試した友人が美味しくないといっていたので、わたしはいまだ食したことがない。それにひきかえベルギーのウナギ料理は、ローカルで、風土を感じさせるもののように思われる。
思い出をもうひとつ。今道先生と3人で会い、別れてマンゲさんを宿舎に送ってゆくときのことだ。場所は品川駅。今のような立派なつくりの駅舎ではなく、どこの駅とも同じような木造のものだった。マンゲさんとわたしは、ホームをまたぐ通路に上がり、今道先生は下のホームにいらした。その先生を見て、マンゲさんは「まさにプリンスだ」とつぶやいた。わたしにとって「プリンス」とは、高貴な素性のほかに、若くてスリムで魅力的な人物を指す言葉だった(日本人なら誰もがそう思っていたし、いまでもそうだろう)。わたしの驚きを前にして、マンゲさんは「そういう言い方をするのさ」と言った。若い貴公子というわたしの語感を知らない以上、それ以上の説明はできなかっただろう。もともと小国の君主をも指すことばで、比喩的に転用されれば、恰幅のよい大人物を指すらしい。そのことをこのとき学んだ(この語義が、実は辞書にも載っていることを、いま確かめた)。
このころは親密の度合いを高めるできごとがつぎつぎと押し寄せてきた。わたしのほうでは『一般修辞学』の日本語訳を計画した(東京藝大の助手で共訳者となった樋口桂子さんは、マンゲさんのもとに留学していた)。もろもろの比喩づかいに関心があっただけでなく、ごく少数の変形原理によってあらゆるレトリック現象を説明する(それが「一般」ということだ)スタンスが、精神の基本的な仕組みを捉えているように思われて、そこに大きな魅力を感じた。ある語=観念から別の語=観念へと飛び移ることは、レトリックの仕組みであるだけでなく、精神のはたらきそのものではなかろうか。
リエージュでの生活を思わせるエピソードもあった。マンゲさんは、自宅に友人たちを招いてプルーストの夕べを開こうとしていた(社交性はかれの身の一部で、『ロココの美学』はそれにつながる)。プルーストが、自然に思い出されてくる記憶の奔流を、水に浸した水中花が次々と開いてゆくさまになぞらえた。ジャポニスムのひとつの現れだ。そのさまを、実験してみようという洒落た遊びである。そこでかれは、本家の日本で水中花を探し求めた。その買い物にもお供したに相違ないが、いまどこでそれを見つけたのか、記憶がない。
レトリックに戻ろう。マンゲさんはフランスの美学雑誌のレトリック特集号(1979年)のゲスト・エディターに指名され、わたしにも寄稿の機会を与えてくれた。そのとき書いたのが「軽みの詩学」という論考で、ヴィットリオ・ウーゴとの交友の機縁となった(『スヴニール』22)。論文のフランス語はマンゲさん自身が直してくれた。日本語の場合を含めてこの「言葉のエディティング」は、ひとによって流儀がちがう。難がなくても自分流に書き変えようとするひともいれば、なるべく直さないようにするひともいる。マンゲさんは後者で、本当にこれでよいのかと心配になるほど、少ししか朱が入っていなかった。
いま突如として思い出したことがある。おそらく次の国際会議のための委員会だった。このときには竹内先生に代わって今道先生が委員だったのだろう。その委員会への出席を今道先生は何かの支障があってためらってらした。すると、マンゲさんから手紙がきた。その会合に代理として出席せよ、宿舎は委員会が用意するし「旅費はイマミチが出す」、という内容だった。お二人がどのようなやりとりをしたのかは知らない。わたしは先生の意向をうかがったはずだ。結局、臆してわたしはその誘いを断った。事務局長としてマンゲさんにはこのような手配や調整をする資格と義務があった。ただ、今道先生との関係では、かれはやや独走していたようにも感じられた。いま思うに、これが新人をリクルートする旧委員会の(ということは学界の伝統的な)流儀だったのだろう。マンゲさん自身、そのようにして見いだされ、事務局長に抜擢されたのではなかろうか。わたしについても、出席が必要というよりも、大家たちにわたしを紹介してやろうという好意の誘いだったかもしれない。と、そう思ったところで更に考え直してみる。その委員会は新組織への移行が重要議題だったのではなかろうか。これについては若手の出席が議論の方向を左右する、と考えたのかもしれない。単なる推測だが、この件に関する後のかれのふるまいと調和する。
その「次の国際会議」は、1980年、当時のユーゴスラヴィア(現在はクロアチア)のドゥブロヴニクで開かれた。旧委員会が管轄した最後の会議で、新組織への移行の方針が決定され、次の会議の場所としてカナダのモントリオールが選ばれた。何故改組が必要とされたのか、その議論のなかで、事務局長マンゲがどのような主張をしたのか、わたしは何も知らない(繰り返すが、今しがた述べたことは、あくまで推測だ)。会期中、かれは星のように遠い存在だったが、一度、夕食会に誘われた。かれの親しい若手の参加者たちを一堂に集めて食事をしつつ歓談する、という趣旨だったと思う。ドゥブロヴニクはアドリア海に面した観光地で、かつてはヴェネツィアの植民地だった。当然、シーフードのレストランだったと思うが、こまかい記憶はない。その日の午後、マンゲ夫妻はクルージングに出かけ、奥方は船酔いで悪寒を覚えていた。わたしはこのとき、リュシー夫人と初対面だったような気がしない(彼女もダルムシュタットにいらしていたのかもしれない)。リュシーさんはルルーという愛称で呼ばれていた。性格は別として、姿はヴェーデキントのヒロインを思わせるところがあった。マンゲさんは体格の大きなひとではなかったから、蚤の夫婦と言えそうにも思われた。しかし、この日、テーブルでかれは、ルルーのワインのカップをさかさまに伏せ、断固としてワインはダメと宣言し、家長の威厳を見せた(夫人はワインを欲しているようにはみえなかったが)。
この日の会食は、わたしにとって何ということのないお付き合いにすぎなかったが、不思議と心に残った。かれがファンと言えるような若手(30人くらいいたのではなかったろうか)に囲まれていたことが、次のモントリオール大会での孤独そうな姿とあまりに対照的だったからだ。
モントリオール(1984年)では、会期中、マンゲさんを1度しか見かけていない。記憶ではそうだ。何かおかしい、という感じがする。そのたった1度の出会い、あるいはすれちがいは、かれがメッセージボードに集会のアナウンスを貼りにきたところだった(すくなくともかつては、国際会議の会場にはそのような場所があり、ありとあらゆるメッセージが掲示された)。新組織を立ち上げるための集会だ。その内容の重要性に比して小さな紙片だったが、これは常のことだった。見逃した場合はそのひとが悪い、というやり方だ。かれはわたしに「お前も来いよ」と言った。この集会をセットすることが、旧委員会の事務局長としての最後の仕事だったのは、間違いあるまい。その集会にかれの姿はなかったと思う。これっきり、マンゲさんは国際美学会から退いて2度と戻ってこなかった。旧委員会の委員長は比較文学者で、その悪い評判をわたしは聞かされていた。マンゲさんは、組織のナンバー2として、この委員長と刺し違えて新組織を拓こうとしていたのかもしれない。
あの取り巻きたちはどこへ行ってしまったのか。そう見えただけだったのかもしれない。しかし、前2回の会議における輝かしい姿と、あまりに対照的だったためだろう、この孤影はわたしのこころに焼き付いて、かれの「晩年」のイメージを作ってしまった。それは国際的な檜舞台から、故郷に帰った(小さな)スターの「その後」だ。実は、『一般修辞学』の邦訳が刊行された1982年の年末に、わたしはリエージュにマンゲさんを訪ねている。このころ、わたしはボワローの『詩学』の注解をメインの研究課題としていて、その資料集めに何度かパリを訪れていた(書いた原稿の量が多くなりすぎて、それに押しつぶされるように挫折してしまった。これはいまも研究人生のなかの痛恨の一事だ)。週末は図書館が閉まっていて仕事にならない。そこでマンゲさんを訪ねることにした。どのようにしてかれとコンタクトを取ったのか、といまいぶかしむ。携帯電話などない時代のことだ。だが、そうではなかった。あらかじめ手紙を交換して打ち合わせをしたうえでの訪問だった。そう確信するに到ったのは、日本から小さなお土産を持参したことを思い出したからだ。
ブリュッセル―リエージュ間は、ベルギーの鉄道としては幹線だが、TGV(フランス版新幹線)の通うパリ―ブリュッセル間に比べればローカルで、列車はのんびり進む。遅れたのだろうか。駅にマンゲさんの姿はなかった。駅を出たところに公衆トイレがあり(それは昔の日本の駅のトイレと似ていた)、そこで用を足していると「プロフェッスール・サザキ」と呼び掛けてくる声があり、マンゲさんだった(そこで「連れション」をすることになった)。止まっているかれの車がソ連製のボルガであることに驚かされた。いま調べてみると、このころ、この車種をベルギーで組み立てる試みがあった、ということだから、なんらかの伝手を頼って試作機を手に入れたのだろう。乗り心地よりも、ひとを驚かせることを好むという、かれの茶目っ気の見える選択だ。
研究室に連れて行ってくれた。ベルギー唯一の美学講座がそこにある(欧米の大学では、哲学科のなかに美学の専門家もいる、というかたちが普通で、独立した美学講座は珍しい)。ムーズ川に面した建物の(多分)2階に研究室はあった。週末なので他にひとはいない。川に面したところがガラス張りの、モダンな建物だった。蔵書のなかにバトゥーの編集・翻訳になる『四つの詩学』(アリストテレス、ホラチウス、ヴィーダ、ボワローの4篇の詩学を集めたもの)を見つけ、関心を示していると、持って行っていいよ、とのこと。その鷹揚さ(裏返せば管理のいい加減さ)に感心しつつ、ありがたく拝借し、帰国後、コピーをとって原本は送り返した。返却は期待していないような雰囲気だったが、研究室の蔵書はどのように管理されているのだろうか。
リエージュ大学の新キャンパス予定地の見学もあった。旧市街に位置するヨーロッパの大学は、手狭であり、分散しているので、郊外にアメリカ型の広大な新キャンパスを作るところが少なくない。リエージュ大学もそうだった。案内された場所に、建物の土台はあるものの、あとは枯草のみで、移転計画は順調に進んでいるようには思えなかった。それでも、マンゲさんは移転推進派と見えた。その後、あの新キャンパスはどうなったのか。マンゲさんはそこで研究生活を送ることができたのだろうか。
マンゲさんの家は、リエージュ駅の裏手の方にあった。かねて、手紙の宛名書きに際して「リエージュと書くな」と言われていた。リエージュ郊外の行政的には他の町に属するところだった。マンゲ家のある場所は、地名から、かつて大地主が牧場を経営していたところかと思われた。ベルギーやオランダによくある、レンガ造りの連棟式の建物で、おとぎ話のなかのお菓子の家のようでもあった。京町家のように奥行きが深く、その先の小さな庭には小さなプールがあり、落ち葉がたまっていた。ルルーは、わたしがボワローの研究のためにパリに来たと知ると笑い出した。それも爆笑だ。呆気に取られてわけを尋ねると、こういう答えだった。「ボワローはあれしろ、これしろ、これはいかん、あれもだめ、と言う。滑稽だわよね」。なるほどと思った。
わたしの持って行ったお土産は、富士フィルムのレンズ付きフィルム「写ルンです」だ。売り出されたばかりの新商品で、ヨーロッパには出回っていなかった。ただ、躯体ごと工場に出して現像してもらうものなので、その体制が整っていないところでは使い物にならない。しかし、そんなことは些末なことだ。期待した通り、マンゲさんはとても喜んでくれた。「わたしはこれを手にした最初のヨーロッパ人だ」。かれにはスノッブなところがあった。家には水中花もあった。開ききって、金魚鉢のなかでほのかに揺れていた。壁を飾っていたのは、世紀初頭頃のベルギーの美術的なポスターであることに驚かされた。わたしの遅れた常識を超える新しい趣味だった。今ではこれらは立派なコレクターズアイテムだ。
次の日、マンゲさんは別荘に連れて行ってくれた。地理的にどこかは分からない。アルデンヌの森のなかの、高台に建つ一軒家だった。一部屋しかない小ぶりの家の、その居間の北側の壁には、小さな嵌め殺しのガラス窓があり、額縁がそれを囲っていた。絵画を窓と譬えたアルベルティの言葉を字義通りの形にしたもので、そこから山々の風景を、絵として望むことができた。部屋にはまた、毛皮の敷物があった。それはかつて飼っていたヤギのもので、草や木の芽を食べてしまうので、夫妻は処分することにした。猟銃で射殺されるとき、そのヤギは涙をながした、とルルーは言った。聞くのもつらい話だが、わたしの知らなかったマンゲさんの一面を見た。果断さと冷酷さだ。ドゥブロヴニクでのワイン・グラスの一件とも響きあう。国際的舞台からの帰還も、強い覚悟によるものだった、と見えてくる。マンゲさんには、そんなこわい(強くて怖い)ところもあった。
その別荘には、家屋の大きさに見合ったほどほどの広さの庭があり、片隅に大きな林檎の木があった。芝生の上に落ちた実を、マンゲさんは拾い集めた。黄色い実は小さく、既に少ししなびていた。フランスに留学したとき経験したカルチャー・ショックのひとつがそれだ。日本ではとても買い手のいないようないじけたリンゴが売られていた。新鮮な実よりこの超熟を好むひとがいるのかもしれない。マンゲ家のリンゴは収穫するものではなく、採集するものだった。
そのあと行き先も告げぬまま、車は森の中を走った。黒い森を車のヘッドライトが小さく照らし出す。知らない町に入り、おそらくその街はずれだったのだろう、一軒の家の前で止まった。マンゲさんの旧友の家らしい。その友人は留守のようだったが、中に招じ入れられた。若者が数人暖を取っていた。そんなはずはないとは思いつつ、わたしの記憶のなかでは、それは暖炉ではなく囲炉裏のような構図になっている。火を囲み、その火の明かりが人びとの顔を赤く染める、そんな情景だ。フィリップはかれらとも旧知のようで、よもやま話を愉しむようだった。これがマンゲさんの生活だ。国際的な舞台を去ったかれが戻ったのは、こういう日常だったと、いま確信する。
モントリオールの後、1度だけ、マンゲさんから手紙が来た。セザール・フランクを顕彰するモニュメントのプロジェクトについての協力依頼だった。フランクは長くパリに住み、教会のオルガニストを務めつつ、オルガン曲、交響曲、ヴァイオリン・ソナタなど不朽の名作を残した大作曲家だ(奇しくもわたしは、かれのピアノ曲集の新しい楽譜が春秋社から刊行されるとき、「キリスト者フランクの肖像」というエッセイを冊子版の本誌に寄稿したことがある。380号、1997年)。フランクはリエージュの出身で、幼年にしてそこの音楽院を卒業した神童だった。マンゲさんはこの郷土の誇りである大藝術家を顕彰するメダイヨン(「メダル」に相当するフランス語だが、この場合は野外に設置するので、直径が2~3メートルくらいの大きなもの)を、リエージュの広場に飾ることを考えた。いつのことかは覚えていないが、1990年がフランクの没後100年に当るので、その年の除幕を考えたのではなかろうか。まさにバブル期にあった日本からの寄付を、特に期待しているようだった。主意書にはメダイヨンのデザインが添えられていた。その記憶も定かでないが、プロフィールをかたどったものだったような気がする。わたしは礒山雅君(『とりどりの肖像』第2章)に相談し、かれの仲介で或る企業から多額の寄付を得た。まさか、という思いがあったのだろう、マンゲさんはテンションの違う喜びを見せた。しかし、集まった寄付金の総額は必要費用に届かず、計画は頓挫した(上記企業からの寄付金は全額返金された)。いまならクラウドファンディングのような別のやり方もあったろう。もしも実現していたなら、わたしも機会をとらえてそれを見にリエージュを再訪し、マンゲさんに再会していたかもしれない。振り返ってみれば、これが最後のコンタクトになった。
世紀を跨いでのことだ。思いがけない手紙を受け取った。リュシー・マンゲ夫人からのもので、それ自体驚きだったが、内容はわたしを更に驚かせた。彼女の友人の女性が、わたしの「ミニアチュールの美学」を読んで気に入り、薦められて自分も読み、とても気に入った、という趣旨だった。何しろ20年もまえの論文だ(美学会の欧文誌 Aesthetics 第1号所収。ほぼ同時に日本語版が今道編『藝術と想像力』に出た)。どのようにして見つけたのだろう。これはわたし自身の気に入っている論考のひとつだから、手紙はうれしかった。この掲載誌はマンゲさんにも送られたはずだが、かれはおそらく読んでいなかっただろう。このルルーからの手紙には、夫君が脳梗塞で倒れ、口もきけずに寝たきりの状態であることも書かれていた。状態は佐藤信夫さん(『スヴニール』20)の最晩年と同じだ。身体的苦痛もさりながら、何もできず、おそらくまとまったことも考えられない、長く続くだけの暗い意識を思いやった。痛ましく、切ない。その後、何の知らせもこなかった。いま、ウィキペディアで調べて、そのつらい状態が数年続いたことを知った。数年で解放された、と言うべきかもしれない。何故かわたしは、リエージュの街、あのおとぎ話の家の上の方、空のなかにマンゲさんをイメージしている。それは、あの身を引いたときの潔さに彩られている。