玉城徹さん(1)――歌人にして歌人
現代短歌に関心をお持ちの方なら、玉城徹という名を知らないということはあるまい。最初にお会いしたとき、わたしはそれを知らなかった。うたは別として、その徹底した思考、文学観、並外れたとしか言いようのない人格性について、認識をあらたにしたのはごく最近のことだ。この肖像を書こうとして、多くの著作を読み、あるいは読み直したことのたまものである。統一像を模索することによって初めて、この類まれな存在の核心が見えてきたところだ。わたし自身このようなわけだから、初めて聞く名前だという方があっても不思議とは思わない。ごく外面的な紹介から始めることにしよう。――玉城さんは仙台の古い宮司の家に生まれた。父の肇は高名なマルクス経済学者だったらしい。幼くして東京に移住したが、旧制高校は父の勧めに従って仙台の二高に学び、大学は東京帝大で美術史学を専攻した(卒業論文は「幕末維新期の日本絵画」を主題としたが、おそらくこのときの研究が、同じ時期の短歌を論ずるとき、理解に厚みを与えた)。その間、召集を受けたが戦場に送られるまえに終戦を迎えた。中学のときに白秋主宰の短歌の会《多磨》に入会、戦後も作歌をつづけた。大学卒業後は国語教師として都立高校に33年間勤めた。定年前に退職し、1978年、《うた短歌の会》を結成、24年間運営した。こういう組織を結社と呼ぶらしい。わたしはこの語の与える秘密めいた感じゆえに違和感を覚えるが、「同人」が同志たちの平等な集まりであるのに対して、「結社」とはひとりの主宰者を中心にそのまわりに集う人びとの組織だというから(『左岸』662)、ほかに呼びようはなさそうだ。玉城さん自身、「結社を作るには向かない」との自覚に到達されたが(同436)、それは正しいように見える。それにも拘らず多くの歌人がその会に集い留まり続けた、ということも重い事実だ。
その間、いくつもの大きな文学賞を受けているが、エピソードをひとつ。1992年、多分いずれ文化功労者なり文化勲章なりに続くとの含みをもって紫綬褒章を受けるよう説得してほしいとの意向を文化庁から伝えられた恩田英明さん(うた短歌の会の会員で、いまは個人雑誌『アルファ』を刊行している)は、玉城さんがそれを拒まれたことを証言している(『短歌現代』60)。「勲章は下品の人に呉るる良しそれより以下は受けて何せむに」(『窮巷』214)とは玉城さんの詠である。激しい。「下品の人」とは下級役人を指す言葉であろうが、どうしても「勲章を受けるのは品がない」という含意を読んでしまう。しかも、その拒絶をさわぎたてない。それは、あとで紹介するようなかれの「人間」観によるものだが、すでに並みの人物とは見えない。ただ、このようなスタンスが、玉城徹を世の一般的な有名人としなかったもとだろう。それは玉城さんが望んだことだった。
ここからが本文だが、不思議の念から始めなければなるまい。これも恩田さんが紹介されているが、読み過ごすことはできない。玉城さんはつぎのように書いている。「子どもの頃から、わたしは専門的知識人というものが、おそろしく嫌いである。虫が好かない」「専門家、つまり肩書きのある人とは付き合わないに限る。まあ、住み分けてゆくのが善いだろう」。「私は学問の制度、つまり大学とか、研究機関とか、何とか会とか、研究会というものに、あんまりどうも肌が合わないらしい」「パラダイムにどうも私はうまく合わないで、違った言葉でものを考える癖がある」(同上58)。わたしは「専門家」だったし、大学教授の「肩書き」をもっていた。対する玉城さんは、学問の尊重を表明しつつ(実際、特に万葉歌の読解の場合など、多くを読み、学問的知見を活用していた)、嫌悪感を或いは露わにし或いはにじませることも珍しくない。それにも拘らず、肩書きつきのわたしが玉城さんの知遇を得ることができた。機縁となったのは、1997年3月、《うた短歌の会》の創立20周年記念のイヴェントとして、「自然」についての座談会が企画され、そこに招いていただいたことだった。会の側からは玉城さんのほかに林安一さん、外部からもう一人前田英樹さんが招かれ、市原克敏さん(林間短歌会)が司会された。もうひとりのゲストである前田さんも大学教授だった。専門家嫌いの玉城さんは、専門の歌人だけで座談することを好まれなかったのだろう。その後も、『短歌朝日』が玉城さんを主客として「定型」について対談を企画したとき、その相手に指名して頂いたし(1999年9~12月)、晩年には『左岸だより』を毎号送って頂いた。『左岸だより』は、会をたたんだあとで、玉城さんが「私信がわり」として制作された刊行物で、6年間で70信に及んだ。短歌新聞社からその合本版が製作、出版されたが、1280ページに及ぶ。驚異的な執筆量だ。『左岸だより』は60人ほどのひとに送られたという。そのなかに入れて頂いたことを、いま、この肖像を書きつつ、深い思いで受け止めている。しかし、なぜだったのだろう、学問の専門家だったわたしに対するこのご厚誼は。
- 唐突だが、ここで、参照する文献を挙げ、それぞれの略記法を示しておきたい。わたしが書こうとしているのは肖像であって、論文でもなければ評論でもない(肖像は「作者像」だから、玉城さんが好まれない性格のものではある)。しかし、この歌人の肖像は、その思想や生き方、考え方を参照することなしには、書けない。他の章とは相当に異色のものになるかもしれない。すでにいくつかの文献に言及している。以下に参照するものを予め列挙しておこう。読んでいないものも多いが、わたしの読書歴のなかでは、ひとりの著者のものとしてはとびぬけて多い。
- 「美しい短歌」:「美しい短歌――現代短歌を離れて西行を読む」『短歌朝日』1997年11~12月号
- 短歌雑誌《うた》、うた短歌の会
- 『短歌現代』、〈特集 玉城徹〉、2010年11月号、短歌新聞社
- 『玉城徹ノート』Ⅰ~Ⅹ、左岸の会
- 『白秋』:『北原白秋』、平成22年(初版昭和50年)、短歌新聞社
- 『万葉』:『万葉を遡る――柿本人麻呂をめぐって』、昭和54年、角川書店
- 『近世』:『近世歌人の思想――和歌における人間回復の課題』、1988年、不識書院
- 『芭蕉』:『芭蕉の狂』、平成元年、角川書店
- 『子規』:『子規――活動する精神』、2002年、北溟社
- 『復活』:『短歌復活のために――子規の歌論書簡』、2006年、短歌新聞社
- 『左岸』:『左岸だより』(合本版)、平成22年、短歌新聞社
- 歌集としては
- 『時が』:長歌集『時が、みづからを』、1991年、不識書院
- 『窮巷』:『窮巷雑歌』、1995年、不識書院
- 『香貫』:『香貫』、平成12年、短歌新聞社
- 『枇杷』:『枇杷の花』、平成16年、短歌新聞社
- 『石榴』:『石榴が二つ』、平成19年、短歌新聞社
座談会や対談はかなりの時間、ことばを交わしあう。それを除けば、玉城さんと接した時間は長くない。わたしが感じていた親近感は、その時間量を超えている。その交流のなかで、特に強い印象を覚え、記憶に残っていることがふたつある。ひとつは、座談会のなかで上記の林さんが見せたおびえの表情であり、もうひとつは或るスピーチのなかで岡井隆氏の発した一言である。後者から紹介すれば、それは玉城さんが「日本短歌大賞」を受けたときの授賞式でのことだ。前後は覚えていないが、「どうせかないっこないと思っていましたが」というフレーズだけが、意外の感とともに記憶に刻まれた。それは若き日における玉城さんの印象を語ったなかの言葉だった(覚えていないものの、『短歌現代』の玉城徹特集号に寄せた岡井氏のエッセイと同様の内容だったと思う)。人脈に疎いわたしは、まず、お二人に接点があるということに小さな驚きを覚えた。また、前衛派の歌人は鼻っ柱の強いひとと思っていたから、この言葉には祝辞の儀礼を超える真実味を感じた。それは、このとき思っていた玉城さんの人物像とはいささか重ならないものだった。以下につづる玉城像は、この岡井氏のことばの理解を深めてきたことの証言と言ってもよい。
そこで、もうひとつの印象である林さんのおびえを糸口としよう。怯えという語は強すぎると思うが、ほかにうまい表現は見つからない。座談会のなかで、玉城さんの反応にひるんで、林さんは口をつぐんだ、そのような気がした。この座談会の様子は、テープから起こされて、会の機関紙『うた』の138号(1997年8月)に掲載されている。読み直してみると、いまになって理解することがいくつもある。それは、玉城さんの著作を何冊も読んだからであって、席上では玉城さんの問題意識をただ漠然と受け取っていたにすぎない。他の参会者も変わりあるまい。うた短歌の会の会員だった林さんも例外ではない。話を簡潔に、しかも分かりやすく説明することは難しい。主題は自然をどう詠うかということである。わたしがその座談会に呼ばれたのは、拙著『美学辞典』のなかの「自然美」の項目を玉城さんが読まれてのことだった。そのことは最初に紹介されている(学問嫌いを公言する歌人がこの本を手にされた、という事実そのものが、注意されてよいことだと思う。玉城さんの膨大な量の読書は古今東西におよび、ジャンルも多岐にわたった)。わたしの考えは単純で、自然のなかから花なら花という或る対象を切り出してそこに注目するとき、それはすでに藝術的な経験であり、それに対して自然美とは、形以前の、自然との直接交流として体験される、ということである。玉城さんは、おおよそのところ、この考えに共感されたらしい。その上で、その限定されない自然を体験したうえで、それをどう詠うのか、というのがかれの問題だった(このことは、このさきに行って玉城詩学の要諦を紹介するとき、確かめていただけると思う)。アララギ派の写生論の生み出した「遠近法」をとりあげ、それが「歌を駄目にしているところが随分ある」と批判する。この詠法に対して、赤人の「田子の浦ゆ」の場合、田子の浦と富士の間に遠近の関係はない、と言う。
林さんは多分、それを補足的に説明しようとしたのではないか、と思う。高市黒人の「四極山うち越え見れば笠縫の島漕ぎ隠る棚なし小舟」(万葉集272)を取り上げる。林さんによれば、この詠において、歌人は山を越え、小舟を漕いで島の向こうへと動いている(この後半の読み方には無理があるのではなかろうか)。この空間表象は、透視画法(遠近法)の固定した視点からの情景描写とは異なる。赤人のうたも同様だ、という趣旨である。「このような把え方」は「四極山ぶり」と呼ばれて流行を見た、と言ったところで、玉城さんがその言い方をとがめた。「把えたんですか?」 林さんは困惑した。「把えたんじゃあ…把えたという言い方がいけないですね…(笑い)」 苦笑で紛らしたが、なぜこの言い方がいけないのか、分からないようだった。もちろん、誰も分からなかっただろう。わたしが「おびえ」を感じたのはここである。
わけがわからないまま飲み込ませる、というのは理不尽だ。玉城さんもそれを感じたのかもしれない。すぐに、もとの赤人の「田子の浦」に戻りこの場合もそれと同じだと取りなした(一言しておけば、「四極山ぶり」が厳密にどのようなものなのか、またそれが流行したということについても、わたしは裏付けを得ていない)。少したつと、林さんが逆襲した。玉城さんの「中世の自然のまあ見方って言うんですか、自然の感じ方……」という言葉を捉えて、「それは見方の違いなんでしょうか」と、やり返した風だ。玉城さん自身が、「見方」という言い方が適切でないことを感じていたわけだから、大した反撃にはならない。このやりとりは、玉城さんのつくった会の雰囲気を覗かせてくれる。一方でうたに関する玉城さんの考えの絶対性があり、他方では、すくなくとも年季を積んだ会員の自由な発言があった。しかし、下手なことを言えば、玉城さんのきつい返答があったはずだから、双方向的な対等の関係とは言えないだろう。
- 林さんには、ここで多分不本意な役割を宛がってしまったから、少し紹介しておこう。座談会の参加者として、会の内部から選ばれたひとだから、その詠歌について玉城さんも相応の評価を与えていたものと思われる。このとき《うた短歌の会》に入会して3年ほどだが、それ以前すでに5巻の歌集を刊行しているひとだった。5巻の歌集をもつことは、重いキャリアと言えるのではなかろうか。座談会の数年後、『刻文の魚』という歌集を編み、一本を送ってくださった。そのなかから2首、ご紹介しよう。「大き波いま立ちくるを待つ如く磯の岩間にたゆたへる波」、「髪白くわれはなりしを不思議なるもののごとくに母うちまもる」。前者は、泡立つ「なごり」の印象が鮮明で、たゆたいの音楽性もある。後者は暖かな哀感をこころに残ず。
「把える」のとがめがどこから来たのかを窺わせる告白がある。《うた短歌の会》という結社に玉城さんが求めたのは、「藝術家の制作工房のような」もので、そこで「厳しく、実作と研究をお互いに積む」ことだった。それはあまりにも「時代離れした」理想だった。「近代風の指導は、わたしにはできない。だから、わたしは誰一人、弟子だと言ったことはない。師弟の関係は、わたしの結社にはなかった」。(この「だから」には誤用のひびきも感じられる。主宰者と会員のこの古風な組織にこそ、「師弟」の概念が当てはまるのではないだろうか)。「わたしは、頑迷な親方(マイスター)だから、――そんな、ガラクタはこわしちまえ、始めからやり直して、一年でも、二年でも研究しろ。と、怒鳴りつける」(左岸、176)。説明はない。怒鳴られたら、どうすべきかを自分で考え、答えを見つけなければならない。
実は、わたし自身、玉城さんに怒鳴られたことがある。「風の詩学」という論考を書き、その草稿についてご高評をお願いした。これは、雪月花のような明らかに美的なモチーフに対して、風にはその特質が欠けている。それが何故、美的に重要な概念となったのか、日本文化のなかで「風」とは何なのかを考えようとしたものである。素材は主として万葉集のうたを取り上げたが、そのようにして集約した「風」の概念が今も生きていることを示すために、当時流行していた「千の風になった」(これはユダヤ系アメリカ人の書いた詩の翻訳らしい)の異国性を対比的に論じた。当時、わたしは多分、このような問題意識が玉城さんの詩学的関心と符合しないことを十分認識していなかったと思う。返信において玉城さんはそのことを断ったうえで、この「千の風」への論及について、これではすべてが「ぶちこわしだ」と書いてこられた。わたしは怒声を聞く思いだった。――ただしこれには修正を要するところがある。数日前、手紙をしまっておく机の引き出しのなかを探してみた。いっぱいになっていて、久しく放置してあったので、古い手紙がそのままあるかもしれない、と思ってのことだ。まさにこの手紙が見つかった。恐るおそる読み返してみると、怒声の痕跡はない。鍵かっこに入れて、「ぶちこわし」になるのではないか、とむしろ穏やかな文面だった。わたしがそこに怒声を聞いたのは、すでに相応に会員たちと同じような意識で玉城さんに対していたからかもしれない。
- なお、この論考、英語で発表しただけのもので、計画中の自著(『感性学叙説』)に収録する予定だが、このくだりは削除するつもりだ。流行が去り、すでに「千の風になって」を参照する意味がなくなっている。このことは、永遠に向かい合う玉城さんの態度の正しさを示している。はやりものは直に流れのなかに紛れてゆく。ここでもうひとつ、私的な告白を挟ませていただこう。みつかったもう一通の手紙のことだ。それは『レトリック事典』(大修館書店)をお送りしたのに対する礼状だ(玉城さんの思想を少し勉強していたなら、お送りしなかったかもしれない)。換称というフィギュールの作例として挙げた小林秀雄の「島木君の思い出」のなかで、「詩人」として言及されている島木健作を赤彦と思い違えたことを、指摘してくださった。増刷時に訂正したが、あとがきに加筆することをためらったままだった。
評論書において誰かの見解や解釈を批判するとき、玉城さんの言葉は類を見ないほど烈しい。「じゃらけている」「ふつつかな」「味わいのない歌」「子どもの水鉄砲のけんか」「茂吉先生、~とおっしゃる」「おかしな言い草」「非常に不愉快に感ずるところ」(これは佐藤春夫に向けられている)「おかしな信念」「貧困な心をたねに、せっせと売り物作りに精を出す」「ずいぶん小綺麗にはなったものの、いかにもサラリーマン然とした」「聞いていて顔が赤くなるような、うわついた感じ」「愚昧化の方向をたどる」「告白による衝撃ばかりを期待している非藝術的読者」「でれでれしたもの」「大いに誤っている」(唐木順三の論述について)「あまりに低級な詠嘆」等々、劣性の現象に対しては容赦がない。これらは『近世歌人』から拾ったものだが、他の著書でも変わらない。しかし、会話の場合、あたりはきつくない。むしろやわらかい。玉城さんを囲む或る会の席上、スピーチに立った針生一郎さんは、ひとつの質問として、《「昔からある言い回し」を使い、「そういう類型的な表現で」以て、「その時、自分だけが感じている感じ」を「ぴったりと表現できると思うのか」》と問いかけた。これに対する玉城さんの答えは、次のようなものだった。「類型的って。昔からね。針生君はそう言うんだけれど。決まった言い方をね、すぐ使うって、それは知ってるんだ。だけどね、そうかなあ、これはまあ、生命論だ、生命を吹き込むっていうとね、また、古典的生命論なんてこう言うんだよ。……」(左岸163)。長くなるので引用はここまでにするが、受け答えとしてはフレンドリーだ。あとで紹介するように、この針生さんの批判は、玉城さんの決して同調しない点だと思うが、語り方は穏やかだ。そのため、ときには煮え切らないような印象を与えることさえある。初対面だった座談会のとき、わたしは玉城さんに格別のアウラを感ずることはなかった。
- 「生命論」には、唐突の感を覚える。これについては、啄木についての次の評言を参照できると思う。「《「個」の生命と「宇宙」または「自然」の生命との感応、融合、統一という思想》をわたしは」「神秘的生命主義」と「名づけた」(白秋150)。これは座談会の主題と重なる。「感応、融合、統一」というところに玉城さんは必ずしも同調しないだろうが、「自然の生命」という観念を共有されたのではなかろうか。
- ――針生さんについて一言。東大美学に学んだひとのうち、少なくともわたしの世代にとって、針生一郎は伝説めいた存在だった。竹内敏雄先生は、角川文庫から出したシラーの翻訳のあとがきに、若手のシラー研究者として針生さんの名を挙げ、かれがご自身の指導のもとにある、と特筆してらした。わたしが学び始めたころ、針生さんは評論や翻訳の分野でめざましい活躍をしてらしたが、かれと交流のあった人びとがその名を口にすることはほとんどなかった。学問の外の世界に出られたからかもしれない。そのようなわけで、針生一郎はわたしのこころのなかで、どこか神秘の色合いを帯びていた。そのひとに、わたしは一度だけお会いする機会があった。玉城さんが歌集『香貫』で短歌新聞社賞を受けたときの授賞式でのことだ(お二人は旧制二高の同級生で、針生さんはこの歌集の文庫版に解説を書いている)。懐いていたイメージとは異なり小柄なひとで、その風貌が神戸大学名誉教授の山縣煕さんにそっくりであることに驚かされた。山縣さんは針生さんをご存じかもしれない。お二人が対面したらどうなるのかと、要らぬ心配をしたりした。しかし、そのとき何を話したのか全く覚えがないのだが、かなり熱い思いで言葉を交わしたことが懐かしい。そのことを特に口にしたわけではない(なぜかわたしは、これに触れないようにしていた)が、東大の研究室につながる絆がはなから親近感を作ってくれていたことは、間違いないだろう。
玉城さん個人に、わたしは或る親しみを感じていた。その骨相がどことなく叔父(父の弟)を思わせるところがあったからだ。父もまた宮城県にゆかりがあったから、その骨相は東北人のものかと思われた。しかし、なぜ「把え方」と言っていけないのかが分からずに、しかもそれを訊ねることができない、という雰囲気はカルトめいた印象を与えないでもなかった。それは玉城さんがまったく望まないことだったと、いまは確信しているが、その印象が玉城さんの態度に由来することだったこともまた、間違いないように思う。教えることが嫌いという心持ちが会員たちとの独特な距離感を生んだかもしれない。一面では距離がないほどに親密でありながら、他面では超えることのできない壁があった。詠歌に関することでは、当然、玉城さんは絶対だった。会員たちは、その歌風に憧れ、共感したがゆえに集った人たちだ。玉城さんが「捉え方」という言葉遣いに疑念を示すなら、それを受け容れなければならない。それも「自分なりに」などという(多分、玉城さんは「甘ったれた」と言うだろう)理解の仕方ではなく、玉城さんの真意を理解しなければならない。「捉え方」だの、「表現」や「解釈」のような普通の用語になると、つい口をついて出てくるのは自然なことだろう。それをとがめられると困惑は深いし、肝心のことになるほど訊ねるのがはばかられるということになりがちなのではなかろうか。
玉城さんが神経質なほどに弁別を要求する語や言い回しは、かれの文学観、うたの詩学にかかわり、かつ、文壇や学界、ジャーナリズムなどの人びとの発言に対する嫌悪に根差しており、分かっていて当たり前というものだったのかもしれない。「把え方」についていえば、次のようなことだったのではないか。――自然の或る情景に感じてうたを詠むとは、その情景をある把え方においてとらえ、それを言葉に移すというようなことではない。歌人の言語的造形によって初めて、その情景はそのようなものとして現れてくる。「把え方」という言い方は、詠歌の「生命」活動を無視した見方だ、ということではなかろうか。もしもこれが的を射ているのなら、それは詠歌のありかたの根本にかかわる問題だともいえる。
「解釈」もそうだ。古代から近代にいたる様ざまの名句に関する玉城さんの読みは、卓抜なものが多く、わたしなどはそれによってそのうたの味わいを教えられ、それが名句たることを確信する、ということが度々だ。それを玉城さんの解釈と呼んで、どこがいけないのか。しかし、玉城さんは喜ばない。おそらくその真価を蔑ろにされたように感じられたのではなかろうか。そのわけは、一般に解釈と呼ばれているものが、教科書の解説を典型として(玉城さんは国語の教師だった)、その句の意味を問いかけてゆく精神の働きを考えずに、熱のない正解として示されるようなものであることが多い、ということなのではないかと思う。つまり、ごくありふれた語に、誰もがみとめているありふれた意味、用法と並んで、特殊玉城的な意味、用法がある。これがかれの評論文が難解である理由のひとつだ。もうひとつ例を挙げるなら、先ほどの針生さんとのやりとりの「古典主義」がよい。これについてもあとでよりくわしく取り上げるが、玉城さんは古典の価値を強調し、その「伝統」を創造的に更新してゆくべきことを主張している。だから針生さんのようにそれを古典主義と呼ぶのは、適切な理解だと思う。しかし、玉城さんの方は「古典主義」を「擬古典主義」と呼び変えて、自分は古典主義ではない、と主張する。擬古典主義が古典主義とどのように異なるのか、あるいは異見があるかもしれないが、玉城さんがこの用語で意味しているのは、古典作品の言い回しや形式などの借用に立脚する作法であり、アララギ派の「万葉調」を批判するのはこの観点からである。
やっかいなマイスターだ。怒鳴るマイスターは、暴君の相貌を見せることもある。〈うた短歌の会〉をたたむときのことだ。『うた』208号の巻末に、「終刊にともなう事務一束」というページがあり、七か条が書かれている。これまでこれを読んだことはなかった。今回、いろいろ文献を開いているうちに、なぜかこれに目が止った。特に最後の二条である。第六条は「会員の行動は常に自由である」とある。独立しようが、他のいかなる結社に加入しようが、かまわない。「常に」と付け加えてあるのは、これまでもそうだった、という意味であろう。問題はつぎの第七条だ。「ただし、元うた短歌会会員を名のるようなことは見苦しいし、また、迷惑でもあるからご遠慮願う」。この「ただし」には、机をドンと叩くような強い響きがある。玉城さんが嫌悪するような事例があったのだろう。しかし、一般論として、どうしてそれが見苦しいのか、なぜそれが迷惑なのか理解に苦しむ。あの座談会を活字にした同誌138号に、玉城さんは会の20年について感慨を述べている。祝賀でもなければ達成感を示すものでもない。複雑な思いがあるらしいが、そのなかで「会員一人一人には、それぞれの歴史というものがある」から自分の思い通りになるわけではない、と言っている。元会員を名のることが見苦しいのは、それがひとつのステイタスと見られるからだろうか。また、それが迷惑だというのは、察するに、元会員たちの思想や詠歌の実践が玉城さんの影響のもとに形成されたとみられるのが、迷惑なのだろうか。しかし、玉城さんの言うように、誰にもそれぞれの歴史がある。元会員を名のるな、ということは、その歴史のなかの、重要な部分を語るな、というに等しい。玉城さん自身は、白秋の「多磨」の会員であったことを語っている。それも繰り返し、熱く。わたしの知るかぎり(ほんの数人の方がたにすぎないが)、元会員でそれを名のった方はいない。「性格の厭なところは樹脂のごと滲み出づべし老いのまにまに」(『香貫』)とは玉城さんの詠だ。一人称ではないものの、「樹脂のごと」は内感的だ。「私なんかも、なかなか意地が悪くて、冷酷で……」というのが玉城さんの弁である(左岸198)。
いかにその作品に傾倒しても、師であることを拒んでいるこのひとを師とするのは、難しいことだったろう。それでも玉城さんには、自分を慕ってきた歌人たちへの、一種の教育的配慮があった。それは玉城流の愛情だったとさえ見える。すでに紹介したように、会を閉じたあと、「独居老人」となった玉城さんは、『左岸だより』を編み、刊行し始める。その最初の企画のひとつが、歌集「『香貫』を読む」という連載だった。会員だった女性の歌人たち6~8人を集め、『香貫』を少しずつ読んでゆくものだ。それぞれがよいと思った句を選び、そのどこがよいのかを語らせる。これは、作歌のうえで何に注意をはらうべきか、それぞれの句のよさはどこにあるのかを分からせるための企てだったと思われる。後述のように、玉城さんにとって、読むことは詠むことを前提とし、いわば自ら詠み手となってことばを再活性化することだから、よい読み方は詠歌の訓練になると考えられたはずだ。しかし、常識的な考え方をする生徒たちと、説明しないマイスターの間のやりとりは、ときとして漫才のようなものになる。実例を挙げたいのだが、選択がむずかしい。選んだのは、「『香貫』の作者をどう考えるか」という回の一部である。玉城さんの相手を務めるのは小林サダ子さん。小林さんは、何かの折に玉城さんとの間の連絡係の役目を与えられたことがあったので、わたしにはなじみの方だった。そのなじみに免じて、玉城さんに突っ込まれるというこの(ひょっとすると)うれしくない役割を引き受けていただくことにした。
玉城 今日は、まあ、『香貫』の作者はどういう作者かという、これはまあ、当然考えなければならない。隣で絵を画く人があれば、ああ、これはどんな書き方をする人かなあっと思うのは当然であります。どんな人間かは、勿論分かりませんよ。まあ、あまりおざなりのちゃらんぽらんじゃどうも具合が悪いでしょう。
小林 作者像ではなく、実作活動を客観的に考えて下さいって言ってるけども、どうしても、作者像に繋がってきちゃう。
玉城 それは心が悪いんだな、作者像なんてものは判りっこない。
小林 「画かきらにレオナルド言へり見るものを深く思ふべし孤独なるべし」、「見るものを深く思ふべし」と言う、良く物を見て、そしてその、深く心に思いながらただ見るんじゃなっくて、漠然と見るんじゃなく、
玉城 見る時にじゃあない、見るものをだよ。
小林 ああ、この言葉通りに、実作の時に物をよく見ている、
玉城 見る物を深くだよ、良く見るとは書いてない。
小林 良く見て深く思って、私なんぞ一生懸命物を見て歌ったつもりでいるにも関わらず、
玉城 一生懸命見るなんて変なことは出来ないよ。
小林 「思ふべし孤独なるべし」、
玉城 深く思ふべしと孤独なるべしとどう続くの?
小林 深く思って、そういう行為、大変孤独なことであるということなんじゃあないですか?
玉城 そうかい? そんなことは言っていないよ。つまんないことを思っていると深く思うことなんか出来ないっていうこと。写生主義みたいな教訓は一つも入っていない。写生馬鹿っていうのは、ただ見ているだけ、思わない。
(左岸252)
笑えない漫才だ。笑えないのは、ボケがボケようとしているわけではないからである。しかし、繰り返し読みかえしていると、微笑ましくなってくる。玉城さんの出した宿題は、「作者がどういう作者か」ということであって、「どういうひとか」ではなかった。作品を読んでも、「どんな人間かは、勿論分かりませんよ」と念を押している。狙いは、作品から逆算してそのうたの作法を読み取る、ということであったろう。それでも小林さんは「どうしても、作者像に繋がってきちゃう」と言う。ここにもおそらく、「作者像」という言葉に関する理解のずれがある。玉城さんが、これを「作者がどういう人間か」の意味で理解していたことは間違いない。小林さんも制作法が問題であることは分かっていた。だからこそ、レオナルドの一句を取り出したのだと思う。しかし、作法もまた作者によりさまざまであろう。玉城さんもそれを読み取ることを求めた。だが、それは言い換えれば、作法も歌人それぞれに個性的だ、ということである(ちなみに、玉城さんは「個性」という語もお嫌いだ)。だから小林さんは「作者像」にこだわったのではなかろうか。
それにしても、「心が悪い」はきつい言葉だ。なぜそうなるのかも分からない(これについては、先に行って、玉城さんの作歌態度を取り上げるところで考えるが、「心」が問題になるということは、作者の「人間」に関わってくるのではなかろうか)。しかし、小林さんはひるまない。きっと言われ慣れているのだろう。言われ慣れてはいても、おそらくその真意を理解していたようには見えない。玉城さんのことばも、きっと決めつけるような口調のものではなかっただろう。「つまんないことを思っていると深く思うことなんか出来ない」と言うときの「つまんないこと」は直前の小林発言を指しているかのごとくだ。一言あるごとに突き放しつつ、それでも、その意地悪さを通して、愛情めいたものが感じられる。
(つづく)